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熊本地方裁判所 昭和45年(ワ)814号 判決 1973年3月20日

【判決理由の骨子】

① 水俣病の発症は、被告チッソ水俣工場から放流されたアセトアルデヒド製造設備廃水中の有機水銀化合物の作用によるものである。

② 被告チッソ水俣工場では、この廃水を工場外に放流するにあたり、合成化学工場として要請される注意義務を怠つたから、被告に過失の責任がある。

③ いわゆる見舞金契約は、公序良俗に違反し無効である。

④ 原告らの損害賠償請求権の消滅時効は、未だ完成していない。

⑤ よつて、被告は原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償の義務がある。

以上

判決理由の要旨

第一 当事者(略)

第二 因果関係

水俣病は、水俣湾およびその付近産の魚介類を長期かつ多量に摂食したことによつて生じた中毒性中枢神経疾患であり、また水俣病患者は、水俣湾およびその周辺の不知火海において専業または兼業で漁業を営むものであつて、いずれも右海域で捕獲された魚介類を長期にわたつて反覆多量に摂食した人ばかりである。

そして、①水俣病発見の端緒は、昭和二八年末ごろから水俣市郊外の一定地区に発生した原因不明の中枢神経系疾患である。②昭和二八年から同三三年までの間は、その大部分の発生地域が、被告チッソ水俣工場(以下、被告工場という)の工場排水の放流先である百間港より水俣湾周辺にわたる一帯であつたが、同三四年に至つて、北は水俣川河口部以北、南は出水市付近まで波及して行つた。③水俣病の臨床所見としては、その主要症状は、求心性視野狭窄・難聴・運動失調・振戦などの小脳症状、表在・深部知覚障害であり、その他錐体外路障害などが少数にみられる。なお、胎児性水俣病は母体の胎盤を通じておこるものといわれ、脳性小児麻痺の症状に類似している。④水俣病の病理所見としては、その本態は中毒性神経疾患、主として中毒性脳症であり、その原因物質は主に大脳皮質および小脳皮質を障害する。そして水俣病剖検例の病変は、アルキル水銀中毒症の剖検例のそれに一致する。⑤動物(猫)実験の結果によると、猫の水俣病の典型的症状は特異な痙攣発作・失調歩行・運動失調・流涎・視力障害などであるが、それらの症状を発症させる魚介類は、すべて水俣湾内および近傍沿岸で漁獲されたものばかりである。なお、昭和三四年七月二一日以降被告工場のアセトアルデヒド製造設備廃水二〇CCを毎日食事にかけて投与した猫(いわゆる猫四〇〇号)は、同年一〇月上旬以後水俣病症状を呈するに至つた。⑥熊大医学部による水俣病の原因究明の過程において、マンガン説・セレン説・タリウム説などが唱えられたが、これらの物質による中毒症状は、臨床・病理の両面においていずれも水俣病の症状と一致せず、その他農薬説・爆薬説などもあつたが、それらはとるに足らない。⑦被告工場のアセトアルデヒド製造工程はアセチレン接触加水反応を利用するものであるが、その反応の過程において、有機水銀化合物である塩化メチル水銀が生成(副生)されていた。⑧昭和二一年二月から同三三年九月までの間、塩化メチル水銀の混入したアセトアルデヒド廃水は百間排水溝より水俣湾に放流されていたが、同三三年九月以降同三四年九月までの間のみ、八幡プールを経て水俣川河口に放流された。なお、そのことゝ平行して、同三四年には水俣川河口周辺の魚類を摂食した人々の中に水俣病が発症している。⑨熊大医学部衛生学教室では、昭和三六年中に、被告工場アセトアルデヒド製造設備の生成槽連結管より昭和三四年八月および同三五年一〇月に採取して冷暗所に密封保存していた水銀滓より、有機水銀化合物の結晶をとり出すことに成効し、それは水俣湾の貝中の有機水銀化合物と全く一致するものであつた。⑩政府は、昭和四三年九月二六日に「水俣病は、被告工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場排水に含まれて海中に排出され、水俣湾の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食したことによつて生じたものと認められる」との公式見解を発表し、また、昭和三二年一月から同三五年五月までの間被告工場長であつた西田栄一は、昭和四六年二月五日当裁判所の第一〇回口頭弁論において、右政府見解と同旨の証言を行なつた。以上①ないし⑩の事実を総合すると、被告工場排水(アセトアルデヒド製造設備廃水)と水俣病発症との因果関係を肯定するに十分というべきである。

第三 被告の責任(過失)

およそ化学工場は、化学反応の過程を利用して各種の生産を行なうものであり、その過程で多種多量の危険物を原料や触媒として使用するから、その廃水中に未反応原料・触媒・中間生成物・最終生成物などのほか、予想しない危険な副反応物が混入する可能性は大であり、かりに廃水中にこれらの危険物が混入してそのまゝ河川や海中に放流されるときは、動植物や人体に危害を及ぼすことが容易に予想される。したがつて、化学工場が廃水を工場外に放流するにあたつては、常に最高の知識と技術を用いて廃水中に危険物混入の有無および動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽してその安全性を確認するとゝもに、万一有毒であることが判明し、あるいは又その安全性に疑念を生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。蓋し、如何なる工場といえども、その生産活動を通じて環境を汚染破壊してはならず、況んや地域住民の生命・健康を侵害し、これを犠牲にすることは許されないからである。

しかして、被告工場は全国有数の技術と設備を誇る合成化学工場であつたのであるから、その廃水を工場外に放流するに先立つて、事前に常に文献調査はもとよりのこと、その水質の分析などを行なつて廃水中に危険物混入の有無を調査検討し、その安全を確認するとゝもに、その放流先の地形その他の環境条件およびその変動に注目し、万が一にもその廃水によつて地域住民の生命・健康に危害が及ぶことのないようにつとめるべきであり、そしてそのような注意義務を怠らなければ、その廃水の人畜に対する危険性を予見することが可能であり、ひいては水俣病の発生をみることもなかつたか、かりにその発生をみたにせよ最小限にこれをくいとめることができたともいうべきところ、被告工場において事前にこのような注意義務を尽したことが肯定されないばかりでなく、その後の環境異変・漁業補償・水俣病の原因究明・工場廃水の処理・猫実験などをめぐつて被告工場または被告により示された対策ないし措置等についてみても、何一つとして人々を首肯させるに足るものはなく、いずれも極めて適切を欠くものであつたというべきであり、被告工場としても熊大の水俣病の原因究明にあたう限りの協力をしたとか、同工場の廃水管理体制に欠けるところはなく廃水処理に万全を期したとかいう事実は到底認められず、以上のことからすると、被告工場がアセトアルデヒド廃水を放流した行為については、終始過失があつたと推認するに十分であり、被告工場における廃水の水質が法令上の制限基準や行政基準に合致し、その廃水処理方法が同業他社事業場のそれより優れていたとしても、そのことは前記推認を覆すに足るものではなく、そして右廃水の放流が、被告の企業活動そのものとしてなされたという意味において、被告は過失の責任を免れないものといわなければならない。

かくして、被告は、同工場排水中のメチル水銀化合物の作用により、昭和二八年以降同三六年までの間患者一覧表記載の者をそれぞれ水俣病に罹患させ、その結果同人らおよびその家族である原告らに対して損害を蒙らせたものであるから、被告は民法第七〇九条によつて右損害を賠償する義務があるものというべきである。

第四 見舞金契約について

1 本件見舞金契約は、昭和三四年一二月三〇日から昭和四四年六月一六日までの間に、七次にわたり、患者が水俣病の認定を受けた都度、当該患者あるいはその近親者と被告間で締結されたものであるが、そのいずれもが、水俣病が被告水俣工場の排水に起因するか否かは不明で、したがつて被告の損害賠償義務は認められないことを前提にしており、その内容はこれを要約すると、被告は、契約当事者である患者、近親者に所定の損害賠償金でない見舞金を支払い、そのかわりに、右患者らは、のちに水俣病が工場排水に起因し、よつて被告に損害賠償義務があることが明らかとなつても、この契約に基づいて支払われる見舞金以外には損害賠償の請求はしないというものである。

2 この見舞金契約は、生存患者の近親者、契約締結後に患者と婚姻あるいは養子緑組をして配偶者、子などの身分を取得した者、そのほかに数名の原告を除く原告らに対し、本人あるいは代理人による契約の締結ないしは無権代理行為の追認の事実が認められるから、その効力が及ぶ。

3 ところで、(1)前述のような内容の見舞金契約も、その内容が法律上是認される適法なものであれば、有効であることはいうまでもないが、不法行為の加害者は誠意をもつてその賠償義務を履行することを要するのであつて(民法第一条第二項)、いたずらに賠償義務があることを争い、被害者の無知、窮迫に乗じて、低額の補償をするのとひきかえに被害者の正当な損害賠償請求権を放棄させたような場合には、そのような契約は、社会の一般的な秩序、道徳観念(公序良俗)に違反するから、無効といわざるを得ない(同法第九〇条)。(2)これを本件についてみるに、①第一次の見舞金契約が締結された昭和三四年一二月三〇日当時、まだ水俣病の原因物質、汚染経路などについて科学的な解明はなされていなかつたが、すでに熊大医学部の疫学調査、第二の⑤のいわゆる猫四〇〇号の実験、第二の⑧の排水路の変更に伴う水俣川河口周辺における患者発生の事実などによつて、ある程度客観的に被告水俣工場の排水が水俣病発生の汚染源であることは証明されており、同年七月発表された同学部武内教授らのいわゆる有機水銀説もこれを当然の前提とし、専門家に限らず世間一般でも、水俣病発生の汚染源として右工場排水に匹敵するほどのものは他に考えられないことから、この両者の結びつきを肯定する見方が大勢を占めていた。このような状況にあるのに、被告は、なお水俣病が工場排水に起因することは明らかでないとして、そのような前提で契約を締結するように強硬に主張し、しかも、将来水俣病が工場排水に起因することが明らかになつても、患者らはこの契約に基づいて支払われる見舞金以外に損害賠償の請求は一切しないという、いわゆる権利放棄条項を設けなければ、この契約の締結には応じない態度をとつた。しかし、本件のような化学公害において厳密に因果関係を証明することは容易なことでないから、右のような当時の状況のもとで、なお、工場排水と水俣病の関係が科学的に十分解明されていないという理由で、そのような前提で契約を締結するのであれば、将来それ以上に水俣病が右工場排水に起因することが明らかになつた場合には、改めて相当の損害賠償をするのが加害者としての誠実な態度であり、その段階になつても、低額の見舞金を支払うほかに一切の損害賠償をしないとすれば、それは信義則に反するというほかはない。

しかるに被告は、その後熊大医学部などの研究によつて、水俣病が工場排水に起因することを証明する事実が次々に明らかにされ、ついに厚生省も昭和四三年九月二六日水俣病は右工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると前述の公式見解を発表したが、被告はその後もこのような態度を変えることはなかつた。②他方、経済的に窮迫していた患者およびその近親者らは、すみやかに補償を得るために、この契約の締結に応ぜざるを得なかつたのであるが、当時は今日ほど世間の理解や同情はなく、同人らは契約に関する知識、その経験に乏しく、当座支払われる見舞金の額については強い関心があつたが、前記権利放棄条項など契約内容の細部にわたつてまで十分な検討を加えて、その諾否をきめるだけの知識と余裕がなかつた。不知火海漁業紛争調停委員会の調停も、被告側の態度が強固であつたことにもよるが、内容はともかく早急に話をまとめるという姿勢で終始し、患者らの利益を擁護し、十分な補償を得させるための配慮に欠けるところがあつた。③この見舞金契約に基づいて患者家族に支払われた見舞金の平均額は、患者らの一律三〇〇万円の要求にかかわらず、(イ)発病時すでに成年に達していた死亡患者(該当者一一名)の場合七七万二、五七六円、(ロ)一〇才未満の幼児に発病、死亡した患者(該当者五名)の場合三七万七、〇〇〇円、(ハ)発病時成年に達していた生存患者(該当者七名)の場合一七六万〇、六五六円(ただし、昭和四七年九月末日までに分割して支払われた見舞金の合計額、以下同様)、(ニ)発病時未成年者でその後成年に達した生存患者(該当者九名)の場合八五万四、八六二円、(ホ)現に未成年者である生存患者(該当者六名)の場合七六万三、七五一円である。この見舞金の額は、昭和三四年一二月三〇日の第一次見舞金契約において、当時の自賠法の責任保険の法定限度額、水俣市において生活保護世帯に給付されていた扶助の額、水俣地方の屋外労働者の平均賃金を基準に算定した労災法の遺族補償費、休業補償費などを参考にして、患者らの個別事情は考慮することなく、一律に定められ、その後物価の変動を考慮して多少増額されたものである。すなわち、この見舞金契約は、患者らが現実に蒙つた損害の全部を補償するという見地から締結されたものではない。この契約に基づいて支払われる見舞金には、生存患者に対する年金について症状の程度や年令による差が設けられていない、弔慰金について死亡患者の年令、収入による得べかりし利益の差が考慮されていない、年金改定の方法が定期金賠償の趣旨にそわないなどの不合理な点があるが、見舞金額そのものも、契約締結時を基準に客観的に判断して、一般的な統計による労働者の賃金、家庭の消費支出額、交通事故による生命、身体侵害の場合の損害賠償額算定例、他の災害補償例などと比較すると生命、身体の侵害に対する代償額としては極端に低額である。④以上①ないし③の事情を考慮すると、本件見舞金契約は(1)に述べた理由で、民法第九〇条にいわゆる公序良俗に違反するものと認めるのが相当であり、したがつて無効であるから、被告は、本件見舞金契約の権利放棄条項を根拠に、原告らの本訴請求を拒むことはできない。

第五 消滅時効の抗弁について

1 不法行為による損害賠償請求権は、被害者またはその法定代理人が損害および加害者を知つた時から三年間これを行使しないことによつて時効により消滅する(民法第七二四条前段)。

2 すると、水俣病の認定を受けて加害者が被告であることを知つたのち三年を経過しないうちに本訴を提起した原告らの慰藉料請求権、死亡時から三年を経過しないうちに本訴を提起した死亡患者ならびにその近親者の慰藉料請求権、昭和四七年七月二三日報酬の支払契約を締結した弁護士費用について、消滅時効が完成していないことは明らかである。

3 右の2に該当しない原告らの慰藉料請求権については、(1)本件患者らは、死亡患者を除き、被告が最初に損害および加害者を知つたので消滅時効の起算点となると主張する時点(昭和三四年一一月二五日あるいはその後水俣病の認定を受けた時)以降においても、水俣病患者として継続的にその症状に苦しみ、種々の障害を受けている。このように加害者の身体を侵害する行為があつたのちにそれによる損害が継続的に発生している場合、被害者が最初に損害の一部および加害者を知つた時から、その損害全部の賠償請求権について消滅時効が進行するという解釈は到底採り得ないし、(2)水俣病の原因物質、汚染経路、原因物質が生成、排出されるメカニズム、メチル水銀の毒物としての特性などは、いずれも昭和三四年一一月当時は不明であつたのであり、昭和四三年九月二六日前述の厚生省見解が発表されるまでの間に逐次解明されてきたのであるから、このような経過からすると、原告らは、右の厚生省見解が官報に掲載されて公表された同年一〇月九日ころ、終局的に水俣病が被告水俣工場の排水に起因し、同工場が有毒物質を含む工場排水を水俣湾内に排出したことが違法な行為であつたことを損害賠償請求が可能な程度に具体的な資料に基づいて認識したと認めるのが相当で、(3)結局、右の昭和四三年一〇月九日ころから、当時認識できる範囲の損害について、三年の消滅時効は進行するものと解すべきであるから、これによれば、原告一名の一部の請求権について時効による消滅が認められるほかは、被告の消滅時効の主張は失当である。

第六 損害

1 当裁判所は、原告らは、本件訴訟において、患者本人は水俣病に罹患し、あるいは同病により死亡したことによつて蒙つた精神上の損害に対する慰藉料を、その近親者は患者が水俣病に罹患し、あるいはこれにより死亡したことによる精神的苦痛に対する固有の慰藉料を請求しているものと解する。

2 ところで、公害による損害賠償の損害額を算定するに当つては、①公害は、常に企業によつて一方的に惹起され、被害者が容易に加害者の地位にとつて替るということがないこと、②公害による被害は、当該企業の付近住民らにとつてほとんど不可避的で、多くの場合、被害者側には過失と目される行為はないこと、③公害による被害は、不特定多数の住民に広範囲に及び、社会的に深刻な影響を与えること、④公害は、環境汚染をもたらすものであるから、同一の生活環境のもとで生活している付近住民は、程度の差こそあれ共通の被害を蒙り、家庭にあつては、家族全員またはその大半が被害を受けて、いわば一家の破滅をもたらすことも稀ではないこと、⑤企業は、公害の原因となる生産活動によつて利潤をあげることを予定しているが、被害者である付近住民らにとつては、これによつて直接得られる利益は何ら存しないこと、以上のような公害ないし公害事件の特質を考慮する必要があることはもちろんであるが、本件においては、さらに、つぎのような諸事情を考慮した。

① 右にある程度抽象的には述べたことであるが、原告ら被害者が受けた被害は、単に水俣病という病に罹患したことによる精神的肉体的苦痛に止まるものではない。患者家族はほとんどが漁業に依存して生計をたてていたが、被告のもたらした環境汚染は同人らから漁場という生活の手段を奪い、漁業に従事しない者も家族の看護などのため就業は困難であつた。そのうえ、看護、治療のために多額の出費を余儀なくされた。一家に何人もの患者を抱える家庭では、家族の看護さえ満足に受けられないありさまで、患者の療養生活は、家族全員から家庭生活の楽しみを奪い、その経済状態を逼迫させ、家庭生活を破壊の危険にさらした。また、水俣病のまえに水俣病はなく、そのため患者家族らは地域住民から奇病、伝染病といわれ、いわれのない迫害を受けなければならなかつた。

これにひきかえ、被告は、猫四〇〇号の実験結果を公表せず、アセトアルデヒド廃水による直接投与実験を中止させるなどして、その原因究明を遅らせ、これがひいては被害を増大させる一因となつた。

② 水俣病の治療法は、主要症状の改善にはあまり効果がなく、共同運動障害、錐体外路症状、自律神経症状については、リハビリテーションにおける組織的な理学療法、職能療法がある程度の効果をあげる。水俣病の症状は、一般的にいつて、まだ固定したものといえず、発病後十数年を経過して、症状が改善された者もあれば、現に悪化しつつある者もあり、同一個体においても部分的に改善がみられる症状もあれば、悪化しつつある症状もある。

③ 本件では、原告らは、弁護士費用のほかは精神上の損害に対する慰藉料のみを請求しており、いわゆる逸失利益については、現在および将来ともこれを請求する意思のないことが明らかであるが、逸失利益などの財産上の損害を慰藉料に含ませて請求する以上、裁判所は慰藉料を算定するに当つて、各患者の生死の別、各患者の症状とその経過、闘病期間の長短、境遇などのほかに、これら患者の年令、職業、稼働可能年数、収入、生活状況などの諸般の事情をあわせて斟酌せざるを得ない。

④ 死亡患者、その近親者の慰藉料請求については、原告らが、患者の死亡時からの民法所定年五分の割合による遅延損害金をあわせ請求していること、死亡時からの期間の経過、その間の貨幣価値の変動なども考慮せざるを得ない。

⑤ すでに述べた見舞金が支払われていることも、慰藉料算定の際考慮すべきである。見舞金契約は公序良俗に反し無効であるが、すでに支払われた見舞金は、実質的には被害者の損害を填補するもので、原告らの損害賠償請求権が肯定される以上、この契約が無効であつても返還されることはないと解されるから、慰藉料算定の際これを斟酌すべきである。

3 以上のような諸事情を参酌して、慰藉料を算定したが、死亡患者本人の慰藉料については、概ね慰藉料認容額とこれに対する死亡時から昭和四四年七月一五日(昭和四四年(ワ)第五二二号事件の訴状送達の翌日)までの年五分の割合による遅延損害金ならびにすでに受領ずみの見舞金の額を合算した額が一、八〇〇万円となるように各人の金額を算定し、生存患者本人の慰藉料は、患者の症状によるランク付けはしなかつたが、概ね一、八〇〇万円ないし一、六〇〇万円からすでに受領ずみの見舞金の額を差引いた額となるように、各人の金額を算定した。

なお、①生存患者の近親者(民法第七一一条所定の近親者)の固有の慰藉料については、患者が水俣病に罹患したためにその近親者において、同人が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたと認められる場合に限り、その請求を認容し(最高裁昭和四三年九月一九日判決参照)、②弁護士費用については、各認容慰藉料合計額の一割を本件不法行為から通常生ずべき損害と認めた。

各原告の認容慰藉料額、弁護士費用額は、別紙のとおりである。

第七 一部弁済の抗弁について

本件見舞金契約は、すでに述べたように無効であり、またこの契約に基づいて支払われた見舞金は損害賠償金ではないから、いずれにしても被告の一部弁済の抗弁は理由がない。

判決

原告

渡辺栄蔵

外一三七名

原告一三八名訴訟代理人弁護士

山本茂雄

東敏雄

千場茂勝

福田政雄

青木幸男

荒木哲也

久保田久義

坂東克彦

馬奈木昭雄

竹中敏彦

立山秀彦

同他三五〇名、別紙〔一〕原告ら訴訟代理人

目録記載のとおり

右山本茂雄訴訟復代理人弁護士

岡林辰雄

同他六名、別紙〔一〕原告ら訴訟代理人

目録記載のとおり

被告

チッソ株式会社

右代表者代表取締役

島田賢一

右訴訟代理人弁護士

村松俊夫

和智龍一

塚本安平

楠本昇三

畔柳達雄

加嶋昭男

斎藤宏

兼子一

加嶋五郎

右補佐人

久我正一

土谷栄一

大嶋常雄

東広己

右当事者間の標記併合事件につき、昭和四七年一〇月一四日に終結した口頭弁論に基づき、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一、被告は、

1  原告渡辺栄蔵に対し、

金一、一〇〇万円および

内金一、〇〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金一〇〇万円に支する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

2  原告渡辺保に対し、

金六六〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金六〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

3  原告渡辺信太郎に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八日一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

4  原告渡辺三部に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

5  原告渡辺大吉に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

6  原告石田良子に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

7  原告石田菊子に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年二月二〇日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

8  原告渡辺マツに対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

9  原告靏野松代に対し、

金一、六五五万六、八三二円および

内金六〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九〇五万一、六六六円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五〇万五、一六六円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

10  原告渡辺栄一に対し、

金一、七二四万八、〇〇〇円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八六八万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五六万八、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

11  原告渡辺政秋に対し、

金一、九〇〇万七、五四一円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二七万九、五八三円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七二万七、九五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

12  原告釜トメオに対し、

金七八三万〇、一六六円および

内金七一一万八、三三三円に対する昭和三五年一〇月一三日から、

内金七一万一、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

13  原告釜時良に対し、

金一、二三六万〇、三三三円および内金一、一二三万六、六六七円に対する昭和三五年一〇月一三日から、

内金一一二万三、六六六円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

14  原告浜田義行に対し、

金四九五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金四五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

15  原告浜田シズエに対し、

金二、二五五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一、六〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金二〇五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

16  原告浜田良次に対し、

金一、九〇二万九、五四〇円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二九万九、五八二円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七二万九、九五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

17  原告牛嶋直に対し、

金一、六〇〇万五、四五六円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金七五五万〇、四一五円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一四五万五、〇四一円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

18  原告杉本トシに対し、

金二、二四六万四、七四八円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金四九五万六、二四九円に対する昭和四四年七月三〇日から、

内金八四六万六、二五〇円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金二〇四万二、二四九円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

19  原告杉本栄子に対し、

金六五五万一、八七三円および

内金一〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金四九五万六、二四九円に対する昭和四四年七月三〇日から、

内金五九万五、六二四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

20  原告杉本雄に対し、

金六五五万一、八七三円および

内金一〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金四九五万六、二四九円に対する昭和四四年七月三〇日から、

内金五九万五、六二四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

21  原告鴨川シメに対し、

金一一〇万円および

内金一〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

22  原告渕上才蔵に対し

金八一八万六、七五〇円および

内金七四四万二、五〇〇円に対する昭和三二年七月一二日から、

内金七四万四、二五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

23  原告渕上フミ子に対し、

金八一八万六、七五〇円および

内金七四四万二、五〇〇円に対する昭和三二年七月一二日から、

内金七四万四、二五〇円に対する昭和四七年八月二九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

24  原告松田ケサキクに対し、

金一、五八六万二、〇〇〇円および

内金九九二万円に対する昭和三一年九月四日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一四四万二、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

25  原告松田冨美に対し、

金一〇九万一、二〇〇円および

内金九九万二、〇〇〇円に対する昭和三一年九月四日から、

内金九万九、二〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

26  原告松田末男に対し、

金一〇九万一、二〇〇円および

内金九九万二、〇〇〇円に対する昭和三一年九月四日から、

内金九万九、二〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

27  原告松田富次に対し、

金一、九七五万〇、八六四円および

内金九九万二、〇〇〇円に対する昭和三一年九月四日から、

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八九六万三、三三一円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七九万五、五三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

28  原告永田タエ子に対し、

金一〇九万一、二〇〇円および

内金九九万二、〇〇〇円に対する昭和三一年九月四日から、

内金九万九、二〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

29  原告中岡ユキ子に対し、

金一〇九万一、二〇〇円および

内金九九万二、〇〇〇円に対する昭和三一年九月四日から、

内金九万九、二〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

30  原告坂本嘉吉に対し、

金八四五万九、〇〇〇円および

内金七六九万円に対する昭和三三年七月二八日から、

内金七六万九、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

31  原告坂本トキノに対し、

金八四五万九、〇〇〇円および

内金七六九万円に対する昭和三三年七月二八日から、

内金七六万九、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

32  原告坂本武義に対し、

金一、一六七万一、〇〇〇円および

内金七六一万円に対する昭和三三年一月四日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一〇六万一、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

33  原告坂本フジエに対し、

金一、一六七万一、〇〇〇円および

内金七六一万円に対する昭和三三年一月四日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一〇六万一、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

34  原告坂本しのぶに対し、

金一、八九四万一、五四一円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二一万九、五八三円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七二万一、九五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

35  原告坂本タカエに対し、

金一、六〇八万八、四一五円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金七六二万五、八三二円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一四六万二、五八三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

36  原告岩本昭則に対し、

金一、六六〇万四、四九八円および

内金六〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九〇九万四、九九九円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五〇万九、四九九円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

37  原告上村好男に対し、

金四九五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金四五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

38  原告上村良子に対し、

金四九五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金四五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支支払済みまで年五分の割合による各金員を、

39  原告上村智子に対し、

金一、八九二万五、〇四一円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二〇万四、五八三円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七二万〇、四五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

40  原告浜元一正に対し、

金五七二万八、二五〇円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金二四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金五二万〇、七五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

41  原告田中一徳に対し、

金五七二万八、二五〇円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金二四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金五二万〇、七五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

42  原告浜元二徳に対し、

金二、二八三万四、一六五円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金二四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八五五万〇、八三二円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金二〇七万五、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

43  原告原田カヤノに対し、

金五七二万八、二五〇円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金二四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金五二万〇、七五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

44  原告浜元フミヨに対し、

金七九二万八、二五〇円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金四四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金七二万〇、七五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

45  原告藤田ハスヨに対し、

金五七二万八、二五〇円および

内金二七三万五、〇〇〇円に対する昭和三一年一〇月六日から、

内金二四七万二、五〇〇円に対する昭和三四年九月八日から、

内金五二万〇、七五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

46  原告浜元ハルエに対し、

金三八五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金三五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

47  原告溝口忠明に対し、

金七九七万七、七五〇円および

内金七二五万二、五〇〇円に対する昭和三一年三月一六日から、

内金七二万五、二五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

48  原告溝口マスエに対し、

金七九七万七、七五〇円および

内金七二五万二、五〇〇円に対する昭和三一年三月一六日から、

内金七二万五、二五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

49  原告田上義春に対し、

金一、五五八万二、八七三円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金七一六万六、二四九円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一四一万六、六二四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

50  原告坂本マスヲに対し、

金一、六六三万、九五六円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八一二万五、四一五円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五一万二、五四一円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

51  原告坂本実に対し、

金三八五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金三五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

52  原告坂本輝喜に対し、

金二二〇万円および

内金二〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金二〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

53  原告荒木愛野に対し、

金八八三万三、七六二円および

内金八〇三万〇、六九三円に対する昭和四〇年二月七日から、

内金八〇万三、〇六九円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

54  原告荒木洋子に対し、

金四一四万一、八八〇円および

内金三七六万五、三四六円に対する昭和四〇年二月七日から、

内金三七万六、五三四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

55  原告荒木止に対し、

金四一四万一、八八一円および

内金三七六万五、三四七円に対する昭和四〇年二月七日から、

内金三七万六、五三四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

56  原告荒木節子に対し、

金四一四万一、八八一円および

内金三七六万五、三四七円に対する昭和四〇年二月七日から、

内金三七万六、五三四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

57  原告荒木辰己に対し、

金四一四万一、八八一円および

内金三七六万五、三四七円に対する昭和四〇年二月七日から、

内金三七万六、五三四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

58  原告松本俊郎に対し、

金二二〇万円および

内金二〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金二〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

59  原告松本トミエに対し、

金一、九八〇万円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一、〇〇〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一八〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

60  原告松本ふさえに対し、

金一、七六一万〇、五四一円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九〇〇万九、五八三円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一六〇万〇、九五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

61  原告松本俊子に対し、

金一、六七三万〇、五四〇円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八二〇万九、五八二円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五二万〇、九五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

62  原告田中義光に対し、

金一、三五二万四、五〇〇円および

内金七七九万五、〇〇〇円に対する昭和三四年一月三日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一二二万九、五〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

63  原告田中アサヲに対し、

金一、三五二万四、五〇〇円および

内金七七九万五、〇〇〇円に対する昭和三四年一月三日から、

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一二二万九、五〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

64  原告田中実子に対し、

金一、八九二万五、〇四一円および

内金八〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二〇万四、五八三円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一七二万〇、四五八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

65  原告江郷下美善に対し、

金一、〇二一万〇、七五〇円および

内金七二八万二、五〇〇円に対する昭和三一年五月二四日から、

内金二〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九二万八、二五〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

66  原告江郷下マスに対し、

金二、五七三万八、六二三円および

内金七二八万二、五〇〇円に対する昭和三一年五月二四日から、

内金九〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金七一一万六、二四九円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金二三三万九、八七四円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

67  原告江郷下一美に対し、

金一、七二三万一、五〇〇円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八六六万五、〇〇〇円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五六万六、五〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

68  原告江郷下美一に対し、

金一、八三三万一、五〇〇円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金九六六万五、〇〇〇円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一六六万六、五〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

69  原告平木トメに対し、

金七九八万二、九四四円および

内金七二五万七、二二二円に対する昭和三七年四月二〇日から、

内金七二万五、七二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

70  原告河上信子に対し、

金三五二万三、一七六円および

内金三二〇万二、八八八円に対する昭和三七年四月二〇日から、

内金三二〇万二、八八八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

71  原告田口甲子に対し、

金二一五万三、〇六六円および

内金一九五万七、三三三円に対する昭和三七年四月二〇日から、

内金一九万五、七三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

72  原告平木隆子に対し、

金三五二万三、一七六円および

内金三二〇万二、八八八円に対する昭和三七年四月二〇日から、

内金三二万〇、二八八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

73  原告斎藤英子に対し、

金三五二万三、一七六円および

内金三二〇万二、八八八円に対する昭和三七年四月二〇日から、

内金三二万〇、二八八円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

74  原告尾上光雄に対し、

金一、六六三万七、九五六円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八一二万五、四一五円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五一万二、五四一円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

75  原告尾上ハルエに対し、

金三八五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金三五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

76  原告尾上敬二に対し、

金一六五万円および

内金一五〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金一五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

77  原告長島アキノに対し、

金八三三万五、八五九円および

内金七五七万八、〇五四円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金七五万七、八〇五円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

78  原告原田フミエに対し、

金三一一万四、三四三円および

内金二八三万一、二二一円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金二八万三、一二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

79  原告長島政広に対し、

金三一一万四、三四三円および

内金二八三万一、二二一円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金二八万三、一二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

80  原告長島タツエに対し、

金三一一万四、三四三円および

内金二八三万一、二二一円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金二八万三、一二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

81  原告三幣タエ子に対し、

金三一一万四、三四四円および

内金二八三万一、二二二円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金二八万三、一二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

82  原告長島努に対し、

金三一一万四、三四四円および

内金二八三万一、二二二円に対する昭和四二年七月一〇日から、

内金二八万三、一二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

83  原告前嶋武義に対し、

金一、六六三万七、九五六円および

内金七〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金八一二万五、四一五円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金一五一万二、五四一円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

84  原告前嶋サヲに対し、

金三八五万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金五〇万円に対する昭和四六年九月二八日から、

内金三五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

85  原告前嶋ハツ子に対し、

金一一〇万円および

内金一〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

86  原告緒方ツユ子に対し、

金一一〇万円および

内金一〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金一〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

87  原告前嶋一則に対し、

金一一〇万円および

内金一〇〇万円に対する昭和四四年七月一五日から、

内金一〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

88  原告中村シメに対し、

金七五六万四、三三二円および

内金六八七万六、六六六円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金六八万七、六六六円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

89  原告中村俊也に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

90  原告中村真男に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

91  原告川添己三子に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

92  原告都築律子に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

93  原告中村敦子に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

94  原告中村由美子に対し、

金二五二万一、四四四円および

内金二二九万二、二二二円に対する昭和三四年七月一五日から、

内金二二万九、二二二円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

95  原告尾上時義に対し、

金七〇一万四、三三四円および

内金六三七万六、六六八円に対する昭和三三年一二月一五日から、

内金六三万七、六六六円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

96  原告尾上勝行に対し、

金三七八万二、一六六円および

内金三四三万八、三三三円に対する昭和三三年一二月一五日から、

内金三四万三、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

97  原告尾上唯勝に対し、

金三七八万二、一六六円および

内金三四三万八、三三三円に対する昭和三三年一二月一五日から、

内金三四万三、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

98  原告真野幸子に対し、

金三七八万二、一六六円および

内金三四三万八、三三三円に対する昭和三三年一二月一五日から、

内金三四万三、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

99  原告千々岩信子に対し、

金三七八万二、一六六円および

内金三四三万八、三三三円に対する昭和三三年一二月一五日から、

内金三四万三、八三三円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

100  原告田中フジノに対し、

金一、七六〇万円および

内金一、六〇〇万円に対する昭和四五年七月一四日から、

内金一六〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

101  原告田中春義に対し、

金三〇二万五、〇〇〇円および

内金二七五万円に対する昭和四五年七月一四日から、

内金二七万五、〇〇〇円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

102  原告田中安一に対し、

金七五万円および

これに対する昭和四五年七月一四日から、支払済みまで年五分の割合による金員を、

103  原告田中重義に対し、

金七五万円および

これに対する昭和四五年七月一四日から、支払済みまで年五分の割合による金員を、

104  原告荒川スギノに対し、

金七五万円および

これに対する昭和四五年七月一四日から、支払済みまで年五分の割合による金員を、

105  原告荒木幾松に対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

106  原告荒木ルイに対し、

金三三〇万円および

内金三〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金三〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

107  原告荒木康子に対し、

金一、八七〇万円および

内金一、七〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金一七〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

108  原告築地原司に対し、

金一、九八〇万円および

内金一、八〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金一八〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

109  原告築地原シエに対し、

金六六〇万円および

内金六〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金六〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

110  原告諫山茂に対し、

金四九五万円および

内金四五〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金四五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

111  原告諫山レイ子に対し、

金四九五万円および

内金四五〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金四五万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

112  原告諫山孝子に対し、

金一、九八〇万円および

内金一、八〇〇万円に対する昭和四七年七月六日から、

内金一八〇万円に対する昭和四七年八月一九日から、

いずれも支払済みまで年五分の割合による各金員を、

それぞれ支払え。

二、第一項掲記の原告らのうち田中安一・田中重義・荒川スギノを除く原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三、原告山下よし子・同浜田義一・同浜田ひろ子・同白川タミ・同牛嶋フミ・同坂本ミキ・同坂本敦子・同岩本栄作・同岩本マツエ・同田上京子・同田上由里・同田上里加・同千々岩ツヤ・同緒方新蔵・同松本ヒサエ・同松本博・同松本福次・同松本ムネ・同田中昭安・同渡辺ミチ子・同宮本エミ子・同江郷下スミ子・同江郷下実・同桑原アツ子・同江郷下実美・同諫山モリの各請求をいずれも棄却する。

四、訴訟費用は被告の負担とする。

五、この判決は、第一項に限り、

1  同項のうち、3・4・5・6・7・8・14・21・25・26・28・29・37・38・46・51・52・54・55・56・57・58・70・71・72・73・75・76・78・79・80・81・82・84・85・86・87・89・90・91・92・93・94・96・97・98・99・101・102・103・104・105・106・110・111につき、いずれも無担保で、

2  同項の1の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一五〇万円の担保を供することにより、

3  同項の2の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二〇万円の担保を供することにより、

4  同項の9の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

5  同項の10の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三三〇万円の担保を供することにより、

6  同項の11の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

7  同項の12の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一五〇万円の担保を供することにより、

8  同項の13の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三三〇万円の担保を供することにより、

9  同項の15の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金五〇〇万円の担保を供することにより、

10  同項の16の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

11  同項の17の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

12  同項の18の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金五〇〇万円の担保を供することにより、

13  同項の19の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二〇万円の担保を供することにより、

14  同項の20の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二〇万円の担保を供することにより、

15  同項の22の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

16  同項の23の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

17  同項の24の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四八〇万円の担保を供することにより、

18  同項の27の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

19  同項の30の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

20  同項の31の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

21  同項の32の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二七〇万円の担保を供することにより、

22  同項の33の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二七〇万円の担保を供することにより、

23  同項の34の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき四〇〇万円の担保を供することにより、

24  同項の35の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

25  同項の36の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

26  同項の39の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

27  同項の40の内金五七〇万円につき無担保で、その余の金員につき金九〇万円の担保を供することにより、

28  同項の41の内金五七〇万円につき無担保で、その余の金員につき金九〇万円の担保を供することにより、

29  同項の42の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金六〇〇万円の担保を供することにより、

30  同項の43の内金五七〇万円につき無担保で、その余の金員につき金九〇万円の担保を供することにより、

31  同項の44の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一八〇万円の担保を供することにより、

32  同項の45の内金五七〇万円につき無担保で、その余の金員につき金九〇万円の担保を供することにより、

33  同項の47の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

34  同項の48の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一九〇万円の担保を供することにより、

35  同項の49の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

36  同項の50の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

37  同項の53の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一三〇万円の担保を供することにより、

38  同項の59の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

39  同項の60の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三五〇万円の担保を供することにより、

40  同項の61の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

41  同項の62の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三三〇万円の担保を供することにより、

42  同項の63の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三三〇万円の担保を供することにより、

43  同項の64の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

44  同項の65の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二五〇万円の担保を供することにより、

45  同項の66の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金七二〇万円の担保を供することにより、

46  同項の67の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三三〇万円の担保を供することにより、

47  同項の68の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三六〇万円の担保を供することにより、

48  同項の69の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一三〇万円の担保を供することにより、

49  同項の74の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

50  同項の77の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金七〇万円の担保を供することにより、

51  同項の83の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三〇〇万円の担保を供することにより、

52  同項の88の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一五〇万円の担保を供することにより、

53  同項の95の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金一三〇万円の担保を供することにより、

54  同項の100の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金三五〇万円の担保を供することにより、

55  同項の107の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

56  同項の108の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

57  同項の109の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金二〇万円の担保を供することにより、

58  同項の112の内金六〇〇万円につき無担保で、その余の金員につき金四〇〇万円の担保を供することにより、

仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一原告ら(請求の趣旨)

1 被告は、別紙〔二〕請求債権額一覧表欄記載の各原告に対し、

a 同表欄記載の金員、

b 並びに右金員に対する、

(1) 右のうち同表欄各記載の金員については、それぞれ同表欄各記載の日から、

(2) 右のうち同表欄記載の金員については、昭和四四年七月一五日から、

(3) 右のうち同表欄記載の金員については、同四六年九月二八日から、

(4) 右のうち同表欄記載の金員については、同四七年七月六日から、

(5) 右のうち同表欄記載の金員については、同四七年八月一九日から、

いずれも支払ずみまで、年五分の割合による各金員を、

それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言。

二  被告(請求の趣旨に対する答弁)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決。

第二請求の原因

一請求原因事実の骨子

1 原告らはいずれも、別紙〔三〕患者一覧表記載の患者本人、又は同表記載の患者(死亡患者を含む。以下同じ。)の親族であり、被告は肩書地に本店を置く総合化学工業会社であつて、熊本県水俣市野口町にある被告会社水俣工場においてアセチレンから、水銀触媒を用いて、アセトアルデヒドを合成していたものである。

2  被告は右水俣工場で昭和七年頃からアセトアルデヒドの製造を行なつていたが、その製造工程中に生ずる廃液を含む汚悪水を、同年から昭和四一年六月頃まで右工場周辺の海域に放出していた。

3  しかして、被告水俣工場から排出された右汚悪水により、次に述べるとおり、疾患が発生する。即ち、前記廃液中にはアセトアルデヒド合成工程中で副生されるメチル水銀化合物が多量に混入しているので、右汚悪水を海中に放出するときは、廃液中のメチル水銀化合物が、水中に棲息する魚介類を継続的に汚染し、その体内にメチル水銀化合物を蓄積させ、このように汚染された魚介類を人が反復して多量に摂食するときは、メチル水銀化合物は人体内に移行蓄積し、その結果中毒性中枢神経系疾患(以下「水俣病」という。)をおこさせるものである。

4 然るに被告は、水俣工場において、右危害の発生を防止するために後記第三項「被告の責任」1・2各記載の注意義務があるにも拘らず、後記第三項「被告の責任」3記載のとおりこれを怠り、動・植物や人体に対して危険のおそれのある汚悪水であつてメチル水銀化合物が多量に混入する廃液を、実質的な回収設備を施さず無処理のまま、右工場周辺の海域に放出していたため、アセトアルデヒドの生産量の増加とともに右海域の汚染度も増大し、ここに棲息する魚介類の体内にメチル水銀化合物が蓄積され、この魚介類を別紙〔三〕患者一覧表記載の者らが、摂食を繰りかえすうちにその体内にメチル水銀化合物が移行蓄積するに至り、その結果、同表記載の者らをして、後記第四項のロの1ないし30の各(二)記載のとおり、遅くとも昭和二八年一二月頃から同三六年七月頃までの間に、いずれも水俣病に罹患させたものである。

5  しかして被告の前記不法行為の結果、右患者ら及びその親族は、それぞれ後記第四項のロの1ないし30の各(二)・(三)記載のとおり、測り知れない被害を蒙り、いずれも深甚なる苦痛を背負つて生きつづけ、あるいは死亡した。

これらの精神的・肉体的苦痛は、金銭をもつては本来慰謝し尽し難いものであるが、それぞれ敢えて金銭に評価すれば、少なくとも次に述べる金額を下らないので、原告らは、被告に対し、右被害を蒙つた損害として、後記第四項のロの1ないし30の各(三)・(四)及び同第四項のハ記載のとおり、それぞれ別紙〔一〇〕の〔一〕原告別請求・認容額一覧表の「請求額」欄各記載(別紙〔二〕請求債権額一覧表記載に同じ)の慰謝料・弁護士費用並びに、これらに対する請求の趣旨1のb記載のとおりの遅延損害金(民法所定年五分の割合による)の各支払を求める。

二因果関係

1  政府見解発表及び水俣病審査会等の認定

――公的機関による罹患と因果関係との認定――

水俣病は、水俣湾(及びその附近の水域)産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによつて起つた中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾(及びその附近の水域)内の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂取することによつて生じたものである。

〔昭和四三年九月二六日政府発表(同四三年一〇月九日付官報登載)参照〕

右政府見解発表時の水俣地方の水俣病患者は、発生数一一一(昭和二八年から昭和三五年まで)その内死亡数四二(昭和二九年から昭和四二年まで)であつたが、水俣病審査会(水俣病を診定する熊本県知事の諮問機関、会長貴田丈夫熊大教授)は、昭和四四年五月二九日新患者五名(内死亡一名)を追加認定し、その頃右審査会の一員である武内忠男熊大教授は、公定の認定患者以外にその体内をメチル水銀化合物によつて侵触されながら、水俣病の症状を現わさない不顕性水俣病患者が存在する事実を発見しこれを発表した(この事実は胎児性水俣病患者の因果関係に関連ある事実である)。

なお、別紙〔三〕患者一覧表記載の者らが次に述べる各認定機関によつて水俣病であると認定された年月日は、同表「認定年月日」欄記載のとおりである。

即ち、右認定は、昭和三四年一二月二五日厚生省の管轄下に水俣病患者診査協議会が設置される以前は、熊本県の依頼によつて水俣奇病対策委員会の医師委員及び熊本大学水俣奇病研究班の主要メンバーをもつて構成された認定機関が、右協議会設置後は同協議会が、後には前段に述べた水俣病審査会が、それぞれ行なつていた。最初の認定は、昭和三一年一二月一日の亡患者溝口トヨ子らに関するものである。

2  被告の行為と水俣病発生との間の因果関係

(一)原因物質(メチル水銀)の生成・排出及び特性

(1) アセトアルデヒドの生産工程と生産量

被告水俣工場におけるアセトアルデヒドの生産工程は「アセトアルデヒドの生産工程略図」に示したとおりである。

これはアセチレン接触加水反応を利用するものである。すなわち、生成器に硫酸、硫酸鉄、酸化水銀(但し、昭和三五年まで)及び水で作られた触媒液を入れておき、一定温度(摂氏七〇度〜七五度)に保ち、アセチレンを吹きこむと、水加されてアセトアルデヒドを生じ、触媒液にアセトアルデヒドが溶けて、稀アセトアルデヒド液が得られる。この稀アセトアルデヒド液(約一、五%)よりアセトアルデヒドを分離するため、減圧蒸発(通称、真空蒸発という)を行なう。アセトアルデヒドと水蒸気は第一精溜塔に入り触媒液は生成器にもどる。第一精溜塔で大部分の水が下部より抜け(精ドレン)、第二精溜塔で副生クロトンを分離して、高純度のアルデヒドをアンモニアで冷却して取り出す。

アセトアルデヒド(CH3 CHO)は、昭和七年に合成酢酸の原料として製造されたが、誘導品の多種化及びその増産にともない、年年増産され、昭和三六年には月産三、三八〇トンにも達した。

昭和二一年から昭和三五年に至る月産量は次のとおりである。

昭和二一年    二〇〇トン

〃 二二年    二〇〇トン

〃 二三年    三〇〇トン

〃 二四年    三七〇トン

〃 二五年    三七〇トン

〃 二六年    五二〇トン

〃 二七年    五二〇トン

〃 二八年    七〇〇トン

〃 二九年    七五〇トン

〃 三〇年    九〇〇トン

昭和三一年  一、三〇〇トン

〃 三二年  一、五〇〇トン

〃 三三年  一、六〇〇トン

〃 三四年  二、五〇〇トン

〃 三五年  三、三〇〇トン

アセトアルデヒドからの誘導品として酢酸、無水酢酸、酢酸エチル、酢酸ビニール(チッソニール)、三酢酸繊維素、並びに可塑剤の主原料であるオクタノール、可塑剤としてDOP、DOA等を生産し、アセトアルデヒドはこれらの原料として全量工場内で自家消費されていた。

昭和三九年七月訴外チッソ石油化学株式会社五井工場(千葉県)において石油化学法アセトアルデヒド製造装置(公称生産能力年産三〇、〇〇〇トン、実質生産能力年産四五、〇〇〇トン)が完成したので、昭和四〇年から被告水俣工場では、酢酸エチル及び酢酸の製造を停止し、その後毎年アセトアルデヒドの生産量は減少し、昭和四三年五月に至つてその生産を全面的に止めた。その直前の月産量は一、七〇〇トンであつた。

(2) メチル水銀の生成

アセチレン接触加水反応において、触媒たる硫酸水銀は反応をくりかえすうちに触媒機能を劣化させる。それを抑制し触媒の寿命をいくらか延長させるため、硫酸鉄を助触媒として添加するのである。アセトアルデヒドを生産する反応が主流反応であり、この触媒機能劣化反応が、副反応であつて、この副反応の中で硫酸メチル水銀〔CH3Hg(SO4)1/2〕が生成され、更に反応液中に含まれる塩素イオンにより塩化メチル水銀(CH3HgCl)となる。この物質は揮発性をもつているので、アセトアルデヒドと一しよに第一精溜塔へ行くが、アセトアルデヒドより沸点が高いので、先に凝結して水とともに塔底にたまり、この水は精ドレンとして放出されることになる。しかも被告は、昭和四三年に至るまで、メチル水銀の回収を考えもしなかつた。

(3) メチル水銀化合物の性質と挙動

メチル水銀化合物とはCH3―Hg―Xなる一般式をもつ一群の化合物を指すものであつて、純粋な物質は一般に有機溶媒によく溶ける。

右式のXがハロゲン(塩素Cl臭素Br沃素I)である化合物は水にもある程度溶解する。

メチル水銀化合物を溶かした場合一部は水中で解離してイオンとなる。この場合メチル水銀基(CH3―Hg基)が正に荷電した陽イオンとなり、Xは一般に陰イオンとなる。この場合CH3とHgとの間の結合は、かなり安定であり、相手のXは色々と変化しても、メチル水銀化合物としての一貫した性質は変らない。メチル水銀基に対する親和力は、塩素Clは、硫酸基SO4より強く、臭素沃素より弱い。

動物体の主要構成成分である蛋白質は、その化学構造の中に―SH基―NH2基―COOH基など水銀化合物と結合できる基をもつている。そこでメチル水銀基が動物体内にとりこまれると、生化学反応により蛋白質と結合する。ここにメチル水銀化合物の魚介類体内蓄積の生化学的基礎がある。

なおメチル水銀化合物には、塩化メチル水銀(CH3―Hg―Cl)以外に、硫化ヂメチル水銀(CH3―Hg―S―CH3)、硫化ビスメチル水銀(CH3―Hg―S―Hg―CH3)、沃化メチル水銀(CH3―Hg―I)、水酸化メチル水銀(CH3―Hg―OH)等があり、これらは何れも動物実験に使用され、水俣病原因物質たることを証明されたものである(甲第二号証「水俣病」三七一頁参照)。

右のうち塩化メチル水銀は、昭和三七年熊本大学入鹿山且朗教授が被告水俣工場排出の水銀滓からの抽出に成功した物質であり、硫化ヂメチル水銀は、熊本大学内田槇男教授が水俣湾産ヒバリガイモドキからの抽出に成功した物質である。

(二)水俣病の発生機序

(1) 水俣病の定義と症状

水俣病とは、工場排液中に含まれたメチル水銀化合物が広汎な水域に流出し、これをその水域にすむ魚介類が、後述のような過程を経て体内に蓄積し、その魚介類を反復大量に摂取した人びとの中から発症者をみるメチル水銀中毒症をいる。

水俣病患者は、水俣湾ないしその周辺の不知火海において専業または兼業で漁業を営むもの、及び趣味としてまたは生計補助のため多量に魚介を採るものならびに上記二種の人びとの家族であり、いずれも右水域で捕獲された魚介を長期にわたつて反復大量に摂食したものばかりである(但し胎児性水俣病患者の場合は、その母親がこの要件に該当したものである)。

水俣病の症候は、多くは手足および口のまわりのしびれ感、関節痛、指硬直、知覚障害、聴力障害、求心性視野狭窄、指指、指鼻試験拙劣、言語障害、歩行障害など、小脳症状を中心とし、一部錐体外路症状、大脳皮質症状、末梢神経症状などの固有の症状群が認められる。

(2) 水銀化合物の毒性について

水銀は毒物及び劇物取締法に規定する毒物であり(同法第二条第一項、別表第一一の第一の一五号)水銀化合物は少数の例外を除き毒物である(同法第二条第一項、別表第一の二八号、毒物及び劇物指定令第一条第一項一七号)。右少数の例外にはメチル水銀化合物、エチル水銀化合物、プロビル水銀化合物、フェニール水銀化合物は含まれていない。

単体の金属水銀、諸種の無機水銀化合物、および諸種の有機水銀化合物は、原形質毒としてすべての生物に対して毒性を示すものであるが、いずれも急性毒性(致死量)に大差は認められないものである。しかるに亜急性ないし、慢性の毒性については、決して一様でない。

水俣病の原因物質たるメチル水銀化合物(およびエチル、プロピル各水銀化合物、総称して低級アルキル水銀化合物という)は少量ずつ摂取しても体内での蓄積性が大でやがて中毒症状を呈する。故に水俣病の原因物質たりうるのである。すなわち低級アルキル水銀化合物摂取によつて生物が死ぬなら、人は斃死した生物は通常食べないので、かかる生物は水俣病発生の媒体たりえないのである。しかるに、低級アルキル水銀基は親油性を有し、蛋白質と結合しやすく、しかも有機水銀結合が容易に切れないので、生体内に吸収されやすく、排出され難く、しかも急性毒性が微量では発揮されないので、生物の体はかなりの濃度にまでアルキル水銀を蓄積保有するに至る。しかもアルキル水銀は、動物の脳神経系を侵すのみで、肝・腎、胃腸、血液像等にはほとんど変化を起さないから、異常に蓄積し、生存している魚介があるので、それを摂取して水俣病をおこしたものである。

魚介類の住む環境のメチル水銀化合物による継続的な稀薄濃度汚染あるいは頻回に反復する一過性の少量汚染は、エラ呼吸、餌を介する経口ならびに体表通過の三経路によりメチル水銀化合物の魚介類体内侵入蓄積を起すと考えられるが、要は早急に死なないような稀薄濃度のメチル水銀に絶えず曝露されることが要件となる。実験時にも〇、〇〇三PPm溶液中で金魚を飼えば、メチル水銀化合物の蓄積が認められ、また水俣湾に他海域から移殖したカキが一〜三ケ月間に有毒化した。魚介類の体内におけるメチル水銀化合物蓄積には、汚染源から水域への絶えざるメチル水銀流出が絶対に必要である。

(3) 人および動物における水俣病の発症

水俣病は、広大な水域に流出し、稀釈されたメチル水銀化合物が前記の過程によりその体内に濃縮、蓄積された有毒魚介類を反復大量に摂取した人間の間から発症するものである。生物はその体内にとり入れたメチル水銀を一方では分解し排出するから、その出入量がプラスにならない限りその蓄積は起らない。魚介類も生物であるから、むやみに大量のメチル水銀を蓄積して生存することは不可能であつて、その保有量には限度がある。したがつて、人や動物の魚類摂取量が異常に大きくなければ発症に至るまでの蓄積は容易に起らない。水俣地方において水俣病を発症したのは、ほとんど全部が漁業を業とするものないし、趣味または生計の助として漁をするものすなわち自分で捕獲して無制限に水俣湾およびその附近水域の魚介類を喫食したものおよびその家族で同様の喫食を行なつたものである(なおネコはすてられた魚まで食べ、一般に魚を多食するので、人よりも早くからまた範囲も広く発症している)。

なお別紙〔三〕患者一覧表記載の者(胎児性患者についてはその母親)らが、水俣湾ないしその附近水域産の魚介類を喫食した状況及びその時期は、別紙〔五〕魚介類喫食状況一覧表記載のとおりである。

3  因果関係の存在を推認させるその他の事実

(一) 本件因果関係の存在は、次に述べる四つの事実によつても、十分推認することができる。即ち、

(1) 昭和三一年一〇月に行なわれた熊本大学の一連の疫学調査は、その調査結果において一貫して、被告水俣工場の汚悪水を水俣病の原因として指摘してきている。

(2) 熊本大学医学部水俣奇病研究班が昭和三一年一一月発表した重金属説は、被告チッソ水俣工場の汚悪水を水俣病の原因と結論づけるものである。

(3) 被告は昭和三三年九月、細川博士の反対を無視して、アセトアルデヒド製造設備廃液の排水路を水俣川へ変更し、その後同河口に何人もの患者が発生した。これは、いわば因果関係に関する人体実験である。

(4) 被告チッソ水俣工場の汚悪水を食物にかけて食べさせた猫三七四号・四〇〇号が発症した。その症状は、自然発症の猫の症状とも、本件患者の症状とも一致したのであつた。

(二) 右の各事実によれば、被告の汚悪水排出の行為と水俣病発生との間の因果関係は十分に証明されるのであつて、汚悪水中のいかなる物質が水俣病の原因であるかということは、水俣病治療法の研究には必要であつても、加害者の特定のためには必要ではない。

なお、被告会社の社長であつた江頭豊が、本訴提起前、「当社水俣工場の排水に基因する公害病」であるとの政府見解に従う所存であるという内容の詫状をもつて患者宅をまわつたが、この詫状によれば、被告自身も、水俣病の原因が水俣工場の排水(すなわち汚悪水)であると認めているのであつて、同排水中の個々の物質は問題にしていないのである。

4  相当因果関係

工場汚悪水から生命・健康に害が及ぶことは「通常生じるもの」と考えられるから、被告の加害行為と損害との間に相当因果関係があるものといわねばならない。

三被告の責任

1  被告工場廃液の危険性と廃液処理の必要性

(一)有機化学工場廃液の危険性

およそ化学工場では、その製造過程で多種多量の危険物を使用し、その中間生成物や完成した製品が危険物であることが多い。また、この製造過程および触媒反応は非常に複雑で、触媒機構がまだ十分解明されていない状態でこれらの危険物をそのまま原料・触媒等として使用するとき、危険な物質を生じることが多い。従つて、化学工場の廃液には、未反応原料・触媒・中間生成物・最終生成物などのほかに、予想しない危険な副反応生成物などが混入していることがありうる。

これを被告工場についてみるに、水俣工場は、有機合成化学工場として、アセトアルデヒド製造工程(昭和七年から同二〇年迄及び同二一年から同四三年迄)に於ける水銀及び水銀化合物、硫酸、硝酸及び塩化ビニール製造工程(昭和一六年から同二〇年迄及び同二四年以降)における塩化第二水銀(昇汞)並びに醋酸製造工程(昭和七年から同二〇年及び同二一年以降)における重クロム酸ナトリウム等の有毒物質を触媒として使用し、それ等は、その製造工程及び同排水経路を経て、工場外へ排出されるのみならず、又それ等の製造工程中では、原料及びその他の諸条件、特に触媒作用の過程で、他の危険物質への転化の可能性を含んでおり、更には、排水過程においては、同工場の他の製造工程より排出される汚悪水との合流による化学的反応の可能性もある。

なお、同工場には、他にも無水醋酸製造工程、醋酸エチル製造工程等もあり、それ等の各工程及び排水過程における化学的変化による危険物質の生成も考えられる。

以上の各過程からは、水銀化合物その他の有毒物質が生成され、被告会社は、これらの有毒物質を含む工場汚悪水を大量且つ継続的に、百間港及び水俣川河口周辺海域に放出した。

これらの危険物が混入している廃液をそのまま河川や海水中に放出すれば、動植物や人体に危険を及ぼすことは当然である。

化学工場、就中有機合成化学工場の生産活動の過程において排出される汚悪水が、動植物や人体に危険を及ぼす可能性を有することは、公知の事実であり、かかる汚悪水を排出しながら操業を継続して損害を発生させたならば、右工場の排出行為自体にその責任があるというべきである。

(二)廃液処理の必要性

前記の危険物による河川・沿岸海水の汚染のもたらす水の健康・身体への危害は、右廃液の直接的使用によるものだけではなく、右危険物が魚介類の体内に蓄積され、これを人が摂食することによつて起る場合もあり、後者の被害は前者に比べ広範且つ甚大な場合がある。ところで、被告はその生産活動において、高度な専門的知識と技術を擁して生産工程を独占的排他的に支配しつつ廃液を放出するものであり、他方住民は、工場で何がどのように生産されどのような廃液が放出されているか知る由もなく知らされもしない。また廃液による被害は広範且つ不特定多数に及ぶが、その被害を受ける者は地域住民であつて、彼等は被害を防止する手段を有しない。地域住民も人として安全に生きてゆく基本的権利を有するが、公害を受けない生活環境を自由に選ぶ経済的余裕に乏しく、廃液発生源たる加害者との間に地位の互換性がなく、被害を一方的に受けるものであるから、加害者においてその安全確保の義務を一方的に負わなければならない。しかして被告は、安全性の確証される状況下でなければ汚悪水の放出が許されず、地域住民に対し人命等の安全を保障すべき地位にあり、危険防止のための高度の注意義務を負うべきものである。

工場廃液処理の必要性は前記のとおりであり、水俣工場の廃液は極めて危険なものであり、しかもその放出先が、後記(三)記載のとおり、特殊な地理的環境にあり、この工場廃液の危険性はより強度なものとなつた。加えて、後記(四)記載のとおり右廃液の危険性の徴候が出ていたのであるから、危険防止のための廃液処理はより厳格に行なわれる必要があつた。

(三)廃液排出先の地理的条件

被告は水俣工場廃液を百間港及び水俣川河口に放出したのであるが、百間港は袋のような形状になつている水俣湾の最奥部にあり、水俣川河口は不知火海に面している。不知火海は八代湾ともいわれ、内湾であつて外洋との海水の流出入量は少なく、波も静かで、潮流もゆるやかである。水俣湾はこの八代湾の内湾つまり二重湾である。また水俣湾内では潮流は殆ど見られない。前記の地理的条件及び潮流の関係から見て、

(1) 水俣湾に工場廃液が排出されれば、その廃液は多く湾内に停滞して、水俣湾を汚染する危険があること、

(2) 廃液の一部は更に湾外に出て長島に向う海流に沿つて不知火海を汚染する危険があること、

(3) さらに水俣川河口に工場廃液が排出されれば、北上流に沿つて不知火海を汚染する危険があること、

などがわかる。右のような地理的環境条件のもとでは、工場廃液が海水によつて拡散混合される稀釈効果は少ない。

(四)危険性の徴候の出現

被告水俣工場の廃液の危険性は、次のとおり、時間の経過とともに現実化して行つた。

① 漁業補償

昭和一八年には漁業補償問題が発生し、被告は漁業組合に対し補償金を支払つた。

昭和二四年には水俣市漁業協同組合が被告に対し漁業被害の補償を要求し、被告は同組合に対し、「会社の事業により害毒が生じても、一切異議を申出ない」ことを条件として、補償に代えて無利息に五〇万円を貸付けた。

同二九年には、同組合から毎年五〇万円の漁業被害の補償金を要求されて「組合は今後被害補償その他の如何なる要求もしないこと」を条件として、会社の事業により生じる残滓その他一切の工業用汚悪水が会社の善意の処置をしても、組合の漁業権を有する海面に流出することに対し、会社は毎年四〇万円を支払うこととした。

以上の如く漁業被害の補償要求に対し、被告会社は、漁業被害が「工場汚悪水」によつて起きること、或るいは、将来起きるであろうことを認めて補償している。

② 漁獲高の減少

水俣湾付近は豊かな漁場であつた。ところが昭和二四年頃から漁獲高は減少の度を強め同時に

(1) 魚が死んで浮上する現象が始まつた。

(2) 百間港付近では、カキの斃死が目立ち始めた。

(3) 湾内の海草が浮上し始めた。

その後右の現象が拡大増加していつた。そして同二六ないし二七年頃は、敏捷な魚が手ですくえる状況が発生した。

③ プランクトン等の斃死

①・②記載の事実と相前後し海底泥土や海水の成分変化、プランクトン、その他の動植物微生物の斃死が激化した。

④ 猫等の発病

昭和二六年頃になると、猫、カラス、水鳥の異常行動を目撃することができるようになつた。

⑤ 以上の諸事実は、次には人間が発病することを確実に予告していた。果せるかな、昭和二八年一二月最初の水俣病認定患者が発病した。続いて、昭和四五年九月当時迄に認定患者は一二一名を数え、内死者四六名を出した。

2  被告の注意義務

(一) 前記1の(一)ないし(四)記載の諸事由に照らし、被告は、その生産活動に伴い水俣工場より廃液を放出する場合には、事前に右廃液の動植物や人体に対する影響の有無を科学的に調査確認の上、廃水処理の対策を講じ、有害または安全性に疑いがあるときは、これを防止するために必要な手段を講じて、廃液の放出による危害を未然に防止する高度の注意義務があつたというべきである。

しかして、被告工場は、その規模、危険物質の使用・生成排出量などの点から、危険な化学工場の最たるものであつて、このような高度の注意義務を有することは言を俟たないところである。そこで、被告工場に要求される具体的注意義務の内容は、次のとおりである。

イ 調査・予見義務

(1) 各製造工程における原材料・触媒・中間生成物などに如何なる危険物質があるのか、その工程で副反応物が生成されるか否か、それらはどのような過程を経てどれだけ廃水中に混入するのかを調査確認すべきである。

(イ) 廃液等の分析

水俣工場の各製造工程に存する各種物質及び廃液の組成を分析測定すべきである。然る後、その各危険物質の性質、廃液に対する溶解度、生体に対する危険性を具体的に追求すべきである。

また各製造工程で使用・生成される物質は、被告には当然明らかな筈であり、有毒な副反応生成物を含めて、当時の分析技術をつくせば明らかになつた筈である。

なお、化学分析については、被告は昭和二七年以前においても相当な分析能力を有していたが、特に同年頃からは化学分析装置の整備拡大をなしていたので一流の大学に劣らない分析能力を有していたし、のみならず、大学やその他の研究機関に研究調査を委託することも可能であつた。

これ等の方法を活用し、又その上に立つて研究することによつて廃液の危険性を明らかにし得た筈である。

(ロ) 排水量の測定

水俣工場の排水中の各危険物質の量を測定し、合せて各製品の生産量との関係を把握すべきである。そこから有毒物質の使用量と排出量と生産量との関係は函数的に明らかとなり、以後はそのうちどれか一つから環境(水俣湾)の汚染度を充分予知することが可能となる。

(2) 工場廃液の放出先の環境について調査すること。

放出先たる①水俣湾等の地理的条件②潮流の関係③そこに住む生物の種類と分布状態④附近の住民の生活の仕方等は、最小限度調査すべきである。

①については 水俣湾が二重湾になつている事実、

②については 外海と不知火海との流出量が少なく、しかも水俣湾については、ほとんど潮流もなく、百間港から排出すれば水俣湾内に物質が留まるような状況下にある事実、

③については 水俣湾は豊かな漁場である事実、

④については 附近の住民の多くは沿岸漁業を営み特に魚介類を常食としている事実、

等が明らかになる筈である。

しかも調査の方法としては、被告でも出来るものもあり、又、水産試験場、海洋気象台、海上保安庁等に嘱託してもよいし、大学に研究を依頼する方法も考えられる。

(3) 継続的に排水処理方法を研究実施すること。

以上(1)、(2)の調査をなすことによつて、水俣工場の汚悪水が生物体に危害を及ぼして行くことが判明し得た筈である。従つて、それがどのように、又どの程度に影響するのかその可能性については、継続的に徹底して研究調査すべきであつた。

排水対策としても、その段階で明らかにすることができた事実に基づいて、工場廃液の安全性を確保できる方法が講ぜられるべきであつたし、又、最少限度、工場廃液の安全性を検証できる体制(例えば生物検定法)はとられるべきであつた。

そして新たな環境の変化があれば、その事実をもくみ入れて工場排水の安全性を再検討し、その対策を講じて行くべきであつた。

(4) 環境条件の変化に対する監視体制を確立し、前記(3)の排水対策の基礎とすること。

廃液排出後もその安全を確保し検証してゆくために、環境に異常がないかどうかを継続的に監視してゆく体制を確立し実施すべきである。しかも前記1の(四)「危険性の徴候の出現」に記載のとおり、水俣工場廃液の危険性は時間の経過とともに現実化していつたのであるから、工場汚悪水の危険性を徹底して追求し危険防止の対策を講ずべきであつた。

(5) 前記(1)の調査により、同工場の放出する物質は危険なものであり、その量が増大していく事実、前記(2)の調査により、排水中の危険物質の稀釈度が著しく低いこと、放出先が漁場であり魚介類を常食する住人が多く人体への危険に直結している事実、前記(4)の監視体制の確立のもとで、既に自然の自浄作用が全く機能しなくなつている事実、及び次には人間が発病することを予告する徴表が現存していた事実等が明らかとなる。

以上(1)ないし(4)のような調査義務を尽せば、最初の水俣病認定患者の発病(昭和二八年一二月)の相当以前から、同工場の排水処理がそのままの方法では住民の安全を確保できないものであることが明らかになつた筈である。

ロ危害防止義務

かりに、被告が前記イ記載の予見・調査義務を怠つていたというのが当らないとしても、昭和二八年一二月最初の水俣病認定患者発生の数年前から、前記1(四)「危険性の徴候の出現」に記載のとおり、水俣湾周辺において漁獲量が激減し、被告会社において漁業補償をなして工場汚悪水による魚介類に対する危害の事実を認めていたし、猫の狂い死・鳥類への影響等が現実化し、いずれも社会的な問題となりつつあり、工場汚悪水の安全性が疑われていたのであるから、汚悪水による危害を未然に防止するために有効適切な手段を講ずべきであつた。

右防止手段としては、廃液の毒性を除去するか又は排出停止の方法を採るべきであつた。例えば、被告会社が後に至つて行なつたような、工場排水を生産工程の系内において完全に循環させ工場外に流出させない方法も採られ得た筈である。

(二)予見可能性について

(1) 予見可能性の対象

原告と被告の過失論には次の如き根本的な考え方の相違がある。

予見可能性の対象は、工場汚悪水による他人の法益侵害なのか、それともメチル水銀による水俣病の発生なのか。

原告は前者の立場に立つ。工場汚悪水の放出が許されるのは、その安全性が確証される状況の下でなければならない。

これが、原告第二準備書面第一の過失論の基礎にある考え方である。廃液の調査義務もこの考え方から導かれる。また結果認識可能性を水俣病という限定された結果の認識可能性でなく、他人の法益侵害についてで足るとするのも同じ考え方に由来する。水俣病が工場廃液中のいかなる物質によりいかなるプロセスをたどつて発生するかを、科学的に認識し得たか否かは、科学の問題であつて法律ないし裁判の問題ではない。法律上は工場廃液が他人の法益を侵害することと予見しえたことで足りるのである。しかるに被告はあえて前記後者の立場を固執する。

この加害企業の過失論の根底には、環境が汚染破壊され住民の生命健康が破壊された段階に至つてはじめて危険が実証されるものであるところ、それまでは危険であることが証明されないのであるから廃液を放出することが許されるとする、いわば地域住民を人体実験に供する考え方が存在する。

被告第二準備書面における過失論はまさにこの人体実験の論理を容認したものである。安全性を確保するための調査義務を軽視し、予見義務の対象を塩化メチル水銀に限定し、その不可予見性を主張する被告の過失論はまさに公害を容認、助長する論理といわねばならない。かかる論理を生みだす被告の利潤優先、人命軽視の基本姿勢こそ水俣病を発生させた根本原因である。

(2) アセトアルデヒドの製造工程からメチル水銀化合物が生成されることは、被告会社はこれを化学的に当然認識できた筈であり、その時期は昭和七年である。

例えば、アセトアルデヒド製造に関し日本の技術者間で必読文献とされている古典的なニューランドの一九二一年の論文(甲八六号証)において、可溶性の有機水銀化合物の生成が報告されていたのである。

(3) 工場排水が水俣病の原因であることの予見・認識

(イ) 昭和三一年八月以降の熊本大学公衆衛生学教室の疾学調査及び衛生学教室の疫学調査並びに厚生省国立公衆衛生院の疫学調査は、いずれも被告水俣工場排水に疑を向けるものであつた。

(ロ) 昭和三三年六月二四日には、厚生省の環境衛生部長が参議院において、水俣病の発生源が被告工場にある旨答弁していた。

(ハ) 水俣病が亡田中しず子を第一号として公式的に発見された昭和三一年当時、水俣湾に排出されていた被告工場廃液は、アセトアルデヒド工場及び塩化ビニール工場排水のみであつた(甲七八号証別表(5)参照)ので、汚染原因が水俣工場廃液だということは、右アセトアルデヒド及び塩化ビニール工場の排水が汚染源であることを意味している。被告はこのアセトアルデヒド排水を百間港から水俣川河口へ変更するに際し、細川医師から右河口周辺に患者が出れば汚染源の証明になるとして反対されたが、昭和三三年九月右排水路変更を強行し、右河口周辺に新たな患者が続発した。

(ニ) アセトアルデヒド酢酸工場廃液を直接投与された実験猫四〇〇号が昭和三四年一〇月七日水俣病に発症し、九州大学遠城寺教授の病理所見でも水俣病に酷似している旨の結果が得られた。

(ホ) 右(イ)(ロ)(ハ)(ニ)の各事実は、被告会社がその工場排水が水俣病の原因であることを予見ないし認識していたことをいずれも推認させるものである。

殊に、右(二)記載の猫四〇〇号の実験結果を知つてからの工場廃液の排出後の水俣病の発症については、被告に故意に近い責任がある。

3  被告の義務懈怠

被告会社は、後記(ニ)のとおり徹底した利潤優先・生産第一主義、人命軽視の基本姿勢のもとに、敢えて前記1及び2記載の注意義務を尽すことなく、水俣工場から排出される廃液を、何ら有効適切な手段をとることなく、安全性の確証されぬまま漫然と、後には前記2の(二)の(3)記載のとおり被告工場としてもその危険性を予見ないし認識しながら、後記(三)のとおり海水中に放出したものであるから、過失の責任を免れない。

なお、工場廃液に混入している水銀及び水銀化合物は、第二項因果関係2(二)(2)の冒頭に記載のとおり、毒物および劇物取締法に規定する毒物であるところ、被告工場では、同法第一一条第二項によつて義務ずけられた必要な措置を講せず、また同法第一五条の二に規定する技術上の基準に違反して昭和七年頃から昭和四一年六月頃まで右毒物を廃棄したものであるから、この点においても過失があつたというべきである(別紙第一準備書面の四、第二準備書面の第二参照)。

(一)被告の企業活動

被告会社の前身である日本窒素肥料株式会社は、明治四一年八月の創業より外国の先端的技術を他社に先がけて買入れこれを企業化し、水俣工場において操業をつづけ、昭和七年には合成醋酸の製造(カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド→醋酸)に成功して、昭和一四年にはその全国需要量の約五六%を供給するに至り、戦後も水俣工場はカーバイド有機合成工場として発展を遂げ、昭和二一年にはアセトアルデヒド工場の同二四年には塩化ビニール工場の運転を再開し、同二五年一月新日本窒素株式会社に改組後、同二七年にはオクタノール(塩化ビニールの可塑剤たるD・O・Pの原料)をアセトアルデヒドから誘導合成することに我が国が初めて成功し、その頃から需要の増大に応じ塩化ビニール及びオクタノール並びにその中間原料たるアセトアルデヒドの工場の増設を繰り返して増産を重ね、市場においても高い占拠率を示し、水俣工場は日本で有数のアセチレン有機合成化学工場としての地位を確立し、同会社は昭和四〇年一月一日チッソ株式会社と改称され現在に至つている。

(二)被告会社の基本姿勢

被告の前記企業活動は、利潤の急速な蓄積を目指して、危険な新技術を相ついで採用するなかでつづけられてきたが、このような利潤優先・人命軽視の基本姿勢は、一方では、直接の生産・利潤につながらない廃液処理等の支出を出し惜しむことによつて、工場外の地域住民に対して水俣病という公害を発生せしめ、他方では、安全衛生設備や安全教育の手を抜くことによつて、工場内の労働者に対し数多くの労働災害や職業病をもたらしている。公害も労働災害も技術的には防止できる。それをさせないのが徹底した利潤優先・人命軽視の基本姿勢である。

被告水俣工場に起つた労働災害を分析してみると、その原因が実は安全・衛生設備の不備、監督不行届、安全教育の欠如、とりもなおさず被告の過失にあることが明白となる。

また、水俣病が偶然に生じたものでないことは、水俣病以外にも被告の工場外に公害の存在することによつても根拠づけられる。大気汚染の他に地域住民の蒙る具体的被害は、硫化礦石焼滓やカーバイドの粉塵による住民の健康破壊・建造物破壊であり、加里変成工場から排出される塩素ガスによる自然や農作物の被害である。工場廃液は水俣港を死の海となし、漁民の生活の基盤を破壊した。

(三)工場廃液の排出

被告会社はその間、前記第二項「因果関係」2(一)1の年次別月産量の推移が示すように、アセトアルデヒドは増産につぐ増産を重ね、右生産工程より生ずる廃液を含む大量の汚悪水を、百間港及び水俣川河口周辺海域に昭和七年頃から同四一年六月頃まで継続的に放出していた。

アセトアルデヒド一トンの生産にあたり、完全に消耗され補給されねばならない水銀量は、五〇〇ないし一、〇〇〇グラムとされ、前記月産量に照らし、例えば昭和二七年において三、一二トンないし六、二四トン、昭和二八年において四、二トンないし八、四トン(以下遂年急増した)の水銀が生産工程外に排出された。

(四) 被告会社は、前記1・2記載の注意義務を怠つたばかりか、当初から水俣工場廃液が疑われていたにも拘らず、原因の究明と危害防止の努力を怠り、昭和三三年九月の水俣川河口への排水路変更後、右河口周辺に新たな患者が続発しても、ここに廃液を流しつづけ、何らの危害防止の手段を講じなかつた。

のみならず被告は、熊本大学水俣奇病研究班を中心とする外部の原因究明の研究に対しても何らの協力をしなかつたばかりか、遂にこれを妨害さえしたのである。

また同工場アドセトアルデヒ醋酸工場廃液の直接投与実験猫四〇〇号に昭和三四年一〇月七日水俣病が発症し、九州大学の遠城寺教授の病理所見でも水俣病に酷似している旨の結果が得られた。

その頃被告会社幹部も右事実を知り、直ちに猫実験を禁止し、工場廃液の採集さえも妨害した。そして被告は厚顔にも実験結果を秘匿し、昭和三四年一一月には熊本大学研究班の研究成果に対する反論書さえ発表し、これを関係先に配布している。その間にも新しい水俣病患者は続出していつた。被告は右実験結果を知つてからも工場廃液を放出し続け、その結果水俣病が相次いで発症したのであるがこれについては故意に近い責任があるものといわなければならない。

右のように被告は、猫実験の結果を知つてからも危害妨止の為の措置を講ずるどころか、これを秘匿して、昭和三四年一二月三〇日をはじめとし七回に及ぶ見舞金契約を原告らと締結した。

四原告らの蒙つた損害

被告の前記不法行為の結果、後記ロの1ないし30の各(二)記載の患者らはいずれも水俣病に罹患(患者認定年月日は別紙〔三〕の表の「認定年月日」欄記載のとおり)し、後記ロの1ないし30の各(一)記載の身分関係にある原告らは後記ロの1ないし30の各(二)・(三)記載の被害を蒙り、その損害として後記ロの1ないし30の各(三)・(四)記載の慰謝料並びに後記ハ記載のとおりの弁護士費用(いずれも別紙〔一〇〕の〔一〕原告別請求・認容額一覧表の「請求額」欄記載の各金額のとおり)を請求するものであるが、右損害額の算定については、次のイに述べる事情が十分に考慮されなければならない。

イ  原告らの損害について

1水俣病は世界最大のまた人類が曾つて蒙つたことのない最も深刻な産業公害である。

被告チッソは、利潤追求のために企業活動をなし、環境ぐるみ人間を破壊してその生命を奪つた。

原告患者家族の被害、苦しみ方は異なつても、水俣病患者家族の要求は共通のものである。何よりも、夫を返せ、妻を返せ、親を返せ、子を返せ、そしてわが手、わが足、わが身体をもとに戻せ、不知火の海、水俣の山川をもとに戻せということにある。水俣病は医学的にも解明されたものとはいい難く、いまだにその治療方法すら確立されていない。汚悪水に犯された患者の細胞は悪化しつつ患者の身体を生涯にわたつて蝕み続けているばかりか、その影響は子々孫々にまでいたることが懸念されている。

失われた生命・健康・生活は決してもとに戻らないという現実をふまえると、患者家族の被告に対する要求は、

① 被告は、被害者らの蒙つた被害をもとに戻すための最大限の努力と措置をとること。

② 右と併行して、被告は、失われたものに対する十分な補償を行なうこと。

③ 医療・生活のすべての面において、被告は、患者・家族の生涯の面倒をみること。

にあるところ、原告らの本訴請求にかかる要求は、右のうち②に該当する極めて限定された範囲のもので、原告らの被害の総体に比するならば、ささやかな要求に過ぎない。

原告ら個人をそれぞれとつてみるならば、その要求の度合も当然違つて然るべきものであるが、しかし集団的裁判という本事件において、原告らは、個々の要求を抑えて最低の線でこれを整理し請求しているのである。従つて個別的なすべての事情は請求のプラス・アルファの問題として評価すべきものなのであり、症状及び日常生活の支障の程度をもとにしたいわゆるランクづけは被害の実態を見るとき適切でない。

2なお、損害額の算定にあたつては、次の諸事情も斟酌されねばならない。即ち、被告会社は利潤追求のために水俣地域社会を支配して、組織的・計画的・継続的に無暴な操業を続け、環境を破壊し、水俣病を発生させ、住民の生活基盤を奪い、その結果地域社会を荒廃させた。被告の行為は昭和電工のそれに優るとも劣らない強度の違法性がある。

3また、いわゆる見舞金契約も、損害額増額の理由にはなり得ても、これを減額すべき斟酌事由たり得ない。蓋し、被告は、被害者らの操業停止の要求にもかかわらず、僅かの見舞金を支払うことによつてその継続を企図し、契約締結時点において、すでに水俣病の原因が工場汚悪水にあることを確知していたのに、これを隠し、右契約の締結によつて、水俣病の紛争が社会的に解決したとして原因究明に対する社会の圧力をそらし、そのまま操業を継続して公害を出し続け、水俣病被害を更に拡大させ、被害者らの苦しみを更に増大させたからである。

4原告らは、身体傷害を受けた患者の祖父母、兄弟姉妹も、その被害者の傷害の程度が死に比肩すべき場合で、同人らが被害者と密接な生活関係にあるときには、民法第七〇九条・七一〇条により固有の慰謝料請求権を有すると解する。

ロ  原告らの身分関係・被害及び損害額

1患者亡渡辺シズエ、患者靏野松代、同渡辺栄一、同渡辺政秋関係

(一) 原告(1)渡辺栄蔵は、昭和四四年二月一九日死亡した渡辺シズエの夫であり、同(2)渡辺保は右栄蔵・シズエ間の長男、同(3)渡辺信太郎は二男、同(4)渡辺三郎は三男、同(5)渡辺大吉は四男、同(6)石田良子は長女、同(7)石田菊子は二女であつて、同(8)渡辺マツは前記保の妻であり、同(9)靏野松代は右保とマツ間の長女、同(10)渡辺栄一は長男、同(11)渡辺政秋は二男である。

(二)① 亡渡辺シズエは、昭和三二年四月頃より手足のしびれと頭痛を訴え始め、同年九月手のしびれ及び頭痛が激しくなり、足がもつれて一人歩きが危い状態となつた。高血圧も併発し同三四年一月には苦痛のため寝たままとなり、同三六年頃から四肢が強直状態となつて屈曲化し寝返りさえできなくなり、四四年二月には流動物しか口に入らなくなり、日々その量も少なくなつて注射のみとなり、発病以来一一年一〇ケ月後の同年同月一九日死亡した。

② 原告靏野松代は、昭和三一年九月二三日(当時六年六月)道路で運動会の練習中突然手足の自由がきかなくなり(膝関節痛)、又視力がほとんどなくなり手がふるえ、その後も視野狭窄及び視力障害、歩行障害、言語障害、知能障害、聴力障害が継続し、最近少々回復に向いつつあるも身体障害者第二種四級の言語障害、視野狭窄、歩行障害等の後遺症が残つている。

③ 原告渡辺栄一は、昭和三一年一一月(当時四年)畑で飛び回つて遊んでいる最中急に口がきけなくなると同時に歩行が困難となり、手の自由を失い、その後も運動失調、言語障害、視野狭窄(障害)、知能障害等が継続し、日常諸動作が拙劣で身体障害者第二種三級の言語障害、知能障害、視力障害等の後遺症が残つている。

④ 原告渡辺政秋は、昭和三三年一一月一〇日生まれたのであるが、生後泣く声を発せず三ケ月になつても首が坐らず手足も硬く、話しかけても片言もしやべらないし時々発作的に痙攣を起していたが、二年後になつてやつと坐ることだけができるようになつた。口も耳も完全に機能を失い、身体障害者第一種二級の両耳聾、完全な言語障害等の後遺症が残つている。

(三)① 亡渡辺シズエは発病当時五六才であつたが、前述のような症状で、且つ死亡する迄約一二年間特にそのうち八年間は寝た切りの状態で苦しみ、廃人同様の生涯を送つて死亡したのであつて、それ等の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告渡辺栄蔵は亡渡辺シズエの相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

また原告渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子はそれぞれ亡渡辺シズエの相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分(六人の子の一人として)によりその九分の一、すなわち二〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 原告渡辺栄蔵は昭和二年一月七日右シズエと結婚以来、三〇年間の永い間仲むつまじい生活を営み、子供は勿論孫の養育にも力を入れて来たところ、右シズエが、昭和三二年四月頃より前述の症状を呈し、一二年間の病苦の末、遂に衰弱死したのであるが、その間真の病因がわからず、凡ゆる治療を尽し、その看病のため心身をすり減らして来たのであつて、その夫としての精神的・肉体的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 原告渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子は母シズエの前記の症状と経過を経て死亡したことによつて、前記の父栄蔵と同様の精神的・肉体的苦痛を蒙つたのであつて、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

⑤ 原告靏野松代は、昭和二五年三月生れの女性であるが、前記の症状が生涯継続すると思われ、又それによつて、将来結婚生活などの希望も失われている。これ等の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、六〇〇万円を要する。

⑥ 原告渡辺栄一は、当年二〇才の男子であるが、前述の症状のため、やつと中学も特殊学級を卒業したのであり、今後も生涯不具者としての生活を余儀なくされているのであつて、これらの精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

⑦ 原告渡辺政秋は、当年一三才の少年であるが、いわゆる胎児性水俣病患者で生来前述の症状であり、そのため聾唖学校に通うはめとなり、今後も生涯右症状が継続すると思われ、完全な不具者としての生活を送らざるを得ないのであつて、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

⑧ 原告渡辺保、同渡辺マツは、右三名の者の父母であつて、同人等が次々に水俣病にかかつて各々前記の状態であるため生きている限り心痛が続くと思われ、それは想像に余りあるものであつて、それに対する精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、松代、栄一につきそれぞれ各自三〇〇万円、政秋につき各自四五〇万円合計金各自一、〇五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告渡辺栄蔵は被告に対し、亡シズエにつき夫としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡シズエから承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告渡辺保は被告に対し、母シズエの死亡及び子たる松代・栄一・政秋の罹患による親としての固有の慰謝料合計一、五〇〇万円(前記(三)の④、⑧)、亡シズエから承継取得した慰謝料債権二〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、七〇〇万円の債権を有する。

③ 原告渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子は被告に対し、各自、子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡シズエから承継取得した慰謝料債権二〇〇万円(同(三)の②)の総計である金六五〇万円の債権をそれぞれ有する。

④ 原告渡辺マツは被告に対し、子たる松代・栄一・政秋の罹患による母としての固有の慰謝料債権総計金一、〇五〇万円を有する(同(三)の⑧)。

⑤ 原告靏野松代は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、六〇〇万円の債権を有する(同(三)の⑤)。

⑥ 原告渡辺栄一は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(同(三)の⑥)。

⑦ 原告渡辺政秋は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の⑦)。

2 患者亡釜鶴松関係

(一) 原告(12)釜トメオは、昭和三五年一〇月一二日死亡した釜鶴松の妻であり、同(13)釜時良は右両名間の長男である。

(二) 亡釜鶴松は、昭和三四年六月上旬頃から口唇及び手足がしびれ、視力障害の症状を呈して言葉も出なくなり、同年一二月二三日水俣市立病院に入院したがその当時には全身不随、失明言語不能と悪化し、発作時には叫声を発しながらのたうちまわり、遂には発病以来一年五ケ月後の昭和三五年一〇月一二日狂躁状態のうちに死亡した。

(三)① 亡釜鶴松は突如として前記の病状を呈し、その後一年五ケ月もの間苦しみ続けた挙句狂い死にしたのであつて、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告釜トメオは、右鶴松の妻であり昭和一三年六月二九日以来二〇年間平和な生活を送つて来たのであるが、亡夫が突如として前述の症状を呈してその後一年五ケ月の間苦しんだ上、狂躁状態のうちに死亡したのであるが、一家の支柱を失い経済的にも窮地に追込まれて苦労したのであつて、その苦痛は想像に余りあり、その妻の固有の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

③ 原告釜時良は亡釜鶴松の一人子であるが、同人が前記の症状になつて死亡したことによつて、前記の母同様の苦しみを味わつたのであつて、その子としての精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

④ 原告釜トメオは亡釜鶴松の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

原告釜時良は亡釜鶴松の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の二、すなわち一、二〇〇万円の債権を承継取得した。

(四) そこで、

① 原告釜トメオは被告に対し、

亡鶴松につき妻としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の②)、

亡鶴松から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の④)

の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告釜時良は被告に対し、

亡鶴松につき子としての固有の慰謝料四五〇万円(同(三)の③)、

亡鶴松から承継取得した慰謝料債権一、二〇〇万円(同(二)の④)

の総計である金一、六五〇万円の債権を有する。

3 患者浜田シズエ、同浜田良次関係

(一) 原告(14)浜田義行と同(15)浜田シズエは夫婦であり、同(16)山下よし子は右両名間の長女、同(17)浜田義一は長男、同(18)浜田ひろ子は二女、同(19)浜田良次は二男であつて、同(20)白川タミは前記シズエの母である。

(二)① 原告浜田シズエは、昭和三三年春頃から両手がしびれだし、体がきつく、頭がふらついたり、がんがんしたりしていた。ミカン畑の作業をしていると手がきかなくなり、作業は普通人の半分以下しかできない。右症状は軽快せず、水俣病で苦しんでいる。昭和三四年一〇月二三日には、胎児性水俣病の子供を出産した。

② 原告浜田良次は昭和三四年一〇月二三日出産したが、生後八ケ月になつても首が坐らず、話しかけても聞えるのか聞えないのかにつこりともしないで、この子には魂があるのだろうかと言われた。松本医院の精密検査の結果でもはつきりせず、視野が狭いのかも知れない、又難聴のようでもあると言われた。その後小学校の入学通知を受けた時になつてやつと二・三歩歩けるようになり、昭和四二年頃から少し家の中程度は歩ける様になつたが、現在も身体障害者第一種二級の言語障害(パパ、ママ程度)、聴力障害、視野狭窄、及び視力障害、高度の失調性歩行、知能障害(二才程度)の後遺症を残している。

(三)① 原告浜田シズエは前記(二)の①記載の症状が生涯継続すると思われ、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、六〇〇万円を要する。

② 原告浜田義行は、妻シズエの右症状によつてうけた精神的・肉体的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

③ 原告山下よし子、同浜田義一、同浜田ひろ子、同浜田良次は、母シズエの右症状により受けた精神的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

④ 原告白川タミは右シズエの母であるが、右シズエの前記症状により受けた精神的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

⑤ 原告浜田良次は当年一二才の少年であるが、いわゆる胎児性水俣病患者として、前記の症状に苦しみ、生涯完全な不具者としての生活を送らざるを得ない状況であつて、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

⑥ 原告浜田義行、同浜田シズエは、わが子良次が生来前記の症状であり、それが生涯にわたつて継続するであろうことは必至と思われ、それに対する親として心痛は測り知れないのであつて、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも各自金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告浜田義行は被告に対し、妻たるシズエ及び子たる良次の罹患による慰謝料総計金九〇〇万円の債権を有する(前記(三)の②⑥)。

② 原告浜田シズエは被告に対し、本人固有の慰謝料一、六〇〇万円(同(三)の①)、子たる良次の罹患による親としての慰謝料四五〇万円(前記(三)の⑥)の総計である金二、〇五〇万円の債権を有する。

③ 原告山下よし子、同浜田義一、同浜田ひろ子は被告に対し、各自、親たるシズエの罹患による子としの慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の③)。

④ 原告浜田良次は被告に対し、本人固有の慰謝料一、八〇〇万円(同(三)の⑤)、親たるシズエの罹患による子としての慰謝料三〇〇万円(同(三)の③)の総計である金二、一〇〇万円の債権を有する。

⑤ 原告白川タミは被告に対し、子たるシズエの罹患による親としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の④)。

4 患者牛嶋直関係

(一) 原告(21)牛嶋直と同(22)牛嶋フミは夫婦である。

(二) 原告牛嶋直は、昭和三一年二月頃水俣病に罹り、同三三年五月、両下肢の震え、舌の痺れ、歩行不能の症状を呈し、その後翌三四年六月まで和田病院で治療を受けたがよくならず、同年七月頃から翌三五年七月頃までは市川病院にて治療を受けた。更に同年一〇月より翌三六年四月までは右病院に入院治療を受け、昭和四〇年二月より翌年四一年四月までの間、及び昭和四二年二月より同年八月まで湯之児病院にて入院治療を受けた。その後も右原告はなお一日おきに市川病院の往診を受けている。

(三) 原告牛嶋直は発病前雑貨店を経営していたが、右発病により仕入れも出来ず、店は閉店休業状態となり原告夫婦は、着物の売食いによつて生活を維持せざるを得なかつた。しかも原告直はなるべく休養をとる必要がある為、規模の半減したままの雑貨店の経営は、主としてその妻フミが行なつている。右原告が発病したのは、六〇才を越えてからの事であり、以後一〇数年安かるべき老後の生活を破壊されたことによる苦痛は非常に大きなものである。これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

原告牛嶋フミは、右発病により歩行不能となつた夫直の看護につきつきりとなり、看護疲れから原告牛嶋フミ自身も病にたおれ市川病院の往診を受ける身となり、しかも右フミの往診料、薬代、注射代は現金払いである為、生活は苦しく、安楽たるべき老後の生活は無惨にも破壊された。その為原告牛嶋フミの受けた苦痛は莫大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告牛嶋直は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(前記(三)前段)。

② 原告牛嶋フミは被告に対し、夫直の罹患による妻としての慰藉料金四五〇万円の債権を有する(同(三)後段)。

5 患者亡杉本進、患者杉本トシ関係

(一) 原告(23)杉本トシは、昭和四四年七月二九日死亡した杉本進の妻であり、同(24)杉本栄子は昭和二〇年四月一七日右両名の養女となり、同(25)杉本雄は昭和三五年八月二九日右栄子と結婚すると同時に前記トシ、亡進両名の養子となつた。また原告(26)鴨川シメは前記トシの母である。

(二)① 亡杉本進について

亡杉本進は昭和三四年一〇月頃から手が震える様になり、その後、痙攣と発熱が続き病名が判らなかつたが、昭和三六年八月七日水俣市立病院に入院し水俣病と認定された。

毎日午前一〇時と午後三時に注射をうつと、痙攣と発熱とで悶絶する程の苦しみが続いた。昭和三八年四月頃になると目がみえなくなり、小便をもらし歩行もできず、想像を絶する苦しみが続き、親類がつききりで看護した。

退院と入院を数回繰返えしたが、昭和四四年七月二九日前記病院にて死亡した。

② 杉本トシについて

原告杉本トシは亡杉本進の妻であるが、昭和三三年三月頃から手が震える様になり、舌がただれ発声に困難をきたす様になつた。そこで昭和三四年八月水俣市立病院に入院した。その後腕脚の痙攣が続き、味覚がほとんど消失して食欲がなくなり、精神的打撃の為毎日泣いてばかりいた。昭和三六年一月同病院を退院したが、同年六月湯之児病院に入院し九月退院した。これらの間、後頭部に穴があいている様な感じがし、又羞恥心もなくなつていた。昭和三六年九月以降、市川病院にかかり往診治療を受けている。現在日向に出ると頭痛がする。また貧血状態になつたり眩暈を起したりする事が多い。言葉を普通に話せず、また指先を使う仕事は出来ない。手に持つた湯呑み茶腕も再三落す状態である。

(三)① 亡杉本進は前記(二)の①記載の如く死亡したものであり、その受けた精神的・肉体的苦痛は筆舌につくし難い。

よつてその精神的損害を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

また亡杉本進は生前、妻トシの前記病気によつて精神的打撃を受けた。

これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

② 原告トシは前記のとおりの病状であつて、その為に受ける精神的苦痛は甚大である。

よつてその精神的損害を慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

また原告トシは夫進を前記の如く失つたものであり、その精神的損害を慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

原告杉本トシは亡杉本進の相続人として、同人の被告に対する前記①記載の合計二、二五〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち七五〇万円の債権を承継取得した。

③ 原告杉本雄及び同栄子は、右進及びトシの養子であるが、進の死亡及びトシの発病により多大の精神的打撃を受けた。これを慰謝するためには、少なくとも亡進につき各金四五〇万円、トシにつき各金三〇〇万円を要する。

原告杉本栄子、同杉本雄はそれぞれ亡杉本進の相続人として、同人の被告に対する前記①記載の合計二、二五〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち七五〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

④ 原告鴨川シメは、その子トシの前記水俣病罹患により精神的打撃を受けた。

これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告杉本トシは被告に対し、本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(前記(三)の②)、亡進につき妻としての固有の慰謝料六〇〇万円(同(三)の②)、亡進から承継取得した慰謝料債権合計七五〇万円(同(三)の②)の総計である金三、〇五〇万円の債権を有する。

② 原告杉本栄子、同杉本雄は被告に対し、各自、父進の死亡及び母たるトシの罹患による子としての固有の慰謝料合計七五〇万円(同(三)の③)、亡進から承継取得した慰謝料債権合計七五〇万円(同(三)の③)の総計である金一、五〇〇万円の債権をそれぞれ有する。

③ 原告鴨川シメは被告に対し、トシの罹患による親としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の④)。

6 患者亡渕上洋子関係

(一) 原告(27)渕上才蔵と同(28)渕上フミ子は夫婦であり、昭和三二年七月一一日死亡した渕上洋子は右両名間の二女である。

(二) 亡渕上洋子は昭和二九年一月一八日生まれたが、昭和三〇年三月頃(生後一年二月位)から腕や脚が麻痺している様な症状を呈し、翌三一年五月頃(生後二年四月位)から水俣病の症状も明確となり、二米歩いてはすぐ転ぶ様になり、以後段々手脚が曲がり言語が不明瞭となり、ただ「オーオー」と言うだけで他に意思表示もなく、目は見えなくなり、耳も聞こえず、よだれを流し、身体を痙攣させ、市川病院より往診二回通院三六回の治療を受けたがよくならず、半年あまり苦しみ続け、ついに昭和三二年七月一一日(生後三年六月)水俣病により死亡した。

(三)① 亡渕上洋子は、前記のとおり幼くして死亡したもので、その悲惨な経過による苦痛は非常に大きかつたものといわねばならない。これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告渕上才蔵及び同渕上フミ子は、右のとおり愛児洋子を悲惨な経過のもとに失つたものであり、この間原告才蔵は出稼ぎ地域も限られ、原告フミ子の看病のため収入ある仕事につけず、他に幼い子供四人を抱え生活は窮乏した。その苦痛は非常に大であり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

③ 原告渕上才蔵、同渕上フミ子はそれぞれ亡渕上洋子の相続人として、同人の被告に対する前記①一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

① 原告渕上才蔵、同渕上フミ子は被告に対し、各自、子たる洋子の死亡による親としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の②)、亡洋子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の③)の総計である金一、三五〇万円の債権をそれぞれ有する。

7 患者亡松田フミ子、患者松田富次関係

(一) 原告(29)松田ケサキクは、昭和三五年五月一〇日死亡した松田勘次の妻であり、昭和三一年九月三日死亡した松田フミ子は右両名間の長女、同(30)松田冨美は長男、同(31))松田末男は二男、同(32)松田富次は三男、同(33)永田タエ子は二女、同(34)中岡ユキ子は三女である。

(二)① 亡松田フミ子は、昭和三一年七月一三日頃(当時二八年)から両側手指にしびれた感を覚え、口唇がしびれ、耳が遠くなり、草履がうまくはけず、歩行は動揺性、その他言語障害振戦の症状も現われ、八月に入ると歩行困難、意識障害の症状を呈し、時には犬吠様の叫声を発し、全くの狂躁状態となつた。

次いで同月下旬には、栄養極度に衰え、意識消失、昼夜の別なく、約一分間隔で苦悶の顔面を硬直させ、口を大きくあけて犬吠様の叫声を発し、又その間は四肢は絶えず激しく動かし、遂には、発病以来五二日目の同年九月三日死亡した。

② 原告松田富次は、昭和三〇年五月(当時五年)より失明に近い視力障害、出歩きができない程度の歩行障害、五円と十円の硬貨が識別できない様な知覚障害等を来たし、同時に尾田病院、市川病院にそれぞれ通院加療したが、その後も病状が悪化し、同三一年八月には、失明、歩行は二才児以下、右半身不随となり、現在身体障害者第一種一級の視力障害、全盲、言語障害、失調性歩行痙直性の後遺症を残している。

(三)① 亡松田フミ子は、発病当時二八才の将来を夢見る独身女性であり、家業の漁業、六名の弟妹をかかえる家庭の家事手伝い等一家の柱的存在であつたが、前記のいわゆる急性劇症型の症状で一ケ月半も苦しみつづけて狂い死んだので、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告松田富次は、前記の様な症状で廃人同様であり今後も、回復する見込みは全くなく、生涯完全に社会から疎外された状態で過すであろうと思われ、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

③ 原告松田ケサキク及び亡松田勘次(昭和三五年死亡)は(亡勘次は生前)、亡フミ子(昭和三一年九月三日死亡)・富次の父母であるが、一家から子供を二人まで水俣病におそわれ、うちフミ子は死亡、末子の富次は生ける屍同様となり、多数の子供をかかえていた一家は治療費や看病等でどん底の生活に陥り、辛酸な生活を余儀なくされて物心両面に打撃を受け、又富次については、現在も母が近くに居なければ、危険であり、今後もそれが続くであろうことは必至であつて、それ等の者の親として、その苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも亡フミ子につき各四五〇万円、富次につき各四五〇万円合計各金九〇〇万円を要する。

④ 原告松田ケサキク及び亡松田勘次(亡フミ子死亡時は生存していた)は、それぞれ亡フミ子の相続人として、同人の被告に対する前記①記載の一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち各自九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

⑤ 亡松田勘次は、その後昭和三五年五月一〇日死亡したが、同日現在被告に対して、前記③・④記載の債権の合計金額である一、八〇〇万円の債権を有していた。

⑥ 原告松田ケサキクは亡松田勘次の相続人として、同人の被告に対する前記⑤記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

⑦ 原告松田冨美、同松田末男、同松田富次、同永田タエ子、同中岡ユキ子はいずれも亡松田勘次の相続人として、同人の被告に対する前記⑤記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定(五人の子の一人として)の相続分によりその一五分の二、すなわち二四〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

① 原告松田ケサキクは被告に対し、亡子フミ子の死亡及び子たる富次の罹患による母としての固有の慰謝料合計金九〇〇万円(前記(三)③)、亡フミ子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の④)、亡勘次から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の⑥)の総計である金二、四〇〇万円の債権を有する。

② 原告松田富次は被告に対し、本人固有の慰謝料一、八〇〇万円(同(三)の②)、亡勘次から承継取得した慰謝料債権合計二四〇万円(同(三)の⑦)の総計である金二、〇四〇万円の債権を有する。

③ 原告松田冨美、同松田末男、同永田タエ子、同中岡ユキ子は、各自、亡勘次から承継取得した慰謝料債権金二四〇万円を有する(同(三)の⑦)。

8 患者亡坂本キヨ子関係

(一) 原告(35)坂本嘉吉と同(36)坂本トキノは夫婦であり、昭和三三年七月二七日死亡した坂本キヨ子は右両名間の二女である。

(二) 亡坂本キヨ子は生来健康であつたが、昭和二九年頃口及び手足が不自由となり、その後病状悪化して一人にしておくことが危険な状態となり、同三〇年一二月には一人では寝返りさえできなくなると同時に一時的発作が起り、その後発作の間合が短くなつて行き、それに伴つて感情のたかぶりが強くなり、同三二年になると全身硬直状態となり、同三三年には全身に痙攣が生ずるようになつて同年七月二七日死亡した。

(三)① 亡坂本キヨ子は、発病当時二四才の将来を夢見る独身女性で、水俣営林署に常雇いとして勤務していたのであるが、前記のようないわゆる慢性刺激強直型の症状で、五年間も苦しみ続けた上遂には悶死したので、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告坂本嘉吉、同トキノは、娘キヨ子が発病し、死に至るまでの間つききりで看病し、遂には同女が悶死したのであつて、七名の子供をかかえた家庭の柱ともなつていた同女を失い、治療費等の出費も加わつて、経済的にも窮乏生活を余儀なくされたので、それらに対する親としての固有の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

③ 原告坂本嘉吉、同坂本トキノはそれぞれ亡坂本キヨ子の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

原告坂本嘉吉、同坂本トキノは被告に対し、各自、子たるキヨ子の死亡による固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の②)、亡キヨ子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の③)の総計である金一、三五〇万円の債権をそれぞれ有する

9 患者亡坂本真由美、患者坂本しのぶ関係

(一) 原告(37)坂本武義と同(38)坂本フジエは夫婦であり、昭和三三年一月三日死亡した坂本真由美は右両名間の長女、同(39)坂本しのぶは二女である。

(二)① 亡坂本真由美は、昭和三一年六月上旬(当時二年一〇月)足が不自由となり、七月には握力及び視力の減退、歩行及び言語障害の症状を来たし、八月には失明、痴呆、四肢硬直、流涎、嚥下障害の症状となつて発作が激しくなり、遂には発病以来一年六ケ月後の昭和三三年一月三日死亡した。

② 原告坂本しのぶは、昭和三一年七月二〇日生まれたが、同三二年三月になつても首が坐らず、手足が不自由で、同三六年一二月頃よりやつと一人で立つて歩き始めたが、視野狭窄(高度で顔面をゆがめてしか物を見ることができない)、言語障害、歩行不完全(ヨタヨタ歩き)、知能障害(五才程度)の各症状を来たし、同三二年以降市川医院、市立病院に入院又は通院したが、現在も前記の障害が継続し身体障害者第二種第二級(尚現在はその程度が相当高い)の言語障害、運動失調、知覚障害等の後遺症を残している。

(三)① 亡坂本真由美は、発病当時二年一〇月の幼児であつたが、昭和三三年一月三日迄の一年六ケ月の間前記症状に苦しみつづけた上狂い死にしたので、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要求する。

② 原告坂本しのぶは、いわゆる胎児性水俣病患者であり、前記症状で今後も完全な不具者として不自由な生涯を送るであろうと思われ、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

③ 原告坂本武義・同フジエは、幼な児が、一人は、前記の症状で叫声を発しながら泣き死にし、今一人は、出生以来完全な不具者であり、今後も前記の後遺症に悩まされ続けるであろうから、それ等の者の親としての苦痛は想像にあまりあるのであり、それ等の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも亡真由美につき各自四五〇万円、しのぶにつき各自四五〇万円、合計各金九〇〇万円を要する。

④ 原告坂本武義、同坂本フジエはそれぞれ亡坂本真由美の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで

① 原告坂本武義、同坂本フジエは被告に対し、各自、子たる真由美の死亡及び同しのぶの罹患による親としての固有の慰謝料合計九〇〇万円(前記(三)の③)、亡真由美から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の④)の総計である金一、八〇〇万円の債権をそれぞれ有する。

② 原告坂本しのぶは被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

10 患者坂本タカエ関係

(一) 原告(40)坂本タカエは、昭和一八年二月一三日同(41))坂本ミキの養女となり、同(42)坂本敦子は右タカエの子である。

(二) 原告坂本タカエは、昭和三一年五月一八日手足が不自由(御飯をとばす、トパトパ歩く)となり耳は遠くなり、その上高度の言語障害及び視野狭窄を来たし、同年八月三日以降水俣市立病院、熊本大学医学部附属病院に入院・通院して治療を続けたが、現在も身体障害者第一種二級の四肢運動失調、高度視野狭窄の後遺症を残している。

(三)① 原告坂本タカエは発病当時一七才であり、その後婚約をし、一子までなしたが、前記症状のため結婚に迄は至らず、今後も結婚することは困難な状況にあり、又前記後遺症は生涯継続するであろうから、それ等の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

② 原告坂本ミキは右タカエの養母であるが、同女が前記の症状で苦しみ、その上子供迄生まれたのに結婚も駄目になり、今後共同女の看病等に心身を労せざるを得ないのであつて、それ等に対する精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

③ 原告坂本敦子は、母タカエが水俣病にかかり、その為に婚約中の実父中村正一と結婚ができなくなり、両親揃つた家庭の一員として幸せに過せることも不可能となつたのであつて、それ等に対する子としての精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告坂本タカエは被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(前記(三)の①)。

② 原告坂本ミキ、同坂本敦子は被告に対し、各自、タカエの罹患による親又は子としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の②③)。

11 患者岩本昭則関係

(一) 原告(43)岩本栄作と同(44)岩本マツエは夫婦であり、同(45)岩本昭則は右両名間の三男である。

(二) 原告岩本昭則は、昭和三一年八月一八日(当時満五才)手足の運動が不自由になり、言語障害を来たし、被告会社付属病院に入院したが、病状はよくならず、ついに昭和三三年四月から同四四年四月まで水俣市立病院に入院治療を受け退院したが、視力障害軽度協調運動障害の後遺症を残している。

(三)① 原告岩本昭則は五才にして水俣病にかかり、そのため昭和三二年四月(満六才)に小学校に入学すべきところ就学ができず、一年おくれて昭和三三年四月水俣市立病院入院ととともに病院から小学校および中学校に通学し、不自由な身体をおして義務教育を終つた次第であつて、その間精神的苦痛および前記後遺症による稼働能力の減少と生活上の不自由による不利益から受ける精神的・肉体的苦痛は甚大なものがあり、これらを慰謝するには、少なくとも金一、六〇〇万円を要する。

② 原告岩本栄作および同岩本マツエは原告昭則の父母であるところ、右昭則が五才にして水俣病にかかり、小・中学校は病院から通学するという状態で、その看護の労は一方ならず、あわせて身体不自由児をかかえての精神的苦痛も多大なものがあつたので、これらを慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告岩本栄作、同岩本マツエは被告に対し、各自、子たる昭則が罹患したことによる親としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(前記(三)の②)。

② 原告岩本昭則は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、六〇〇万円の債権を有する(同(三)の①)。

12 患者上村智子関係

(一) 原告(46)上村好男と同(47)上村良子は夫婦であり、同(48)上村智子は右両名間の長女である。

(二) 原告上村智子は、昭和三一年六月一三日出生したが、いわゆる胎児性水俣病に罹患し、生後三日目から痙攣を起し不眠を伴い、その後の病状は悲惨を極め口もきけず目も見えず耳もほとんど聞こえず、感覚、意識すらもつていない、生ける屍さながらである。歩行は勿論不能で、そもそも手足をはじめ体全体が屈曲しない。生まれ出てから今日まで病臥したまま寝返り一つできない。大小便はたれ流しで現在までおむつをつけている始末で、食事も口をあけて流し込んでもらい、これに要する時間は四〇分ないし一時間を要する状態である。

(三)① 原告上村智子のこの悲惨な病状は回復不能であり、生ける屍のままで一生を終らなければならない運命にある。その肉体的・精神的苦痛は言語に絶するものがあり、金銭では到底評価し得ないものであるが、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告上村好男・上村良子は、右智子の父母であるが、右智子発病のため心血をそそいで看護に当たつてきた。あるいは山羊を飼つてその乳を与え、野菜の汁を飲ませ、おも湯も毎日つくつた。夜は、両親のいずれかが毎晩抱いて寝かせている。原告上村良子は発病以来一〇数年間つきつきりで看護に当つている。原告らのこの惨たんたんたる苦しみは原告智子がこの世を去るまで続くものである。この胎児性水俣病の子をもつた原告好男・同良子の苦痛はまことに絶大なるものであり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告上村好男、同上村良子は被告に対し、各自、子たる智子の罹患による親としての慰謝料金四五〇万円の債権をそれぞれ有する(前記(三)の②)。

② 原告上村智子は、被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の①)。

13 患者亡浜元惣八、同亡浜元マツ、患者浜元二徳関係

(一) 原告(49)浜元一正は、昭和三一年一〇月五日死亡した浜元惚八と同三四年九月七日死亡した浜元マツ間の長男、同(50)田中一徳は二男、同(51)浜元二徳は三男、同(52)原田カヤノは長女、同(53)浜元フミヨは四女、同(54)藤田ハスヨは五女であり、同(55)浜元ハルエは前記二徳の妻である。

(二)① 亡浜元惣八は元来健康体であつたが、昭和三一年八月頃から疲労感をおぼえ毎日昼寝するようになり、あるいは耳鳴りがして、難聴、手足のしびれ、言語障害をきたし、次第に歩行不能となり、同年九月頃からは、叫声を発し、手足はたえず激しく動かしてあばれ廻るために、体を帯でベッドにしばりつけてもこの帯が切れるありさまであつた。食事は、四、五人がかりで体を押さえつけて鼻孔から栄養剤を注入したが、死亡前一週間はこれも不能となり、昭和三一年一〇月五日半狂乱の状態のうちに死亡するに至つた。

② 亡浜元マツは、元来健康体であつたが、昭和三一年九月一〇日頃手指がしびれ、程なくしびれは全身に及び、やがて歩行困難、言語障害、難聴をきたし、同月下旬頃からは、坐位を保ち得ず、病院のベッドに臥したまま、食事も自分ではできなくなり、精神障害も加わり、抑うつ状態で啼涙していた。ついで昭和三二年三月頃から、両側前膊背側および手指に筋萎縮が起るとともに、手は伸びたまま、足は曲つたまま硬直状態を呈し、自他動運動は不能となりさらには浮腫も加わり、あたかも生ける人形のような状態になり昭和三四年九月七日死亡するに至つた。

③ 原告浜元二徳は、元来健康体であつたが、昭和三〇年七月手足がしびれ、特に両足の麻痺が強く歩行困難となり、ついで言語障害、視野狭窄、難聴、書字障害等をきたし、昭和三九年頃からは腰痛も伴ない、現在歩行が極めて困難で日常生活にも多大の支障をきたし労働不能状態にある。

(三)① 亡浜元惣八は、前(二)①記載のように激烈な苦痛にさいなまれ、水俣病特有の半狂乱の状態で死亡した。その受けた精神的・肉体的苦痛はまことに甚大なものがあるが、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要し、また生前は、妻マツ及び息子二徳が前(二)②③記載のとおり水俣病に罹患したことにより精神的打撃を受けたので、妻マツの罹患により受けた苦痛を慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要し、息子二徳の罹患により受けた苦痛を慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要するので、その慰謝料総計は金二、七〇〇万円となる。

② 亡浜元マツは前(二)②記載のとおりの症状のもとに多大の苦痛をなめて死亡した。その精神的・肉体的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要し、また、夫惣八が前(二)①記載のように水俣病特有の症状を呈し、半狂乱の状態のなかで死亡し、さらには、息子二徳が前(二)③記載のように水俣病に罹患し、一家に親子三人の患者を出し、このため一家の生業であつた漁業も放棄せざるを得なくなつたのみか、治療費・生活費捻出のために漁具その他の財産を売却し、極度の貧困に陥り、その生活は惨々たるものがあつた。浜元マツは自らも水俣病で病床にあえぎながら夫惣八の死に遭遇し、さらにわが子二徳の最悪の事態をも案じ、日夜筆舌に尽し難い苦痛にさいなまれた。

この精神的苦痛はまことに甚大なものがあり、右マツが夫浜元惣八の罹患死亡により受けた苦痛に対する慰謝料は六〇〇万円、わが子浜元二徳の罹患により受けた苦痛を慰謝するためには、少なくとも三〇〇万円を要するので、その慰謝料総額は金二、七〇〇万となる。

③ 原告浜元二徳は前(二)③記載のように極度の歩行困難を主とする各症状のため、労働不能はもとより日常生活にも多大の支障をきたし、その肉体的・精神的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

④ また原告浜元フミヨは両親の死亡後もひきつづき、長姉として両親にかわつて、弟二徳の看護をつづけ、一家の柱として生活を支えてきたが、世間の水俣病患者に対する白眼視のなかで結婚できず、未だに独身の淋しさに耐えている。原告フミヨの精神的苦痛は甚大なものがあり、患者二徳につき姉としての慰謝料は金三〇〇万円を要する。

⑤ 原告浜元一正、同田中一徳、同浜元二徳、同原田カヤノ、同浜元フミヨ、同藤田ハスヨは、他の一名の兄弟とともに亡惣八の相続人として、また亡マツ(同人は亡惣八の相続人でもあつた。)の相続人として、前記①②記載の各債権を、別紙〔一〇〕の〔一〕原告別請求・認容額一覧表の請求額欄の各「慰謝料内訳」欄括弧書記載の事由により同内訳欄記載の金額のとおり、いずれも民法所定の相続分(七人の子の一人として)によりその七分の一をそれぞれ承継取得したところ、右①②の債権の合計額より承継取得した債権の合計は、各自七七一万四、二八一円である。

⑥ 原告浜元一正、同田中一徳、同浜元二徳、同原田カヤノ、同浜元フミヨおよび藤田ハスヨは、前記亡浜元惣八、同浜元マツの子であつたところ、前記のように右惣八、マツの水俣病罹患、死亡により両親を失い、家業の漁業はできなくなり、その治療費・生活費捻出のために漁具その他の財産を売却し、極度の貧困に陥り、多大の苦しみを味わつた。右各原告らの精神的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも亡惣八につき各四五〇万円、亡マツにつき各四五〇万円、合計各金九〇〇万円を要する。

⑦ 原告浜元ハルエは、夫二徳が水俣病に罹患して極度の歩行困難を主とする各症状のため、労働不能はもとより日常生活にも多大の支障をきたしていることから、日夜右二徳の身を案じ絶えず不安にさらされ、その心痛は甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告浜元一正、同田中一徳、同原田カヤノ、同藤田ハスヨは、それぞれ、被告に対し、相続した慰謝料債権合計七七一万四、二八一円(前記(三)の⑤)及び両親に関する固有の慰謝料合計九〇〇万円(同(三)の⑥)の総計である金一、六七一万四、二八一円の債権を有する。

② 原告浜元フミヨは被告に対し、右①記載の事由による合計一、六七一万四、二八一円及び患者二徳につき姉としての固有の慰謝料三〇〇万円(前記(三)の④)の総計である金一、九七一万四、二八一円の債権を有する。

③ 原告浜元二徳は被告に対し、右①記載の事由による合計一、六七一万四、二八一円及び本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(前記(三)の③)の総計である金三、三七一万四、二八一円の債権を有する。

④ 原告浜元ハルエは被告に対して、患者二徳につき妻としての固有の慰謝料金四五〇万円(前記(三)の⑦)の債権を有する。

14 患者亡溝口トヨ子関係

(一) 原告(56)溝口忠明と同(57)溝口マスエは夫婦であり、昭和三一年三月一五日死亡した溝口トヨ子は右両名間の三女である。

(二) 亡溝口トヨ子は、昭和二八年一二月一日食事中箸を落し、よだれを流し始めた。その後後頭部痛を訴え、満足に坐位を保つことができなくなるとともに大小便はたれ流し、仮死状態を伴なう痙攣を起し、翌二九年一一月頃からは食事も充分とれなくなり、不眠を伴い次第に体の自由を失つて、昭和三〇年には、病臥したままとなり、食事は口をあけて流動食を流し込んでもらい、痙攣発作は激しさを加え、その都度手足を畳ですりむいて出血しその際は仮死状態となり、言語に絶する苦しみのうちに昭和三一年三月一五日満八才で死亡するに至つた。

(三)① 亡溝口トヨ子は前記症状を呈し激烈なる苦痛にさいなまれて満八才の幼い生命を絶つた。この精神的・肉体的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告溝口忠明、同溝口マスエはそれぞれ亡溝口トヨ子の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 右亡トヨ子発病以来原告忠明、同マスエは一家を挙げて看護に当たり、特に右マスエはトヨ子死亡までつきつきりで看護に当つた。原告忠明の収入のほとんどを治療費等に当てても足らず、なお相当の借金をして治療に当てたが、この悲惨な水俣病の病魔は遂に幼いわが子の生命を奪つてしまつた。

右のとおりわが子を失つた原告らの精神的・肉体的苦痛は甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

原告溝口忠明、同溝口マスエは被告に対し、各自、トヨ子の死亡による親としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の③)、亡トヨ子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、三五〇万円の債権をそれぞれ有する。

15 患者田上義春関係

(一) 原告(58)田上義春と同(59)田上京子は夫婦であり、同(60)田上由里は右両名間の長女、同(61)田上里加は次女であつて、同(62)千々岩ツヤは前記義春の実母である。

(二) 原告田上義春は、昭和三一年七月初旬水俣病にかかり、視野狭窄、手足唇の麻痺、言語障害、運動失調等の症状を持続している。

(三)① 原告田上義春は水俣病発病以来前記症状に苦しみ、発作的に狂躁状態となり親兄弟を刃物をもつて追いまわし、周囲の人が恐れて寄りつかぬことも度々あつた。原告田上義春の家の職業は精米製麺米販売であり、同人は運送業自営のかたわら家業の手伝をしていたものであるが、水俣病治療費調達のため土地家屋精米機製麺機一切を売り払い、生活はどん底に陥つた。一方症状は熊大付属病院、市川病院、水俣市立病院における治療によつて幾分軽快したので、昭和三八年七月から水俣市森岡建設に入社、昭和四三年四月チッソ開発株式会社に転じたが、一日中働けば心身が疲れはて、神経を使う仕事、指先を使う仕事は全然不可能であり、出勤も継続できず、生計のため無理な稼働をして神経をいらだたせている状況である。以上の事情による精神的・肉体的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

② 原告千々岩ツヤは原告田上義春の母であるところ、原告田上義春の水俣病罹患によつて家業は止めざるを得なくなり、生活は貧困化し、前記症状を呈する原告田上義春の看護に心身を労した。その精神的・肉体的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

③ 原告田上京子は原告田上義春の妻であるところ、前記症状を呈して怒りつぽくなつた夫との共同生活には生活上または精神的に甚大な苦労があり、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

④ 原告田上由里および同田上里加は原告田上義春のそれぞれ長女および二女であるところ、父である原告田上義春の前記症状のため同人から幼児としては辛い扱いをうけ、家庭は暗く精神的苦痛は一方ならぬものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告田上義春は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(前記(三)の①)。

② 原告田上京子は被告に対し、夫義春の罹患による妻としての慰謝料金四五〇万円の債権を有する(同(三)の③)。

③ 原告田上由里、同田上里加は被告に対し、各自親たる義春の罹患による子としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する。(同(三)の④)。

④ 原告千々岩ツヤは被告に対し、子たる義春の罹患による親としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

16 患者坂本マスヲ関係

(一) 原告(63)坂本マスヲと同(64)坂本実は夫婦であり、同(65)坂本輝喜は右両名間の長男であつて、同(66)緒方新蔵は右マスヲの兄である。

訴外亡緒方リツは亡夫清市との間に長女ハツエ、次女アキエ(二才で死亡)、三女原告マスヲ、長男原告新蔵の四子を得たが、夫清市は右リツの死亡(昭和四五年一一月二八日)前に既に死亡している。

(二) 原告坂本マスヲは昭和三一年七月頃から水俣病に罹患し、当初全身脱力感、手足の麻痺、物忘れ瀕発等の症状があつたが、昭和三二年はじめ頃から痙攣が出はじめ、現在視野狭窄、歩行困難、手足の麻痺、言語障害の症状があり、一寸したことに昂奮し精神錯乱を起す状態にある。

(三)① 原告坂本マスヲは前記症状のため一家の主婦でありながら、その任務を果すことができず、平常ほとんど病臥している状態で、自己に対する治療看護のため一家は貧困化し、これに激烈な病苦も加わつてその精神的・肉体的苦痛は言語に絶するものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

② 原告坂本実は妻マスヲが前記病状であるので、その治療看護のため生業の漁業もほとんどできなくなり、マスヲの前記症状に対する周囲の白眼視の中で治療の効果もなく重症化していくマスヲの看病と家事の切り廻しに、日夜苦悩の生活を続けているものである。したがつて、その精神的・肉体的苦痛は甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

③ 原告坂本輝喜は母親マスヲの前記症状により、普通の子供並の保育監護をうけることができず、子供ながら暗い悲惨な家庭の中で、母親の病状を案じながら生活せざるを得なかつたもので、その精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

④ 亡緒方リツ(昭和四五年一一月二八日死亡)は原告坂本マスヲの母であつたが、生前、右マスヲの水俣病発病後日夜困難な看護を行ない、家事を引受け、悪化して行く右マスヲの不治の病状に対する不安におののきつつ苦悩の生活を続けて来たもので、その精神的・肉体的苦痛は甚大であつて、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要すべきものであつた。

⑤ 原告坂本マスヲ、同緒方新蔵はそれぞれ亡緒方リツの相続人として、同人が患者坂本マスヲにつき母親として有していた被告に対する前④記載三〇〇万円の慰謝料請求権を、各自、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち一〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

① 原告坂本マスヲは被告に対し、本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(前記(三)の①)及び亡緒方リツが右マスヲにつき母として有する慰謝料債権から承継取得した債権一〇〇万円(同(三)の⑤)の総計である金一、八〇〇万円の債権を有する。

② 原告坂本実は被告に対し、妻マスヲの罹患による夫としての慰謝料金四五〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

③ 原告坂本輝喜は被告に対し、親たるマスヲの罹患による子としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の③)。

④ 原告緒方新蔵は被告に対し、亡緒方リツが前記マスヲにつき母として有する慰謝料債権から承継取得した慰謝料債権一〇〇万円を有する(同(三)の⑤)。

17 患者亡荒木辰雄関係

(一) 原告(67)荒木愛野は、昭和四〇年二月六日死亡した荒木辰雄の妻であり、同(68))荒木洋子は右両名間の長女、同(70)荒木節子は二女、同(71)荒木辰己は二男であつて、同(69)荒木止は昭和三九年八月二一日右洋子と結婚すると同時に前記両名の養子となつた。

(二) 亡荒木辰雄は昭和二九年七月頃視野狭窄が発生そのため海中に転落し、その後急激に難聴、視力減退、言語障害、手足の麻痺等の症状が付加され、昭和三〇年二月頃から異常な狂躁状態が瀕発するに至り、その後右症状は益々悪化し全身衰弱を起し、同四〇年二月六日下益城郡小川町所在の精神病院小川再生院において死亡した。

(三)① 亡荒木辰雄は水俣病発病以来激烈な病苦にさいなまれたところ、当初市川医院、谷川眼科、尾上耳鼻科、松本医院、保健所、熊大附属病院、水俣市立病院に転々として治療を受けたが病名が判らず、狂躁状態が発生するに至つて昭和三〇年四月前記小川再生院に入院したが、病状は一進一退でついに約一〇年の精神病院生活ののち死亡したものである。その間生業の漁業は放棄せざるを得ず、親族に対する被害妄想をも生じその精神生活は誠に惨たんたるものがあつた。以上の精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告荒木愛野は亡荒木辰雄の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

原告荒木洋子、同荒木止、同荒木節子、同荒木辰己はそれぞれ亡荒木辰雄の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその六分の一、すなわち三〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 原告荒木愛野は亡辰雄の妻であつたところ、亡辰雄の水俣病発病により家業の漁業はできなくなり、その治療費捻出のため漁船漁具から家財道具まで売却し極度の貧困に陥つた上、亡辰雄が精神異常のため家族に対する被害妄想に陥り、親族の家を転々して原告荒木愛野ら家族の者を非難して廻つたため、親族からまで白眼視されつつ、一〇年余の看護に心身をさいなまれたもので、その精神的・肉体的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 原告荒木洋子、同荒木止、荒木節子および同荒木辰己は亡辰雄の子として、同人の水俣病罹患により前記のとおりの家庭状況にあつて苦しんだものであり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告荒木愛野は被告に対し、夫辰雄の死亡による固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡辰雄から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告荒木洋子、同荒木止、同荒木節子および同荒木辰己は被告に対し、各自、親たる辰雄の死亡による子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡辰雄から承継取得した慰謝料債権三〇〇万円(同(三)の②)の総計である金七五〇万円の債権をそれぞれ有する。

18 患者松本トミエ、同松本ふさえ、同松本俊子関係

(一) 原告(72)松本俊郎と同(73)松本トミエは夫婦であり、同(74)松本ヒサエは右両名間の長女、同(76)松本ふさえは二女、同(77)松本俊子は三女であり、同(75)松本博は昭和四三年六月一七日右ヒサエと結婚し、同年一〇月八日前記俊郎・トミエ両名の養子となつたものであり、同(78)松本福次と同(79)松本ムネは前記トミエの父母である。

(二)① 原告松本トミエは、水俣病に罹患した昭和三四年一〇月頃から手や足の先がしびれはじめ、下駄もうまくはけないようになつた。

現在でも一月の半分くらいは頭痛に悩まされ、涙がやたらにでる。耳は遠く、視力もおち、かつ視野狭窄がある。自動車のヘッドライトが二重にみえたりする。

② 原告松本ふさえは昭和二四年一〇月一〇日生まれたが、昭和三一年四月頃(生後六年六月頃)より手脚の運動機能が低下し、よく転び、はしも使えなくなり、視野狭窄をおこし、よだれを流し、食物のえん下も困難となり、栄養失調状態となつた。

昭和三三年一二月に市立病院に入院し、昭和四二年四月に退院したが、よくならない。

働く事もできず、嫁にも行けず、終生他人の介抱を受けねばならない。

③ 原告松本俊子は昭和二九年八月一三日生まれたが、昭和三一年月四頃(生後一年八月位)よりびつこをひくようになり、つまづいてはよく転び、よだれを流し、えん下が困難となり、言語障害、視野狭窄の症状を呈した。

昭和三九年三月二八日水俣病の認定を受けてから、二年間湯之児病院に入院したがよくならない。

現在も働くことができず、嫁にも行ける見込みはなく、終生人の世話を受けなければならない。

(三)① 原告松本トミエが前記水俣病罹患により受けた精神的・肉体的苦痛は甚大であり、右苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、六〇〇万円を要する。

② また、原告松本俊郎は、妻トミエが水俣病に犯されたものであり、それによる精神的苦痛を慰謝するには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

原告松本ヒサエ、同松本博(養子)・同松本ふさえ・同松本俊子は、母トミエが水俣病に犯されたものであり、それによる精神的苦痛を慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

③ 原告松本福次、同松本ムネは愛する子トミエを右のごとき悲惨な病におかされ多大の精神的苦痛をうけた。これを慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

④ 前記のとおり水俣病罹患により原告松本ふさえ及び同松本俊子の受けた精神的・肉体的苦痛は甚大であり、右苦痛を慰謝するためには、少なくとも各金一、七〇〇万円を要する。

原告松本俊郎は右両名の父、同松本トミエは、その母である。愛児二人を殆んど生ける屍とされたうえ、その看病の為、原告俊郎は残業も出来ず、月のうちの半分は勤務を休まねばならない。畑の耕作もできない。

減収によつて一家の生活は著しく窮乏した。

この為、原告俊郎及び同トミエの受けた精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくともふさえ及び俊子につきそれぞれ各三〇〇万円、各計金六〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告松本俊郎は被告に対し、妻トミエ及び子たるふさえ・俊子の罹患による慰謝料総計金九〇〇万円の債権を有する(前記(三)の②④)。

② 原告松本トミエは被告に対し、本人固有の慰謝料一、六〇〇万円(同(三)の①)、子たるふさえ・俊子の罹患による慰謝料合計六〇〇万円(同(三)の④)の総計である金二、二〇〇万円の債権を有する。

③ 原告松本ヒサエ、同松本博は被告に対し、各自、親たるトミエの罹患による慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の②)。

④ 原告松本ふさえ、同松本俊子は被告に対し、各自、本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(同(三)の④)、親たるトミエの罹患による子としての慰謝料三〇〇万円(同(三)の②)の総計である金二、〇〇〇万円の債権をそれぞれ有する。

⑤ 原告松本福次、同松本ムネは被告に対し、各自、子たるトミエの罹患による親としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の③)。

19 患者亡田中しず子、患者田中実子関係

(一) 原告(80)田中義光と同(81)田中アサヲは夫婦であり、昭和三四年一月二日死亡した田中しず子は右両名間の三女、同(82)田中実子は四女、同(83)田中昭安は長男である。

(二)① 亡田中しず子は、昭和三一年四月頃、(生後五年五月位)より突然食事をこぼす様になり、歩行不能、言語障害をおこした。失禁症のためおむつを常に着用した。市立病院や被告会社附属病院等等に入院し治療を受けたが良くならず、両足は硬直しひきつけ、痙攣をおこし睡眠薬も効果なく、一日中泣き続けた。昭和三四年一月二日(生後八年一月)肺炎を併発し死亡した。

② 原告田中実子は昭和三一年四月(生後二年一一月)起立不能となつてよだれを流し、坐ることも出来なくなつた。食物のえん下が困難となり、失禁症のため常におむつを着用している。被告会社附属病院、熊大病院に入院したがよくならず、現在言語障害、下肢硬直、視野狭窄のほか、水の嚥下もうまくいかず、物を食べようとする意思さえみせない。食事、排便、入浴等は今後とも永久的に人の看護なくしてはできない状態である。

(三)① 亡田中しず子の悲惨な経過による精神的・肉体的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。又、田中実子の受けた精神的・肉体的苦痛も多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告田中義光、同田中アサヲは、亡しず子及び原告実子の父母である。原告義光及び同アサヲが愛児の一人の生命を奪われいま一人を生ける屍とされたことによつて蒙つた精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも亡しず子について各四五〇万円、実子について各四五〇万円、合計各金九〇〇万円を要する。

③ 原告田中昭安は、亡田中しず子及び原告田中実子両名の発病に伴い両親が家を空ける様になつたので、未だ少年の身であつたにも拘わらず、長兄として一家の生活を助け、弟妹の世話をしながら働き長年月の間幸酸をなめた。

又伝染病の疑いによる差別を受け、患者発生のために家庭は窮乏し、進学、就職上に多大の不利益を蒙り、成人になつて後も、妹が水俣病患者の為いつまでも結婚することができなかつた。昭和四七年三月になつてやつと結婚することができたが、妹実子がいるため右結婚に伴い困難な条件が附加された。しかも田中昭安は長男として、両親の老後・死後も、妹実子の看護をしてゆかねばならない。この為原告田中昭安の受けた精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

④ 原告田中義光、同田中アサヲはそれぞれ亡田中しず子の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

① 原告田中義光、同田中アサヲは被告に対し、各自子たるしず子の死亡及び同実子の罹患による親としての固有の慰謝料合計九〇〇万円(前記(三)の②)、亡しず子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の④)の総計である金一、八〇〇万円の債権をそれぞれ有する。

② 原告田中実子は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の①)。

③ 原告田中昭安は被告に対し、実子が罹患したことによる兄としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の③)。

20 患者亡江郷下カズ子、患者江郷下マス、同江郷下一美、同江郷下美一関係

(一) 原告(84)江郷下美善と同(85)江郷下マスは夫婦であり、昭和三一年五月二三日死亡した江郷下カズ子は右両名間の五女、同(86)渡辺ミチ子は長女、同(87)宮本エミ子は二女、同(88)江郷下スミ子は三女、同(89)江郷下実は長男、同(90))桑原アツ子は四女、同(91)江郷下実美は三男、同(92)江郷下一美は五男、同(93)江郷下美一は六男である。

(二)① 亡江郷下カズ子は、昭和三一年四月頃突然歩行不能、言語障害、えん下不能、失禁症、視力障害の症状をきたし、親の見分けもつかなくなつた。被告会社附属病院に入院し、栄養は鼻より注入していた。しかし、嘔吐、発熱、けいれんが続き、昭和三一年五月二三日(生後五年五月)肺炎を併発し、入院したまま死亡した。

② 原告江郷下マスは、昭和三一年五月頃、亡カズ子の入院に付添つて看護中、手足のしびれ、右頭部の痛みを覚え、そのまま被告会社附属病院に入院した。しかし、視野狭窄、難聴、言語障害が起り、味覚がなく、えん下不能、歩行不能となつた。物もしつかり握れず、かつ握つた感覚もない。一寸したことにもすぐ神経がいら立ち、目まいがし、常に身体がだるかつた。寝ていても落下するような錯覚があつた。

白浜病院にも一ケ月位、市立病院にも三ケ月位入院し退院したが、その後も、右の諸症状は消えず、週二、三回市川医院にて注射投薬治療を受けている。

③ 原告江郷下一美は、昭和三一年五月頃(生後一一年)手足が震え、よだれを流し、嘔吐し、膝関節がガクガクし、歩行不能、視野狭窄となり、即日入院したが、介護がなければ食事も出来ず、しかもえん下が出来ず、言語障害もひどかつた。現在なお、視野狭窄、手足のしびれが残つており、細かい作業は出来ない。頭痛があり、病院へ通院し投薬も受けている。

④ 原告江郷下美一は、昭和三一年六月(生後九年七月)頃、手足がしびれ、歩行不安定となり、通学も停止しなければならなくなつた。視野狭窄のため、家の中も手さぐりでいざり歩いた。箸も使えず、舌がしびれているので、さじでもこぼしてしまう。その後も月五回位市川医院で治療を受けているが、足の感覚がにぶく、視野狭窄、言語障害、難聴が残つており、足も不安定である。このため満足な仕事につけない。

(三)① 亡江郷下カズ子は幼くしてその生命を奪われたものであり、その精神的苦痛は絶大である。これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告江郷下一美が自身水俣病に犯されたことによつて受けた精神的苦痛も甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。又、同人は母江郷下マスが水俣病に犯されたことによつても精神的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

③ 原告江郷下美一が自身水俣病に犯されたことによつて受けた精神的苦痛も甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。又、同人は母マスが水俣病に犯されたことによつて精神的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

④ 原告江郷下マスが自身水俣病に犯されたことによつて受けた精神的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。同人は愛児カズ子を水俣病で失つており、そのために受けた精神的苦痛は甚大である。これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。また同人は、愛児一美が水俣病に犯されたことによつても精神的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、金三〇〇万円を要する。同人は愛児美一が水俣病に犯されたことによつても精神的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

⑤ 原告江郷下美善は妻マスが水俣病に犯されたことによつて甚大な精神的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。また同人が愛児カズ子を失つたことによる慰謝料、並びに愛児一美及び美一を水俣病に犯されたことによる慰謝料はそれぞれ妻マスのそれと同額と評価するのを妥当とする。

⑥ 原告渡辺ミチ子、同宮本エミ子、同江郷下スミ子、同江郷下実、同桑原アツ子及び同江郷下実美は母マスを水俣病に犯されたことにより甚大な精神的苦痛を受けた。これを慰謝するためには、少なくとも各金三〇〇万円を要する。

⑦ 原告江郷下美善、同江郷下マスはそれぞれ亡江郷下カズ子の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその二分の一、すなわち九〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで

① 原告江郷下美善は被告に対し、子たるカズ子の死亡及び妻たるマス並びに子たる一美・美一の罹患による固有の慰謝料合計一、五〇〇万円(前記(三)の⑤④)、亡カズ子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の⑦)の総計である金二、四〇〇万円の債権を有する。

② 原告江郷下マスは被告に対し、本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(同(三)の④)、子たるカズ子の死亡並びに同一美・美一の罹患による親としての固有の慰謝料合計一、〇五〇万円(同(三)の④)、亡カズ子から承継取得した慰謝料債権九〇〇万円(同(三)の⑦)の総計である金三、六五〇万円の債権を有する。

③ 原告渡辺ミチ子、同宮本エミ子、同江郷下スミ子、同江郷下実、同桑原アツ子及び江郷下実美は、各自被告に対し、親たるマスの罹患による子としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の⑥)。

④ 原告江郷下一美、同江郷下美一は被告に対し、各自本人固有の慰謝料一、七〇〇万円(同(三)の②③)、親たるマスの罹患による慰謝料三〇〇万円(同(三)の②③)の総計である金二、〇〇〇万円の債権をそれぞれ有する。

21 患者亡平木栄関係

(一) 原告(94)平木トメは、昭和三七年四月一九日死亡した平木栄の妻であり、同(95)河上信子は右両名間の長女、同(96)田口甲子は二女、同(97)平木隆子は四女、同(98)斎藤英子は五女である。

なお右トメ・亡栄間には右の他に一子がある。

(二) 亡平木栄は、昭和三五年四月、満六七才の時、よだれを流し、起立不能となり、排便も一人ではできなくなつた。言語障害がひどく、食物のえん下も不能となり、まる三日間飲み食いもできず死んだようになつていたこともある。

同年六月、市立病院に入院したが、七転八倒して苦しみ、病院中に聞こえるような大声でわめき、痙攣がひどくてベッドに縛りつけておかねばならなかつた。背中の床ずれは化膿し、手足は曲つたままで硬直し、顔面、手足にかき傷、切り傷、打撲傷が絶えなかつた。

昼夜の区別もつかなくなり、苦しみの中で、ついに、昭和三七年四月一九日入院中のまま死亡した。

(三)① 亡平木栄は、二年間にわたる言語に絶する苦しみの中で死亡したものであり、その精神的・肉体的苦痛は絶大なものといわねばならない。これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告平木トメは、長年つれそつた夫栄を無惨にも病に奪われたものであり、また夫栄の看病にあたるうち、老婦の身とて自らも神経痛、腰痛、左半身のしびれに苦しむ身となつた。このため同人の受けた精神的・肉体的苦痛は甚大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

③ 原告平木トメは亡平木栄の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

④ 原告河上信子、同田口甲子、同平木隆子、同斎藤英子は、いずれも愛する父を水俣病によつて奪われたものであり、その精神的苦痛は甚大である。これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

⑤ 原告河上信子、同田口甲子、同平木隆子、同斎藤英子はそれぞれ亡平木栄の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分(五人の子の一人として)によりその一五分の二、すなわち二四〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで

① 原告平木トメは被告に対し、夫栄の死亡による固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の②)、亡栄から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の③)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告河上信子、同田口甲子、同平木隆子及び同斎藤英子は各自被告に対し、親たる栄の死亡による子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡栄から承継取得した慰謝料債権二四〇万円(同(三)の⑤)の総計である金六九〇万円の債権を有する。

22 患者尾上光雄関係

(一) 原告(99)尾上光雄と同(100)尾上ハルエは夫婦であり、同(101)尾上敬二は昭和二八年三月一三日右両名の養子となつた。

(二) 原告尾上光雄は、理髪業を営なみ元来健康体であつたが、昭和三一年一〇月一〇日頃、客の顔を剃つている際突然剃刀を落とし、その後手指や口唇がしびれ、言語障害、視野狭窄、難聴をきたし、食事中は、食物をボロボロこぼし、歩行不能となり、その後も治療を続けたが、現在歩行については少しは回復しているが、なお前記症状が継続し、付添いなしでは一日も生活できない状態にあり勿論労働不能である。

(三)① 原告尾上光雄は前記症状に日夜なやまされ、甚大なる精神的・肉体的苦痛を味つている。これを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

② 原告尾上ハルエは、夫光雄が水俣病に罹患して前記症状を呈し、これがため日夜看護に当たり、光雄の労働不能により生活に困窮し、甚大な精神的・肉体的苦痛を受けており、これを慰謝するためには、少なくとも金四五〇万円を要する。

③ 原告尾上敬二は愛する養父を前記のごとき悲惨な病におかされたことにより、多大の精神的苦痛を受けた。これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

(四) そこで

① 原告尾上光雄は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(前記(三)の①)。

② 原告尾上ハルエは被告に対し、夫光雄の罹患による慰謝料金四五〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

③ 原告尾上敬二は被告に対し、親たる光雄の罹患による慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の③)。

23 患者亡長島辰次郎関係

(一) 原告(102))長島アキノは、昭和四二年七月九日死亡した長島辰次郎の妻であり、同(103)原田フミエは右両名間の長女、同(104))長島政広は長男、同(105)長島タツエは二女、同(106)三幣タエ子は三女、同(107)長島努は三男である。

(二) 亡長島辰次郎は元来健康体であつたが、昭和三一年四月頃手がふるえその後よだれを流し、足がもつれ、手足のしびれ及びふるえがひどくなつて病状は悪化の一途をたどり、昭和四二年七月九日水俣病特有の苦しみの中で死亡するに至つた。

(三)① 亡長島辰次郎は水俣病により前記症状を呈し、発病以来一〇年間余の長期にわたつて筆舌につくしがたい苦痛をうけ死亡した。これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告長島アキノは亡長島辰次郎の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

原告原田フミエ、同長島政広、同長島タツエ、同三幣タエ子、同長島努はそれぞれ亡長島辰次郎の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分によりその一五分の二、すなわち二四〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 原告長島アキノは、亡辰次郎の水俣病罹患の為一家の生活が極度に困窮し、実家の土地家屋山林等その全部を売りとばし治療費及び生活費に当てる等して、右辰次郎死亡までの一〇年間余は勿論のことその後に至るまで多大の苦痛を受け、他方日夜右辰次郎の看護に当たり遂には配偶者たる辰次郎を失なつた精神的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 原告原田フミエ、同長島政広、同長島タツエ、同三幣タエ子及び同長島努は、亡長島辰次郎の子であるが、同人の水俣病罹患、死亡により前記のように極度の貧困と一〇年間余にわたる辰次郎の苦痛をまのあたりにみて遂にはその父親を失なつた精神的苦痛はまことに甚大なものがあり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告長島アキノは被告に対し、夫辰次郎の死亡による妻としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡辰次郎から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告原田フミエ、同長島政広、同長島タツエ、同三幣タエ子及び同長島努は各自被告に対し、親たる辰次郎の死亡による子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡辰次郎から承継取得した慰謝料債権二四〇万円(同(三)の②)の総計である金六九〇万円の債権をそれぞれ有する。

24 患者前嶋武義関係

(一) 原告(108)前嶋武義と同(109)前嶋サヲは夫婦であり、同(110)前嶋ハツ子は右両名間の長女、同(111)緒方ツユ子は二女であつて、同(112)前嶋一則は昭和四〇年七月二一日右ハツ子と結婚すると同時に前記両名の養子となつた。

(二) 原告前嶋武義は、元来健康体であつたが昭和三一年七月頃から指先がしびれはじめ、同年八月末頃から歩行困難、言語障害、更には視野狭窄、極度の聴力障害をきたし、今なお前記症状は継続し労働は全く不可能な状態にある。その為極度に短気となり、精神的にも不安定な状態にある。

(三)① 原告前嶋武義は前記の症状により日夜水俣病による苦痛を受け、その精神的・肉体的苦痛はまことに甚大なものがありこれを慰謝するためには、少なくとも金一、七〇〇万円を要する。

② 原告前嶋サヲは妻、同前嶋ハツ子、同緒方ツユ子、同前嶋一則(養子)は、右原告前嶋武義の子であるが同人の水俣病罹患により、生活は困窮し、右武義の看護その他同人の苦痛を日夜まのあたりに見て、その精神的苦痛はまことに甚大なものがある。これを慰謝するためには、少なくとも原告前嶋サヲにつき金四五〇万円、同前嶋ハツ子、同緒方ツユ子および同前嶋一則につき各金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告前嶋武義は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、七〇〇万円の債権を有する(前記(三)の①)。

② 原告前嶋サヲは被告に対し、夫武義の罹患による妻としての慰謝料金四五〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

③ 原告前嶋ハツ子、同緒方ツユ子及び同前嶋一則は各自被告に対し、親たる武義の罹患による子としての慰謝料金三〇〇万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の②)。

25 患者中村末義関係

(一) 原告(113)中村シメは、昭和三四年七月一四日死亡した中村末義の妻であり、同(114)中村俊也は右両名間の長男、同(115)中村真男は二男、同(116)川添己三子は三女、同(117)都築律子は四女、同(118)中村敦子は五女、同(119)中村由美子は六女である。

(二) 亡中村末義は、昭和三四年大相撲初場所のテレビを見ながら眼のかすみを訴え、ついで不眠、精神のいらだち、更に同年三月頃から視野狭窄、同年四月頃から流涎の症状をきたし、同年四月二四日、熊大附属病院、水俣保健所、水俣市立病院の三者の診断により水俣病と認定され、その後市立病院に入院、一日に一〇回程度屋上に登つて飛び下りる気配を示す等家人に心配させる行動が多かつたが、遂に昭和三四年七月一四日右病院において水俣病により死亡した。

(三)① 亡末義は前記のとおりの症状ののち、人前をはばからず裸になる等狂気の状態に陥つた末死亡したもので、その悲惨な経過による苦痛は非常に大きかつたものといわねばならぬ。これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告中村シメは亡中村末義の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

原告中村俊也、同中村真男、同川添己三子、同都築律子、同中村敦子、同中村由美子はそれぞれ亡中村末義の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自、民法所定の相続分(六人の子の一人として)によりその九分の一、すなわち二〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 原告シメは、亡末義の妻であるところ、右末義発病の当初においては一寸した物音にも眠られぬと怒鳴られ、後にはいつ自殺するかもしれぬと片時も目を離さぬ看病をつづけ、水俣病の悲惨な病状に苦しむ夫を毎日見つつ農業経営はその間放棄し、夫死後は続々と結婚期に入る三女、長男、四女の世話を窮乏の中に一身にひきうけざるを得なかつた精神的苦痛は筆舌に尽くしがたいので、これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 原告俊也、同真男、同己三子、同律子、同敦子、同由美子は平和な家庭環境を亡父の水俣病のため破壊され、日夜窮乏と亡父の悲惨な病状、周辺の住民のべつ視によつて非常な精神的苦痛を受けたので、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告中村シメは被告に対し夫末義の死亡による妻としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡末義から承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告中村俊也、同中村真男、同川添己三子、同都築律子、同中村敦子及び同中村由美子は各自被告に対し、親たる末義の死亡による子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡末義から承継取得した慰謝料債権二〇〇万円(同(三)の②)の総計である金六五〇万円の債権をそれぞれ有する。

26 患者亡尾上ナツエ関係

(一) 原告(120)尾上時義は、昭和三三年一二月一四日死亡した尾上ナツエの夫であり、同(121)尾上勝行は右両名間の長男、同(122)尾上唯勝は二男、同(123)真野幸子は長女、同(124)千々岩信子は二女である。

(二) 亡尾上ナツエは昭和三三年一月頃水俣病に罹り、同年九月初旬頃、急激に手が麻痺し、ついで口唇麻痺、握力低下、足麻痺と病状が進み、同月中旬には言語が通じないようになり、同月下旬から狂躁状態に陥り、食事摂取も強制的に人手によつて行なわれる状態であつたが、身体の衰弱甚だしく、昭和三三年一二月一四日死亡した。

(三)① 亡尾上ナツエは、昭和三三年九月上旬水俣病発病後麻痺が手、口唇、足と急速に進むうち、水俣病にかかつたと覚つて同年一〇月一二日剃刀で両手首を切つて自殺を図つた。その後言語による意思発表・疎通も不可能になり、同月下旬には目を見開いたまま手足をバタつかせて、暴れ、ワーンと大声を発し、狂躁状態となり、その後は鎮静剤によつて短時間これを抑えることのくりかえしとなり、栄養も自ら摂取しえず、夫たる原告尾上時義がむりに口からおしこむ状態であつた。かくて身体は衰弱しきつて、昭和三三年一二月一四日死亡したものであるが、水俣病特有の残虐な症状に苦しめられたので、これを慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇〇万円を要する。

② 原告尾上時義は亡尾上ナツエの相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の一、すなわち六〇〇万円の債権を承継取得した。

原告尾上勝行、同尾上唯勝、同真野幸子、同千々岩信子はそれぞれ亡尾上ナツエの相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分(四人の子の一人として)によりその六分の一、すなわち三〇〇万円の債権をそれぞれ承継取得した。

③ 原告尾上時義は昭和三二年一一月三〇日被告会社を退職し、漁船を買つて漁師として生活をたてようとしておつたところ、妻ナツエの水俣病罹患によつて、その資金は治療費等に使いはたし、新事業発足は頓座し、一〇〇日余に亘る看護によつて心身をすりへらし、新しく事業をする意欲も喪失するに至つた。これを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 亡ナツエの子である原告尾上勝行、同尾上唯勝は、母ナツエの水俣病により、平和な家庭を破壊され、その惨状と世間の差別視をじつと受忍せざるを得ない青春を送つた。

また亡ナツエの子である原告真野幸子、同千々岩信子は亡ナツエ発病当時すでに結婚して別に生活しておつたとはいえ、住居も前者は津奈木町、後者は同じ水俣市内で母親の惨状をつぶさに見舞い、母親の自殺企図を悲しみ、かつ意外に早く母親を奪われて精神的衝撃をうけ、かつ世人の水俣病に対するべつ視、非難を受忍しなければならなかつたものである。

よつて原告尾上勝行、同尾上唯勝、同真野幸子および同千々岩信子の精神的苦痛を慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで

① 原告尾上時義は被告に対し、妻ナツエの死亡による夫としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡ナツエから承継取得した慰謝料債権六〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、二〇〇万円の債権を有する。

② 原告尾上勝行、同尾上唯勝、同真野幸子及び千々岩信子は各自被告に対し、親たるナツエの死亡による子としての固有の慰謝料四五〇万円(前記(三)の④)、亡ナツエから承継取得した慰謝料債権三〇〇万円(同(三)の②)の総計である金七五〇万円の債権をそれぞれ有する。

27 患者亡田中徳義関係

(一) 原告(125)田中フジノは、昭和四五年七月一三日死亡した田中徳義の妻であり、亡田中徳義の兄弟姉妹は全部で八人である。即ち、訴外亡田中時義は右徳義の兄、訴外亡吉本ハナ・同亡吉本トシエはいずれも右徳義の姉、原告(126)田中春義・同(127)田中安一・同(128)田中重義はいずれも右徳義の弟、同(129)荒川スギノ及び訴外佐藤キクはいずれも右徳義の妹である。なお右原告春義は昭和四六年五月一〇日前記原告フジノの養子となつた。

なお亡徳義の前記死亡兄姉には、それぞれ次のとおり子がある。

即ち、亡田中時義には子訴外田中ミドリが、右亡吉本ハナには子大山口ヤエ子が、右亡吉本トシエには子吉本豊他四名の子がそれぞれある。

(二) 亡田中徳義は、昭和三四年頃から怒りつぽくなり、何かにつけ怒鳴りつけるようになつた。いつも頭ががんがんし続け、性欲がまるでなくなり、性交渉が不可能となつた。また舌がもつれ言葉が不明確となり、耳が遠くなつた。昭和三六年春頃から手の動きが不自由になり、腰がふらつき足がガクガクして歩行が困難となつた。よだれがたえず出て泣きつぽくなつた。同年一一月から起きられなくなり、その後、病院を転々として入院生活を続けたが症状は悪化するのみで、ついに昭和四五年七月一三日死亡した。

(三)① 亡田中徳義は前記のとおり苦しみ抜いたうえ死亡したのであり、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告田中フジノは亡田中徳義の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、民法所定の相続分によりその三分の二、すなわち一、二〇〇万円の債権を承継取得した。

③ 原告田中フジノは、右徳義の妻として、苦しみ抜く徳義の看病にあたり、罹患のため感情の起伏のはげしい同人の取り扱いに毎日涙したのである。その甲斐もなくついに同人は死亡するに到り、精神的にも経済的にも苦しみぬいたのであつて、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

④ 原告田中春義は亡徳義の実弟であるが、小学校六年生の時から亡徳義・フジノ夫婦と共に生活し、右夫婦の子供として育てられてきたのである。亡徳義の発病と、その苦痛にみちた闘病の後死亡に到るまでの経過と、親同然の実兄を失なつたことによつて受けた精神的・肉体的苦痛は、実の子に勝るとも劣らない。これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

⑤ 原告田中春義、同田中安一、同田中重義、同荒川スギノはそれぞれ亡田中徳義の相続人として、同人の被告に対する①記載一、八〇〇万円の慰謝料請求権を、各自民法所定の相続分(八人の兄弟姉妹の一人として)によりその二四分の一、すなわち七五万円の債権をそれぞれ承継取得した。

(四) そこで、

① 原告田中フジノは被告に対し、夫徳義の死亡による妻としての固有の慰謝料六〇〇万円(前記(三)の③)、亡徳義から承継取得した慰謝料債権一、二〇〇万円(同(三)の②)の総計である金一、八〇〇万円の債権を有する。

② 原告田中春義は被告に対し、兄たる徳義の死亡による弟としての固有の慰謝料三〇〇〇万円(同(三)の④)、亡徳義から承継取得した慰謝料債権七五万円(同(三)の⑤)の総計である金三七五万円の債権を有する。

③ 原告田中安一、同田中重義及び同荒川スギノは各自被告に対し、亡徳義から承継取得した慰謝料債権金七五万円の債権をそれぞれ有する(同(三)の⑤)。

28 患者荒木康子関係

(一)原告(130)荒木幾松と同(131)荒木ルイは夫婦であり、同(132)荒木康子は右両名間の六女である。

(二) 原告荒木康子は、昭和三二・三年ごろから舌がもつれて言葉が明瞭に発音できなくなり、足がふらついてつまずくようになつた。その後病状はしだいに悪化し、現在は頭がいたむ、足がひきつつて倒れる、視野狭窄、視力障害、難聴などの症状があり、言語は不明確でほとんど会話できない。手も麻痺して身のまわりのことも一人ではできない。食物をたべるとのどにつまらせてむせかえる。身体障害者二級の認定をうけている。

(三)① 原告荒木康子は前記の症状が一生継続するばかりか、身のまわりの始末もできず、結婚も不可能であり、その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告荒木幾松、同荒木ルイが、娘康子の右症状によつてうけた肉体的・精神的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも各金四五〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告荒木幾松、同荒木ルイは各自被告に対し、子たる康子の罹患による慰謝料金四五〇万円の債権をそれぞれ有する(前記(三)の②)。

② 原告荒木康子は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の①)。

29 患者築地原司関係

(一) 原告(133)築地原司と同(134)築地原シエは夫婦である。

(二) 原告築地原司は昭和三三年ごろ足がふらつき出し、つまずいて倒れるようになつた。その後足のしびれはしだいにひどくなり、痙攣がきたりした。昭和三九年ごろから水俣市立病院に通いはじめ、昭和四一年一月同病院に入院、同年六月から湯の児のリハビリテーションセンターに翌年六月まで入院治療したが回復せず、寝たきりの生活を続けている。現在視野狭窄、難聴などの障害があり、しばしば痙攣が起きて苦しんでいる。言語も自由ではない。身のまわりの始末は一人では不可能である。

(三)① 原告築地原司が前記の症状によりうけた精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告築地原シエは右司の妻であり、日夜夫の看病に専心しているものであるが、同人の前記症状により受けた精神的・肉体的苦痛は多大であり、それを慰謝するためには、少なくとも金六〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告築地原司は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(前記(三)の①)。

② 原告築地原シエは被告に対し、夫司の罹患による妻としての慰謝料金六〇〇万円の債権を有する(同(三)の②)。

30 患者諫山孝子関係

(一) 原告(135)諫山茂と同(136)諫山レイ子は夫婦であり、同(137)諫山孝子は右両名間の長女であつて、同(138)諫山モリは右茂の母である。

(二) 原告諫山孝子は、昭和三六年七月三日生まれたが、いわゆる胎児性水俣病に罹患し、発育がきわめて悪く、首もすわらず、生後間もなくから医者にかかつたが一向によくならない。生まれてから現在まで寝たきりで、自分では寝がえりもうてず、蚊に血を吸われても自分でこれを追い払うことすらできない。生涯、食事から排泄に至る一切につき他人の世話なくしては生きていけない。肉親にしか通じない単語をごくわずか口にするほかは、排泄についてさえも意思表示をできない。人間としての生活を全く奪われてこの世に誕生したものである。身体障害者一級の認定をうけている。

(三)① 原告諫山孝子は前記の症状が一生継続し、生涯結婚や労働はおろか自らの生命さえ一人では維持できない。その精神的・肉体的苦痛を慰謝するためには、少なくとも金一、八〇〇万円を要する。

② 原告諫山茂、同諫山レイ子はそれぞれ右孝子の親であるが、同女の右症状によつてうけた精神的・肉体的苦痛は甚大であり、それを慰謝するには、少なくともそれぞれ金四五〇万円を要する。

③ 原告諫山モリは右孝子の祖母であるが、右孝子をかかえて苦しい一家の生計を維持するため右孝子の両親は朝から夜まで共働きをせざるをえない。それで右モリが、両親の留守中右孝子の四才の頃から、食事やオムツのとりかえ、体をさすつてやつたり、寝がえりをうたせてやるなどの世話をしてきた。夜も同女が添い寝をしてやらないと右孝子は眠らない。このために原告諫出モリの受けた精神的・肉体的苦痛は多大であり、これを慰謝するためには、少なくとも金三〇〇万円を要する。

(四) そこで、

① 原告諫山茂、同諫山レイ子は各自被告に対し、子たる孝子の罹患による親としての慰謝料金四五〇万円の債権をそれぞれ有する(前記(三)の②)。

② 原告諫山孝子は被告に対し、本人固有の慰謝料金一、八〇〇万円の債権を有する(同(三)の①)。

③ 原告諫山モリは被告に対し、孝子の罹患による祖母としての慰謝料金三〇〇万円の債権を有する(同(三)の③)。

ハ  弁護士費用

別紙〔二〕請求債権額一覧表の欄記載の各原告(但し、原告緒方新蔵、同田中安一、同田中重義、同荒川スギノの四名を除く)の代理人である原告渡辺栄蔵は、昭和四七年七月二三日、水俣病訴訟弁護団長弁護士山本茂雄に対し、本件訴訟第一審終結の際にその訴訟代理委任に基づく報酬として、

前記ロの1ないし30の各(四)記載の慰謝料の原告ごとの合計金(別紙〔一〇〕の〔一〕原告別請求・認容額一覧表の請求額欄の「慰謝料合計」の金額)である別紙〔二〕の表の欄記載の各金額(但し前記四名の原告を除く)につき、その一割五分に相当する別紙〔二〕の表の欄記載の各金員(別紙〔一〇〕の〔一〕の表の請求額欄の「弁護士費用」の金額)を、

原告ら(但し前記四名の原告を除く)がそれぞれ支払うことを約した。

五よつて原告らは、被告に対し、別紙〔二〕請求債権額一覧表の欄記載の各損害金(同表欄記載の慰謝料及び同欄記載の弁護士費用の各合計額)、

並びにこれに対する、

(1)  右のうち同表欄各記載の金員については、不法行為以降である同表欄各記載の日(慰謝料請求にかかる死亡患者の各死亡日の翌日)から、

(2)  右のうち同表欄記載の金員については、不法行為以降である昭和四四年七月一五日(昭和四四年(ワ)第五二二号事件の訴状送達の日の翌日)から、

(3)  右のうち同表欄記載の金員については、不法行為以降である昭和四六年九月二八日(前同号事件の昭和四六年九月二五日付訴の変更(慰謝料請求の拡張)申立書送達の日の翌日)から、

(4)  右のうち同表欄記載の金員については、不法行為以降である昭和四七年七月六日(昭和四五年(ワ)第八一四号・同四六年(ワ)第三二二・四一九・五四八号事件の各訴状送達の日の翌日)から、

(5)  右のうち同表欄記載の金員については、不法行為以降である昭和四七年八月一九日(昭和四七年八月一六日付訴の変更(弁護士費用に関する請求の拡張)申立書送達の日の翌日)から、

いずれも支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金

の支払いをそれぞれ求める。

第三請求原因に対する答弁

一第一項の「請求原因事実の骨子につき

1  同項1の事実のうち、原告らの親族関係は不知、その余の事実は認める。

2  同2の事実のうち、被告が昭和七年頃から同四三年五月までアセトアルデヒドの製造を行なつていたこと、精ドレン(同製造工程中の精溜塔からの廃水)を、相当の処理を施した上で、昭和三四年一〇月まで排出していたことは認める。

3  同3の事実のうち、同工程中に塩化メチル水銀が微量生成すること、右化合物が精ドレン中に存在すること、右精ドレンの一部が海中に流出していたこと、及び水俣病の原因物質が或種の有機水銀化合物であることはそれぞれ認め、その余の因果関係に関する主張事実は、その可能性を否定するものではないが、右可能性が現実化するための諸条件並びに本件においてこれを充足していたか否かにつき不知である。

4  同4の事実のうち、原告主張の者らが水俣湾周辺の魚介類を摂食したこと及び水俣病に罹患したことは認め、精ドレンを無処理のまま海中に放出していたこと及びその他被告に過失ありとの主張事実は否認する。

5  同5の事実のうち、原告ら主張の患者らが死亡した事実は認め、その余の事実は不知。

二請求原因第二項の「因果関係」につき

1 原告ら主張の1の事実中、水俣病審査会により認定された患者の数についての原告らの主張及び武内忠男熊大教授が所謂不顕性水俣病患者が存在すると発表したこと並びに別紙〔三〕患者一覧表記載の患者らが、同表の認定年月日欄記載の日に水俣病と認定されたことは認める。その余の事実は不知。

2  同2の(一)(1)の事実は概ね認める。

同2の(一)(2)の事実中、アセチレン接触加水反応の際、水銀触媒の機能が次第に劣化すること、これを防止するために硫酸第二鉄が添加されていること及び右反応中に塩化メチル水銀が微量生成し、その一部が第一精溜塔へ溜出すること、次いでさらにその一部が水とともに右塔の底部から精ドレンとして系外に排出されていたことがあること及び塩化メチル水銀が極めて僅かの揮発性をもつていることは認める。塩化メチル水銀が原告主張のごとき反応機構を経て生成しているか否かは不知。被告が昭和四十三年に至るまでメチル水銀の回収を考えもしなかつたとの主張は否認する。被告は昭和三十四年十一月以降は精ドレンを工場外には排出していない。

同2の(一)(3)の事実中、メチル水銀化合物がCH3―Hg―Xなる一般式をもつ一群の化合物であつて、右式のXがハロゲンである化合物は一般に有機溶媒に溶け、水にも僅か溶解すること、蛋白質の化学構造の中に―SH基、―NH基2、―COOH基などが存在することは認めるも、その余の主張は不知。

同2の(二)(1)の事実のうち、水俣病患者及び水俣病の症候についての主張は概ねこれを認めるが、水俣病の定義に関しては、水俣病とは「水俣湾産の魚介類を摂取したことによつて起つた中毒性中枢神経系疾患である」という限度でこれを認める。

同2の(二)(2)の事実中、水銀が毒物及び劇物取締法に規定する毒物であること(但しこれは昭和三十九年七月十日法律第一六五号による同法の改正後のことである)及び水銀化合物が少数の例外を除き毒物であつて右少数の例外中にはメチル水銀化合物等が含まれていないこと、単体の金属水銀、諸種の無機水銀化合物及び諸種の有機水銀化合物が生物に対して毒性を示すが、亜急性ないし慢性の毒性は一様でないことは認めるも低級アルキル水銀化合物を魚介類が摂取した場合の作用等そのメチル水銀化合物蓄積の機序に関する主張は不知。

同2の(二)(3)の事実中、水俣病患者が水俣湾附近の魚介類を摂食した者の中から発症していること、その大部分が漁業生活者、趣味または生計の助として漁をしていたものないしそれらの家族であつたこと、ネコに所謂猫の水俣病が発症したことは認める。メチル水銀が魚介類に蓄積する条件及び過程並びに人及び動物において水俣病発症にいたる経過に関する原告の主張は、それが事実に適合しているか否かは不知。原告ら主張の患者らの喫食状況(別紙〔五〕)は、水俣湾周辺の魚介類を摂食したことは認めるも、その余の事実は不知。

3  同3の事実は争う。

三請求原因第三項の「被告の責任」につき

被告に過失の責任があるとの原告主張事実は争う。

(一)予見可能性の不存在――被告の無過失

(1) そもそも、昭和三七年半ば頃、熊本大学医学部衛生学教室の入鹿山且朗教授らが、被告水俣工場の水銀滓から塩化メチル水銀を抽出しえたことを発表するまで、アセトアルデヒドの製造工程中にメチル水銀化合物が生成することは、一般に化学工業の業界、学界において、理論上も、また、分析技術上も予知しえない事柄であつた。即ち、

① アセトアルデヒドの合成工程においてメチル水銀化合物が生成すること、もしくはその生成の可能性を記述し、または示唆した報文は、前記入鹿山教授らの発表以前には見当らない。

② 有機水銀化合物の分析方法は、昭和三六・七年以前の段階においては、未確立の状態であり、まして工場排水などに含まれる微量の有機水銀化合物の分析検出は不可能であつた。

即ち、当時、水銀化合物の分析方法として、ジチゾン法、ポーラログラフ法、紫外線吸収スペクトル法、ジエチルジチオカルバミン酸銅法、ペーパークロマトグラフ法等があつたが、その後開発されたガスクロマトグラフ法、薄層クロマトグラフ法に比して、いずれも感度、精度が著しく悪く、微量の有機水銀化合物を正確に分析検出することはできなかつたのである。

(2) 次に、海中に拡散稀釈された極微量のメチル水銀化合物が、海中の魚介類の体内に蓄積され、その魚介類を人が摂取することによつてメチル水銀中毒症になるというような考え方は、水俣病発生後の長期に亘る研究の結果始めて提唱されるに至つたのであつて、原告ら発病当時にはかかる理論は全く想定されなかつたものである。

従つて、アセトアルデヒド合成工程中におけるメチル水銀化合物の生成すら認識しえなかつた被告が、微量のメチル水銀化合物の排出を予測し、更に、海中で稀釈されたメチル水銀化合物が前記経路を経て人にメチル水銀中毒症を発生させるということを予想ないし認識しえなかつたのは、けだし当然というべきである。

(3) 仮に、アセトアルデヒド廃水中の塩化メチル水銀と水俣病の発生との間に因果関係が認められるとしても、被告は、前記の如く昭和三七年半ばになつて塩化メチル水銀が抽出・分析検知されるに至るまで、右廃水中に塩化メチル水銀が存在することを到底認識しえず、認識せざるにつき過失はない。まして、右廃水中の塩化メチル水銀が海中で魚介類に蓄積し、これを摂取した人間が水俣病に罹患するに至るという経路を認識することは全く不可能であつて、これまた前記の如き理由から認識せざるにつき過失はないのである。

(4) なお、過失における予見可能性の有無の判断基準時は、事件発生の時点である。

(5) また、予見可能性の対象についても、本件の場合は、法律上工場排水中に水俣病の原因物質が存在し、これが魚介類を経て人体内に摂取され、同中毒症を発症させることについての予見可能性が存在したか否かが問題なのである。というのは原告の本訴請求は、要するに魚介類を介してのメチル水銀化合物による人の生命ないし健康の侵害という権利侵害について、その責任を追求しようとしているものと解せられるからである。

(二)結果回避措置――排水処理

(1) 被告は水俣工場の排水処理につき、その時々において当時の技術水準上能う限りの努力を重ねてきた。

即ち、鉄屑に無機水銀化合物の溶液を接触させると水銀が分離することは古くから周知であり、昭和二一年アセトアルデヒド製造再開後しばらくしてから同製造設備に鉄屑槽を設け、同設備の廃水を右鉄屑槽を通して排出していた。更に昭和三四年一二月アルデヒド及び塩化ビニール各設備廃水を他の廃水とまとめてサイクレーター(排水浄化設備)で処理し浄化する排水総合処理施設が運転を開始した。

また、アルデヒド及び塩化ビニール両設備廃水については、鉄屑槽を通して酢酸プールに入れ、アセチレン発生ピットを経て八幡プールに送り、更にアセチレン発生設備に逆送するという、海面に流出させない処理方式が昭和三四年一〇月に完成実施された。しかも昭和三五年八月には画期的な装置内循環方式が完成し、稼働するに至つた。

右のとおり、昭和三七年半ば、アルデヒド設備廃水に塩化メチル水銀の存在することが認識し得た時には、既に同設備につき装置内循環方式を行なうなど、被告が結果回避義務を尽したことは明らかである。

(2) ところで同種の方法で同種の製品を製造している同業他社において一般的に行なわれている排水の処理方法は、長年に亘り一度も排水による人の生命、身体に対する危険が問題にならない限り、安全性について強度の推定をくうべきである。しかして、本件水俣病発生当時は、国内外の同業他社の排水処理の方法は、排水の沈澱、中和、稀釈であつて、いまだかつて水俣病ないしは類似の疾病の発生をみていなかつたのである。

被告水俣工揚において、化学工業界で一般に行なわれている相当な処理を施したうえで廃水を排出してきたものであることは、昭和三二年ないし同三四年当時の被告水俣工場排水分析値を、当時最も厳しいとされた大阪府事業場公害防止条例(昭和二九年四月一四日大阪府条例第一二号)、昭和三四年施行された公共用水域の水質の保全に関する法律(水質保全法)及び水道法の各水質基準と対比させることによつて客観的に明らかとなる。

被告水俣工場の昭和三二年ないし同三四年当時の排水は、当時の大阪府条例の排液基準及び工場排水の規制が厳しくなりその後、水質保全法の実施をみてからの同法による水質基準のいずれにもほぼ適合しており、更に水道法による現行の水質基準と対比してもさほどの差はないのである。このことは被告水俣工場の排水処理が適切に行なわれていたことの何よりの証左である。

四請求原因第四項の「原告らの蒙つた損害」につき

イ原告ら主張のイの事実は争う。

1 一律請求については次のように考える。

原告らは、慰謝料額を、死者・超重症者一、八〇〇万円、重症者一、七〇〇万円、軽症者一、六〇〇万円、患者の近親者三〇〇万円なし六〇〇万円に統一し、一律の請求をしている。

しかしながら原告ら患者の病状には、一見して顕著な相違がある以上、慰謝料額について格差があつて然るべきである。

そもそも「故意又は過失によつて、他人に対し、精神的損害を与えたものは、相当な額の慰謝料を支払わねばならない」ということは社会的・法的規範であり、この慰謝料問題につき公平・妥当な解決をするために客観的な算定の基準がなければならない。

しかして慰謝料額の算定の基準は、一般的に被害の程度、被害者の職業、性別、年令、収入、生活状態、加害者の故意、過失の別や程度、資産、見舞金交付の有無等被害者、加害者双方についての一切の事情であり、裁判所は、これら一切の事情および同種ないしは類似事案の先例(判例)等を斟酌し、公平の理念にもとづいて、その自由なる裁量によつて慰謝料額を決定すべきものとされているのである。

したがつて慰謝料額は、個々の患者の病状の程度、発病の時期、病状の推移、発病時の年令、性別、収入の有無、死亡患者にあつては死亡時の年令、職業、収入等々具体的事情を斟酌すべきである。

そうだとすれば、原告ら患者の病状には、一見して顕著の相違がある以上、その慰謝料額については当然これによる格差があつて然るべきである。しかるにこれを殆んど無視した原告らの一律請求には実質的にも合理的な根拠がないものといわざるをえない。

2 慰謝料額の算定に当つては、被告側に有利な次の点を十分考慮すべきである。

(一) 本件不法行為責任として、仮に被告に過失ありとしても、既述のとおりその程度は新潟水俣病における昭和電工の過失に比し著しく軽い。

(二) いわゆる本件見舞金契約が、和解契約でないとしても、単なる贈与としては異常に高額な金員を被告は支給してきたものであり、このことは被告が相当の誠意を示していたことを証するのである。

(三) 原告らと全く同様の境遇にある患者らの約三分の二の人達と被告との間には、いわゆる千種委員会の調停により円満に和解が成立していること。

慰謝料額の公平といい、正義というのは、同種ないし類似の事案は同様に取扱うということである。

そうだとすれば右調停における決定額、症状のランク付け等は本件における損害額の決定についても十分参酌すべき資料というべきである。

3 左記一覧表記載の原告は、左記の各患者の水俣病罹患について、被告に対しては慰謝料請求権を取得する余地はなく、その主張は失当である。

(一) 左記のいずれの原告も、養子縁組、出生あるいは婚姻の事由によつて、患者との間に養子、実子あるいは妻という一定の身分を取得しているが、この身分取得の事由の発生は、いずれも患者が水俣病に罹患して長時間を経た後のことであり、さらにほとんどの左記原告は、患者が水俣病であるとの認定をうけ、また被告と患者との間で和解契約が締結された後に、養子縁組、婚姻等を行なつてその身分を取得したものである。

(二) 被害者に対し一定の身分関係にある者は、被害者と別に固有の慰謝料請求権を取得するものとされている(民法第七一一条)が、かかる身分を取得したときより前に、既に被害が発生してしまつている場合には、固有の慰謝料請求権を取得する余地はない。この唯一の例外として被害発生の際、既に胎児であつた者には出生を条件として固有の慰謝料請求権が認められている(民法七二一条)のであるが、左記原告は、いずれもこの例外に該当しない。

ロ原告ら主張のロの1ないし30の各(一)の事実は不知。

同1ないし30の各(二)・(三)の事実につき、原告ら主張の患者が水俣病患者であり、原告ら主張の頃に発病しあるいは死亡したことは認める。その余の事実は不知。

患者

原告

氏名

原告主張

発病年月日

水俣病

認定年月日

被告との

間の和解

契約年月日

氏名

患者との

関係

身分取得事由

及び年月日

田上義春

31.7

31.12.1

34.12.30

田上京子

田上由里

田上里加

婚姻38.7.29

出生39.6.20

出生42.2.12

荒木辰雄

(40.2.6死亡)

29.7

32.10.15

34.12.30

荒木止

養子

縁組39.8.21

前嶋武義

31.6

31.12.1

34.12.30

前嶋一則

養子

縁組40.7.21

松本トミエ

34.10

45.6.19

松本博

養子

縁組43.10.8

杉本進

(44.7.29死亡)

33.10

36.8.7

36.10.12

杉本雄

養子

縁組35.8.29

杉本トシ

33.3

34.9.18

34.12.30

杉本雄

養子

縁組38.8.29

ハ弁護士費用についての原告らの主張事実は不知。

第四抗弁

一和解による損害賠償請求権放棄の抗弁

仮に原告ら主張の損害賠償請求権が認められるとしても、以下に述べるとおり、本件和解契約の効力を受ける各原告の右請求権は、もはや行使できないものである。

1  契約の当事者

被告は、別紙〔七〕の〔四〕契約時期別見舞金契約当事者一覧表の「患者氏名」欄記載の者(但し、氏名の頭部に(亡)の字を冠した者、即ち契約締結時に既に死亡していた者は除く)及び同表の「近親者氏名」欄記載の者(契約締結時に生存していた死亡者を含む)らと、、左記七回にわたり、いずれも別紙〔七〕の〔一〕契約書、〔七〕の〔三〕覚書、〔七〕の〔三〕了解事項記載のとおりの内容の和解契約を締結した。

① 第一次契約、昭和三四年一二月三〇日。

② 第二次契約、同三五年四月二六日。

③ 第三次契約、同三五年一二月二七日。

④ 第四次契約、同三六年一〇月一二日。

⑤ 第五次契約、同三七年一二月二七日。

⑥ 第六次契約、同三九年八月一二日。

⑦ 第七次契約、同四四年六月一六日。

2  契約の内容

本件和解契約(以下「本件契約」という。)の内容は別紙〔七〕の〔一〕契約書、同〔七〕の〔二〕覚書、同〔七〕の〔三〕了解事項に各記載のとおりであつて、(但し、右契約に基づく年金、弔慰金、葬祭料の金額については後記b記載の通り、昭和三九年四月一七日、同四〇年五月二一日、同四一年六月三〇日、同四三年三月六日と四回にわたり増額変更されたので、右の第六次及び第七次の契約における年金等の金額は、それぞれ右により増額変更された金額と同額に定められた。)その要旨は左記aの1ないし7のとおりである。

a

1  被告は水俣病患者(すでに死亡した者を含む。以下「患者」という。)に対する見舞金として次の要領により算出した金額を交付する。

(一) すでに死亡した者の場合

(1) 発病の時に成年に達していた者

発病の時から死亡の時までの年数を一〇万円に乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

(2) 発病の時に未成年であつた者

発病の時から死亡の時までの年数を三万円に乗じて得た金額に、弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

(二) 生存している者の場合

(1) 発病の時に成年に達していた者

(イ) 発病の時から昭和三四年一二月三一日までの年数を一〇万円に乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は毎年一〇万円の年金を支払う。

(2) 発病の時に未成年であつた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月三一日までの間、未成年であつた期間については、その年数を三万円に、成年に達した後の期間については、その年数を五万円に乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は成年に達するまでの期間は毎年三万円を、成年に達した後の期間については毎年五万円を年金として支払う。

(三) 年金の交付を受ける者が死亡した場合

すでに死亡した者の場合に準じ弔慰金及び葬祭料を一時金として支払い、死亡の月を以て年金の交付を打切るものとする。

(四) 年金の一時払いについて

(1) 水俣病患者診査協議会(以下「協議会」という)が症状が安定し、又は軽微であると認定した者(患者が未成年である場合はその親権者)が年金にかえて一時金の交付を希望する場合は、被告は希望の月をもつて年金の交付を打切り、一時金として二〇万円を支払うものとする。但し、一時金の交付希望申し入れの期間は本契約締結後半年以内とする。

(2) (1)による一時金の支払いを受けた者は、爾後の見舞金に関する一切の請求権を放棄したものとする。(以上別紙〔七〕の〔一〕契約書第一条)

2 被告の相手方に対する見舞金の支払は、所要の金額を日本赤十字社熊本県支部水俣市地区長に寄託し、その配分方を依頼するものとする。(別紙〔七〕の〔一〕契約書第二条)

3  本契約締結日以降において発生した患者(協議会の認定した者)に対する見舞金については、被告はこの契約の内容に準じて別途交付するものとする。

(同契約書第三条)

4  被告は将来水俣病が被告の工場排水に起因しないことが決定した場合においては、その月をもつて見舞金の交付は打切るものとする。(同契約書第四条)

5  相手方は将来水俣病が被告の工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行なわないものとする。(同契約書第五条)

6 前記見舞金には患者の近親者(父母、配偶者、子)に対する慰謝料を含むものとする。(別紙〔七〕の〔二〕覚書第二項)

7 将来物価の著しい変動を生じた場合は、当事者何れかの申入れにより双方協議の上年金額の改訂を行なうことができる。(別紙〔七〕の〔三〕了解事項)

b

右契約内容はその後、前記年金、弔慰金、葬祭料につき、次の通り増額変更された。

(一) 昭和三九年四月一七日変更契約

(1) 発病時成年に達していた者の年金額を年額一〇万五、〇〇〇円とする。但し、重症と認められる者については、年額一一万五、〇〇〇円とする。

(2) 発病時未成年であつた者の年金額を、成年に達するまで年額五万円、成年に達した後年額八万円とする。

(3) 以上の変更は、昭和三九年二月一日より実施する。

(二) 昭和四〇年五月二一日変更契約

(1) 発病時未成年であつた者が成年に達した後の年金額について、満二五歳に達した後は年額一〇万円とし、重症と認められた者についてはこれを年額一〇万五、〇〇〇円とする。

(2) 以上の変更は昭和四〇年五月一日より実施する。

(三) 昭和四一年六月三〇日変更契約

(1) 年金の交付を受ける者が死亡した場合の弔慰金を四五万円とし、葬祭料を五万円とする。

(2) 以上の変更は昭和四一年六月三〇日より実施する。

(四) 昭和四三年三月六日変更契約

(1) 発病時成年に達していた者の年金額を年額一四万円とする。

(2) 発病時未成年であつた者の年金額を、成年に達するまで年額七万五、〇〇〇円、成年に達した後年額一四万円とする。

(3) 以上の変更は昭和四三年三月一日から実施する。

3 代理人による契約の締結

(一) 第一次ないし第七次の本件各契約は、いずれも次に述べるとおり、被告会社の代理人と、患者ら及びその近親者である当事者本人又はその代理人間で締結されたものである。

即ち、

(1) 昭和三四年一二月三〇日、被告会社代表取締役吉岡喜一の代理人である水俣工場長西田栄一と、別紙〔七〕の〔四〕契約時期別見舞金契約当事者一覧表(一)記載の同日における生存患者本人及び同表(一)の「近親者氏名」欄記載の者らの代理人である渡辺栄蔵、中津美芳、竹下武吉、中岡さつき、尾上光義、前田則義との間で、

(2) 昭和三五年四月二六日、前記西田栄一と、同表(二)記載の釜トメオ及び釜時良をも代理する釜鶴松本人との間で、

(3) 昭和三五年一二月二七日、被告会社代表取締役吉岡喜一の代理人である水俣工場長北川勤哉と、同表(三)の「近親者氏名」欄記載の者をも代理する牛嶋直本人及び平木栄本人との間で、

(4) 昭和三六年一〇月一二日、前記北川勤哉と、同表(四)の「近親者氏名」欄記載の者をも代理する杉本進本人との間で、

(5) 昭和三七年一二月二七日、右北川勤哉と、同表(五)記載の未成年の患者本人をも代理するそれらの父母本人(ただし、患者渡辺政秋については、同患者およびその父母を代理する祖父渡辺栄蔵)との間で、

(6) 昭和三九年八月一二日、被告会社代表取締役吉岡喜一の代理人である水俣工場長児玉義忠と、同表(六)記載の未成年の患者本人およびそれらの母をも代理するそれらの父本人との間で、

(7) 昭和四四年六月一六日、被告会社代表取締役江頭豊の代理人である水俣支社長佐々木三郎と、同表(七)記載の死亡患者渡辺シズエの相続人である子供(同表(七)の「近親者氏名」欄記載の者)をも代理する夫渡辺栄蔵本人との間で、

それぞれ和解契約を締結した。

(二) 代理権の存在

(1) 患者及びその家族で構成されていた水俣病患者家庭互助会は、昭和三四年一一月二五日同会の会計担当尾上光義方において聴時総会を開き、被告会社に対して、補償要求を行なうことを決議し、互助会会長渡辺栄蔵、副会長中津美芳、前記尾上光義の他、会員中より竹下武吉、中岡さつき、前田則義の三名を加えた六名を交渉委員に選出し、右六名に補償交渉並びに契約締結に関する一切の権限を付与した。

(2) 第二次ないし第七次の各契約については、前記3「代理人による契約の締結」の(一)の(2)ないし(7)記載のとおり、右記載の患者側各当事者は同記載の各代理人に本件契約締結の代理権を与えた。

(三) 無権代理行為の追認

別紙〔七〕の〔四〕記載の患者・近親者の内に、本件契約締結の代理権を前記3「代理人による契約の締結」の(一)の(1)ないし(7)記載の代理人に授与しなかつた者があるとしても、これらの者は、右代理人の無権代理による本件契約締結の事実を知りながら同契約に基づく支払金を自ら又は代理人たる患者若しくは患者の相続人らにより受領し、かつ右支払金の受領を知りながら、本訴提起に至るまで何らの異議を述べず、これを承認してきたものであるから、右各契約を追認したものというべきである。

4しかして、これら和解契約の効力を受ける各原告の本件損害賠償請求権については、いずれも和解条項中に「将来新たな補償金の要求は一切行わないものとする」旨のいわゆる権利放棄条項があるから、右和解により損害賠償請求権はもはや行使できないものである。

二消滅時効の抗弁

1仮に前記一の抗弁が認められず、原告らに損害賠償請求権があるとしても、原告らが損害及び加害者を知つた時(後記2の起算点)から、既に三年以上経過しているから、右請求権はいずれも時効により消滅している。

2  消滅時効の起算点

水俣病が被告水俣工場の排水に起因すると原告らが知つたことが明らかである左記の各時が、それぞれ前記消滅時効の起算点である。即ち、

(イ)別紙〔七〕の〔四〕の「契約時期別見舞金契約当事者一覧表」(一)昭和三四年一二月三〇日(第一次)契約の患者氏名・近親者氏名各欄記載の原告ら及び原告緒方新蔵(亡緒方リツ訴訟承継人)については、遅くとも同人らが被告に対し損害補償金の請求をした日、即ち、昭和三四年一一月二五日であり、

(ロ) その余の原告らについては、別紙〔三〕患者一覧表記載の患者らがそれぞれ水俣病であるとの認定を受けた時(いずれも昭和三五年以降の同表の認定年月日欄記載の日)である。

3被告は本訴において右消滅時効を援用する。

三一部弁済の抗弁

仮に本件和解契約および消滅時効についての被告の各主張がいずれも認められないとしても、右和解契約に基づく支払金は、実質上は原告らの請求する損害賠償金の性質を有するものである。

しかして、昭和四七年一〇月一四日(本件口頭弁論終結時)の時点において、各原告別の本件契約に基づく年金・弔慰金・葬祭料の支払ずみ各金額及びその合計額は、別紙〔八〕の〔一〕・〔二〕見舞金契約の患者側当事者、見舞金額一覧表(死亡患者関係・生存患者関係)の見舞金額欄に記載のとおりである。よつて原告らの各本訴請求は、別紙〔八〕の〔一〕・〔二〕の一覧表記載のとおりの各金員の限度において、理由がない。

第五抗弁に対する原告らの陳述

一和解による損害賠償請求権放棄の抗弁は争う

1  合意の不存在

被告主張のような各和解契約が締結されたことは否認する。

本件契約については、両当事者の意思の合致がないから、契約は成立していない。

2  代理権の不存在

被告主張の患者側各代理人には、いずれも本件契約締結についての代理権はなかつた。したがつて、本件契約の締結は無権代理行為というべきである。

なお被告の主張する追認の事実は、同契約内容中別紙〔七〕の〔一〕契約書の第四条・第五条(権利放棄条項)及び別紙〔七〕の〔二〕覚書の第二項・第六項・第七項を除いて、これを認める。

3  本件契約の性質

仮に本件契約につき、両当事者に合意があつたとしても、本件契約は損害賠償を内容とする民法第六九五条にいう和解契約ではなくして、無名契約たる見舞金契約である。

即ち、

(一) 右契約は、別紙〔七〕の〔一〕の契約書の第四条及び第五条(被告の抗弁一の2「契約の内容」aの4及び5)が示すように、水俣病が被告の工場廃液に起因するか否かが全く不明であるという立場で締結されたもので、支払われる金員も「見舞金」という文言で統一しているとおり、右工場廃液により起きた損害を賠償するという趣旨で結ばれた契約ではない。

(二) 右契約においては、当事者間の権利義務の互譲がない。

(三) 支払われる金額は、被害の甚大さに比して、極端に低額である。

二消滅時効の抗弁は争う

被告の起算点に関する主張は争う。原告らは、昭和四三年九月二六日の水俣病についての政府見解発表の段階になつて、はじめて「加害者」を知つたものというべきである。

消滅時効の起算点として民法第七二四条に「損害及び加害者を知つた時より」とあるのは、被害者が現実の加害者ないし損害を合理的な方法で挙証し得る程度に具体的資料にもとづいて知りたる時と解すべきである(東京地方裁判所昭和四五年一月二八日(同三五年(ワ)第三、七五一号)判決参照)。しかるに、被告主張の起算点である昭和三四年一一月二五日の見舞金請求時ないしそれ以降の水俣病各認定時においては、水俣病の原因について、原告らは被告水俣工場の廃液に疑いが向けられているという程度のことを新聞等によつて知つていたに過ぎないのに反し、被告は右の工場廃液への疑いにつき徹底的にこれを争つていたし、また被告の見解に沿う学者の反論もなされていたのであるから、結局原告らの認識はまだ憶測の域を出なかつたものである。

原告らは、前記政府見解発表によつて、原告らの憶測していたことが真実であつたことを知つたのであるから、政府見解発表の段階になつてはじめて「加害者」を知つたというべきである。

三一部弁済の抗弁について

別紙〔八〕の〔一〕・〔二〕の一覧表記載の原告らが同表見舞金額欄記載の各金員を受取つたことは認めるが、右は損害賠償金の性質を有しない見舞金として受取つたに過ぎない。

第六和解による損害賠償請求権放棄の抗弁に対する再抗弁

仮に、本件契約が見舞金契約ではなく、被告主張のとおり民法第六九五条にいう和解契約として成立しているとしても、右契約は次に述べる理由により無効であり、また取消さるべきものである。

一要素の錯誤

本件契約は、契約書第四条、第五条自体に明示されているように、水俣病が被告の工場廃水に起因するか否かが不明であることを前提として締結された。水俣病が被告工場廃水に起因するという事実がもし前提とされていたならば、僅少な金額の支払いを内容とする本件契約が原告側によつて受諾される筈はなかつたのであるから、本件契約の意思表示は、その重要な部分に錯誤があり、無効である。

二公序良俗違反

(一)  原告らを含む水俣病患者家族らは、本件契約締結当時、いずれも生活困窮の極にあつた。

殊に第一次契約締結の昭和三四年一二月三〇日当時、地域社会において巨大な力を有していた被告に比し、原告らは自ら或いは肉親が水俣病特有の悲惨な病状に苦しみ、あるいは生活の糧である魚が水俣病を恐れられて売れなくなり、あるいは働き手は患者の介助に手を取られて無収入となり、僅かの財産をも手放して日々の生活に窮迫し、しかも地域社会からは差別され孤立し、もしこの機会を逃せば二度と見舞金は貰えないという焦燥感のもと、のどから手の出る程金の欲しい年の瀬に乗じて、極めて低額の見舞金の支給とその余の損害賠償請求権の放棄とを内容とする本件契約をおしつけられ、これをのんだものである。

第二次ないし第七次の各契約においても、右各契約締結当時その当事者たる原告らもしくはその家族が、水俣病に苦しみ生活に窮迫していたことは第一次契約締結の場合と同様である。

(二)  これに反し被告は、本件各契約締結当時、水俣工場廃水が水俣病の原因であることを知りながら、これを対外的に秘し、右廃水が原因であるか否か不明という前提にたつて、本件契約を結んだのである。

被告は本件第一次契約締結時(昭和三四年一二月三〇日)以前に、おそくとも同年一〇月七日より短時日の後に、水俣病が被告水俣工場廃水に起因することを知つていたのである。即ち、

(1) かねて昭和三一年一一月四日熊本大学水俣奇病研究班の重金属説発表によつて被告工場の廃水が疑われていたところ、昭和三三年九月アセトアルデヒド醋酸設備廃水を従来の百間排水溝から水俣河口に変更するに際し、同河口方面に患者が発生すれば水俣工場廃水が原因であることの証明になるとの細川医師の注意にもかかわらず、これを強行し予測どおりの現象が発生した。

(2) 被告が実施した実験猫四〇〇号の昭和三四年一〇月七日の発症によつて、被告は醋酸廃水すなわちアセトアルデヒド製造工程からの廃水が動物に水俣病を発症させることを知つた。

(3) 本項冒頭に述べたとおり、被告が原因秘匿のもとで契約を締結した事実は、第二次ないし第七次契約においても同様である。

しかも昭和三六年被告水俣工場が、また同三七年には熊本大学入鹿山教授が、アセトアルデヒド製造工場のスラッジから塩化メチル水銀を結晶として取り出すことに成功しているのに、第五次ないし第七次契約において、被告は依然として原因不明を前提とする契約を新認定患者と結んでいる。

更に、第七次契約締結の時点においては、すでに水俣病の原因に関する政府の公式見解の発表がなされていたのにかかわらず、権利放棄条項を含む本件契約を被告は締結しているのであるから、このことは公序良俗違反性を強度にするものである。

(三)  本件契約書の第四条(抗弁一の2「契約の内容」aの4参照)は工場排水が水俣病の原因でないと判つたら見舞金を打ち切るという内容のものであるから、逆に工場排水が水俣病の原因であると判つた場合には正当な損害賠償に応ずるというのが道理である。しかるに右契約書の第五条(権利放棄条項)は、工場排水が水俣病の原因であると判つても新たな損害賠償は一切行わないという内容のものであるから、被告に一方的に有利な条項である。

(四)  以上(一)・(二)・(三)項に述べた諸事情のもとで、原告らの蒙つた被害に比し著しく僅少な金員を出捐することによつて一切の損害賠償請求権を失わせることを内容とする本件契約は、公序良俗に反し、民法第九〇条によつて無効である。

三詐欺による取消

(一)  仮に前記要素の錯誤及び公序良俗違反による無効の各主張が認められないとしても、前記二の(二)で述べたとおり、被告は本件契約締結以前であるおそくとも昭和三四年一〇月(同月七日の猫四〇〇号発症の短時日後)には、水俣病が被告水俣工場廃水に起因することを知りながら、なお原因不明であるとして原告らを欺き右契約を締結させたのは、まさに詐欺によるものである。

(二)  よつて、原告らは本訴において、被告に対しそれぞれ右契約の取消の意思表示をなした。

第七再抗弁に対する被告の陳述

一要素の錯誤による無効の主張は争う。

原告らは、本件契約が締結された当時、水俣病の原因が不明であるとは考えておらず、工場廃液に起因すると信じていたからこそ、損害賠償金を請求して坐り込みまでしたのであつて、原告らは錯誤におちいつていなかつた。また、原告らが錯誤の主張の前提とする事実、即ち、水俣病が工場排水に起因するか否かということは、まさに本件和解契約の争いの対象そのもので、当事者が争いの対象とし、互譲によつて解決した事項であるから、これにつき錯誤があつたとしても、和解の効果がこれによつて左右されることはなく、原告らの主張は失当である。

錯誤を基礎づける事情として原告らが主張する金額の僅少性についても、第一次契約における支払金の総額は九、二三七万円余(患者一人当り平均一一六万円余)となるのであつて、当時としては損害賠償問題解決の和解金としては相当な金額であつた。

二公序良俗違反による無効の主張は争う。

原告らの主張は、以下に述べるとおり、事実を無視した虚構の上に立つ議論である。

被告が、原告らの窮状につけこんで本件契約を押しつけたという事実は全くない。もともと本件契約は、調停委員会作成の調停案受諾に伴つて締結されたものであつて、当事者が直接交渉して締結したものではなく、調停にとりあげるよう要請したのも原告らである。

本件契約締結当時、被告は、水俣病が被告工場廃液に起因することは知らず、したがつてそのことを知りながらこれを秘して右契約を結んだような事実は全くない。和解契約の衝に当つていた社長、工場長らは全く猫四〇〇号実験結果を知らなかつた。本件契約に基づき支払われた金額の妥当性について、今日の感覚では低額の感を与えることがあるとしても、当時としては和解金として相当な額であることは、前記一項において述べたとおりである。また損害賠償請求権の存否及びその額が争いとなつて和解契約が行われる場合、実際の損害額全部を補償しなければならない理由はない。

三詐欺による取消の主張については、被告会社附属病院において猫実験をしていたことを除き、その余の事実はいずれも否認する。

被告は工場廃液が水俣病の原因であることを知らなかつたし、ましてこの点に関し原告らを欺罔するなどということはありえない。

即ち、

(1)  実験の担当者であり、その結果を判定しうる立場の細川、小嶋らの医師達も、和解契約当時においては、未だ水俣病の原因は工場排水にあるとは判断していなかつたのであり、この点について被告が原告らを欺罔する意思を持ちうべくもない。

(2)  しかも、動物実験の結果、特に猫四〇〇号の実験結果を知つていた細川らが本件和解契約の衝に当つていたわけではないのであつて、かかる実験結果を知らぬ社長、工場長らの契約担当者が、これを秘匿したとか、欺したとかいわれる余地はない。

(3)  さらにまた、原告らの損害賠償の請求につき、被告はもとより過失責任ありとは考えていなかつたのであるが、他方、原告らは、もともと因果関係につき水俣病の原因が被告の工場排水に起因すると信じて損害賠償の請求をしていたのであり、調停委員会もまた、工場排水に原因があることは社会的に認められた事実であるとの前提に立つて調停を行なつたのである。

(4)  したがつて、契約担当者が被告水俣工場において行なわれた動物実験の結果(これより被告に原因ありとの判断がされていなかつたことも前述したとおりである)を原告らに述べていないことは、何ら原告らを欺罔したことにはならず、またこれによつて原告らは何ら錯誤におちいつたものでもない。

以上により、詐欺により取消すとの原告の主張は失当である。

第八請求原因及び再抗弁を理由あらしめるその余の事実、並びに被告の各主張に対するその余の反論

別紙昭和四七年一〇月一四日付原告最終準備書面、

昭和四四年七月三一日付原告第一準備書面(但し、三を除く)、

昭和四五年一月一四日付原告第二準備書面(但し、第三及び第四を除く)、

昭和四五年九月一四日付原告第五準備書面

にそれぞれ記載のとおり。

殊に、

(1)  被告の行為と被害の発生との因果関係につき、最終準備書面第二篇第二章「汚悪水論」及び同第三章「因果関係論」に、

(2)  被告の責任につき、最終準備書面第二篇第一章「総論」、同第二章「汚悪水論」、同第四章「責任論」、同第六章第二「チッソの犯罪性」・第三「被害者の犠牲」及び第一準備書面四、「被告の過失について」、第二準備書面第一「過失」・第二「毒物及び劇物取締法の解釈」及び第五準備書面に、

(3)  原告らの蒙つた被害及び損害につき、最終準備書面第一篇第一章「原告らの叫び」、同第二篇第六章「損害論」に、

(4)  被告主張の和解の抗弁に対し、また原告主張の再抗弁につき、最終準備書面第二篇第五章「見舞金契約論」に、

それぞれ記載のとおり。

第九抗弁を理由あらしめるその余の事実、並びに原告らの各主張に対するその余の反論

別紙昭和四七年一〇月一四日付被告最終準備書面、

昭和四四年一二月二七日付被告第二準備書面(但し、第三を除く)、

昭和四五年五月一六日付被告第三準備書面(但し、第三を除く)、

昭和四五年一〇月一四日付被告第四準備書面

にそれぞれ記載のとおり。

殊に、

(1)  過失責任に関する原告らの主張に対して、最終準備書面第一「被告の無過失(その一)」・第二「被告の無過失(その二)」・第三「その他原告らの主張する過失について」、及び第二準備書面第一「被告の無過失について」、第三準備書面第二「原告らの主張する過失について」、第四準備書面第一「被告の過失について」・第二「原告第五準備書面記載のその余の主張事実について」に、

(2)  原告らの被害及び損害に関する主張に対して、最終準備書面第六「損害論について」及び第四準備書面第三「原告の請求する慰藉料について」・第五に、

(3)  被告主張の和解の抗弁につき、また原告主張の再抗弁に対して、最終準備書面第四「和解について」及び第三準備書面第一「和解契約について」・第四「原告らの昭和四五年四月二五日付求釈明書に対する釈明」、第四準備書面第四「和解契約が要素の錯誤により無効であるとの原告らの主張について」に、

それぞれ記載のとおり。

第一〇証拠関係<略>

理由目次

(書証の引用について)

第一 当事者

一 原告ら

1ないし30

二 被告

第二 因果関係

二 因果関係の存否についての判断資料

1 水俣病の発見

2 水俣病の発生状況

3 水俣病の臨床所見

(一) 主要症状

(二) 胎児性(先天性)水俣病の特色

(三) 毛髪中の水銀含有量

4 水俣病の病理的所見

5 水俣病に関する動物実験

6 水俣病の原因物質としてのマンガン説その他諸説の検討

7 被告工場のアセトアルデヒド製造工程における有機水銀化合物(塩化メチル水銀)の生成など

8 被告工場廃水、ことにアセトアルデヒド廃水および塩化ビニール廃水について

9 熊大による研究の結論・政府見解など

第三 被告の責任(過失)

一および二

1 環境異変について

2 漁業補償をめぐつて

3 水俣病の原因究明に関連して

4 工場廃水の処理状況水銀流出量などについて

(一)ないし(三)

5 猫実験、ことに猫四〇〇号をめぐつて

第四 見舞金契約について

二 昭和三四年一二月三〇日第一次見舞金契約が締結されるに至るまでのいきさつ

1ないし15

三 右第一次見舞金契約の原告らに対する効力

1ないし3

四 第二次以降第七次までの見舞金契約の締結と契約内容の改定

1 第二次見舞金契約の締結――亡釜鶴松、原告釜トメヲ、同釜時良関係

2 第三次見舞金契約の締結

(一)原告牛嶋直、同牛嶋フミ関係

(二)亡平木栄、原告平木トメ、同河上信子、同田口甲子、同平木隆子、同斎藤英子関係

3 第四次見舞金契約の締結――亡杉本進、原告杉本トシ、同杉本栄子、同杉本雄関係

4 第五次見舞金契約の締結

(一)原告渡辺政秋、同渡辺保、同渡辺マツ関係

(二)原告坂本しのぶ、同坂本武義、同坂本フジエ関係

(三)原告上村智子、同上村好男、同上村良子関係

5 見舞金契約の改定(第一回)

6 第六次見舞金契約の締結

(一)原告浜田良次、同浜田義行、同浜田シズエ関係

(二)原告松本俊子、同松本俊郎、同松本トミエ関係

7 見舞金契約の改定(第二・三回)

8 第七次見舞金契約の締結――亡渡辺シズエ、原告渡辺栄蔵、同渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子関係

五 本件見舞金契約および見舞金の性格

1ないし3

六 本件見舞金契約が公序良俗に違反するとの主張に対する判断

1

2 本件見舞金契約締結の際の被告側の態度

3 患者、家族の側の事情

(一)((1)ないし(3))、(二)

4 見舞金額の検討など

(一)、(二)((イ)ないし(ホ))、(三)((1)、(2))(四)〔(1)((Ⅰ)ないし(Ⅲ))、(2)ないし(5)、(6)((Ⅰ)ないし(Ⅲ)〕

5 要約

第五 消滅時効の抗弁について

1ないし3

1

2〔(一)、(二)((1)ないし(4))、(三)、(四)〕

第六 損害

1ないし6

1 原告渡辺栄蔵、同渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子、同渡辺マツ、同靏野松代、同渡辺栄一、同渡辺政秋について

(一)ないし(四)

2 原告釜トメオ、同釜時良について

(一)、(二)

3 原告浜田義行、同浜田シズエ、同山下よし子、同浜田義一、同浜田ひろ子、同浜田良次、同白川タミについて

(一)、(二)

4 原告牛嶋直、同牛嶋フミについて

(一)、(二)

5 原告杉本トシ、同杉本栄子、同杉本雄、同鴨川シメについて

(一)ないし(三)

6 原告淵上才蔵、同淵上フミ子について

(一)、(二)

7 原告松田ケサキク、同松田冨美、同松田末男、同松田富次、同永田タエ子、同中岡ユキ子について

(一)、(二)

8 原告坂本嘉吉、同坂本トキノについて

(一)、(二)

9 原告坂本武義、同坂本フジエ、同坂本しのぶについて

(一)ないし(三)

10 原告坂本タカエ、坂本ミキ、坂本敦子について

(一)、(二)

11 原告岩本栄作、同岩本マツエ、同岩本昭則について

(一)、(二)

12 原告上村好男、同上村良子、同上村智子について

(一)、(二)

13 原告浜元一正、同田中一徳、同浜元二徳、同原田カヤノ、同浜元フミヨ、同藤田ハスヨ、同浜元ハルエについて

(一)ないし(四)

14 原告溝口忠明、同溝口マスエについて

(一)、(二)

15 原告田上義春、同田上京子、同田上由里、同田上里加、千々岩ツヤについて

(一)、(二)

16 原告坂本マスヲ、同坂本実、同坂本輝喜、同緒方新蔵について

(一)ないし(三)

17 原告荒木愛野、同荒木洋子、同荒木止、同荒木節子、同荒木辰已について

(一)、(二)

18 原告松本俊郎、同松本トミエ、同松本ヒサエ、同松本博、同松本ふさえ、同松本俊子、同松本福次、同松本ムネについて

(一)ないし(三)

19 原告田中義光、同田中アサヲ、同田中実子、同田中昭安について

(一)ないし(三)

20 原告江郷下美善、同江郷下マス、同渡辺ミチ子、同宮本エミ子、同江郷下実、同桑原アツ子、同江郷下実美、同江郷下一美、同江郷下美一について

(一)ないし(四)

21 原告平木トメ、同河上信子、同田口甲子、同平木隆子、同斎藤英子について

(一)、(二)

22 原告尾上光雄、同尾上ハルエ、同尾上敬二について

(一)、(二)

23 原告長島アキノ、同原田フミエ、同長島政広、同長島タツエ、同三幣タエ子、同長島努について

(一)、(二)

24 原告前嶋武義、同前嶋サヲ、同前嶋ハツ子、同緒方ツユ子、同前嶋一則について

(一)、(二)

25 原告中村シメ、同中村俊也、同中村真男、同川添己三子、同都築律子、同中村敦子、同中村由美子について

(一)、(二)

26 原告尾上時義、同尾上勝行、同尾上唯勝、同真野幸子、同千々岩信子について

(一)、(二)

27 原告田中フジノ、同田中春義、同田中安一、同田中重義、同荒川スギノについて

(一)、(二)

28 原告荒木幾松、同荒木ルイ、同荒木康子について

(一)、(二)

29 原告築地原司、同築地原シエについて

(一)、(二)

30 原告諫山茂、同諫山レイ子、同諫山孝子、同諫山モリについて

(一)ないし(三)

第七 一部弁済の抗弁

第八 結論

(引用書類)

理由

(書証の引用について)

当事者双方から提出された書証、その成立の認否および成立に争いのあるものについてその成立を認めた証拠は別紙〔四〕書証目録記載のとおりであるが、以下引用する書証については、単に書証番号のみを掲記することゝする。

第一当事者

一原告ら

甲第一八五号証の一〇ないし一七、同第一八六・第一八七号証の各一〇・一一、同第一八八号証の二、同第一八九号証の四ないし六、同第一九〇号証の三、同第一九一号証の九ないし一四、同第一九二号証の七・八、同第一九三号証の七、同第一九四号証の五・六、同第一九五号証の五、同第一九六号証の七、同第一九七号証の七ないし一三、同第一九八号証の三、同第一九九号証の五、同第二〇〇号証の五ないし八、同第二〇一号証の三・四、同第二〇二号証の一一ないし一三、同第二〇三号証の九、同第二〇四号証の九ないし一三、同第二〇五号証の六ないし九、同第二〇六号証の五・六、同第二〇七号証の五ないし八、同第二〇八号証の五ないし七、同第二〇九・第二一〇号証の各三ないし七、同第二一一号証の六ないし一一、同第二一二ないし第二一四号証の各四、同第二二一号証乙第三号証の四によれば、次の事実がたやすく認められる。

1原告(1)渡辺栄蔵は、昭和四四年二月一九日死亡した渡辺シズエの夫であり、同(2)渡辺保は右両名間の長男、同(3)渡辺信太郎は二男、同(4)渡辺三郎は三男、同(5)渡辺大吉は四男、同(6)石田良子は長女、同(7)石田菊子は二女であつて、同(8)渡辺マツは前記保の妻であり、同(9)靏野松代は右保とマツ間の長女、同(10)渡辺栄一は長男、同(11)渡辺政秋は二男である。

2原告(12)釜トメオは、昭和三五年一〇月一二日死亡した釜鶴松の妻であり、同(13)釜時良は右両名間の長男である。

3原告(14)浜田義行と同(15)浜田シズエは夫婦であり、同(16)山下よし子は右両名間の長女、同(17)浜田義一は長男、同(18)浜田ひろ子は二女、同(19)浜田良次は二男であつて、同(20)白川タミは前記シズエの母である。

4原告(21)牛嶋直と同(22)牛嶋フミは夫婦である。

5原告(23)杉本トシは、昭和四四年七月二九日死亡した杉本進の妻であり、同(24)杉本栄子は昭和二〇年四月一七日右両名の養女となり、同(25)杉本雄は昭和三五年八月二九日右栄子と結婚すると同時に前記両名の養子となり、同(26)鴨川シメは前記トシの母である。

6原告(27)渕上才蔵と同(28)渕上フミ子は夫婦であり、昭和三二年七月一一日死亡した渕上洋子は右両名間の二女である。

7原告(29)松田ケサキクは、昭和三五年五月一〇日死亡した松田勘次の妻であり、昭和三一年九月三日死亡した松田フミ子は右両名間の長女、同(30)松田冨美は長男、同(31)松田末男は二男同(32)松田富次は三男、同(33)永田タエ子は二女、同(34)中岡ユキ子は三女である。

8原告(35)坂本嘉吉と同(36)坂本トキノは夫婦であり、昭和三三年七月二七日死亡した坂本キヨ子は右両名間の二女である。

9原告(37)坂本武義と同(38)坂本フジエは夫婦であり、昭和三三年一月三日死亡した坂本真由美は右両名間の長女、同(39)坂本しのぶは二女である。

10原告(40)坂本タカエは昭和一八年二月一三日同(41)坂本ミキの養女となり、同(42)坂本敦子は右タカエの子である。

11原告(43)岩本栄作と同(44)岩本マツエは夫婦であり、同(45)岩本昭則は右両名間の三男である。

12原告(46)上村好男と同(47)上村良子は夫婦であり、同(48)上村智子は右両名間の長女である。

13原告(49)浜元一正は、昭和三一年一〇月五日死亡した浜元惣八と同三四年九月七日死亡した浜元マツ間の長男、同(50)田中一徳は二男、同(51)浜元二徳は三男、同(52)原田カヤノは長女、同(53)浜元フミヨは四女、同(58)藤田ハスヨは五女であり、同(55)浜元ハルヨは前記二徳の妻である。

14原告(56)溝口忠明と同(57)溝口マスエは夫婦であり、昭和三一年三月一五日死亡した溝口トヨ子は右両名間の三女である。

15原告(58)田上義春と同(59)田上京子は夫婦であり、同(60)田上由里は右両名間の長女、同(61)田上里加は二女であつて、同(62)千々岩ツヤは前記義春の実母である。

16原告(63)坂本マスヲと同(64)坂本実は夫婦であり、同(65)坂本輝喜は右両名間の長男であつて、同(66)緒方新蔵は右マスヲの兄である。

17原告(67)荒木愛野は、昭和四〇年二月六日死亡した荒木辰雄の妻であり、同(68)荒木洋子は右両名間の長女、同(70)荒木節子は二女、同(71)荒木辰已は二男であつて、同(69)荒木止は昭和三九年八月二一日右洋子と結婚すると同時に前記両名の養子となつた。

18原告(72)松本俊郎と同(73)松本トミエは夫婦であり、同(74)松本ヒサエは右両名間の長女、同(76)松本ふさえは二女、同(77)松本俊子は三女であり、同(75)松本博は昭和四三年六月一七日右ヒサエと結婚し、同年一〇月八日前記両名の養子となり、同(78)松本福次と同(79)松本ムネは前記トミエの父母である。

19原告(80)田中義光と同(81)田中アサヲは夫婦であり、昭和三四年一月二日死亡した田中しず子は右両名間の三女、同(82)田中実子は四女、同(83)田中昭安は長男である。

20原告(84)江郷下美善と同(85)江郷下マスは夫婦であり、昭和三一年五月二三日死亡した江郷下カズ子は右両名間の五女、同(86)渡辺ミチ子は長女、同(87)宮本エミ子は二女、同(88)江郷下スミ子は三女、同(89)江郷下実は長男、同(90)桑原アツ子は四女、同(91)江郷下実美は三男、同(92)江郷下一美は五男、同(93)江郷下美一は六男である。

21原告(94)平木トメは、昭和三七年四月一九日死亡した平木栄の妻であり、同(95)河上信子は右両名間の長女、同(96)田口甲子は二女、同(97)平木隆子は四女、同(98)斉藤英子は五女である。

22原告(99)尾上光雄と同(100)尾上ハルエは夫婦であり、同(101)尾上敬二は昭和二八年三月一三日右両名の養子となつた。

23原告(102)長島アキノは、昭和四二年七月九日死亡した長島辰次郎の妻であり、同(103)原田フミエは右両名間の長女、同(104)長島政広は長男、同(105)長島タツエは二女、同(106)三幣タエ子は三女、同(107)長島努は三男である。

24原告(108)前嶋武義と同(109)前嶋サヲは夫婦であり、同(110)前嶋ハツ子は右両名間の長女、同(111)緒方ツユ子は二女であつて、同(112)前嶋一則は昭和四〇年七月二一日右ハツ子と結婚すると同時に前記両名の養子となつた。

25原告(113)中村シメは、昭和三四年七月一四日死亡した中村末義の妻であり、同(114)中村俊也は右両名間の長男、同(115)中村真男は二男、同(116)川添己三子は三女、同(117)都築律子は四女、同(118)中村敦子は五女、同(119)中村由美子は六女である。

26原告(120)尾上時義は、昭和三三年一二月一四日死亡した尾上ナツエの夫であり、同(121)尾上勝行は右両名間の長男、同(122)尾上勝唯は二男、同(123)真野幸子は長女、同(124)千々岩信子は二女である。

27原告(125)田中フジノは、昭和四五年七月一三日死亡した田中徳義の妻であり、同(126)田中春義・同(127)田中安一・同(128)田中重義はいずれも右徳義の弟、同(129)荒川スギノは同人の妹であつて、右田中春義は昭和四六年五月一〇日前記フジノの養子となつた。

28原告(130)荒木幾松と同(131)荒木ルイは夫婦であり、同(132)荒木康子は右両名間の六女である。

29原告(133)築地原司と同(134)築地原シエは夫婦である。

30原告(135)諫山茂と同(136)諫山レイ子は夫婦であり、同(137)諫山孝子は右両名間の長女であつて、同(138)諫山モリは右茂の母である。

二被告

甲第九五号証、同第一一三・第一一四号証、同第一一六号証の四、同第二八六号証によると次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

被告の前身である日本窒素肥料株式会社(以下、日本窒素という)の創業は、故野口遵が明治三九年一月鹿児島県伊佐郡大口村に資本金二〇万円で曾木電気株式会社を設立したときに遡る。しかして野口は、その余剰電力の利用を主目的として同四〇年三月株式会社日本カーバイド商会を設立し、水俣にカーバイド製造工場を建設したが、同四一年八月右両会社を合併し、資本金一〇〇万円の日本窒素を設立して、自ら初代社長となつた。同四二年一一月には、フランク=カロー式石灰窒素製造法による石灰窒素工場が水俣に建設され、その後同工場の製造にかゝる石灰窒素より変成された硫安は、第一次大戦中の輸入肥料の途絶と農村の戦争景気の反映でその需要が高まり、日本窒素は巨大な利潤を収めたが、大正一〇年新たに技術的に一段とすぐれたイタリアのカザレー式アンモニア合成法を導入し、同一四年には水俣に合成アンモニアおよび硫安工場を建設し、低コストのアンモニア・硫安を製造して、わが硫安業界において確固たる地位を占めるに至つた。ところが、大正末期から昭和初頭にかけて日本窒素の事業主体は朝鮮に移され、鴨緑江の支流である赴戦江・長津江を開発して出力九〇万キロワットに及ぶ発電所を建設し、一方において朝鮮窒素肥料株式会社を設立し、昭和五・六年までの間に北朝鮮の興南・本宮・永安などに窒素肥料を中心とする大化学工場群を建設した。これらの工場の製品は、硫安をはじめ、カーバイド・石灰窒素・ソーダ・油脂・火薬・カーボン・合成ゴム・合成宝石などあらゆる化学部門にわたつており、その関係会社は数十に及んだ。

その間、日本窒素は水俣工場においてアセチレン系有機合成化学工業の道を開拓し、昭和七年には合成酢酸の製造(カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド→酢酸)に成功してその工業化をすゝめ、同一四年には全国需要量の約半数を占めるに至り、更に無水酢酸アセトン・酢酸エチル・酢酸ビニール・酢酸繊維素・酢酸人絹・塩化ビニールなどのアセチレン誘導品を次々に開発し、工業化して行つた。なお、日本窒素は昭和一六年に朝鮮窒素肥料株式会社を吸収合併し、その資本金は四億五、〇〇〇万円となつた。ところで、日本窒素は終戦によつて在外資産の一切を失つたゝめ、第二次大戦末期に多大の戦災をうけた水俣工場を唯一の資産として戦後再出発し、戦前にひきつゞいてアセトアルデヒドの生産を行ない、昭和二四年には塩化ビニールの生産を再開するなど有機合成化学工業の復興を開始し、同二五年一月企業再建整備法によつて、日本窒素の所有する工場・発電所等のすべてを承継する第二会社として、資本金四億円の新日本窒素肥料株式会社(被告の前商号)が設立された後、同二七年一〇月には我が国で初めてオクタノール(塩化ビニールの可塑剤であるDOP・DOAなどの原料)をアセトアルデヒドから誘導合成することに成功して、その製造設備を完成し、更に同二八年三月にDOPの製造設備を完成し、その後同三四年にかけて年々塩化ビニール・オクタノール・DOPなどの各製造設備を増強するとゝもに、その生産量は累増(例えば、塩化ビニールの年産量は、昭和二四年五トン、同二七年一、〇〇〇トン、同二九年三、五〇〇トン、同三一年六、五〇〇トン、同三三年九、〇〇〇トンとなつている)し、これらの誘導品の多様化に伴い、必然的にその原料であるアセトアルデヒドの需要の増加に応じてその製造設備を増強することゝなり、アセトアルデヒドの年産量も、昭和二一年二、二〇〇トン、同二九年九、〇〇〇トン、同三一年一万五、〇〇〇トン、同三三年一万九、〇〇〇トンと増加し、水俣工場は再び日本で有数のアセチレン有機合成化学工場としての地位を確立した。他方この間被告は昭和三〇年三月信越化学工業株式会社との共同出資によつて日信化学工業株式会社を設立して、福井県武生工場で塩化ビニールの生産を開始し、同三一年にはチッソアセテート株式会社を設立して、滋賀県守山地区でアセテート事業に進出し、また同三三年にはチッソ電子株式会社を設立してシリコンの生産を開始し、更に同三六年以来千葉県五井地区で丸善石油株式会社とのコンビナートを形成して石油化学に進出するための工場建設にとりかゝり、同三七年にはチッソ石油化学株式会社を設立してこの事業を継承し、ポリプロビレンをはじめとする一連の石油化学製品の生産を始め、アセチレン化学より石油化学への転向をはかるに至つている。

なお、被告の資本金も、昭和二六年一二月六億円、同三〇年五月一二億円、同三二年一月二四億円、同三五年七月四五億円、同三九年一〇月七八億円と増加しているが、同四〇年一月一日その商号を変更して、チッソ株式会社と改称した。

第二因果関係

水俣病が、水俣湾およびその附近産の魚介類を長期かつ多量に擾食したことによつて生じた中毒性中枢神経疾患であること、水俣病患者が、水俣湾およびその周辺の不知火海において専業または兼業で漁業を営むものであつて、いずれも右海域で捕獲された魚介類を長期にわたつて反覆多量に摂食したものばかりである(但し、胎児性患者の場合は、その母親がこの要件に該当する)ことは、いずれも当事者間に争いがない。

たゞ被告水俣工場(以下、被告工場という)による工場廃水の流出行為と水俣病発症との因果関係については、被告の一応争うところであるから、以下この点につき検討する。

二因果関係の存否についての判断資料

1 水俣病の発見

甲第二号証によると、次の事実が認められる。

水俣市郊外の一定地区に、昭和二八年末頃から原因不明の中枢神経系疾患の発生があり、昭和二九年度には約八名、同三〇年度には約五名の患者が観察されていたが、不明のまゝ経過していた。ところが、偶々昭和三一年四月二一日脳症状を主訴とする六才の女児が、母親に伴われて被告工場付属病院小児科に来院するに及び、直ちに入院収容して諸検査を実施したが遂に的確な診断がつかないまゝ約一週間を経過したところ、同女児の妹(三才)も全く姉と同様の症状を呈して同月二九日来院し、同病院医師がその母親から更に詳細な事情を問いたゞした結果、隣家にも同一症状の患者が居るらしいことを知つた。そこで事態を重視した同病院では、同年五月一日水俣保健所にその旨を届け出ると同時に、患者発生地区の調査を依頼し、一方同病院医師も保健所々員と共に聞込みの患者宅を訪ねたところ、附近には可成り多数(約四〇名)の患者があり、伝染病と早合点して因襲的な考えから、ひたむきにこれを隠蔽していたことが明らかになつたが、更にこの発生地区は水俣湾に臨む海岸地区であつて、海面に時々大きな魚が浮上すること、しかもその魚を猫が食べると猫もまた同じく発病することなどの事実が判明するに至つた。

第1表  水俣病の発生状況 (昭和四〇年一二月末現在)

年次

発生例数

成人・小児

胎児性

死亡例数

昭28

1

1

0

0

29

12

12

0

5

30

14

9

5

3

31

51

44

7

10

32

6

0

6

2

33

5

3

2

5

34

18

16

2

7

35

4

4

0

2

36

0

0

0

1

37

0

0

0

2

38

0

0

0

0

39

0

0

0

0

40

0

0

0

4

111

89

22

41

注:胎児性水俣病は出生年月を発病時としてある。

そこでまず現地水俣では、昭和三一年五月二八日に市医師会・保健所・市役所・市立病院・被告工場付属病院の五者をもつて「水俣奇病対策委員会」が結成され、同委員会において患者の措置および同疾患の原因探究に当ることゝし、また熊本県は熊本大学(以下、熊大という)医学部に同疾患の原因究明についての研究を委嘱したので、熊大医学部では同年八月二四日「水俣病医学研究班」を組織し、その原因究明に乗り出すに至つた。

2 水俣病の発生状況

第2表  地区別・年次別患者発生状況

年次

昭和

28年

29

30

31

32

33

34

35

合計

地区別

出月

1

2

3

13

19

湯堂

1

2

16

1

1

1

22

月浦

2

3

7

2

14

百間

4

1

5

10

明神

2

2

2

6

丸島

3

1

4

梅戸

2

1

1

1

5

坂口

1

1

多々良

1

1

茂道

2

3

2

2

1

10

平下

1

1

八幡

5

5

津奈木町

5

5

田浦町

1

1

湯浦町

1

1

芦北町

1

1

出水市

1

1

3

5

合計

1

12

14

51

6

5

18

4

111

甲第二号証、同第七七号証、同第二二一ないし第二二三号証、乙第三三号証の一、証人原田正純の証言(47.9.7)によると、次の事実が認められる。

昭和四〇年一二月末現在、本疾患であることが確実に診断された患者総数一一一例の年次別発生状況は左記第1表、その地区別・年次別患者発生状況は第2表のとおりであり、またその発生地域は第1図の示すところである。

すなわち、右一一一例のうち、その第一例は昭和二八年一二月一五日発症にかゝるものであり、そして同三五年一〇月九日の発症例を最後とするが、患者は昭和二九・三〇年と多発して、同三一年に至つて激増を示し、同三二・三三年には発生数が少なく、同三四年に再び多発している。昭和三二年には、本疾患流行の事態に対処し、同三一年末の熊大医学部による流行調査の結果に基づいて、直ちに湾内の漁獲および魚介類の摂食の自粛をすゝめる行政指導が強力になされたが、それと同時に住民が本疾患に対する恐怖から自発的に漁獲・摂食を絶つたことが、同三二・三三年の発生数の減少につながつているようである。

なお、前掲第2表および第1図によつて明らかなように、昭和二八年から同三三年までの間は、その大部分の発生地域が被告工場廃水の放流先である百間港より水俣湾周辺にわたる住民についてゞあるところ、同三四年に至つて、水俣湾周辺から南北にさらに離れた部落に波及し、北は水俣川の河口部、さらに津奈木村より芦北町計石の一例、南は出水市米の津にまで発症例を見出しているが、被告工場では、昭和三三年九月より同三四年九月までの間、従来一貫して百間排水溝から水俣湾に放流していたアセトアルデヒド製造設備廃水(以下、アセトアルデヒド廃水という)を八幡プールを経で水俣川河口に流しており、同三四年中に発症した患者のうち数名は、水俣川河口の魚介類を摂食したことが明らかにされている。なお、このような本疾患の多発に関連して、猫その他の家畜動物に患者と類似した神経症状を呈して斃死するものが多かつたことは、極めて特異な流行現象であつた。すなわち、前掲水俣病多発地域にあたる患者世帯とその近隣の患者がいない世帯の戸別調査によつて、昭和二八年以降同三一年までの間の猫の斃死数を集計したものが第3表である。そして、患者世帯、とくに好漁場である明神・馬刀潟(まてがた)などでは、猫の殆んどが死亡しているが、その死亡時期はその世帯の患者発生に凡そ一、二か月先行している。これら斃死した猫の病理所見は、人の水俣病におけるそれとほゞ一致する。

公式に水俣病第一号とされた患者は、昭和二八年一二月一五日発病の五才の女児であり、同女の死亡は同三一年三月一五日である。水俣病の発見は昭和三一年五月一日で、水俣病と公式に認定されたのは同年一二月一日である。この日の認定委員会(水俣病患者診査会)では、昭和二九年死亡五名、同三〇年死亡三名、同三一年死亡八名を遡って認定している。

第3表  猫の斃死数

月の浦

出月

湯堂

明神

まて

がた

百間

梅戸

丸島

多々良

患家

(40戸)

飼つた数

14

15

18

4

4

2

3

1

61

死亡数

13

10

15

4

4

1

2

1

50

昭和28年

5

29年

3

6

1

3

1

1

15

30年

4

5

3

2

1

15

31年

6

5

6

1

1

1

20

対照

(68戸)

飼つた数

12

23

13

2

1

2

3

2

2

60

死亡数

3

5

10

2

1

1

2

24

昭和28年

1

1

29年

1

1

1

3

30年

2

2

4

1

1

10

31年

1

1

6

1

1

10

もつとも、水俣病の発生時期については、従来の通説では昭和二八年から同三五年までの間とされていたが、同二八年以前に同疾患が発生しなかつたという医学的根拠に乏しいばかりでなく、その後の調査研究によると、むしろそれ以前に既に発生していたと疑われる幾つかの事例があるし、また一方において、一旦体内に侵入した水銀は、その侵入がなくなつた後もゆるやかに病変を進行させる、いわゆる遅発性のものがあること、老化現象その他の疾患によつて潜在していた症状が表面化してくるものがあること、さらにまた微量づゝであつても多年月にわたつて水銀を摂取することにより発症する可能性があること等の事由により、今後の医学的解明にまつべきところとはいえ、昭和三六年以降の発症についても、十分これを肯定しうるものというべく、本件にあつても、後記認定のように、原告(1)諫山孝子は昭和三六年七月に発症したものである。

第4表  自覚症状発現の時期

症状による患者区分

昭和

17

18

24

28

29

30

31

32

33

34

35

36

37

38

39

40

41

42

43

44

45

46

水俣病またはその疑い1)

1

2

1

3

3

13

12

10

5

6

12

14

4

12

5

12

23

8

14

11

11

6

知+視+その他2)

1

1

1

2

1

6

2

7

3

3

4

6

2

5

8

8

2

5

2

3

2

知+その他3)

1

1

6

3

1

1

1

5

5

4

4

3

5

4

3

1

2

1

注1)水俣病またはその疑いの患者251人のうち,発症時期不明のものは含まれていない。

注2),3)知=知覚障害,視=求心性視野狭窄。

なお、熊大医学部神経精神医学教室において昭和四六年八月一二日から同年九月二二日までの間に行なつた調査によると、水俣病の疑いがあるとして臨床的検診が必要とされたものが、水俣地区で三一五名、天草御所浦地区で一三五名あり、これらの者から臨床的に神経精神科学的診察により、水俣病ないし水俣病の疑いがあつて各専門的精査を要するとされた者が、水俣地区で二五一名、御所浦地区で七九名あることが明らかにされており、これらの者の自覚症状発現の時期および年次・年令は次の第4表および第5表の示すとおりである。

第5表 自覚症状発現の年次と年齢

昭和

17

18

24

28

29

30

31

32

33

34

35

36

37

38

39

40

41

42

43

44

45

46

―39歳

1

1

1

1

2

1

1

1

3

4

1

1

1

1

3

2

1

2

40―59歳

1

1

8

6

8

2

2

5

5

1

3

2

4

9

4

7

6

5

3

60歳―

1

1

1

2

4

4

2

2

3

7

6

2

5

2

7

13

3

4

3

5

1

3 水俣病の臨床所見

甲第二号証、同第二二九号証の一・二、同第二三〇号証、証人原田正純の証言(47.6.7)によると、次の事実が認められる。

(一)主要症状

本疾患に共通する主要症状は、求心性視野狭窄(眼底正常)、難聴(audiogramによる高音部障害)、運動失調(言語障害、書字・釦どめ・マッチつけ・水呑みなどの日常諸動作の拙劣、disdiadochok-inesis、指々・指鼻・膝踵試験などの拙劣)、振戦(ふるえ)などの小脳症状、表在知覚障害(触覚・温覚・病覚などの鈍麻、異常知覚)、深部知覚障害(圧覚・運動覚・位置覚・振動覚・識別覚などの障害)であり、その他錐体外路障害(chorea様・athetosis様・ballismus様運動などの不随意運動、軽度の筋萎縮、強迫失笑、強迫啼泣)などが少数にみられるが、主要症状である視野狭窄・運動失調等の小脳障害は、有機水銀中毒症状として常に引用される、いわゆるハンター=ラッセル症候群(D.Hunter,R.F.Bomford,D.S.Russell)は、英国の抗真菌剤を製造していた工場で、沃化メチル水銀・硝酸メチル水銀・燐酸メチル水銀の取扱中に、吸引または経皮的にこれを摂取した労働者のメチル水銀中毒症例として、一九四〇年にその症状を報告した)の主徴と全く一致するところである。もつとも、水俣病は食餌連鎖を通じて生じたもであり、被害者は胎児から老人にわたる広範囲に及ぶものであるから、ハンター=ラッセル症候群のように吸引または経皮的に有機水銀を擾取したことによるものとは、比較にならない程諸条件の差は大きいといわなければならず、このことが、小脳症状を中心とし、一部錐体路・錐体外路症状、大脳皮質症状、末梢神経症状など多彩の症状を示す所以というべきであろう。

そして、本疾患の主要症状のあらわれ方としては、次の四つの病型に分類することができる。

(1) 普通型 四肢末端・口囲のしびれ感、難聴、視野狭窄、振戦、運動症状を主要所見とし、大多数は症状好転するが、なおその症状は軽度ながら残存するもの。

(2) 急性劇症型  当初より諸症状は極めて激烈であり、程なく意識消失し、昼夜の別なく叫声を発し、四肢はバリスムス様に絶えず激しく動かし、狂躁状態を呈しながら、多くの場合末期に高熱を発し、肺炎を併発して短期間に死亡するもの。

(3) 慢性刺戟型  最初は普通型の症状を具備しているが、そのうち、あるものは精神興奮甚しくなり、あるものは痙性歩行・腱反射亢進・病的反射出現などの錐体路症状が著明であり、またあるものは錐体路症状と頻発する痙攣発作などの刺戟症状を主症状とし、その症状は起伏を伴いながら漸次悪化するもの。

(4) 慢性強直型  当初は普通型であるが、漸次四肢は伸展または屈曲位に固定し、自動・他動運動は全く不可能で、一部四肢に浮腫を伴い、恰も生ける人形のような状態になるもの。

(二)胎児性(先天性)水俣病の特色

昭和三一年から同三四年の間に生まれた小児で、身体および精神発達の遅延・運動障害を示す、いわゆる脳性小児麻痺と思われるものが多数あることが判明し、調査研究の結果、一七例が昭和三七年一一月二九日、五例が同三九年三月二八日の各水俣病診査委員会において、胎児性または先天性水俣病であると診定された。そして、本疾患は母体の胎盤を通じておこるものとされているが、熊大医学部神経精神科教室において、昭和三七年五月九日より同三八年九月二一日までの間一七例について調査を行なつたところによると、次のような特色を見出すことができる。

先ず家族に異常が気づかれた時期は、生後一二日目から一年までの間で、その大部分は六か月前後であり、その時の異常は首が坐らないという場合が最も多く、次いで痙攣・脱毛・物を追視しない・大きくならないなどの症状である。そしてこの患児の臨床像は、主として精神障害と運動障害とから成る。この両障害の分離は、重症例では極めて困難で、軽症例ではある程度可能となる。全例を通じてみられる症状は、精神機能ことに知能の障害・原始反射・小脳症状・身体発育制止・栄養障害であり、しばしば認められるのは、無動―寡動(Akinese-Hyp-okinese)と多動(Hyperkinese)・流涎であつて、それに次いで性格障害・発作性症状・身体の形の変化・斜視・錐体路症状などが目立つ所見である。最も重症例についてみると、精神的機能の表出は顔面や他の身体部分にもみられず、外部からの刺戟に対しても殆んど無反応であり、目に蠅がとまつても瞬目すらみられない。この場合、随意運動はみられず、無動もしくは寡動が病像を支配している。食事は軽食を機械的に口に押しこんで、あと少量の水分で流しこんでやる。このような状態は、いわゆる失外套症状群(Apallisches Synptom)であり、いわば植物的存在である。

しかして、従来胎児性水俣病は、脳性小児麻痺と診断するのが妥当とされてきたが、前記一七例によつて本疾患と他の外因性精神薄弱(一八例)とを比較すると、前者において出現頻度の著しい症状は原始反射・小脳症状・流涎・斜視であり、目立つて低い現象は錐体路症状・症状の左右差ことに片麻痺・胎児期と分娩期における異常の証明であることであり、さらに本疾患と脳性小児麻痺(一六例)との比較においては、前者に知能障害・原始反射・小脳症状・発作・斜視が著しく多く、小脳症状についてみると、一般に後者の方がはるかに軽度であり、運動障害・錐体路症状・錐体外路症状の身体の左右差は前者には全くなく、前者では知能と運動の両障害の程度が相平行し、且つ比較的重く、後者では知能障害が運動障害よりも軽いこと、以上のような差異がみられる。

第6表 毛髪(爪)中の水銀量

水俣病患者

水俣地区

以外の健康者

水銀量 ppm

水俣地区の

健康者

水銀量 ppm

年令性別

発病年月

入院年月

水銀量

ppm

61才

34―10

34―11

436

成人男子

3.48

成人女子

12.7

46才

34―10

34―11

705

0.75

0.0

56才

34―7

34―12

350

成人女子

4.42

1.82

44才

34―9

411

1.39

31.2

(11.9)

33才

34―9

34―9

281

1.61

191.0

61才

34―11

35―1

431

1.25

4.46

38才

34―8

34―9

165

2.07

6.56

63才

34―7

34―7

170

0.14

72.9

49才

34―3

34―3

96.8

1.63

65.4

43才

31―10

31―10

21.6

2.13

101.0

(60.0)

50才

31―9

31―9

13.2

小児女子

2.86

39.1

35才

31―9

32―5

3.60

2.15

16.0

18才

31―7

39.2

7.49

17.1

29才

31―7

31―8

15.8

0.64

24.3

17才

31―6

31―7

29.4

2.30

小児男子

61.0

9才

31―6

2.46

2.31

48.4

49才

31―5

30.0

13.0

20才

31―5

31―7

18.0

小児女子

11.5

45才

31―5

31―8

3.01

4.16

22才

31―4

16.4

6才

31―4

18.0

10才

31―4

165

56才

31―4

31―7

16.1

18才

29―8

4.25

23才

28―8

12.7

備考:測定は34―12~35―1に実施

(三)毛髪中の水銀含有量

生体内に侵襲した諸種の有毒元素は毛髪中に移行蓄積するものとされているが、熊大医学部公衆衛生学教室において、昭和三四年一二月より同三五年一月にかけて生存患者二五名につき測定した毛髪中の水銀含有量は、次の第6表の示すとおりであつて、最高は七〇五ppmであり、日数の経過とゝもに毛髪水銀含有量も減少する傾向が認められ、この点は死亡した人の諸臓器中の水銀量が発病後の経過日数とゝもに減少していたことゝ同様である。

なお、胎児性患者についてみると、熊大医学部小児科教室による患児一九例およびその母親一一例の毛髪中の水銀量測定の結果は次の第7表のとおりで、患児にあつては、一〇ppm以下でほゞ正常な範囲にあると思われるものは三例、一〇ないし五〇ppmのものは九例、五〇ないし一〇〇ppmのものは七例であり、一方患児の母親にあつては、一〇ppm以下のもの三例、一〇ないし五〇ppmのもの三例、五〇ppm以下のもの五例である。また、水俣地方における健康小児の毛髪中の水銀量は次の第8表の示すところであつて、一〇ppm以上のものがかなり多数にみられる。

第7表 水俣地方における胎児性水俣病患児とその母親の毛髪中の水銀量

患児

母親

備考

症例

番号

年令

毛髪中の

Hg(ppm)

毛髪中の

Hg(ppm)

1

3:5

59.0

72.9

1. 母親は健康

2. No.6.7は姉妹例

3. 測定年月日

No.1~15

1959年

No.16~17

1961年

No.19・22

1963年3月

4. 年令は測定時年令

2

2:10

34.3

65.4

3

2:7

61.9

101.0

4

2:7

92.0

5

2:7

58.1

6

3:7

57.8

191.0

7

2:1

37.7

8

3:5

26.2

9

1:3

35.0

10

1:1

5.25

6.56

11

4:4

11.3

12.7

12

3:8

8.14

1.82

13

3:6

10.6

14

4:1

100.0

90.0

15

4:3

73.5

16.0

16

4:2

14.9

7.03

17

6:1

6.01

18

5:7

29.0

32.0

22

3:11

28.0

4 水俣病の病理的所見

甲第二号証および証人原田正純の証言(47.9.7)によると、次の事実が認められる。

水俣病には、急性・亜急性劇症型にみられるように重症のうちに比較的短期間に死亡するものから、約一〇年を経過して続発症で死亡するものまであるが、これらの死亡患者のうち、熊大医学部病理学教室で剖検された二三例にみる主要病変を要約すると、次のとおりである。

第8表 水俣地方における健康小児の毛髪中の水銀量

乳児

幼児

No.

年令

Hg(ppm)

No.

年令

Hg(ppm)

1

0:2

15.52

1

1:0

43.31

2

0:3

158.8

2

1:0

22.01

3

0:4

22.25

3

2:0

4.1

4

0:4

6.1

4

2:2

16.46

5

0:4

4.56

5

3:0

11.15

6

0:4

7.194

6

3:6

7

0:5

0.84

7

3:8

13.0

8

0:5

0

8

4:1

1.49

9

0:5

8.1

9

4:6

61.0

10

0:5

8.53

10

4:10

25.4

11

0:6

5.78

11

4:2

6.6

12

0:7

88.73

12

5:0

75.6

13

6:1

5.6

乳児は1960年 幼児は1959年

(1) 永俣病の本態は中毒性神経疾患で、主として中毒性脳症である。

(2) その原因物質は、主として大脳皮質および小脳皮質を障害する。

(3) 大脳皮質では、両側性に大脳半球の広範囲の領域にある神経細胞が障害され、一般に選択的好発局在が認められる。最も障害の強い領域は後頭葉で、しかも鳥巨野領域、中心前回、横側頭回などである。脳構築からみると、第Ⅱ層から第Ⅳ層にかけての神経細胞障害が最も強いが、その他の神経細胞もおかされうる。脳回表層部よりも脳溝深部谷部に病変が強い。鳥巨野では深部前方程病変が比較的強く、後頭極へ近付くにつれて比較的軽い。神経細胞の障害としては、急性期に急性腫脹・クロマトリーゼ・重篤変化・融解・崩壊・ノイロノファギーをみ、後に重症のものは消失して脱落する。その脱落が強いものは海綿状態をつくる。慢性に経過すると、残存障害神経細胞は変性萎縮、硬化する。障害部にグリア増殖を招来する。

(4) 小脳では、両側性に新旧小脳の別なく皮質の顆粒細胞層が障害され、顆粒細胞の融解・崩壊を招来してその脱落をきたす。プルキニエ細胞は保存され易いが、後にはその脱落を招来し、ベルグマングリア細胞の増殖を伴う。このような神経障害は小葉中心性に現われやすく、後にはいわゆる中心性顆粒型小脳萎縮の像を招来する。

(5) 成人水俣病・小児水俣病および胎児性水俣病には、本質的病変の差はないが、一般に成人水俣病には大脳皮質障害に選択性好発局在を作りやすい傾向があり、小児および胎児性のものにはその傾向が少なく、むしろ皮質の広範囲の領域を侵しやすい傾向をみ、また胎児性水俣病には、それらの病変に加うるに、発育障害に伴う脳の各種病変が加重され、修飾されている。ちなみに、後記第2図は、成人水俣病・小児水俣病・胎児性水俣病の各脳病変の拡がり方を示すものであるが、同図によつて明らなように、小児・胎児性となるにしたがつて病変の拡がり方は大であり、ことに前頭葉部分の病変は知能障害を招来するから、小児水俣病および胎児性水俣病の患者にあつては、大部分知能の発育がみられない。

(6) 胎児性水俣病には、小児水俣病の病変に加うるに、脳の層構築の低形成・脳梁低形成・Matrix遺残・神経細胞低形成とその形態異常・特異の小脳顆粒細胞低形成などの発育不全ないし発育障害がみられる。

(7) 水俣病剖検例の病変は、アルキル水銀中毒症の剖検例のそれに一致する。

(8) 水俣病剖検例の諸臓器、とくに肝・腎・脳には水銀が存在し、その含有量が二〇ppm以上になると、組織化学的に細胞内に証明が可能である。組織細胞内水銀の染色性と脳/肝・脳/腎百分比からみて、それは有機水銀とくにアルキル水銀の性格を示している。

5 水俣病に関する動物実験

甲第二号証、同第六・第七号証、同第八号証の一、乙第七号証、証人細川一・同小嶋照和の各証言によると、次の事実が認められる。

被告工場では、同工場付属病院の細川・小嶋医師らが同工場技術部の協力のもとに、昭和三二年五月頃以降同病院内に設置された猫小屋に体重2.0ないし4.5キログラムの成熟猫を飼育し、水俣湾内および近傍沿岸で漁獲された魚介類等をこれに投与して実験をしたが、同三四年八月までの間の合計二九二匹の実験結果によると、投与開始後多くは一、二か月の間に発症し、それは現地の自然発症猫と同様の症状であることが明らかとなつた。しかして、猫の水俣病の発症は、初期症状と定型的症状に区別される。初期症状としては、食欲不振につゞいて元気がなくなり、終日じつとしてうづくまり、毛の光沢がなくなるが、この症状が二、三日つゞいて定型的症状を示すようになる。一方、定型的病状は、特異な痙攣発作(強直性・間代性)・失調歩行・運動失調・後肢麻痺ならびに異常運動(頭部の振顫・痙攣発作時の回走運動―壁にぶつかつては方向転換し、走りまわること、倒立様運動・跳躍運動など)・流涎・視力障害などである。

そして、二九二匹のうち一一八例の発症猫についてその前駆症状・典型的症状を詳細に観察した結果として、「(イ)猫に投与して典型的症状を発症させうる魚介類は、すべて水俣湾内ならびに近傍沿岸(南は茂道部落、北は水俣川の河口付近までの湾外二キロメートル以内の沿岸を指す)で漁獲されたものである。(ロ)有毒魚介類は多種多様にわたり、他海域より水俣湾に移殖した貝も一か月間で有毒化し、毒性は湾内に固定する貝(ヒバリガイモドキ)よりも廻遊性の魚(カタクチイワシ)の方がより強力であるようにみられる。(ハ)有毒魚にあつては、その内臓部分・筋肉部分ともに毒性を有し、それぞれの単独投与で猫を発症させうる。(ニ)魚介類はこれに熱処理を加え、乾燥長期保存を行なつても依然として有毒性が保たれており、また有毒分画は非水溶性、メタノール・アセトン溶解しない部分にある。(ホ)湾内に固定生棲する貝を猫に投与し、季節別の毒性の変化を検討した結果では、貝は四季を通じて有毒であり、その毒力に変化はみとめられない。(ヘ)有毒魚介の投与中止より猫が典型的発症をみるに至るまでの期間は、最長二〇日間に及ぶものがあり、この間何らの外観的変化はみられない。また、一旦発症した猫には症状の緩解がみとめられず、少なくとも二〇日以内に死亡する。(ト)水俣湾内海底泥土をそのまゝ、あるいはアセトン抽出したものを経口投与しても、猫を発症させることはできない。」、以上の事実が報ぜられている。

なお、熊大医学部病理学教室による発症猫の病理解剖学的所見では、猫水俣病の本態は中毒性脳症であり、その病変は大脳皮質の広範囲の障害と小脳皮質の中心性の障害を招来し、小脳では特に顆粒細胞障害型である。これらは人間の水俣病、とくに小児あるいは胎児性のものに近似しているということができる。

もつとも、被告工場付属病院では、前記期間後も引きつゞき動物(猫)実験が行なわれたのであるが、水俣病が魚介類を摂食することによつて発症するとされたところから、猫実験にあつても、初期には水俣湾および近傍沿岸で漁獲された魚介類を、その後昭和三四年中期以後は被告工場廃水で飼育した魚類を投与して行なう、いわゆる間接投与が主体となつていたところ、後に第三の「被告の責任」のところで詳述するように、同病院院長であつた細川医師の発想により、昭和三四年七月二一日以降被告工場内アセトアルデヒド製造設備廃水二〇CCを基礎食にかけて毎日一回猫に経口投与してその経過をみた結果、その猫(いわゆる猫四〇〇号)は同年一〇月七日以後水俣病症状を呈するに至り、次第に特有の痙攣発作・跳躍運動・回走運動等を繰返して日々衰弱し行つたので、これを重視した細川医師は、病理的所見と相俟つて一〇〇パーセント原因物質を断定しうると考え、同月二四日その猫を奢殺解剖した上、その標本を九州大学医学部病理学教室の遠城寺助教授に送付してその所見を問うたところ、同助教授は、さきに検索した発症猫とほゞ似ているとしつゝも、断定困難であるとして結論を留保する旨の回答をよせている。

6 水俣病の被疑原因物質としてのマンガン説その他の諸説の検討

甲第二号証、同第二六ないし第二八号証、同第二九号証の一・二、同第三〇・第三一号証、同第八〇・第八一号証、同第一四九号証、乙第三四号証の一ないし一一(同号証の一ないし三、同八ないし一一は証人西田栄一の証言によりその成立の真正がみとめられる)、同第三七号証の一、同第一二三ないし第一三六号証、同第一九七号証、証人西田栄一・同吉岡喜一の各証言によると、次の事実が認められる。

水俣病の原因究明の過程において、昭和三四年七月熊大医学部によつて有機水銀説が提唱されるに先立ち、同医学部によりマンガン説(昭和三一年一一月)、マンガン・セレン・タリウム説(同三二年七月)、タリウム説(同三三年五月)が主張され、さらに後記大島竹治によつて爆薬説(同三四年九月)等が唱えられたことは周知の事実であるが、以下これらの説について検討する。

先ず被告工場では、昭和七年より同二六年までの約二〇年間アセトアルデヒド製造工程で水銀の酸化剤としてマンガン(主成分二酸化マンガン)を使用し、またセレン・タリウムについては、硫酸製造工程で焙焼用硫化鉱の中にこれらが微量(セレン0.01パーセント、タリウム0.004パーセント程度)含有されており、大正七年以来約四〇年間その製造方法は同一であつて、作業員はマンガンやセレン・タリウムの粉塵の中で作業をつゞけてきたところ、これまでそれらの中毒例は皆無である。さらにこれらの個々の中毒症状を水俣病の症状と比較すると、およそ次のとおりである。すなわち、(イ)マンガン中毒症はその大多数が慢性中毒症であり、その症状はparkinson-ismusの症状を呈し、仮面様顔貌・強迫失笑・啼泣・言語障害・縮字症・歩行障害などであり、水俣病の慢性型とは明らかに異なつている。また小脳障害もあるが、それは水俣病のように顆粒細胞障害型ではなく、主としてプルキニエ細胞が障害されるものであつて、マンガン投与による動物実験によつても水俣病と同一の病状を得ることはできない。(ロ)セレン中毒症はblind stagger(めくらよろけ病)と呼ばれ、視障害と運動障害をみるところから問題とされたのであるが、セレン中毒症についての神経系統の病理所見は殆んど不明で、水俣病との比較が困難である。しかし動物実験によると、比較的大量投与で中枢神経系に強い循環障害を招来するが、脳皮質細胞の障害をみず、猫の場合も、水俣病にみる失調性運動・発作性痙攣・遅鈍化その他の特異症状を招来しえず、脱毛と一般症状の悪化をみるのみである。(ハ)タリウム中毒症例の報告は比較的少なく、またその剖検例も極めて少ないが、剖検例と多くの動物実験で明らかにされているところでは、この中毒症が、神経系統では特に末梢神経の多発性神経炎が主要病変であつて、水俣病の中枢神経障害と対照的であり、なお小脳障害の記載に乏しく、水俣病に必発する顆粒性細胞脱落はみられない。そして本中毒症の急性期にみられる発熱・消化器症状・循環器症状・カタル症状などは水俣病にはみとめられず、最も特異とされている脱毛、爪・皮膚の変化も水俣病にはみられないし、水俣病に一〇〇パーセント出現した求心性視野狭窄はタリウム中毒症には現われない。

以上のような次第で、マンガン説・セレン説・タリウム説は次々に否定されていつたということができる。

なお爆薬説とは、日本化学工業協会専務理事大島竹治が、昭和三四年九月九日より同月一四日までの間水俣市現地調査を行なつた上で主張するに至つたものであり、戦時中水俣地区にあつた旧日本海軍の軍需品集積所の軍需物資、とくに爆弾が終戦後水俣湾内の深いところに捨てられ、その弾体が年月の経過とゝもに腐蝕し、中の薬物が海中に流出したとの推定に基づき、被告工場において海上探査、さらに湾内を掃海する必要があるとされたものである。しかしながら、終戦当時元海軍航空廠水俣・袋補給工場の貯蔵爆弾としては、六〇キロ爆弾約二五〇個・二五〇キロ爆弾約二四〇個とこれに要する信管約五〇〇個があつたが、昭和二一年一月頃当時の責任者甲斐都義(元袋補給工場主任海軍少尉)は駐留軍の指示により、深海に投棄するために、確実にこれを荷馬車で水俣駅に集積した上、汽車で三角港駅に送られており、従つて、被告工場が当時の軍関係者に聞込みを行ない、かつ昭和三四年一〇月末から同三五年二月にかけて潜水夫による海底検査をしたが、もとより爆弾等を何ら発見するに至らず、調査は打切られている。

なお、以上のほか、農薬説・アミン説なども唱えられて検討されたけれども、これらのものが水俣病の原因物質であるとする調査研究の成果は存しない。

7 被告工場のアセトアルデヒド製造工程における有機水銀化合物(塩化メチル水銀)の生成など

次の事実は当事者間に争いがない。

被告工場におけるアセトアルデヒドの製造工程は、次の「アセトアルデヒド生産工程略図」の示すとおりであつて、これはアセチレン接触加水反応を利用するものである。すなわち、生成器に硫酸・硫酸鉄・酸化水銀および水で作られた触媒液を入れておき、一定温度(摂氏七〇度ないし七五度)に保ち、アセチレンを吹きこむと水加されてアセトアルデヒドを生じ、触媒液にアセトアルデヒドが溶けて稀アセトアルデヒドが得られる。この稀アセトアルデヒド液(約1.5パーセント)よりアセトアルデヒドを分離するため減圧蒸発を行なう。アセトアルデヒドと水蒸気は第一精溜塔に入り、触媒液は生成器にもどる。第一精溜塔で大部分の水が下部より抜け(精ドレン)、第二精溜塔で副生クロトンを分離して、高純度のアセトアルデヒドをアンモニアで冷却して取り出す。以上のとおりである。

ところで、アセチレン接触加水反応は、触媒たる硫酸水銀が反応を繰返すうちに触媒機能を劣化させるので、それを抑制して触媒の寿命を延長させるために、硫酸第二鉄を助触媒として添加するのであるが、それらの反応の過程において塩化メチル水銀(OH3HgC1)が生成し、その揮発性のゆえにアセトアルデヒドとゝもに第一精溜塔に行き、塔の底部から精ドレンとして放出される。メチル水銀化合物とは、CH3_Hg_Xという一般式をもつ一群の化合物であつて、右式のXがハロゲン(塩素C1臭素Br沃素I)である化合物は、水にもある程度溶解する。なお、水銀化合物は無機水銀化合物と有機水銀化合物に大別され、後者にはアルキル水銀化合物とフェノール水銀化合物等がある。アルキル水銀化合物とは、メチル水銀化合物・エチル水銀化合物・プロビル水銀化合物の総称である。分類上メチル水銀化合物には、塩化メチル水銀・硫酸メチル水銀・硫化ヂメチル水銀等種々の物質があるが、これらはいずれもメチル水銀基(CH3_Hg)をもつものである。

アセトアルデヒド(CH3CHO)は、昭和七年以後被告工場で合成酢酸の原料として製造されるようになり、誘導品の多種化、すなわち酢酸・無水酢酸・酢酸エチル・酢酸ビニール(チッツニール)・三酢酸繊維素・可塑剤の主原料であるオクタノール・可塑剤としてのDOP・DOAなどおよびその需要の増大に伴つて年々増産され、昭和三六年には月産三、三八〇トンに達した。昭和二一年から同三五年に至る月産量は、同二一年・二二年各二〇〇トン、同二三年三〇〇トン、同二四・二五年各三七〇トン、同二六・二七年各五二〇トン、同二八年七〇〇トン、同二九年七五〇トン、同三〇年九〇〇トン、同三一年一、三〇〇トン、同三三年一、六〇〇トン、同三四年二、五〇〇トン、同三五年三、三〇〇トンである。ところが、昭和三九年七月チッソ石油化学株式会社(千葉県五井)において石油化学法によるアセトアルデヒド製造装置が完成したので、被告工場では昭和四〇年より酢酸エチルおよび酢酸の製造を停止し、アセトアルデヒドの生産量は年々減少の途をたどり、昭和四三年五月に至つてその生産を全面的に止めた。

8 被告工場廃水、ことにアセトアルデヒド廃水および塩化ビニール廃水について

甲第七七号証、同第一一三・第一一四号証、乙第二九号証、乙第三三号証の一、証人西田栄一の証言によると、次の事実が認められる。

第9表 水俣工場廃水量 (1959年11月水俣工場の資料による)

廃水量m3/hr

1952

1953

1954

1955

1956

1957

1958

1959

備考

設備

アルデヒド酢酸設備

2

2

2

3

4

4

4

6

年4回解体掃除(30m3 hr)

1946年2月→1958年9月酢酸廃水ピットを経て百間排水溝へ

1958年9月→1959年9月

八幡プールヘ

塩化ビニール,

モノマー水洗塔廃水

1

2

2

3

3

10

10

10

1949年10月→1959年9月

鉄屑槽を経て百間排水溝へ

硫酸設備

ピーボデイ廃水

60

60

60

60

1956年8月→1957年8月

平畑プールを経て百間排水溝へ

1957年8月→1959年9月

八幡プールヘ

硫酸設備廃水

40

40

70

70

70

1955年3月→1959年9月

八幡プールヘ

カーバイト

アセチレン

残渣廃水

25

30

40

40

60

80

80

110

1946午2月→1959年9月

八幡プールヘ

カーバイト

密閉炉廃水

250

250

1958年6月→1959年9月

八幡プールヘ

重油ガス化

設備廃水

60

80

80

1957年4月→1957年7月

藪佐プールを経て百間排水溝へ

1957年7月

1959年9月八幡プールヘ

注:八幡プールからさらに水俣川河口に流される。

被告工場の発表による昭和二七年から同三四年までの間の同工場設備の廃水の種類およびその量は、末尾の第9表のとおりである。同表によつて明らかなように、初めて水俣病が発症したとされている昭和二八年以前から排出されていたものは、アセトアルデヒド廃水・塩化ビニール廃水・カーバイドアセチレン残渣廃水の三種であるが、カーバイドアセチレン廃水には水銀が含まれていない。しかして、アセトアルデヒド廃水と塩化ビニール廃水の放流先をみるに、塩化ビニール廃水は一貫して百間排水溝から水俣湾に放流されており、一方アセトアルデヒド廃水は、昭和二一年二月から同三三年九月までの間は百間排水溝より水俣湾に放流されていたが、同三三年九月以降同三四年九月に至る間のみ八幡プールを経て水俣川河口に放流されている。

ところで、被告工場が昭和三四年一〇月公表したところによると、同工場が同年九月から同年一〇月にかけて調査したアセトアルデヒド製造工程における水銀使用量は一一、九六四キログラム、同回収量は一〇、三〇五キログラム、同損失量は一、六五九キログラムであり、一方同工場が同年八月から同年九月にかけて調査した塩化ビニール製造工程における水銀使用量は二九六キログラム、同回収量は230.4キログラム、同損失量は65.5キログラムであつて、アセトアルデヒド製造工程における水銀使用量は、塩化ビニール製造工程における同使用量に比して遙かに多量である。そして、昭和三三年九月以降同三四年九月に至る間アセトアルデヒド廃水が水俣川河口に放流されたことゝ平行して、同三四年にその地域周辺の魚類を摂食した人々の間に水俣病が発症したことは、さきに2の「水俣病の発生状況」の項において述べたとおりである。

9 熊大による研究の結論・政府見解など

甲第一・第二号証、乙第二号証、同第二一号証の三、同第二三号証、同第二六号証、同第一三一・第一三二号証、同第一三五・第一三六号証、証人西田栄一・同市川正の各証言によると、次の事実が認められる。

熊大医学部生化学教室では、昭和三五年中に水俣湾産の有毒貝(ヒバリガイモドキ)中より有機水銀化合物を分離して結晶化することに成功し、それがメチル水銀(硫黄)化合物(CH3HgSCH3)であるとしたが、一方同衛生学教室では、昭和三六年中に、被告工場アセトアルデヒド製造設備の生成槽連結管より同三四年八月および同三五年一〇月に採取して冷暗所に密封保存していた水銀滓より、有機水銀化合物の結晶をとり出し、その構造がCH3HgC1であることを発見した。そこで同教室では、実験的にCH3HgC1とCH3HgSHg CH3とをそれぞれ別個の海水に入れ、これに対照海域から採つたアサリ貝を飼育し、アサリ貝の蓄積した水銀化合物の性状をみた結果、CH3HgSHgCH3はアサリ貝によつても漸次無機化してしまうことが判明したが、これに反しCH3Hg C1を蓄積したアサリ貝中の水銀化合物は、その消化液の蒸溜性などからみて、水俣湾の貝中の有機水銀化合物と全く一致した。なお、同教室において、昭和三七年一〇月水俣湾恋路島内側より採取したアサリ貝中より、有機水銀化合物の結晶をとりだすことに成功し、融点・元素分析・赤外吸収帯の成績を綜合判定して、それがCH3HgC1であることを決定している。もつとも、被告工場においても、技術部員石原俊一が昭和三六年四月以降ペーパークロマトグラフィー分析法に工夫を加えてアセトアルデヒド廃水(精ドレン)の分析実験を行ない、同三七年三月頃にはメチル水銀化合物らしいものを検出確認し、また右実験と平行して水銀化合物の抽出実験を行なつた結果、同三六年末頃から同三七年三月にかけて塩化メチル水銀・沃化メチル水銀・メチル水銀の硫黄化合物を結晶としてとり出しているが、これらのことは公表されるに至つていない。

水俣湾魚介中の有機水銀化合物は、その魚介の蛋白と強く結合しており、蛋白が凝固すれば水および有機溶媒で抽出されないが、これをペプシン消化や塩酸処理して水蒸気蒸溜すると、蛋白との結合が離れる。溜出した有機水銀化合物を種種の有機溶媒で分離し、最後に残る油状物と有機水銀化合物を0.09N塩酸で分離し、この0.09N塩酸中の有機水銀化合物を有機溶媒より抽出して得られた結晶も、CH3Hg C1である。ちなみに、次の第10表は、CH3HgC1と水俣湾貝から抽出した有機水銀化合物、その他二、三のメチル水銀化合物の性状との比較を示すものである。

政府(厚生省)は、昭和四三年九月二六日に「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによつて起つた中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質はメチル水銀化合物であり、被告工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食したことによつて生じたものと認められる」との公式見解を発表し、また昭和三二年一月から同三五年五月までの間被告工場の工場長であつた西田栄一は、昭和四六年二月五日当裁判所の第一〇回口頭弁論において、明確に右政府見解と同旨の証言を行なうに至つた。

三以上二の1ないし6、8、9の認定事実については、いずれもこれを覆すに足りる証拠はない。そして、1ないし9に説示したところを綜合して考察すると、水俣病の原因物質は被告工場のアセトアルデヒド製造設備内で生成されたメチル水銀化合物であつて、それが工場廃水に含まれて水俣湾およびその周辺の海域に流出し、魚介類の体内に蓄積され、その魚介類を長期かつ多量に摂食した地域住民が水俣病に罹患したものであること、すなわち被告工場のアセトアルデヒド廃水の流出行為と水俣病発症との因果関係を肯定するに十分であつて、この認定を左右するに足りる資料はないものといわなければならない。

第三被告の責任(過失)

一被告工場は昭和七年より合成酢酸の原料であるアセトアルデヒドの生産を始め、誘導品の多種多様化および需要の増加に伴つて次第にその増産が要請されるに至り、ことに戦後昭和二一年以降は年々その生産量が増大し、そのため工場外に放流される廃水量も増加していつたというべきところ、被告工場が海中に放流したアセトアルデヒド廃水に含有されたメチル水銀化合物の作用によつて、別紙〔三〕患者一覧表記載の者が、後記第六損害の各原告の項目中に認定されているように、昭和二八年より同三六年までの間にそれぞれ水俣病を発症するに至つたことは既に明らかなところである。

第10表 水俣湾貝および酢酸工場水銀カスからの抽出結晶とHC3HgO1その他の有機水銀との比較

性状

CH3HgC1

水俣湾貝

からの

分離晶

酢酸工場

からの

分離晶

CH3Hg1

CH3HgOH

(CH3Hg)2S

CH3HgSCH3

融点

173―4℃

173

174

148

105

145

25

赤外吸收

CH3(-Hg)

対象変角

1191cm-1

1191

1191

1173

1186

1172

1176

横ゆれ

788cm-1

788

788

778

796

760

763

水銀含有量

79.90%

76.8

79.3

58.4

86.1

86.5

76.3

水蒸気蒸溜

による溜出性

pH 1.6

95(3)△

128(2)△

163(11)△

76(21)△

73(40)△

98(0)△

72(15)△

pH 0.7

3(95)△

5(80)△

4(74)△

2(86)△

1(82)△

44(80)△

65(25)△

1N HC1 中で加熱

安定

安定

安定

安定

CH3HgC1

となる

分解

分解

※paperchromatography

のRf値

0.15

0.15

0.15

0.86

0.14

0.89

0.75

注 1) 条件 展開剤:95%n-C4H9OH(100ml)十NH40H(Ⅰml)時間:5時間,下向法

温度:28±Ⅰ℃ 発色剤:0.01%ジチゾン・クロロホルム溶液

濾紙:東洋濾紙 No.50

2) △:括弧内は残液中の水銀量μg

ところで原告らは、工場汚悪水(廃水)の放流が許されるのはその安全性が確認された状況のもとでなければらないとの前提に立ち、その汚悪水が他人の法益を侵害することを予見しうる限り、事前に常にその汚悪水中に毒性の有無を調査してその安全を確認すべきであり、被告はそのことを予見しえたにかゝわらず注意義務を怠つたものであるから、過失の責任を免れないと主張するのに対し、一方被告は、水俣病の原因物質である塩化メチル水銀(CH3HgC1)がアセトアルデヒドの製造工程で生成されることは、昭和三七年半ば頃熊大医学部衛生学教室においてこれを分析検知するまで、化学工業界や学界でも全く予知できなかつたのであるから、被告としてもアセトアルデヒド廃水中にメチル水銀化合物の存在することを認識できなかつたのは当然であり、況んやその廃水中のメチル水銀化合物が海中で魚介類に蓄積され、これを摂食した地域住民が水俣病に罹患するに至る経路を被告において認識することは不可能というべく、従つてこのような結果に対する予見可能性のないところに過失責任はあり得ないと主張するので、以下検討する。

二およそ化学工場は、化学反応の過程を利用して各種の生産を行なうものであり、その過程において多種多量の危険物を原料や触媒として使用するから、工場廃水中に未反応原料・触媒・中間生成物・最終生成物などのほか予想しない危険な副反応生成物が混入する可能性も極めて大であり、かりに廃水中にこれらの危険物が混入してそのまゝ河川や海中に放流されるときは、動植物や人体に危害を及ぼすことが容易に予想されるところである。よつて、化学工場が廃水を工場外に放流するにあたつては、常に最高の知識と技術を用いて廃水中に危険物質混入の有無および動植物や人体に対する影響の如何につき調査研究を尽してその安全を確認するとゝもに、万一有害であることが判明し、あるいは又その安全性に疑念を生じた場合には、直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。すなわち、廃水を放流するのは工場自身であるのに対し、地域住民としては、その工場でどのようなものが如何にして生産され、また如何なる廃水が工場外に放流されるかを知る由もなく、かつ知らされもしないのであるから、本来工場は住民の生命・健康に対して一方的に安全確保の義務を負うべきものである。蓋し、如何なる工場といえども、その生産活動を通じて環境を汚染破壊してはならず、況んや地域住民の生命・健康を侵害しこれを犠牲に供することは許されないからである。

被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立つて被告には何ら注意義務違反がなかつた、と主張するものゝようであるが、このような考え方をおしすゝめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害することもやむを得ないことゝされ、住民をいわば人体実験に供することを容認することにもなるから、明らかに不当といわなければならない。

しかして、甲第一一三・第一一四号証および証人西田栄一の証言によると、被告工場はもとより合成化学工場であり、戦後逸早くアセトアルデヒドの生産を再開し、年々製造設備も改善増強されてその生産量が増大し、ことに昭和二七年九月アセトアルデヒドからオクタノール(塩化ビニール用可塑剤としてのDOP・DOAの主要原料である)を生産する技術およびその工業化が開発されて以来、その需要の激増に伴つてアセトアルデヒドの生産量も著しく増大するに至り、生産再開の当初約二、〇〇〇トンであつた生産量は、昭和三〇年一〇、六三三トン、同三三年一九、四三六トン、同三四年約三〇、〇〇〇トンと累増していつたこと、一方同工場において昭和二四年に生産が開始された塩化ビニールも、当初は年産僅か五トンであつたが、同二八年一、七六九トン、同三〇年四、二〇〇トン、同三三年八、七八二トンと逐年生産量が増加したこと、かようにして被告工場は戦後全国有数の合成化学工場となり、その技術の優秀性を誇るとゝもに、化学工業界においで確固たる地位を占めるに至つたこと、以上の各事実が認められ、右事実からすると、被告工場では、この間における各種の製造設備の開発・改善増強に伴つて廃棄物および廃水も増加し、その中に製造過程において生成された危険物質が混入する可能性も年年増大していつたというべきである。

かようにみてくると、被告工場が全国有数の合成化学工場として要請される高度の注意義務の内容としては、絶えず文献の調査・研究を行なうべきはもとよりのこと、常時工場廃水の水質に分析・調査を加えてその安全確認につとめるとゝもに、廃水の放流先である水俣湾の地形・潮流その他の環境条件およびその変動についての監視を怠らず、その廃水を工場外に放流するについてその安全管理に万全を期すべきであつたといわなければならない。

ところで、甲第八六号証の一・二、同第八七号証、同第一〇三号証、乙第二〇七号証、証人西田栄一・同徳江毅の各証言によると、水俣病の発生以前に、アセチレン接触加水反応の過程でメチル水銀化合物が副生することを指摘した文献こそないが、一九二一年の米国化学会ジャーナル(Journal of American Ohmical Society, Vo1.43,P.2071〜)という雑誌に、ボーグト(Richard R. Vogt)およびニューランド(Jurius A. Nieuwland)の連名による「アセチレンからアルデヒドヘの触媒作用による変化における水銀塩の役割およびパラアルデヒドの製造における新しい工業的製法」と題する論文が登載されており、これは水銀の触媒作用に関する著名な論文であるとされているが、その中で「アセチレンを吹込んだ後の触媒液中には、如何なる無機水銀化合物も存在しない」と述べられていること、また被告工場の技術部職員五十嵐赳夫は昭和二五年から同三〇年にかけてアセトアルデヒドの触媒機能について研究をつゞけ、同人は同二九年四月には日本化学会の学会においてその研究成果を発表しているが、それによると、アセトアルデヒドの母液中に可溶性のメチル水銀化合物が存するというのであり、同人による「水銀触媒によるアセトアルデヒド合成反応速度の解析」(昭和三七年)との論文中にもこのことが明らかにされていること、以上の事実がたやすく認められるのであつて、被告工場において文献の調査・研究が尽されていたとすれば、昭和三〇年以前に、アセトアルデヒドの製造工程において水溶性のメチル水銀化合物が生成されることを知りえたといわなければならないばかりでなく、合成化学工場の生産過程における化学反応の段階で意外な副産物が生成された事例として、甲第四四・第四五号証、証人西田栄一の証言によると、被告工場では、昭和九年にアセチレンと酢酸からエチリデンアセテートをつくり、これを分解させて無水酢酸を製造するエチリデン法(液相法)を用いていたところ、その過程で芳香性のある物質が生成し、これが光熱等によつて飴状に固まり、その粘結性が強く加熱器のパイプを閉塞して支障を来したところから、それを打開するために調査研究を重ねた結果、それが酢酸ビニールであることが判明したので、同工場は昭和一二年ごろからこの中間生成物たる酢酸ビニールの増産を行なうようになつたことが認められ、前記のような戦後著しい新技術の開発進歩にともなう製造設備の改善増強、その設備による化学反応の過程において、意外な副産物が生成される可能性は一段と高くなつていたことは、十分首肯されるところである。

然るに、被告工場が早くから水銀の触媒作用に関する文献の調査・研究を行なつていたことを肯定すべき証拠はなく、むしろ、証人市川正の証言によると、同工場技術部では昭和三四年八月以後漸く文献調査を行なうに至つたことがうかゞわれるばかりでなく、また同工場が廃水の水質に分析・調査を加えてその安全確認につとめ、あるいは又廃水の放流先の環境条件およびその変動に注目してその監視を怠らなかつたことを認めるに足りる証拠はない。もつとも、証人西田栄一・同徳江毅の各証言によると、被告工場では昭和二四、五年以降工場廃水の分析・検討が行なわれているが、これらは専ら原料のロスを減少させるための生産管理の手段としてなされた分析・検討であり、あるいはまた廃水中の水素イオン濃度(PH)・浮游物質(SS)・生物化学的酸素要求量(BOD)・化学的酸素要求量(COD)・溶存酸素(DO)等が行政基準等に合致しているか否かを知るための水質の分析・検討であつたに過ぎず、被告工場が安全管理に重点をおき、工場廃水によつて地域住民に万一の危害が及ぶべきことを配慮し、安全確認のために廃水の分析・検討を行なつたわけでないことがたやすく認められる。

以上により、被告工場は全国有数の技術と設備を有する合成化学工場であつたにもかゝわらず、多量のアセトアルデヒド廃水を工場外に放流するに先立つて要請される注意義務を何ら果すことなく、たゞ漫然とこれを放流してきたものと認めざるを得ないから、既にこの点において過失の責任を免れないものというべきである。

三そこで更にすゝんで、被告工場ないし被告が後記環境異変・漁業補償・水俣病の原因究明・工場廃水の処理・動物(猫)実験等をめぐつて如何に対処し、如何なる措置を講じてきたかをみることによつて、過失の有無を判断する資料としたい。

1 環境異変について

甲第二号証、同第一四九・第一五〇号証、証人細川一・同西田栄一・同小道サモ・同荒木幾松・同佐藤武春の各証言によると、次の事実が認められる。

水俣湾およびその周辺では、昭和二八、九年頃より魚類の収獲量が著しく減少して行つたばかりでなく、湾内に鯛・ボラ・太刀魚などが死んで浮上する現象が目立ち、また水俣湾に面する月の浦・出月・湯堂・馬刀潟・百間などの地区では昭和二九年から同三一年にかけて猫が神経症状を呈して斃死する例が多く、右三年間の猫の斃死数は五〇匹をこえ、その他豚・犬なども同一症状を示して死んでいつたほか、湯堂地区などで鳥類の斃死および飛翔・歩行困難の例がみられ、これらの奇異現象が半ば公知の事実となつていた。一方、水俣病が昭和二八年末頃以降原因不明の中枢神経系疾患として注目されるようになり、同二九・三〇年にかけて逐次その数が増加し、同三一年になると五〇名をこえる患者の発生をみたが、この疾患は水俣市郊外の一定地区(出月・湯堂・月の浦・百間・明神など水俣湾に面したところ)に集中して発生したゝめに、同三一年頃各患者家族では伝染病と早合点してひたむきに疾患を隠蔽する傾向すら一般にみられたけれども、昭和三一年八月熊本県からの委嘱によつて組織された熊大医学部の「水俣病医学研究班」が、同年一一月本疾患は伝染病ではなく一種の中毒症であり、その原因は水俣湾産の魚介類を摂食したことによるものであつて、その原因物質はある種の重金属であるとの中間発表を行ない、またその頃水俣湾では百間排水溝に近いところから湾全体にかけて汚染度が大であつたところから、人々も百間排水溝から海中に放流される多量の工場廃水に疑惑の目を向けていた。

以上認定したような環境異変およびその反響にもかゝわらず、被告工場がこれに着目し、とくに関心をもつて海面の汚染状況および人畜等の被害状況を調査検討しようとしたり、人々の間で既に疑惑の対象となりつゝあつた水俣湾に放流されるアセトアルデヒド廃水をはじめとする工場廃水の危険性に思いを致したことを肯定すべき証拠は全くない。むしろ証人吉岡喜一・同西田栄一の各証言によると、昭和二〇年代末期から同三〇年代初頭にかけて、被告工場では時恰もアセトアルデヒドの増産がことに要請され、年々その製造設備が改善増強されるとゝもに、各生産部門において活気ある操業がつゞけられていた時期でもあつて、同工場としては、生産に次ぐ生産に追われてその廃水の危険性などに思いを致すことなく、従つて前記のような環境異変がみられたからといつて、廃水や湾内泥土等の分析・調査を指示検討するような状況では全くなかつたこと、更に水俣病をめぐる諸問題にしても、被告本社がとくに深い関心を寄せることなく、すべて現地水俣(被告工場)にまかせきりであつて、昭和三四年八月以降漁民の被告工場に対する廃水の放流中止、同工場の操業停止の要求が高まるに及んで、漸く本社でも事態を重視するに至つたこと、以上のような事実が認められる。

してみると、被告工場ないし被告は、前記環境異変等に即応してとるべき対策ないし措置において、著しく欠けるところがあつたといわなければならない。

2 漁業補償をめぐつて

甲第一四・第一五号証、同第一九ないし第二五号証、同第七二ないし第七六号証、乙第六一号証、同第六二号証の一・二、同第六六号証の一・二、同第七一号証、同第七五号証、同第七七ないし第八五号証、同八六号証の一・二、同第八八ないし第九九号証、同第一〇〇号証の一・二、証人西田栄一の証言によると、次の事実が認められる。

被告の水俣市およびその周辺の漁民に対する漁業補償の歴史は、遠く大正年間に遡る。すなわち、大正一五年四月被告は水俣町漁業組合に対し、百間の海面埋立および工場汚悪水・廃水残滓の漁獲高に及ぼす影響に対する補償として金一、五〇〇円を支払い、更に昭和一八年一月被告は同組合(漁業協同組合となつた)に対し、工場汚悪水・諸残渣・塵埃等の海面への廃棄放流によつて、同組合および組合員が所有または使用してきた外浜浦特別漁業権・水俣川尻専用漁業権の一部・馬刀潟浦特別漁業権などを放棄する補償として金一五万二、五〇〇円を支払つているが、戦後になつて昭和二九年七月には被告は水俣市漁業協同組合に対し、工場汚悪水・諸残滓の海面放流による漁獲高への影響に対する補償として毎年々額金四〇万円を支払うことゝし、一方同組合は今後被害補償その他一切の要求をしない旨の契約が成立した。しかして、これらの漁業補償は、いずれも漁獲高の減少に対する代償としての意味合いを有していたことは否定し難いが、それにも増して、被告工場から出される諸残滓・残渣の廃棄物とするために被告が漁民に対して海面埋立の承諾を得るところに重点があつたというべきところ、昭和三一年一一月熊大医学部の水俣病医学研究班が、水俣病は水俣湾産の魚介類を摂食することによつて生ずる中毒症であり、その原因物質はある種の重金属であるとする前記中間発表を行なうに及び、一方において県当局が漁民に対し水俣湾を中心とする海域での操業を自粛するように行政指導を行なつたことを契機として、漁民の生計は困窮を極めるに至つたゝめに、昭和三二年一月水俣市漁業協同組合は被告に対し、もはや漁業補償もさることながら、それと同時に工場汚悪水の海面への放流中止および廃水装置の完備を強く要求するに至り、同組合と被告工場との間で数次の交渉が重ねられたけれども、容易に結論をみることなく、交渉は中断のやむなきに至つた。ところが、昭和三三年九月一日同組合主催で開催された漁民大会の決議によつて、同組合と被告工場との間に交渉が再開され、同組合は昭和二九年七月の契約による年金四〇万円を金四〇〇万円に増額要求をなし、被告は右契約の付帯条項である、同組合は今後被害補償等の要求を一切行なわないとの約定をたてに、その要求に応ずる態度を示さなかつたゝめに、交渉は難航を極めたが、昭和三四年八月三〇日に至つて、被告は同組合に対し、昭和二九年以後の追加補償(水俣病関係を除く)として金三、五〇〇万円、将来の補償として年金二〇〇万円を支払う旨の契約が成立し、被告と同組合間の紛争は漸く落着した。これに対し、一方不知火海沿岸漁民達も昭和三四年一〇月一七日総決起大会を開催した上、その決議に基づいて被告工場に漁業被害の補償および完全浄化設備まで工場の操業中止等を強く要求したところ、被告工場は容易にこれに応じようとしなかつたゝめに、同年一一月二日激怒した漁民達約四〇〇名が工場内に乱入して工場幹部につめより、これを制止する工場側や水俣警察署員ともみ合つて多数の負傷者を出す事態を招いたので、県議会水俣病対策特別委員会ではその成行きを憂慮し、同委員会の決定によつて県知事を中心とする不知火海漁業紛争調停委員会が結成され、同調停委員会の強力な斡旋によつて折衝が重ねられた結果、同年一二月二五日被告は県漁業協同組合連合会との間で、漁業補償として金三、五〇〇万円を支払い、漁民の立上り資金として金六、五〇〇万円の融資を行なう旨の契約が成立し、その紛争に終止譜を打つた。そして、このような紛争と平行して、昭和三三年から同三四年にかけて漁民の被告工場に対する廃水の放流中止の要求は一段と強くなり、一方県議会水俣病対策特別委員会においても、同三四年一〇月末から同年一一月初めまでの間に、原因が科学的に判明するまで県民の不安を除去するために被告工場の操業を中止させるべきであるとか、あるいはまた工場廃水の放流を全面的に停止させるための条例を制定すべきであるとの論議さえみられるに至つた。

以上の認定事実からすると、被告工場としては、昭和三二年以降の前記漁業補償等をめぐる紛争・交渉の過程において、漁民の要望にそうためには、一時操業を中止してゞも工場廃水の安全確認のための調査研究を尽すべきであつたというべきところ、前掲証拠によれば、被告工場は、その廃水の水質が昭和二三年当時と比較しても酸度・浮游物質・色その他の点で全く変化がないとし、かりに海水中より毒物を検出したときは善処する旨回答するのみで、廃水の分析・検討を行なうなど安全確認のための対策ないし措置を講ずるわけではなく、昭和三四年八月一五日水俣市漁業協同組合の申出によつて、被告工場と同組合が共同で水俣湾を中心とするその周辺の海域調査を実施した以外には、被告工場が独自の立場で漁業被害等の実状を把握するための海域調査を行なうこともなかつたし、終始漁民に対しては、水俣病の原因不明の現段階では操業中止を意味する工場廃水の海面放流中止の要求には断乎応ずることはできないとの態度を貫いてきたことがうかゞわれる。

従つて、被告と漁民間の紛争解決を目的として成立した前記各契約の内容をみても、昭和三四年一二月二五日県漁業協同組合連合会との間に成立した契約(乙第一〇〇号証の一)中には、「被告は、その工場廃水が漁業に被害を及ぼさないように、この調停成立後一週間以内に廃水浄化装置(サイクレーターおよびセデイフローター)を完備する」との条項が存するけれども、他の契約にあつては、すべて被告工場が継続してその廃水を海面に放流することを当然の前提条件とし、過去および現在ならびに将来にわたる漁業被害に対する金銭補償を目的とするものであつて、金銭補償のみをもつて事足れりとするものである、との批判を免れないものがあつたといわなければならない。

3 水俣病の原因究明に関連して

甲第九号証の一、同第一〇号証、乙第三六号証、同第三七号証の一ないし三、同第三九号証、同第七二・第七三号証、証人西田栄一・同市川正の各証言によると、次の事実が認められる。

水俣病の原因物質については、先ず昭和三一年一一月熊大医学部の水俣病医学研究班がマンガン説(いわゆる重金属説)を主張したのをはじめとして、その後同研究班では相次いでマンガン・セレン説(同三二年四月)、マンガン・セレン・タリウム説(同三三年六月)などの複合説を主張するとゝもに、調査研究がつゞけられた末、同三四年七月二二日には科学分析・臨床実験・病理学的観察を根拠とする有機水銀説が強く提唱されるに至つた。これに対し、被告は同三三年七月「水俣奇病に対する当社の見解」(乙第三七号証の一ないし三)において、化学常識・化学的研究・動物実験による判断をもとに、マンガン・セレン・タリウムの三物質の一若しくは二、三が原因であるとの説に対して反論し、更に同三四年七月の有機水銀説に対しては、逸早く同月中に「所謂有機水銀説に対する工場の見解」(乙第三九号証)として、熊大側の諸種の分析結果・病理所見の当否については論じ難いとしつゝも、化学常識からみた疑問点およびそのデーターの不備を指摘し、有機水銀説には納得できないとの批判的見解を示した後、同年一〇月には被告工場として「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解(第一報)」(甲第一〇号証、乙第四〇号証)を作成し、それに基づいて被告が同月末に「水俣病原因物質として有機水銀説に対する見解」(甲第九号証の一)を作成公表した。右最終見解書は、水俣病発生の特異性、実験ならびに証拠方法、猫の臨床症状、化学実験、海底土・河水・海水中の水銀含有量、魚介類有毒化の経路・機構等について、同月二五日までの研究データーに基づき検討を加えた上、有機水銀説に対する反論を示したものである。そして、以上の各見解書が、すべて熊大側の見解に対する反論をその主たる内容とするものであることは極めて明らかなところであり、従つて、後記5においてもふれるように、被告の右最終見解書には、猫実験のデーターとして、百間排水を直接投与した猫三七四号につき猫台帳(乙第二号証)の記載と異なる結論を掲げているし、また被告にとつて極めて不利な結論を導くものと思料される猫四〇〇号については、もとよりこれを掲載していない。

そもそも、昭和三一年以降は、水俣病が被告工場廃水に関係あるものとして、同工場に強い疑惑がいだかれていたことは既述のとおりであり、従つてその原因究明の主体はあくまでも被告自身でなければならず、自ら十分調査研究を尽して原因究明につとめるべきであつたというべきところ、被告の提出にかゝるその原因究明に関連した数多くの文献(乙第三号証の一ないし八、同第四号証の一ないし一七、同第五号証の一ないし二三、同第六号証の一ないし三、同第七号証、同第八号証の一ないし三二、同第九ないし第一一号証の各一・二、同第一二号証の一ないし三、同第一三号証、同第一四ないし第二〇号証の各一・二、同第二一および第二二号証の各一ないし三、同第二三ないし第二七号証参照)がいずれも熊大医学部による研究結果であることからも明らかであり、証人西田栄一・同徳江毅の各証言からもうかゞわれるように、被告工場または被告自身が原因究明のための調査研究をした成果にみるべきものはなく、況んやその結論を公表した事例は存しない。たゞ、被告工場付属病院の細川医師外四名は、昭和三二年一月、疫学・臨床・検査の三項目より考察した結論として、水俣病の地域ならびに家族集積性と猫・魚などに関係があることを指摘した「水俣奇病に関する調査」(乙第三六号証)と題する書面を公表しているが、証人西田栄一の証言によると、それとても同付属病院としての私的な報告書の域を出るものでないことは明らかなところである。

そして、このような被告工場または被告の姿勢・態度は、熊大側の有機水銀説以後においてすら、被告工場内で水銀を使用する製造工程に着目し、その廃水、すなわちアセトアルデヒド廃水・塩化ビニール廃水中に、有機水銀化合物の有無について分析・調査をしようとした形跡がないことからも窺知されるのである。もつとも、証人市川正の証言によると、同工場技術部職員石原俊一は、昭和三六年四月頃以降ペーパークロマトグラフィーによる分析法に工夫を加え、アセトアルデヒド精ドレン中に有機水銀化合物らしいものゝ存在を検知し、同年末頃有機水銀化合物を結晶としてとり出すことに成功し、同三七年三月頃にはそれから塩化メチル水銀・沃化メチル水銀およびメチル水銀の硫黄系誘導体の三種類の結晶を得ることに成功しているが、その理由の如何はとも角として、公表されるに至らなかつたことが認められる。

ところで、甲第三三号証と証人西田栄一の証言によると、昭和三四年一一月三日衆議院水俣病調査団の一行一七名は、被告工場の八幡地区・百間港の両排水溝を視察した後、同調査団々長松田鉄蔵が被告工場長らに対し、利潤追求の立場のみから熊大を非難することをやめ、むしろ熊大側に協力すべきであるとし、熊大との対立感情を捨てゝ反論のための反論をせず、一致して原因究明につとめるよう叱責したことが認められる。もつともこの点に関して、被告は、昭和三二年八月以降同三四年一〇月までの間被告工場は熊大からの資料提供の要求にその都度応じてきたし、同工場と熊大相互の立場・見解の相異によつて若干のトラブルは避けられなかつたが、同工場の熊大に対する協力に欠けるところはなかつたと主張し、乙第二八号証の一ないし一二、同第四五号証の一・二、同第四六号証、同第四七号証の一・二、証人西田栄一・同徳江毅の各証言はその主張に沿うものゝようである。しかしながら、右各証言からも明らかなように、被告工場と態大との対立感情は拭いようもなかつたし、被告工場の熊大に対する資料の提供や照会事項への回答についても、常に同工場が誠意をもつてこれに応じてきたものとは解し難いし、また被告工場が熊大の前記マンガン(重金属)説やセレン・タリウム説などに対し、むしろ自信をもつて反論を加えたと思料される昭和三三年七月の時点において、同工場が最も多量に使用していた重金属はアセトアルデヒド製造工程に用いられる水銀であることが明らかであつたにかゝわらず、同工場は熊大に対してアセトアルデヒドのことについては一切告知しなかつたばかりでなく、その後においても黙秘しつゞけていたことを窺知させるに十分であり、この事実を示すものとして、昭和三四年八月五日県議会水俣病対策特別委員会における被告工場長西田栄一の挨拶(乙第四六号証参照)をみても、有機水銀説に関連して疑惑の対象となつているものとして、塩化ビニール廃水をとりあげているものゝ、アセトアルデヒド廃水のことには全くふれられていない(もつとも、同日被告工場側の資料として配付された見解(乙第三九号証)には、被告工場のアセトアルデヒド・塩化ビニール両設備から水銀が百間排水溝を経て水俣湾内に流出し、比較的多量に同湾内に蓄積されていることを認める旨の記載がある)。そればかりでなく、そもそも被告工場が熊大に対して同工場の生産工程の全貌とその使用原料・触媒・中間生成物・各生産部門における廃棄物や廃水の処理方法などを早期に明らかにしなかつたことは、熊大の水俣病の原因究明を遅延させ、同時に水俣病患者発生を増加させる大きな要因となつたといつても過言ではなく、要するに、被告工場または被告は熊大に対して原因究明の協力に欠け、ひいては被告が原因究明に関連してとるべき対策ないし措置に著しく欠けるところがあつたといわなければならない。

4 工場廃水の処理状況・水銀流出量などについて

(一) 被告工場が戦後昭和二一年にアセトアルデヒドの生産を再開し、誘導品の多種多様化および需要の増加に伴い、増産体制のもとに昭和二八年頃以降年々アセトアルデヒドの生産高が飛躍的に増大していつたことは既述のとおりであり、百間排水溝から海中に放流されるその廃水量も必然的に増加していつたというべきところ、その間被告工場が常に廃水の水質等を分析・調査するなどしてその安全確認につとめていたものと認め難いこともさきに説示したところであるが、こゝに特筆すべきことは、被告工場では昭和三三年九月アセトアルデヒド廃水の排水路を変更し、八幡プールを経て水俣川河口にこれを放流することになり、この処理方法が同三四年九月までの間つゞけられたことである。この点について被告は、廃水中の酸分の中和・残存金属類の沈澱除去による水質向上のためであつたと主張し、乙第二九号証および証人西田栄一の証言は右主張に沿うかにみえる。しかしながら、右証言によつても、被告工場がその時点において排水路を変更しなければならなかつた合理性の説明に欠けるものがあるばかりでなく、他に右排水路の変更を相当として首肯させるに足りる証拠はない。既に明らかなように、水俣病は、昭和二八年末頃から水俣湾およびその周辺地域で魚介類を多量に摂食した人々の間に発生し、同三一年にはその数が激増したのであるが、同三一年一一月熊大医学部による前記中間発表がなされた頃から、行政当局も水俣湾周辺の漁民に対して操業の自粛をよびかけるとゝもに、住民に同海域の魚介類の摂食を自粛するよう強調したこともあつて、同三二・三三年度の発症はやゝ下火となつており、一方熊大医学部のマンガン・セレン・タリウム説など水俣病の原因究明をめぐる諸説紛紛として帰するところを知らず、依然としてその原因が不明の段階であつたけれども、昭和三三年九月頃には人々が百間排水溝から海中に放流される被告工場廃水に強い疑念をいだいていたことは周知の事実であつたから、その廃水処理に特段の改善を講ずるのであれば格別、そうでない限り、右排水路の変更によつて患者の発生が新しの地域に及ぶであろうことは、何人も容易に思い至るところといわなければならない。そこで証人細川一の証言によると、細川医師は、右排水路の変更によつて新しの地域に患者が発生することをおそれ、これに強く反対したというのであり、至当のことゝ思料されるところ、被告は、細川医師がそのような発言をすべき立場にはなかつたし、その発言の事実はなかつたと主張し、証人西田栄一もその旨の証言をしている。もつとも、当裁判所としてはその真否の程を断定する資料に乏しいが、被告主張のように、どの程度廃水中の酸分が中和され、残存金属類が沈澱除去され、その結果如何に水質の向上に役立つたかはとも角として、甲第二号証および同第七七号証によると、翌三四年になると、津奈木・湯浦の地域の漁民で水俣川河口の魚類を摂食した人の中に、水俣病患者の発生をみるに至つたことが認められるのである。

第11表 水俣病工場廃水処理系統の変遷 (昭和21年―43年5月)

アルデヒド廃水

塩化ビニール廃水

1)

21年―33年3月

ピットを経て百間放水溝へ

(21年2月―)

鉄屑槽を経て百間放水溝へ

(24年10月―)

2)

33年9月―34年9月

八幡プールを経て水俣河口へ

百間放水溝へ

3)

34年10月―34年12月

醋酸プール→ピットを経て八幡プールへ

11月より八幡プール上澄液を

アセチレン発生残渣ピットに逆送する

同左

4)

35年1月―35年3月

醋酸プール→八幡プール→

カーバイトアセチレン発生残渣→

八幡プール

同左

5)

35年3月―35年5月

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→

カーバイトアセチレン発生残渣→八幡プール

同左

6)

35年6月―41年5月

醋酸プール→泥水ピット→八幡プール→

原水槽→サイクレーター→百間放水溝(図2参照

同左

7)

41年6月―43年5月

地下タンク→アルデヒド生成器(循環式)

6)と同じ

8)

43年5月18日以降

アルデヒド製造停止

泥水ピット→八幡プール

ところで証人西田栄一の証言によると、この間被告工場では、八幡プールに送つていたアセトアルデヒド廃水をアセチレン発生残渣ピツトに逆送して利用する装置が完成したので、昭和三四年一〇月末をもつて従来の処理方法をとりやめ、爾来アセトアルデヒド廃水は一切工場外に放流されなくなつた筈である、というのである。しかし、後記第11表は、被告工場における昭和二一年より同四三年五月までの間の廃水処理系統の変遷を示すものであり、また第3図は同三五年三月より同四一年五月までの間の廃水処理系統を示すものであつて、これらはいずれも被告工場の作成にかゝり、昭和四三年八月被告工場が熊本県企画部公害課に提出した資料でもあるが、それによると、証人西田栄一の前記証言にもかゝわらず、被告工場が昭和三五年六月以後アセトアルデヒド廃水を再び百間排水溝に放流するようになり、同四一年五月までの間それが継続したことは明らかである。この事実を裏付けるものとして、熊大医学部衛生学教室の入鹿山且郎教授による「水俣病の経過と当面の問題点」と題する論文(公衆衛生44・2、甲八五号証の一・二)中には、「水俣工場の廃水処理系統の変遷に伴い、昭和三四年以前に比して水銀とくにメチル水銀の排出がある程度抑制されてきたことは、水俣湾の魚介中の水銀が減少してきたことからもうなずかれる。しかし不完全処理であつたことは、水俣湾の魚介中の水銀がある程度減少してから、それ以上減少しなかつたこと、ときに多量の水銀、とくにメチル水銀を含む魚介をみたことで証明された」、「昭和三五年初め、水俣湾月の浦のヒバリガイモドキ中の水銀は一〇〇ppm近くあつたが、同三六年末から一〇ppm前後となり、この値は同四一年末まで続いた。一方アサリ貝については、ヒバリガイモドキが岩の上に付着するのに対し、土中に棲息するためか、同地域・同時期においてヒバリガイモドキの約三倍の水銀値を示しているが、水俣湾のアサリ貝中の水銀は、昭和三七年から同四〇年まで二〇ないし四〇ppmであつたところ、同四一年一〇月には月の浦・恋路島内側で八〇ppmに達し、同四二年には前年に比して減少し同所で一〇なのし五〇ppmとなり、この数字は同四三年二月頃まで続いたが、被告工場においてアセトアルデヒドの生産の停止した同年六月以降急激に減少し、同年八月には二ないし五ppmとなつた」と記述されている。なお、同論文によると、厚生省の暫定基準では、工場廃水中の水銀を0.01ppm以下とし、特にメチル水銀を検出しないことゝしており(経済企画庁では、廃水中のメチル水銀を0.001ppm以下としている)、魚介中の水銀につき1.0ppmを汚染の恕限量としていることがうかゞわれる。

(二) 次に、以上のことゝ関連するものとして、被告工場廃水中に流出した水銀量について検討する。

証人西田栄一の証言によると、被告工場において昭和三四年七月頃調査したところでは、その算定の根拠は明らかでないが、流出水銀量はおよそ合計六〇トンであつた、というのであり、その数字は、同年一〇月二四日付同工場の県議会水俣病対策特別委員会に対する同七年以降同三三年までの間のアセトアルデヒド製造用水銀使用状況報告書(甲第一一三号証)および同三四年一〇月七日付右同一六年以降同三三年までの間の塩化ビニール樹脂製造用水銀使用状況報告書(甲第一一四号証)の各記載とも概ね符合するようである。しかして、証人椎野吉之助の証言によると、右各報告による水銀使用量・同回収量・同損失量の数値は、その間における酢酸製造日報(甲第一七七ないし第一七九号証の各一ないし一二、同第一八〇ないし第一八三号証)に基づいて算出されたものであることがうかゞわれるところ、こゝろみに、右報告書と製造日報とを対比しつゝ昭和二九・三〇各年間のアセトアルデヒド製造用水銀使用状況をしらべてみると、同二九年分については、報告書による水銀使用量は35.987トン、同回収量は30.556トン、同損失量は5.431トン(うち廃水中に流出した量は2.851トン)であるのに対し、製造日報による水銀使用量は38.058トン、同回収量は28.069トン、損失量は9.989トンであつて、前者の損失量は後者のそれの約五四パーセントであり、また同三〇年分については、報告書による使用量は44.457トン、同回収量は36.859トン、同損失量はは7.598トン(うち廃水中に流出した量は3.989トン)であるのに対し、製造日報による水銀使用量は51.716トン、同回収量は39.701トン、同損失量は12.015トンであつて、前者の損失量は後者のそれの約六〇パーセントであることがそれぞれうかゞわれ、被告工場としては水銀使用量・同損失量ともに真実よりも過少に報告していることを認めざるを得ないばかりでなく、証人西田栄一の証言によると、被告工場では昭和一〇年より同二五年までの間、無水酢酸の製造工程で常時触媒として酸化水銀を使用し、その量はアセトアルデヒド製造工程における水銀使用量に遠く及ばないが、塩化ビニール製造工程におけるそれよりも上廻るものであつたのにかゝわらず、同三四年七月頃被告工場で行なわれたという調査および前記報告書では、その水銀使用量・同損失量について一切これを除外して計上していないことが認められるし、既述のとおり、同証言によると全然流出していない筈のアセトアルデヒド廃水が、昭和三五年六月以降同四一年五月までの間常時百間排水溝より海中に放流されていたことを考えあわせると、工場廃水中に流出した総水銀量は、熊大医学部南葉教授が昭和三四年一〇月に公表した六〇〇トン説(甲第三三号参照)は過大であつたにしても、被告工場側の公表による六〇トンを遙かに上廻るものであることは明らかであるといわなければならないから、被告工場が、自らの立場を有利に導くために、水銀使用量・同流出量をことさらに過少に公表ないし報告したとの非難を免れないものというべきである。

(三) もつとも、以上(一)および(二)において説示してきた点はとも角として、被告は、被告工場の廃水処理につきその時々においてあたう限りの努力をしてきたとし、その事例として、昭和二一年二月アセトアルデヒド製造再開後間もなく同設備内に鉄屑槽を設け、同三一年八月硫酸製造設備で硫化鉱粉鉱焙焼炉完成後、その焼滓置場に設けた専用沈澱池をはじめとして工場内外に多くの沈澱池を設置し、更に同三四年初頭にはサイクレーター(廃水浄化設備)を中心とする廃水総合処理施設の具体的計画を立案し、同年一二月これを完成したと主張する。しかしながら、鉄屑槽は、被告の主張によつても明らかなように、無機水銀化合物の溶液を鉄屑に接触させることによつて水銀が分離する原理を利用し、水銀の回収をはかる、いわば経済目的によるものであつたし、また各沈澱池は、昭和三〇年以降各種製造設備の増設に伴つて固形物を含む廃水が増加したゝめに、所詮その固形物の廃棄場として設けられた以上に、格別の意味・目的を有するものであつたとは認められないばかりでなく、更に乙第五二号証および証人西田栄一の証言によると、サイクレーターとは、循環式凝集沈澱方式によつて、固形物を多量に含む廃水(スラリー)を浄化する装置であり、荏原インフィルコ株式会社の手によつて昭和三四年一二月完成したものであつて、付属品等を加えるとその設置に約一億円を費し、その運転費用として年間約三、〇〇〇万円を要するものであつたことが認められるところ、かりに被告主張のように廃水処理に万全を期する意図のもとにそれが設置されたとすれば、著しく時期におくれたものであつたといわざるを得ないし(甲第三三号証によると、衆議院水俣病調査団によつてこのことが指摘されていることがうかゞわれる)、むしろそれよりも、甲第二八四号証によると、被告工場では、昭和三三年末頃より廃水中の固形物の大部分を占めるアセチレン発生残渣を利用してマグネシアクリンカーを製造する計画が確定し、アセチレン発生残渣とその他の残渣とを分離して処理する必要を生じ、そのためにサイクレーターの設備を立案したものであることが窺知される。以上により、被告工場で鉄屑槽・沈澱池・サイクレーターなどが設置されたことをもつて、被告が廃水処理につきあたう限りの努力をしてきたと主張するのは、当らないというべきである。

また被告は、昭和三三年七月に被告工場では廃水管理委員会を設置し、廃水管理の適正化につとめるようにしたと主張しており、証人西田栄一の証言およびこれにより真正に成立したものと認めうる乙第五八号証によると、被告工場では、水俣病が大きな社会的関心事となつた昭昭三三年七月の段階において、漸く廃水管理の適正化をはかる必要性をみとめ、廃水管理委員会というものを設置して廃水管理の改善につとめるようになつたことが認められるけれども、これまた極めて時期におくれたものであつたといわざるを得ないばかりでなく、とくに同委員会の果した役割と実績については、これを認めるに足りる証拠がない。

なお被告は、被告工場廃水の水質が、大阪府事業場公害防止条例(昭和二九年四月)、水産庁漁政部漁業調整第二課の「産業廃水および下水の処理に対する水産側の要望書」(昭和三〇年一月)や公共用水域の水質の保全に関する法律(昭和三三年一二月)等において示された水質基準に合致していたし、化学工業界における同種他社事業場の廃水処理の実態に比し優れていたから、その意味においても、被告の廃水管理に欠けるところはなかつたと主張する。しかしながら、かりに被告工場廃水の水質が法令上の制限基準や行政基準に合致しておりその廃水処理方法が同種他社事業場のそれより優れていたとしても、そこのとのみをもつて、前記(一)および(二)において縷々述べてきたところの、被告工場が全国有数の合成化学工場としてとるべき対策ないし措置において著しく欠けたと目すべき数々の点を排除し、同工場の責任を免れしめるものとは到底解せられないから、右主張も失当というべきである。

5 猫実験、ことに猫四〇〇号をめぐつて

まず甲第四号証、同第五号証の一・二、同条六・第七号証、同第八号証の一・二、証人細川一・同小嶋照和の各証言によると、次の事実が認められる。

さきに、第二の二の5「水俣病に関する動物実験」の項目において言及したところでもあるが、被告工場では、昭和三二年五月以降同工場付属病院の医師らが中心となり、技術部の協力を得て、同病院内に設置された猫小屋に常時成熟猫数十匹を飼育し、当初は主として水俣湾ならびに近傍沿岸で捕獲された魚介類と対照地区で捕獲された魚介類をそれぞれ猫に投与し、その比較のもとに発症の有無・発症猫についてはその症状の変化等を観察してきたが、昭和三四年中期以降になると、百間排水溝に流出する工場廃水および八幡プールから溝に流出する工場廃水をとつてその中で飼育した泥鰌、金属水銀・無機水銀・酸化水銀等の水溶液中で飼育した泥鰌などを猫に投与(これまで述べてきたものはすべて魚介類をとおして実験を行なう意味において、間接投与といわれた)し、更にまた水俣湾の海底泥土・百間排水・塩化ビニール廃水・アセトアルデヒド廃水等を直接猫の食事(基礎食)に混入したことを投与(前述したのと同一の意味合いにおいて、直接投与といわれた)することによつてそれれぞれ実験を行ない、これらの実験は昭和三七年一二年頃までつゞけられて、結局、実験の対象とされたた猫は合計約九〇〇匹に及んだ。そして、この間同病院の細川・小嶋医師らが逐一猫の容態を観察し、その都度実験室に備えられた飼育日誌(日報)に右観察結果を記入した上、常に何人の閲覧にも供されていたし、一方技術部の職員も随時猫小屋に来て飼育猫の発症状況その他を観察していた。なお、同病院の猫飼育係事務担当者西茂は、後に右日誌を整理分類して乙第二号証(猫台帳。当時一般にドンコ帳といわれた)を作成した。

しかして、猫四〇〇号とは、昭和三四年七月半ば頃細川医師が自らアセトアルデヒド製造設備出口付近の廃水を採取し、同月二一日以降これを毎日一回二〇CC宛基礎食にかけて投与した上、実験に供された猫のことであるが、その猫は同年一〇月六、七日頃以後軽度の後肢麻痺にはじまり、次第に間代性痙攣・流涎・跳躍運動・振顫・回走運動等・水俣病酷似の症状を呈するようになり、実験開始当初三キログラムあつた体重も1.8キログラムに減少して日々衰弱していつたゝめに、同医師らは同月二四日その猫を屠殺解剖し、その標本を九州大学医学部病理学教室の遠城寺助教授に送付して、病理所見を求めた。そして、同助教授より同年一一月一六日付で寄せられた回答によると、「(イ) 小脳の顆粒細胞の脱落・消失著明。プルキニエ細胞にも変形脱落がみられる。(ロ) 大脳各部神経細胞の萎縮変性?。これはアルコール固定のためか断定困難。グリア細胞もびまん性に多少増生?。(ハ) 大脳実質内血管周囲の円形細胞浸潤。(ニ) 脳膜の軽い細胞浸潤。以上により、前回検索の発症猫とほゞ似ているように思うが、断定困難である。」ということであつた。

以上の認定事実を左右するに足りる証拠はない。

ところで、証人細川一の証言によると、猫四〇〇号の発症状況を重視した自分は、発症後間もなく技術部室に赴き、技術部次長(当時技術部長徳江毅は外遊中であつた)または幹部の一人にその旨を報告した、というのであるが、この点について、証人西田栄一(当時工場長)・同市川正(当時技術部次長)の各証言はいずれもその事実を否定し、猫四〇〇号の実験結果については、当時右証人らはもとより、同工場付属病院の細川医師ら以外の何人も全く知らなかつたところであるという。しかしながら、既に明らかなように、昭和三一年一一月熊大医学部のいわゆる重金属説が出されて以来、百間排水溝に放流される被告工場廃水に強い疑惑の目がむけられており、しかも同三四年七月には同医学部による有機水銀説が台頭し、当時同工場内における水銀使用部門は塩化ビニール製造設備とアセトアルデヒド製造設備だけであつて(もとより無機水銀であるが)、これらの廃水はいずれも百間排水溝に放流されており、その水銀使用量は、後者が前者をはるかに凌ぐものであつたから、アセトアルデヒド廃水が最も疑惑の対象とされるべきであつたということも可能であるし、また同付属病院の猫実験を側面から援助協力してきた技術部としても、深い関心をもつてその実験経過および結果に注目し、さればこそ時に技術部職員が猫小屋に来て猫の発症状況その他を観察していたというべきであるから、細川医師が猫四〇〇号の発症状況を技術部に報告するのは極めて自然であると思料されるし、同医師が敢て事実を曲げてまで証言をすべき必要性は毛頭ないこと、その発症が意味する重大性からしても同医師の記憶違いということは殆ど考えられないこと、これらのことを併せ考えると、証人西田栄一・同市川正のこの点についての各証言部分は到底信用し難いものというべく、そうすると、その当時少なくとも技術部にあつては、アセトアルデヒド廃水を直接投与して実験に供された猫四〇〇号が発症し、水俣病に酷似した症状を呈したことを了知していたものと認めるのが相当である。

そして、甲第九号証の一、同第一〇号証、乙第四八号証の一ないし一〇、証人市川正の証言によると、被告工場では、同年一一月初め水俣市を訪れる衆議院水俣病調査団に提出する資料とするために、同工場技術部次長市川正が自ら執筆して前記「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解」(第一報)を作成し、その中には細川医師らから提供された同年一〇月一二日頃までの猫実験データーの主なものを掲げており、更に被告本社では右見解書に修正を加えるとゝもに同月二五日までの実験データーに基づづいて「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解」を作成した上、これを前記調査団に提出したことが認みられるところ、この二つの見解書には、いずれも猫四〇〇号のことは全くふれられていない。この点につき、証人市川正の証言中には「昭和四三年一〇月自分が愛媛県大州市に細川医師を訪ねて同医師と会談した際、同医師から、『その当時症状がおかしいので様子をみるためにデーターから外してくれるように言つたことがあつたでしよう』と言われ、そのように言われてみると、データーから一つ外したことがあつたような気もするし、それが猫四〇〇号のことであつたかも知れない」と述べられているが、直ちに措信し難い。なお、前記猫台帳(乙第二号証)には、百間排水を直接投与した猫三七四号は昭和三四年九月二八日発症し、同日屠殺解剖した旨記載されているところ、前記各見解書には、いずれも猫三七四号は発症せず、九月一八日衰弱死したと記載されている。

とは言いながら、猫四〇〇号の実験データーがこの各見解書にふれられていない経緯については、これを断定する資料に乏しいが、この見解書にはいずれもそのまえがきとして「熊大の有機水銀説に対し、我々が当初より抱いていた疑問を一層強くする研究データーが益々多く出てきた……」と記されているように、もとより有機水銀説に対する反論に重きをおかれたものであつたことを考えると、被告工場廃水に対する疑惑を強めるおそれのある猫三七四号の実験データーをありのまゝに掲げ、あるいは又被告工場にとつて極めて不利であり致命傷ともなりかねない猫四〇〇号の実験データーを掲げるときは、反論にならないばかりでなく、自殺行為をも意味するものというべきであるから、被告のとつた態度はむしろ当然のことであつたともいうべく、従つて原告らが、被告は意識的に実験データーを秘匿したものであるとしてこれを非難するのも、強ち無理からぬものがあるといわなければならない。

次に、猫四〇〇号以外には、同年中にアセトアルデヒド廃水による直接投与実験は全然行なわれていないところ、この点に関して証人細川一は「猫四〇〇号については遠城寺助教授の前記病理所見もあり、自分としてはさらに慎重を期するために、同年一一月三〇日付属病院と技術部との連絡会議(社内研究班会議)の席上、アセトアルデヒド廃水による直接投与実験の継続実施を主張したが、技術部長徳江毅らに反対されて断念せざるを得なかつた」と証言し、甲第六号証(細川ノート)にもその旨明記されているところ、証人徳江毅・同市川正の各証言ではいずれもその事実を強く否定し、また証人小嶋照和のこの点に関する証言部分は瞹眛である。そして右三名の証言に共通するものは、水俣病が魚介類を摂食することによつて発症するという観点から、当時の趨勢として、直接投与実験よりも間接投与実験に重点がおかれていたというのであり、これは否定し難い真相を示すものでもあるが、前記猫台帳をよくしらべてみると、係廃水の間接投与実験として、昭和三四年九月以降同三五年一月までの間ニポリット(塩化ビニール)廃水の間接投与例が三件あるのに反し、これに対応するアセトアルデヒド廃水による間接投与例は全くない(この点につき、証人市川正の証言によると、アセトアルデヒド廃水中では魚が死んでしまつてその実験に適さなかつたゝめである、というのであるが、昭和三五年一二月には猫七三〇号にこの間接投与例がみられる)ことからも、アセトアルデヒド廃水による直接投与実験が、猫四〇〇号のみをもつて打切られた事由としては必ずしも首肯し難いばかりでなく、それにも増して、細川医師が、前記連絡会議の席上で何ら技術部長らの反対がなかつたのにかゝわらず、その場の空気から察して自らの提案を引つ込めたに過ぎないことを、わざわざ誇張してノートに記載するようなことは到底考えられないところであるから、そこにアセトアルデヒド廃水による直接投与実験をめぐつて論争ないし強い反対がなされたわけではないにせよ、結局細川医師の右直接投与実験継続実施の申出は、技術部長らの反対によつて容れられなかつたものと認めざるを得ない。もつとも、甲第六・第七号証、同第八号証の一からうかゞわれるように、昭和三五年八月以降アセトアルデヒド廃水による直接投与実験(細川と市川のイニシアルをとつて、HI実験と呼称された)が再開され、同三六年一月にかけて九匹の猫が実験に供された結果、それがすべて水俣病の典型的症状ではなかつたにせよ、それぞれ水俣病を思わせる症状を呈するに至つたことが確認されている。

以上によつて明らかなように、当裁判所としては、昭和三四年一〇月当時少なくとも被告工場技術部では猫四〇〇号の発症を知つていたし、同年一一月三〇日同技術部長らは細川医師の申出にかゝるアセトアルデヒド廃水による直接投与実験の継続を打切らせたものと認めざるを得ないのであつて、猫四〇〇号の実験結果が公表されるに至らなかつたことが熊大医学部の水俣病原因究明のための研究方向を誤らせ、またアセトアルデヒド廃水による直接投与実験が中断されたことが水俣病の原因究明を遅延させる要因となつたことは否定し難いところであるから、この点についての被告工場ないし被告の責任は極めて重大であるといわなければならない。なお、万が一被告工場技術部において猫四〇〇号の実験結果を知らず、更に又同技術部長らが細川医師に反対してアセトアルデヒド廃水による直接投与実験を中断させたのではなかつたとしても、同技術部が猫実験を重要視してその経過に注目していたとすれば、当然猫四〇〇号の発症およびその経過を知ることができ、むしろ右直接投与実験の継続を指示し、これを推進することによつて、原因究明につとめるべきであつたといわなければならないから、同じく被告工場ないし被告はその責任を免れるものではないというべきである。

四以上二および三で述べてきたところを要約すると、次のとおりである。

被告工場は全国有数の技術と設備を誇る合成化学工場であつたのであるから、その廃水を工場外に放流するに先立つては、常に文献調査はもとよりのこと、その水質の分析などを行なつて廃水中に危険物混入の有無を調査検討し、その安全を確認するとゝもに、その放流先の地形その他の環境条件およびその変動に注目し、万が一にもその廃水によつて地域住民の生命・健康に危害が及ぶことがないようにつとめるべきであり、そしてそのような注意義務を怠らなければ、その廃水の人畜に対する危険性について予見することが可能であり、ひいては水俣病の発生をみることもなかつたか、かりにその発生をみたにせよ最少限にこれを食い止めることができたともいうべきところ、被告工場において事前にこのような注意義務を尽したことが肯定されないばかりでなく、その後の環境異変・漁業補償・水俣病の原因究明・工場廃水の処理・猫実験などをめぐつて被告工場または被告によつて示された対策ないし措置等についてみても、何一つとして人々を首肯させるに足るものはなく、いずれも極めて適切を欠くものであつたというべきであり、被告工場としても熊大の水俣病の原因究明にあたうかぎりの協力をしたとか、同工場の廃水管理体制に欠けるところはなく廃水処理に万全を期したとかいう事実は到底認められず、以上のことからすると、被告工場がアセトアルデヒド廃水を放流した行為については、終始過失があつたと推認するに十分であり、被告工場の廃水の水質が法令上の制限基準や行政基準に合致し、同工場における廃水処理方法が同業他社事業場のそれより優れていたとしても、そのことは前記推認を覆すに足るものではなく、そして右廃水の放流が、被告の企業活動そのものとしてなされたという意味において、被告は過失の責任を免れないものといわなければならない。

かくして、被告は、同工場廃水中のメチル水銀化合物の作用により、昭和二八年以降同三六年までの間別紙〔三〕患者一覧表記載の者をそれぞれ水俣病に罹患させ、その結果同人らおよびその家族である原告らに対して後記第六損害の各項目において認定された損害を蒙らせたことになり、しかもその廃水の放流は被告の企業活動そのものであつて、法人の代表機関がその職務を行なう上で他人の損害を加えたり(民法第四四条第一項)、あるいは又被用者が使用者の事業の執行につき第三者に損害を加えたり(民法第七一五条第一項)したときのように、特定の人の不法行為について法人(使用者)が責任を負うべき場合とは自らその本質を異にするものというべきであるから、被告は民法第七〇九条によつて原告らの蒙つた右損害を賠償すべき責任があるものといわなければならない。

第四見舞金契約について

一被告は、水俣病罹患者である浜田シズエ、松本トミエ、亡田中徳義、荒木康子、築地原司、諌山孝子関係の全原告、同じく杉本トシ関係で原告(25)杉本雄、同じく田上義春関係で原告(59)田上京子、同(60)田上由里、同(61)田上里加、同じく亡荒木辰雄関係で原告(68)荒木止、同じく亡田中しず子、田中実子関係で原告(82)田中昭安、同じく前嶋武義関係で原告(111)前嶋一則を除き、生存患者本人もしくは死亡患者の相続人あるいはこれら患者の近親者である原告らとは、それぞれ昭和三四年一二月三〇日(第一次契約)、昭和三五年四月二六日(第二次契約)、昭和三五年一二月二七日(第三次契約)、昭和三六年一〇月一二日(第四次契約)、昭和三七年一二月二七日(第五次契約)、昭和三九年八月一二日(第六次契約)、昭和四四年六月一六日(第七時契約)、別紙〔七〕の〔一〕・〔七〕の〔二〕・〔七〕の〔三〕の契約書、覚書、了解事項にあるとおりの契約(ただし、年金、弔慰金、葬祭料の額については後記改定契約で増額変更されたものがある。以下この契約を契約書(乙第一四一号証の一)にある「……見舞金として次の要領により算出した金額を交付する……」の文言に従い、見舞金契約という)を締結し、この見舞金契約にもとづいて、被告は、原告らに対し、別紙「八」の〔一〕および〔八〕の〔二〕の見舞金契約の患者側当事者、見舞金額など一覧表中の見舞金額欄記載の各見舞金の支払をなしてきたから、右原告らの本訴請求は理由がないと主張する。

二昭和三四年一二月三〇日第一次見舞金契約が締結されるに至るまでのいきさつ

すでに認定した事実および甲第一九ないし第二五号証、同第三二ないし第三九号証、同第七二ないし第七六号証、同第一〇七号証、乙第七二ないし第八五号証、同第八六号証の一・二、三の一・二、四、同第八七ないし第九九号証、同第一〇〇号証の一・二、同第一〇一号証の一ないし三、同第一〇二号証の一・二、同第一三九・第一四〇号証、同第一四一号証の一ないし三、同第一四四ないし第一五九号証、同第一六〇号証の一・二、同第一八五ないし第一八九号証、同第二〇一・第二〇二号証、同第二〇三号証の一・二、証人西田栄一、同徳江毅、同渕上末喜、同吉岡喜一、同寺本広作、同高野達雄、同川村和男、中岡さつき、同中津美芳の各証言、原告田中義光本人尋問の結果(第一回)、同渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)(両原告本人尋問の結果中後記措信しない部分を除く)ならびに当事者間に争いのない事実を綜合すると、右の第一次見舞金契約が締結されるに至るまでの経緯は、つぎのとおりであつたことが認められる。

1昭和二八年ころから当時奇病といわれのちには伝染病といわれのちには伝染病の扱いを受けたこともある水俣病患者は続発したが、昭和三二年二月に熊大の水俣病医学研究班の報告にもとづき熊本県衛生部によつて水俣湾の魚介類が危険であることが指摘され、また、そのころから熊大医学部の疫学調査などによつて、汚染源として被告水俣工場の工場排水が疑われていたものの、その原因物質、汚染源については十分な解明がなされないまま経過し、ようやく昭和三四年七月二二日、熊大医学部武内忠男教授らが水俣病の原因物質について「ある種の有機水銀である」と発表するに及んで、各種報道機関も、被告会社水俣工場(以下工場という)の排水中に含まれる無機水銀が魚介類を媒介として有毒な有機水銀化合物に変化するのではないかなどと報道し、現地ではもとより世間一般においても、工場が汚染源として疑われるようになつた。なお、三か月余りのちの同年一一月一二日には厚生省の食品衛生調査会も、厚生大臣に対し、水俣病の主因はある種の有機水銀化合物であると答申している。

2漁業被害の補償をめぐる紛争は、昭和三四年になつてからだけでも、八月六日に水俣市漁業協同組合が、漁獲物が売れないので被告に対し一億円の補償などを要求、組合員が工場になだれ込むようなことがあり、それは同月三〇日、被告が三、五〇〇万円の漁業補償金などを支払うことで解決したが、水俣病患者の発生地域はその後拡大し、同年九月二三日ころになると、水俣市以北の芦北郡津奈木町、湯浦町などの地域でも患者の発生が確認されるようになり、そのため広く不知火海一帯の漁獲物が売れなくなつた。

そこで、困窮した宇土、下益城、八代、田浦、芦北、天草など六漁協に属する地元の漁民約一、五〇〇人は、同年一〇月一七日大挙して工場に押しかけ、熊本県漁民総決起大会の名において、①浄化設備完成までの操業中止、②水俣湾などの沈澱物の除去、③漁業被害の補償などの要求を掲げた決議文を西田工場長に手渡したが、その際、工場の保安係数名が負傷するという事態が発生した。この要求に対し、工場側は、同月二三日および三一日付の態本県漁業協同組合連合会(以下県漁連という)会長あての文書で、①については、工場の操業停止はできない、②、③についても、現段階では奇病(水俣病)の原因が不明であるから応じられない旨の回答をした。翌月二日には、松田鉄蔵を団長とする衆議院の水俣病調査団が水俣市を訪れ、工場に対し、熊大と協力して原因究明にあたること、排水設備を早急に完成することなどを申入れているが、同日、右調査団に陳情するために不知火海区の漁民一、七〇〇人余りが水俣市に集まり、市内をデモ行進して陳情したが、そのあと操業中止などの要求に応じようとしない工場の態度に不満をもつ漁民数百人が工場内に乱入、手当り次第に窓ガラスを破り、従業員に暴行を加え、書類に放火するなどの暴挙に出たので、三〇〇名以上の警察官が出動してやつと鎮圧したが、その際、漁民、工場従業員、警察官合わせて五〇名以上の負傷者がでた。

このような事態をむかえて、漁業補償は大きな社会問題となつたので、熊本県議会の水俣病対策特別委員会は、同月五日、工場の排水を停止させるための県条例の制定を検討すること、紛争を解決するために、漁民と工場に対し、熊本県知事にその斡旋を依頼するよう申し入れることを決議した。この決議にもとづいて、同日、熊本県議会議長から工場長西田栄一および県漁連会長村上丑夫に対し、同知事に斡旋を依頼するよう要請がなされ、この要請を受けた両名は、同月中旬ころまでに同知事に対して斡旋の依頼をしたが、この依頼を受けた熊本県知事寺本広作は、委員会形式で処理したいと考え、同月二四日、ほかに県会議長岩尾豊、水俣市長中村正、全国町村会長河津寅雄、熊本日日新聞社長伊豆富人(いずれも当時の肩書)を委員として嘱託、川瀬福岡通産局長、岡全漁連専務をオブザーバーに加えて、ここに不知火海漁業紛争調停委員会(以下調停委員会という)が発足することになつた。

そして、同月二六日以降三回の調停を重ねた結果、同年一二月一八日、工場は調停成立後一週間以内に廃水浄化装置(サイクレーター、セデイフローター)を完成させること、工場は県漁連に対し漁業補償として三、五〇〇万円を支払い、立上り資金として六、五〇〇万円を融資することなどを内容とする合意が成立、翌年五月には出水漁業協同組合など鹿児島県の漁協との、同年一〇月には残された水俣市漁業協同組合との漁業紛争がそれぞれ解決をみたので、ここに不知火海沿岸漁民の漁業補償をめぐる紛争は落着した。

3ところで、水俣病患者およびその家族(死亡患者の遺族を含む)は、昭和三二年八月一五日被告との交渉、会員相互の助け合いを目的として水俣病患者家庭互助会(以下互助会という)を結成、初めての会長には原告渡辺栄蔵が就任し、その後も新たに認定された水俣病患者は、家族とともに全員が互助会に加入し、昭和三四年八月の総会では、役員として会長に右渡辺栄蔵、副会長に中津美芳、会計に尾上光義が選ばれた。そして、昭和三四年一一月中旬ころから水俣病の原因究明などについて尽力を求めて、熊本県、水俣市選出の県会議員などに陳情を繰り返していた。

4互助会は、同年一一月二五日前記尾上方で臨時総会を開き、当日出席した会員全員の一致した意見で、水俣病の原因は工場排水にあるから、患者七八名分の補償金として、被告に対し、総額二億三、四〇〇万円(一名当り三〇〇万円)の支払を求めるという決議をし、「昭和二八年頃より発生したる水俣病は貴工場の排水に依つて発病し死亡したる事は社会的事実であります依つて被害者七八名の補償金として二億三、四〇〇万円を出す事尚一一月三〇日迄に貴社より回答ある事要求します/昭和三四年一一月二五日/水俣病家庭互助会長渡辺栄蔵/新日窒水俣工場長西田栄一殿」という決議文(乙第一四五号証)を作成、その交渉委員に前記渡辺、中津、尾上のほか竹下武吉、中岡さつき、前田則義の六名を選出した。右渡辺、中津、中岡、前田らは、同日、工場を訪れ、庶務課長川村和男に前記決議文を手交した。これに対し、工場側は、まず同日、同課長が口頭で、水俣病が工場排水と関係があることは明らかにされていないので、その要求には応じられない旨の回答をし、同月二八日、重ねて工場長名の文書(同第一四六号証)で同旨の回答をした。

この工場回答を受けた互助会々員は、同日から工場正門横にテントを張り、正門前ですわり込みを始め、このすわり込みは翌一二月二七日まで続いた。

5同年一二月一日(以下15項までの日付は昭和三四年一二月のことである)、当時認定を受けていた全患者(死亡患者を含む)の家庭から少なくとも一名が、当時の水俣市議会議長渕上末喜とともに熊本県庁に県知事を訪ね、生活の窮状を訴えて、不知火海漁業紛争調停委員会において、漁業補償のほかに患者補償の問題も取上げその調停斡旋をするよう要望し、患者一名につき三〇〇万円の要求額を示した。なお、そのころ、水俣市長からも県知事に対し、調停委員会において患者補償について斡旋調停するよう要請があつた。

6この要請を受けた知事は、同委員会において患者補償についても斡旋の労をとることとし、まず七日、上京して、社長吉岡喜一に会い、水俣病が被告と関係がないということではもはや県民の納得は得られないとして、患者補償の要求に応じるよう説得、ついに同社長もこれに同意したが、その名目は見舞金とすることを希望し、その際は、金額についてまでは話が及ばなかつた。

7ついで知事は、一二日ころ、県工鉱課の職員高野達雄、浜村某らに、労働基準法に定める労働者の災害補償を参考にして調停案の原案を作成するよう命じ、右高野らは早速、自動車損害賠償責任保険、生活保護法による生活扶助など、労働者に対する業務上の災害補償、洞爺丸事件の補償例などを参考にして別紙〔六〕の〔一〕のような調停案の原案(乙第二〇二号証と同じもの、以下単に原案という)を作成し、知事に提出した。

知事は、一五日、知事公舎で開かれた漁業補償に関する第三回目の調停委員会において、この原案をほかの調停委員らに提示し、横田県工鉱課長らも出席してその説明をしたが、他の委員からはとくに意見は出なかつた。

8翌一六日、右横田らは、この原案を被告会社関係者および患者側代表者に提示した。すなわち、渡辺栄蔵、中津美芳、中岡さつき、前田則義、尾上光義ら前記患者側の交渉委員には、右横田らが、水俣市役所かあるいは同市内の旅館で、水俣市長、前記渕上市会議長立会いのもとに、この原案を提示して説明し、この原案をそのまま複写した書面(乙第二〇二号証)を右渡辺らに交付した。

渡辺らは、右書面をもつて前記工場正門横のテントに引返し、居合わせた患者、その家族にその全文を読みきかせて相談したところ、発病時未成年者であつた患者に支払われる年一万円という原案の1の(2)項、2の(1)(2)項の定める金額について強い不満があり、せめて成人患者に支払われる年一〇万円の半額位はという希望が強かつたので、翌々日ころ、渡辺ら患者代表十数名は、再び、県庁に知事および前記高野を訪ね、同人らにその旨訴えるとともに、合わせて生存患者についても年金でなくすべて一時金で支払うこと、症状の程度に応じて金額に差を設けることを申し入れた。

9一七日、知事は、熊本市内で前記吉岡社長ら会社関係者と再び会つて、水俣病の原因が判明していないからという理由で強硬に反対する同人らを説得し、ようやく大筋において前記調停原案に応ずることを承諾させた。

10二三日ころ、知事ら調停委員は、水俣市役所を通して交渉委員の渡辺栄蔵に、前8項の患者らから申し入れのあつた発病時未成年の患者の年一万円の額を年三万円に増額する旨通知し、この原案に応ずるか否かの返事を求めた。

11二五日、全患者家族の代表が、この調停委員会から示された原案に応ずることについて賛否の投票を行つたところ、前記未成年患者に対する年三万円の額についてなお不満をもつ者が多く、これに応ずべきでないとする票が応ずべきであるとする票を一票上回り、ここに患者家族は二つに分かれて紛糾し、一時は交渉委員が辞任の意向を表明する事態にまでなつたが、二七日午後八時ころ、原案に反対した者全員が集まり再度協議した結果、ことここに至つてはこれに応ずるほかないということで意見が一致し、ようやくこの原案を受諾することに全員が同意したので、そのころ渡辺互助会会長は、その旨を調停委員に伝えた。

12二七日、患者家族はすわり込みを解き、翌二八日、テントの後片付けをし、交渉委員ら幹部は、交渉期間中の支援、指導に対する礼状(乙第一五四号証)を工場関係者その他の者に郵送した。

13以上の経過にもとづいて、調停委員会は別紙〔六〕の〔二〕のような最終調停案(乙第一四〇号証、ただし五項はのちにこれから述べるような経過によつて挿入された。)を作成し、二八日午後四時ころ、県商工水産部の森永部長、前記、横田課長、高野、浜村ら工鉱課職員がこれをもつて水俣に来て、工場の陣内クラブで、西田工場長、久山総務部長、川村庶務課長らにこれを示し、発病時未成年者であつた患者の年一万円の額が三万円に増額になつたことについて説明するとともに、将来物価が上昇した場合にはそれに応じて年金額も改定されることを伝えた。

これに対し、右工場関係者らは、将来水俣病が工場排水に起因しないことが確定した場合には、その日以降見舞金の交付を打切る旨の条項を入れることを希望したので、森永らは直ちに調停委員に電話でこの旨を連絡し、調停委員もこれに同意したので、森永らはこれを五項として書き加え、西田工場長らに右条項(右調停案五項、以下打切り条項という)を入れることになつたことを通知した。なお、同日工場関係者は、森永らから各患者に支払われるべき見舞金の金額などを記載した明細書(乙第一六〇号証の二)を受取つた。

14かくて、いよいよ二九日午前一〇時三〇分ころ水俣市役所市長室に、患者側代表として前記渡辺、中津、尾上、竹下、中岡、前田らの交渉委員、被告会社関係者として前記西田、久山、川村、それに石野工場次長、調停委員の代表として中村止水俣市長、県商工水産部からは前記森永、横田、高野ら、それに立会人として前記渕上水俣市議会議長、県会議員二名が出席して、最後の交渉が行なわれることになり、まず冒頭森永部長が前記最終調停案にもとづいてその逐条説明を行なつた。これに対し患者側交渉委員から、なお、見舞金の額が低すぎること、打切り条項などについて意見が出たが、同部長の説明で右案どおり了解し、そこで一旦双方は右最終調停案をもつてそれぞれ別室に退き、なお検討したうえで、再び午後一時五〇分ころ集まり、それぞれ受諾の回答をした。

そこで、引続き同所において、高野ら県職員が右の最終調停案をもとに作成した契約書(乙第一四一号証の一)、覚書(同号証の二)にもとづいて横田課長、高野のいずれかが逐条説明し、午後三時ころまでには右契約書の全条および覚書の七項までについて双方の同意が得られたが、覚書の原文には八項として「年金の額は国の支給する恩給が物価の変動によつて改定されたときは、その基準にそつて改定されるものとする。」という条項があつたところ、工場側の久山部長らはこれに強く反対し、「著しい物価変動を生じた場合にのみ双方協議して年金額を改定する。」という代案を出してこれに固執したので、長時間紛糾し、ようやく深夜の零時を過ぎるころになつて、工場側主張のとおりの改定条項を、別に契約書、覚書に附随する了解事項(乙第一四一号証の三)の形式で取極めることで決着がついた。

15そして、翌三〇日正午ころ水俣市役所の市長室において、中村市長、森永ら立会のもとに、患者側は前記渡辺ら五名の交渉委員(中岡さつきは当日欠席し、前田則義が同人の印鑑を持参して代理した。)が、当時水俣病の認定を受けていた死亡患者三一名、生存患者四八名、合計七九名の全患者(右契約書添付の水俣病患者発生名簿記載の各患者)について患者本人、相続人(死亡患者の場合)、死亡患者の父母、配偶者、子の代理人として、被告会社は西田工場長がその代理人として、それぞれ前記契約書、覚書、了解事項(その内容は別紙〔七〕の〔一〕・〔七〕の〔二〕・〔七〕の〔三〕のとおり)に調印した。

以上の事実が認められ、前記原告田中義光、同渡辺栄蔵の各本人尋問の結果中右認定に反する各供述部分は前掲各証拠に照らして信用できず、他に右認定を覆すにたりる証拠はない。

三第一次見舞金契約の原告らに対する効力

被告は、第一次見舞金契約の当事者である患者、家族は、前記渡辺栄蔵ら六名の交渉委員に右契約締結について代理権を与えていたと主張し、仮りにその主張が容れられないとしても、同人らは右契約締結の事実を認めて、同契約にもとづき支払われた前記見舞金を自ら、もしくは代理人である患者または患者の相続人らにより受領し、かつその受領を知りながら本訴提起に至るまで何らの異議を述べずこれを承認してきたものであるから、同人らは渡辺らの無権代理行為である前記契約を追認したものであると主張し、原告らは、右渡辺らが右契約締結の代理権を有していたことは争い、被告の追認の主張については、前記契約の第四条、第五条、覚書の二項、六項、七項を除いて、その主張事実を認め、右契約にもとづき支払われた見舞金を受領したことは認めた。

1乙第一七七号証の一・二、同第一七八ないし第一八三号証、同第一八四号証の一・二、同第一八五ないし第一八九号証、同第一九〇号証の一ないし四、同第一九四号証の一ないし五、同第二〇一号証、証人川村和男、同江尻武義、同樺山展雄、同中岡さつき、同中津美芳の各証言、原告渡辺栄蔵(第二回)、同前嶋サヲ(第一回)、同坂本武義(第一回)、同田中義光(第一回)の各本人尋問の結果によれば、渡辺栄蔵ら交渉委員は、昭和三四年一一月二五日の互助会臨時総会において、当日これに出席していた患者、その家族の者からは、右契約締結についての代理権を授与されていたこと、同年一一月二八日から翌月二七日まで一か月間にわたつて行なわれた工場正門前のすわり込みには、原則として、患者家庭から少なくとも一名が参加する建前で、実際にもほとんど原則どおり実行されていたが、交渉委員は、すわり込みに参加している患者、家族には、必要に応じて調停案の内容など交渉経過を報告説明していたこと、患者、家族の関心は主に金額の多寡にあり、その他の契約条項についてはそれほど関心がなかつたこと、患者の各家庭には、翌三五年一月初めころ最終調停案(乙第一四〇号証)および契約書、覚書、了解事項(同第一四一号証の一ないし三)の写(同第一九〇号証の一ないし四はその一部である)が水俣市役所から配付されたこと、覚書三項にもとづき第一回分の一時金は、日赤熊本県支部水俣市地区長(水俣市長が兼任)を介して契約が締結された一二月三〇日から三日以内に支払われ、契約締結当時すでに死亡していた患者の遺族を除き、生存患者にはその後も右契約にもとづく年金が毎年三月、六月、九月、一二月の各末日に分割して支払われ(ただし、契約書第一条の四により年金の一時払いを受けた者を除く)、生存患者に対する年金の支払いは、本訴提起後の昭和四七年九月まで一四年間続けられた(途中死亡した場合は、その時点で遺族に弔慰金、葬祭料が支払われた)が、患者らは異議なくこれを受領してきたこと、本訴提起に至るまですでに支払われた年金、一時金について、その返還を申し出るなど異議を唱えた原告はなかつたこと以上の事実が認められ、これを覆すにたりる証拠はない。

2右の事実に、すでに二の3ないし15において認定した患者家庭互助会の構成メンバー、右契約締結に至るまでのいきさつなどの事実を併せ考えると、右契約締結当時すでに死亡していた患者の遺族である原告らおよび生存患者本人については、前記契約締結についての代理権を交渉委員である渡辺栄蔵らに授与していたか、仮りにそうでないとしても、見舞金を受領したことによつて、右渡辺らの無権代理行為としてなされた前記契約を、その内容を知りながら包括的に追認したものと認めるのが相当である。

3なお、乙第一四一号証の一・二の契約書の第一条、覚書の二項によれば、この契約にもとづいて支払われる見舞金には、患者(生存患者および死亡患者を含む)の近親者(父母、配偶者および子)に対する慰藉料を含むとされていることが明らかであるが、生存患者の近親者については、前記渡辺ら交渉委員が、その代理人として、前記契約を締結したことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて、右契約書の前書部分の記載によれば、生存患者の近親者は契約当事者から除外されていることが明らかであるから、その患者がその後死亡してその近親者である原告らが弔慰金、葬祭料などを受領しているような場合を除き――この場合は、その時点でその原告と被告間に直接契約が成立したとみるべきで、亡荒木辰雄関係の原告(66)荒木愛野、同(67)洋子、同(69)節子、同(70)辰己、亡長島辰次郎関係の原告(101)長島アキノ、同(102)原田フミエ、同(103)長島政広、同(104)長島タツエ、同(105)三幣タエ子、同(106)長島努がこれに該当する――この契約の効力が及ばないことはいうまでもない。

また、右契約が締結された当時、まだ生存患者と配偶者、子などの身分関係がなかつた者、たとえば原告(42)坂本敦子(昭和四二年四月五日生)、同(55)浜元ハルエ(患者である原告(51)浜元二徳と昭和三九年一一月一七日結婚)らが、この契約の当事者となつていないことも明らかである。

四第二次以降第七次までの見舞金契約の締結と契約内容の改定

1 第二次見舞金契約の締結――亡釜鶴松(契約の対象となる患者)、(12)原告(12)釜トメオ、同(13)釜時良関係

被告は、当時生存患者であつた亡釜鶴松が、本人ならびに妻の原告トメオ、子の原告時良の代理人として、昭和三五年四月二六日、第一次契約と同一内容の見舞金契約を締結したと主張し、その証拠として、乙第一六二号証の契約書を提出しているが、これについてはその成立を認めるにたりる証拠がなく、かえつて、原告釜時良の本人尋問の結果(第一回)によれば、のちに損害のところでも認定するとおり、鶴松は当時水俣市立病院に入院中で病状も重篤で同人が右契約を締結したのではなく、右契約書は、文字の十分読めない右トメオが、その内容について理解しないままに市役所の係員の求めに応じて鶴松の印鑑を手渡し、同人がそれに押捺して作成したものであることが明らかである。

したがつて、右時点において前記契約についての合意があつたとは認められないが、乙第一七八ないし第一八〇号証、証人川村和男の証言、右本人尋問の結果によれば、右原告らは、その際右契約書の交付を受けてその内容を十分承知しながら、被告から鶴松生存中は同人の代理人としてこの契約にもとづき支払われる一時金および年金を、同人の死亡(昭和三五年一〇月一二日)後は原告らに同じ契約にもとづいて支払われた弔慰金、葬祭料を、それぞれ受領している事実が認められるから、その時点においては、右原告らおよび鶴松と被告間に被告主張の契約が成立したと認めるのが相当である。もつとも、鶴松については、原告らにその代理権を与えた事実は認められないから、原告らによる契約の締結は無権代理行為ということになるが、鶴松が死亡して原告らは同人を相続し、本人の鶴松と代理人の原告らの資格が同一人に帰したのであるから、この場合には本人である鶴松みずからが初めから右契約をしたのと同様な法律上の地位を生じたものと解するのが相当で(最高裁昭和四〇年六月一八日判決集第一九巻第四号九八六ページ参照)、原告らは無権代理行為であることを主張できないというべきである。

2 第三次見舞金契約の締結――(一)原告(21)牛嶋直(契約の対象となる患者)、同(22)牛嶋フミ、(二)亡平木栄(契約の対象となる患者)、原告(93)平木トメ、同(94)河上信子、同(95)田口甲子、同(96)平木隆子、同(97)斎藤英子関係

(一) 原告牛嶋直、同フミ

乙第一六三号証、同第一八一号証、証人川村和男の証言によれば、原告牛嶋直は、昭和三五年一二月二七日、被告と第一次契約と同一内容の見舞金契約を締結し、同日第一回分の一時金二万五、〇〇〇円を受取つたことが認められ、右認定に反する原告牛嶋直本人尋問の結果(第一回)は、前掲各証拠に照らして信用できない。なお、被告は、原告フミについても同日原告直が代理して契約を締結したと主張するが、右事実を認めるにたりる証拠はない。

(二) 亡平木栄、原告平木トメ、同河上信子、同田口甲子、同平木隆子、同斎藤英子

被告は、当時生存患者であつた亡平木栄が、本人ならびに妻の原告トメ、子の原告信子、同甲子、同隆子、同英子の代理人として、同日、第一次契約と同一内容の見舞金契約を締結したと主張し、その証拠として、乙第一六四号証の契約書を提出しているが、これについてはその成立を認めるにたりる証拠がなく、かえつて、原告平木トメ本人尋問の結果によれば、のちに損害のところでも認定するとおり、栄は当時水俣市立病院に入院中で病状も重篤であり、同人が右契約を締結したものではないことが明らかである。しかし、乙第一八一号証、同第一九一号証、同第一九四号証の一ないし五、証人川村和男の証言、右原告本人尋問の結果によれば、原告らは、同日ころ右契約書の交付を受けてその内容を承知しながら、被告から、栄生存中は同人の代理人としてその契約にもとづいて支払われる一時金および年金を、同人の死亡(昭和三七年四月一九日)後の同年五月一二日には原告らに右契約にもとづき支払われた弔慰金、葬祭料合計三二万円を、それぞれ受領した事実が認められるから、その時点においては、栄および同原告らと被告間に被告主張の契約が成立したと認めるのが相当である。もつとも、栄において右原告らにその代理権を与えた事実は認められないから、同原告らによる契約の締結は無権代理行為ということになるが、1の亡釜鶴松のところで述べたと同じ理由により、原告らは無権代理行為であるから無効であるという主張はできないと解すべきである。

3 第四次見舞金契約の締結――亡杉本進(契約の対象となる患者)、原告(23)杉本トシ、同(24)杉本栄子、同(25)杉本雄関係

乙第一六五号証、同第一八二・第一八三号証、同第一九四号証の四・五、証人川村和男の証言、原告杉本栄子、同杉本雄各本人尋問の結果(後記措信しない部分を除く)によれば、当時生存患者であつた亡杉本進は、同じ患者である妻の原告トシが第一次の見舞金契約を締結した際にもそれ以前のすわり込みなどに参加していたので、その契約内容は十分承知しながら、被告と昭和三六年一〇月一二日、同一内容の見舞金契約を締結し、その後昭和四四年七月二九日死亡するまで同人がこの契約にもとづいて支払われた一時金および年金を受領していたことが認められ、右原告らについては、同人死亡後、契約内容を承知しながら、原告らに対し右契約にもとづいて支払われた弔慰金、葬祭料を受領した事実が認められるから、そのころ被告主張の契約が締結されたと認めるのが相当で、前記原告杉本栄子、同杉本雄各本人尋問の結果中右認定に反する各供述部分は信用できない。

4 第五次見舞金契約の締結――(一)原告(11)渡辺政秋(契約の対象となる患者)、同(2)渡辺保、同(8)渡辺マツ、(二)原告(39)坂本しのぶ(契約の対象となる患者)、同(37)坂本武義、同(38)坂本フジエ、(三)原告(48)上村智子(契約の対象となる患者)、同(46)上村好男、同(47)上村良子関係

(一) 原告渡辺政秋、同保、同マツ

乙第一六六号証(ただし渡辺政秋作成名義部分を除く)、証人川村和男の証言、原告渡辺栄蔵(第二回)、同渡辺保の各本人尋問の結果によれば、原告政秋の親権者である原告保、同マツからその代理権を授与された原告渡辺栄蔵は、被告代理人水俣工場長北川勤哉と、昭和三七年一二月二七日、第一次契約と同一内容の見舞金契約を締結したことが認められる。

被告は、原告政秋の両親である原告保、同マツも、同日、右栄蔵が同人らを代理して、右契約を締結したと主張するが、この事実を認めるにたりる証拠はない。

(二) 原告坂本しのぶ、同武義、同フジエ

乙第一六七号証、証人川村和男の証言によれば、原告しのぶの法定代理人(親権者)である原告武義、同フジエと被告間に、同日、第一次契約と同一内容の見舞金契約が締結されたことを認めることができる。

被告は、原告しのぶの両親である原告武義、同フジエも、同日、被告との間で同じ契約を締結したと主張するが、この事実を認めるにたりる証拠はない。

(三) 原告上村智子、同好男、同良子

乙第一六八号証、証人川村和男の証言によれば、原告智子の法定代理人(親権者)である原告好男、同良子と被告間に、同日、第一次の契約と同一内容の見舞金契約が締結されたことを認めることができる。

被告は、原告智子の両親である原告好男、同良子も、同日、被告との間で同じ契約を締結したと主張するが、この事実を認めるにたりる証拠はない。

5 見舞金契約の改定(第一回)

乙第一七三号証、証人川村和男、同江尻武義の各証言、原告渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)によれば、昭和三九年四月一七日、原告ら互助会会員の代理人である渡辺栄蔵、岩坂政喜、松永善一らと被告代理人水俣工場長児玉義忠との間で、前記了解事項(乙第一四一号証の三)にもとづき生存患者の年金額を昭和三九年二月一日に遡つて、①発病時成年に達していた者については、年額一〇万五、〇〇〇円(重症者については年額一一万五、〇〇〇円)②発病時未成年者であつた者については、成年に達するまでの期間は年額五万円、その後成年に達した者については、年額八万円に増額し、なお、③発病時未成年者であつた者が満二五才に達したときは、個々に協議して見舞金額を決定する旨の第一回見舞金改定契約が締結されたことが認められる。

6 第六次見舞金契約の締結――(一)原告(19)浜田良次(契約の対象となる患者)、同(14)浜田義行、同(15)浜田シズエ、(二)原告(76)松本俊子(契約の対象となる患者)、同(71)松本俊郎、同(72)松本トミエ関係

(一) 原告浜田良次、同義行、同シズエ

乙第一六九号証、証人江尻武美の証言、原告浜田シズエ本人尋問の結果によれば、原告良次の親権者である原告義行、同シズエは、義行が代理人として、被告と昭和三九年八月一二日、第一次契約およびその後の前記第一回の改定契約にしたがい同一内容の見舞金契約を締結したことが認められる。

被告は、原告良次の両親である原告義行、同シズエも、同日、被告との間で同じ契約を締結したと主張するが、この事実を認めるにたりる証拠はない。

(二) 原告松本俊子、同俊郎、同トミエ

乙第一七〇号証、証人江尻武義の証言、原告松本トミエ本人尋問の結果によれば、原告俊子の親権者である原告俊郎、同トミエは、俊郎が代理人として、被告と、同日、第一次契約およびその後の右第一回改定契約にしたがい同一内容の見舞金契約を締結したことが認められる。

被告は、原告俊子の両親である原告俊郎、同トミエも、同日、被告と同じ契約を締結したと主張するが、これを認めるにたりる証拠はない。

7 見舞金契約の改定(第二・三回)

乙第一七四号証、同第一七五号証の一、同第一七六号証、証人江尻武義、同樺山展雄の各証言、原告渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)によれば、まず昭和四〇年五月二一日、原告ら互助会会員の代理人である渡辺栄蔵、山本亦由らと被告代理人水俣工場長児玉義忠との間で、前回の昭和三九年四月一七日の改定の際に具体的な金額を決定しないままになつていた発病時未成年者であつた者が満二五才に達したときの年金額を一〇万円(重症者については、一〇万五、〇〇〇円)とし、昭和四〇年五月一日から実施する旨の合意が成立し、つぎに昭和四一年六月三〇日、原告ら互助会会員の代理人である前記渡辺らと被告代理人水俣工場長徳江毅との間で、同日から年金を受けていた患者が死亡した場合の弔慰金、葬祭料の額をそれぞれ四五万円と五万円に増額する旨の第二回見舞金改定契約が締結され、昭和四三年三月六日には、原告ら互助会会員を代理する前記渡辺らと被告代理人水俣工場長結野三郎との間で、生存患者に対する年金について、昭和四三年三月一日から発病時の成年、未成年を問わず年金を受ける時点において、成年に達している患者には年額一四万円、未成年の患者には年額七万五、〇〇〇円にそれぞれ年金額を増額する旨の第三回見舞金改定契約が締結されたことが認められる。

8 第七次見舞金契約の締結――亡渡辺シズエ(契約の対象となる患者)、原告(1)渡辺栄蔵、同(2)渡辺保、同(3)渡辺信太郎、同(4)渡辺三郎、同(5)渡辺大吉、同(6)石田良子、同(7)石田菊子関係

乙第一七一号証の一・二、同第一七二号証の二、証人樺山展雄の証言、原告渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)によれば、亡シズエの夫である原告栄蔵は、本人および同人ら夫婦間の子でシズエの相続人である原告保らの代理人として、被告と昭和四四年六月一六日、第一次契約および前記各改定契約にしたがい同一内容の見舞金契約を締結したことが認められる。

しかし、原告栄蔵を除く原告保ら六名の原告が、右契約締結についての代理権を原告栄蔵に与えた事実を認めるにたりる証拠はないから、栄蔵の右契約の締結は無権代理行為というべきであるが、右原告保らがこれを追認したことを認めるにたりる証拠はなく(同原告らは、亡シズエに対する見舞金は受領していない)、栄蔵を除く原告らにはその効力は及ばないといわなければならない。

五本件見舞金契約および見舞金の性格

1本件見舞金契約の性格については、当事者間に争いがあり、被告は、民法第六九五条の和解であると主張し、原告らは、民法には規定のない無名契約たる見舞金契約であると主張している。

しかし、患者ないしその近親者と被告間で、前記認定のとおり、本件見舞金契約が締結され、それが契約として有効であるとすれば、その合意の内容にそう効果を生ずることになり、当事者双方がそれに拘束されることになるのはいうまでもないことであつて、それは本件見舞金契約が民法の右条文にいう和解であるか、民法に規定のない無名契約たる見舞金契約であるかによつて相違があるものではないから、そのいずれであるかを決定する意味は、その限りにおいてはないというべきであろう。

2むしろ、当事者間における実質的な争いは、右契約にもとづき支払われることになつた見舞金の性格をいかに解するかにあると思われるが、これについては、すでに認定した契約締結に至るまでのいきさつ、右契約条項中の「将来水俣病が被告の工場排水に起因しないことが決定した場合においては、その月をもつて見舞金の交付は打切るものとする。」(第四条)および患者ないしその近親者は、「将来、水俣病が被告の工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」(第五条以下権利放棄条項という)などの文言によつて、この契約が、水俣病が被告の工場排水に起因するか否かは不明であるということ、すなわち被告の損害賠償義務を認めないことを前提にして締結されたものであることは明らかであるから、この契約にもとづいて支払われる見舞金は、実質上患者らの損害を補填するとしても、法的解釈としては文字どおり、損害賠償金の性格をもたない見舞金と解さざるを得ない。

なお、被告が、加害行為および損害賠償義務を認めて本件見舞金契約を締結したものではないこと、したがつて、見舞金は、損害賠償義務にもとづいて支払われる損害賠償金でないことは、被告自身認めるところである。

3すると、この見舞金契約は、被告が、契約当事者である患者ないしはその近親者に所定の損害賠償金でない見舞金を支払い、そのかわりに、右患者らは、のちに水俣病が工場排水に起因することが明らかになり、被告が損害賠償義務を負うことが確定しても、この契約にもとづいて支払われる見舞金以外には損害賠償の請求はしないことを内容とする契約ということになるが、このような契約も、その内容が法律上是認され得る適法なものであれば、有効であることはいうまでもない。

六本件見舞金契約が公序良俗に違反するとの主張に対する判断

1原告らは、本件見舞金契約について、被告は、すでにその第一次契約が締結された当時から、一連のネコ実験の結果などにより水俣病が被告会社水俣工場の排水に起因することを知つていたのに、これを隠して、患者ないしその近親者と、水俣病が工場排水に起因するか否かは不明という前提で、この契約を締結したもので、またその内容も、患者らの窮状につけこみ、極めて低額の見舞金を支払つて、一切の損害賠償請求権を放棄させるものであるから、公序良俗に反し、無効であると主張している。

民法は、権利の行使および義務の履行は、信義にしたがい誠実にこれをなすことを要すと定め(同法第一条第二項)、その権利義務の内容を確定する契約についても、それが社会の一般的な秩序や道徳観念(公序良俗)に反するときは、その契約は無効であるとしている(同法第九〇条)。

もちろん、これらの原則は、不法行為による損害賠償の履行についてもその適用をみるものであるから、不法行為の加害者にあつては、被害者の信頼を裏切らないように誠意をもつてその賠償義務を履行することを要するのであつて、加害者がいたずらにその賠償義務を否定し、被害者の無知、窮迫に乗じて、低額の補償をするのとひきかえに被害者の正当な損害賠償請求権を放棄させたような場合には、その契約は、前述の公序良俗に違反するから、無効といわざるを得ない。

2そこでまず、本件見舞金契約を締結した際の被告側の態度をみる。

すでに明らかなように、昭和三一年一一月態大医学部の研究班がマンガン説を発表したころから、水俣病発生の有力な汚染源として被告会社水俣工場の排水が疑われていたが、右工場排水に匹敵するほどに有力な汚染源は他に考えられないところから、その疑いは世間一般においても時を追つて強くなり、昭和三四年七月同学部武内忠男教授らがいわゆる有機水銀説を発表したころには、のちに時効のところで認定するように、新聞などの報道機関も、工場排水が汚染源であることは既定の事実であるかのように報道するようになつた。その後、先に昭和三三年九月ころから翌三四年九月ころまで、工場のアセトアルデヒド酢酸設備関係の排水溝が、百間排水溝から水俣川河口に変更されたことに伴い、水俣川河口付近に水俣病患者の発生が確認されるなど、患者の発生地域は次第に拡大し、それにつれて、漁業被害の補償などを要求する漁民と被告工場間の紛争は、一段と激化した。水俣病の原因が、科学的に十分解明されていなかつたにしても、第一次の見舞金契約が締結された昭和三四年一二月三〇日当時、のちにも述べるようにすでに、水俣の現地住民はもちろん、一般県民感情においても、水俣病と工場排水が関係ないということではすまされない情況にあつたのである。そして、これは公表されなかつたが、同年一〇月には細川医師らが行つた工場のアセトアルデヒド排水を直接猫に投与したいわゆる猫四〇〇号実験で、猫が水俣病に酷似した症状を呈し、この事実は、同医師から少くとも工場技術部の者には報告された。

このような状況にあるのに、被告は、なお水俣病が工場排水に起因することは明らかでないとして、そのような前提で右契約を締結するように強硬に主張して、結局これを認めさせ、その後、昭和三五年八月以降再開された工場のアセトアルデヒド排水を直接投与する実験でも、猫が水俣病を思わせる症状を示したことは明らかで、昭和三七年三月には工場技術部が、アセトアルデヒド設備の精ドレン中にメチル水銀化合物があることを確認し、昭和三八年二月には熊大医学部入鹿山且朗教授が、水俣病の原因物質と考えられる塩化メチル水銀の結晶を酢酸工場から直接採取したスラッジの中から抽出したと発表し、いよいよ後に認定するとおり、昭和四三年九月二六日には厚生省が、水俣病は工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると公式に見解を発表したにもかかわらず、依然として、被告は、前述のような態度を変えることなく、昭和四四年六月一六日に締結された第七次の見舞金契約までどの契約についても、水俣病の原因は不明であるという立場をつらぬいたのである。

しかも、前述の権利放棄条項(契約五条)は、乙第一三九号証、証人高野達雄、同寺本広作の各証言によれば、当時、すでに科学上の裏付けはないにしても、水俣病が工場排水と無関係ということでは県民一般の感情すら許さないという状況にあつたのに、昭和三四年一二月七日ころ県知事が、被告会社の当時の社長吉岡喜一を患者補償に応ずるよう説得した際に、同人が、強く知事にこの条項を設けるよう申し入れ、その結果この条項が調停案原案(乙第一三九号証)のときから採用されたもので、この条項がなければ、被告は到底本件見舞金契約の締結に応じていなかつたことが認められる。

3つぎに、患者およびその家族の側の事情をみるに、

(一) 証人寺本広作、同中岡さつき、同中津美芳の各証言、原告岩本マツエ、同前嶋サヲ、同坂本武義、同浜元二徳、同田中義光の各本人尋問の結果(いずれも第一回)、同渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)によれば、

(1) 第一次見舞金契約締結のための交渉が行なわれた昭和三四年一一・一二月当時は、患者補償の問題は、まだ漁業補償のようには世間一般の関心を集めておらず、したがつて一般の同情支援もなく、一部には水俣病に対する無理解のために補償を求めて交渉することを言掛りをつけることのように考える者もあり、被告会社水俣工場のある水俣市では他地域にくらべてこの風潮が強かつたこと

(2) 交渉委員を含めて患者家族は、のちに述べるように経済的に窮迫し、また契約に関する知識や経験に乏しく、見舞金については金額の多寡についてのみ関心が強く、五条の権利放棄条項などについては、その利害得失を十分検討するだけの知識と余裕がなかつたこと

(3) 県知事ら県の有力者が斡旋調停の労をとつたためにようやく交渉は進捗し、契約書に調印の運びとなつたのであつて、この機会をのがしてこれと別個に被告と契約を締結するなどして補償金をとることは、事実上不可能な状況にあつたこと

以上の事実が認められ、弁論の全趣旨からして、この(2)、(3)の各事実は、その後に水俣病の認定を受け契約第三条にもとづいて第二次以降の見舞金契約を締結した者についても、多かれ少なかれいい得る事柄で、たとえば、第一次契約と異なる内容の契約を別個に締結することなどは、不可能であつたと認められる。

(二) しかも、患者家庭は、契約を締結した当時、それぞれ次表に記載するように、経済的に窮迫した状態にあつたことが認められる。

番号

患者氏名

原告

番号

原告氏名

契約締結時の経済状態

上記の事実を認定した証拠

1

(7)(亡)渡辺シズエ

(1)

本人らは、いずれも当時小学生で、水俣市立病院に入院中、父保は、澱粉工場で働いたり、日雇人夫をしていた。

昭和三三年一一月生まれた政秋は、胎児性水俣病。保の母シズエも寝たきりの状態で自宅療養中で、母マツがその面倒をみる。

マツの実家から食糧のからいもを送つてもらう送料を、保は、澱粉工場で前借りするぐらいで、日常生活にも困る。

甲第一八五号証の一、

原告渡辺保本人尋問の結果、

同渡辺栄蔵本人尋問の結果(第二回)

1

(7) 渡辺栄蔵

(1) 靏野松代

9

(1) 靏野松代

(1) 渡辺栄一

10

(1) 渡辺栄一

(5) 渡辺政秋

11

(5) 渡辺政秋

(5)

当時、本人は四才。

両親である保、マツらの経済状態は1の場合と変らない。

右同

(7)

栄蔵は当時七〇才を越え、収入はなく、長男保らにやしなわれている。

右同

2

(2)(亡)釜鶴松

(2)

本人は、当時、水俣市立病院に入院中。

妻トメオは病院に附添い、時良の月額一万円足らずの収入で一家四人の生活と、入院費用をまかない、被告から受取つた見舞金は借金の利急の支払いに当てた。

甲第一八六号証の一

原告釜時良本人尋問の結果(第一回)

12

(2) 釜トメオ

13

(2) 釜時良

3

(6) 浜田良次

19

(6) 浜田良次

(6)

本人は当時四才。

父義行、母シズエは漁業に従事していたが、そのころから、同人らにも水俣病症状が現われて漁にも支障があり、ほかによし子ら一二才を頭に三人の子と年老いた両親をかかえて苦しい生活をしていた。

甲第一八七号証の一および九

4

(3) 牛嶋直

21

(3) 牛嶋直

(3)

本人は、当時水俣市立病院に入院中。

妻フミも病弱で、商売は思うようにならず、弟やおじから借金して、生活費や入院費用にあてていた。

甲第一八八号証の一、

原告牛嶋直本人尋問の結果(第一回)

5

(4)(亡)杉本進

(1)

本人は、当時水俣布立病院に入院中。

夫進も、すでに、水俣病に罹患し、漁業はできず、栄子、雄らが、網子、土方などして、生活を維持するが、多額の借金を抱えていた。

甲第一八九号証の一、

原告杉本栄子本人尋問の結果

(1) 杉本トシ

23

(1)(4)杉本トシ

24

(4)杉本栄子

25

(4)杉本雄

(5)

昭和三六年一〇月当時、本人、トシとも自宅で療養していたが、漁業に従事することはできず、入院費用の支払にも困つて、漁船、漁網なども売渡した。

その後、栄子、雄は漁業に従事しているが、両名とも、水俣病症状のためにそれも思うようにならないので、苦しい経済状態が続いた。

右同

6

(1)(亡)渕上洋子

(1)

当時、才蔵は県外で出稼ぎをしていたが、家族は、軍弾薬倉庫跡に居住し、収入は少く、その日暮しの状態であつた。

甲第一九〇号証の一、

原告渕上才蔵本人尋問の結果

27

(1) 渕上才蔵

28

(1) 渕上フミ子

7

(1)(亡)松田フミ子

(1)

当時、魚が売れないため家業の漁業はやめ、冨美は別居して土方、末男が石油スタンドに勤務し、同人の月額一万三〇〇〇円位の収入で一家が生活していた。

甲第一九一号証の一、

原告松田末男本人尋問の結果

29

(1) 松田ケサキク

30

(1) 松田冨美

31

(1) 松田末男

(1) 松田富次

32

(1) 松田富次

33

(1) 永田タエ子

34

(1) 中岡ユキ子

8

(1)(亡)坂本キヨ子

(1)

当時、嘉吉は日雇人夫で、一日二五〇円位の収入があつたが、子供二人はまだ小、中学校に在学していた。

キヨ子の治療代を借金していたため、その支払に追われ、子供の学用品代にも困る状態。

甲第一九二号証の一

35

(1) 坂本嘉吉

36

(1) 坂本トキノ

9

(1)(亡)坂本真由美

(1)

当時真由美は死亡していたが、胎児性患者のしのぶを抱え、武義は漁業や百姓をしていたが、一家が生活できるだけの収入はなく、山林を売つたりして、やつと生計を維持していた。

甲第一九三号証の一、

原告坂本武義本人尋問の結果(第一・二回)

37

(1) 坂本武義

38

(1) 坂本フジエ

(5) 坂本しのぶ

39

(5) 坂本しのぶ

(5)

本人は当時三才、父武義が昭和三五年から、漁業をやめて、水俣工場のニポリツト係に勤めるようになつたが、給料は少なく、それで前年生まれた長男保を含めて一家五人が生活するので楽ではなかつた。

甲第一九三号証の一

10

(1) 坂本タカエ

40

(1) 坂本タカエ

(1)

当時、本人は水俣市立病院に入院中で、昭和三四年一一月から、傷害福祉年金など、(年額二万四〇〇〇円)を受給していたが病院代などは、実家が畑を売却するなどして援助していた。

甲第一九四号証の一

11

(1) 岩本昭則

45

(1) 岩本昭則

(1)

本人は、当時、水俣市立病院に入院し、病院から、小学校に通学していた。

両親の栄作、マツエらは、漁業ができないため、人夫、土方などしたが、ほかに、一三才を頭に四人の子があり、借金しなければ生活できず、その返済を迫られていた。

甲第一九五号証の一、

原告岩本マツエ本人尋問の結果(第一回)

12

(5) 上村智子

48

(5) 上村智子

(5)

本人は当時六才。

母良子は同人の看護に追われ、父好男は被告の下請会社に勤め、人一倍働いたが、当時五才を頭に三人の子があり、借金しなければ生活できない状態。

甲第一九六号証の一、

原告上村好男本人尋問の結果

13

(1)(亡)浜元惣八

(1)

親子三人が水俣病に罹患し、二徳は当時も水俣市立病院に入院中で、このため四〇万円以上の借金があり、漁船、網も売却し、二徳らは生活保護を受けて生活を維持していた。

甲第一九七号証の一、

原告浜元二徳本人尋問の結果(第一回)

(1)(亡)浜元マツ

(1) 浜元二徳

49

(1) 浜元一正

50

(1) 田中一徳

51

(1) 浜元二徳

52

(1) 原田カヤノ

53

(1) 浜元フミヨ

54

(1) 藤田ハスヨ

14

(1)(亡)溝口トヨ子

(1)

当時、忠明は愛知県半田市で出稼ぎをしていたが、扶養家族として一四才から五才までの一男三女があり、借金を抱えていたので、長男裕男は大学進学を断念せざるをえなかつた。

甲第一九八号証の一、

原告溝口忠明本人尋問の結果

56

(1) 溝口忠明

57

(1) 溝口マスエ

15

(1) 田上義春

58

(1) 田上義春

(1)

本人は、当時、まだ独身であつたが、水俣市立病院を退院したばかりで、生活保護を受けて生計を維持していた。

甲第一九九号証の一、

原告田上義春本人尋問の結果

16

(1) 坂本マスヲ

63

(1) 坂本マスヲ

(1)

本人は、当時、水俣市立病院に入院中で、生活保護を受け、借金もたまつて、畑を売却せざるを得ない状態であつた。

甲第二〇〇号証の一、

原告坂本実本人尋問の結果

17

(1)(亡)荒木辰雄

(1)

辰雄は昭和三〇年四月から昭和四〇年二月死亡するまで、精神病院に入院。昭和三四年一二月見舞金を受けるまでは、洋子が店員として働き、愛野が人夫などして、そのわずかの収入と生活保護を受けて生計を維持していたが、その後も、愛野が日雇人夫に出たり、洋子が働いて、その収入で辛うじて生活を維持していた。

甲第二〇一号証の一

67

(1) 荒木愛野

68

(1) 荒木洋子

20

(1) 荒木節子

71

(1) 荒木辰巳

18

(1) 松本ふさえ

76

(1) 松本ふさえ

(1)

本人は当時一〇才、母トミエ、妹俊子もすでに水俣病に罹患して、ひとり父俊郎が被告会社の下請の窪田組で働き、生活費、治療費を得ていたが、借金を重ね、やりくりができない状態で、昭和三四年の年末にもらつた見舞金一二万円は借金の返済できえる。

甲第二〇二号証の一、

原告松本トミエ本人尋問の結果

(6) 松本俊子

77

(6) 松本俊子

(6)

本人は当時一〇才で、一家に三人の水俣病患者をかかえ、俊郎の収入とふさえの見舞金に一家の全員が依存する苦しい生活状態であつた。

右同

19

(1)(亡)田中しず子

(1)

当時しず子はすでに死亡。実子は六才で、水俣市立病院に入院していたが、母アサヲは看護のため同人に付添い、家庭には一七才を頭に三人の子があつて、二重生活を強いられ、父義光は土方をしたり澱粉工場で働き、その収入と借金で生活を維持していた。

甲第二〇三号証の一・二、

原告田中義光本人尋問の結果(第一回)

80

(1) 田中義光

81

(1) 田中アサヲ

(1) 田中実子

82

(1) 田中実子

20

(1)(亡)江郷下カズ子

(1)

当時、カズ子は、すでに死亡していたが、一家に四人の水俣病患者がでて、生活は極度に困窮し、父美善の漁業によるわずかの収入だけでは生活できないので、生活保護を受けていたが、米・醤油などの生活必需品の購入にも困る状態であつた。

甲第二〇四号証の一、

原告江郷下マス本人尋問の結果

84

(1) 江郷下美善

(1) 江郷下マス

85

(1) 江郷下マス

(1) 江郷下一美

92

(1) 江郷下一美

(1) 江郷下美一

93

(1) 江郷下美一

21

(3)(亡)平木栄

(3)

栄は、当時、水俣市立病院に入院。 栄の退職年金(三か月に一万五〇〇〇円)のほか定収入はなく、借金したり畑や船を売つた金を病院費用や生活費に充てていた。

信子、甲子はすでに嫁ぎ、隆子は他県で就職していたが、めいめいの生活で手いつぱいの状態であつた。

甲第二〇五号証の一、

原告平木トメ本人尋問の結果

94

(3) 平木トメ

95

(3) 河上信子

96

(3) 田口甲子

97

(3) 平木隆子

98

(3) 斎藤英子

22

(1) 尾上光雄

99

(1) 尾上光雄

(1)

当時、本人は、水俣市立病院に入院していたが、理髪店を他人に貸して、その賃料で生活費、入院費用をまかなうので苦しい生活状態であつた。

甲第二〇六号証の一、

原告尾上ハルエ本人尋問の結果

23

(1)(亡)長島辰次郎

(1)

辰次郎は、当時、水俣市立病院に入院していた。

同人の療養期間は一〇年以下にわたり、その間無収入であつた ため、子供らもできるだけの援助をしたが、親戚から借金したり、土地や建物を売却しなければならなかつた。

甲第二〇七号証の一、

原告長島アキノ本人尋問の結果

102

(1) 長島アキノ

103

(1) 原田フミヱ

104

(1) 長島政広

105

(1) 長島タツヱ

106

(1) 三幣タエ子

107

(1) 長島努

24

(1) 前嶋武義

108

(1) 前嶋武義

(1)

当時、本人は、水俣市立病院に入院し、子供のハツ子やツユ子が土方などしていた。

収入は少なく、月額二五〇〇円の生活保護を受けていたが、毎日の食糧にも困る状態であつた。

甲第二〇八号証の一、

原告前嶋サヲ本人尋問の結果(第一回)

25

(1)(亡)中村末義

(1)

(1)

未義が死亡して、半年もたたないころで、同人の葬式は借金しなければ出せなかつたが、昭和三四年一二月当時も長男俊也、二男真男、長子己三子の三人が働いていたものの収入は少なく、敦子、由美子はまだ在学中で、苦しい生活状態であつた。

甲第二〇九号証の一、

原告中村シメ本人尋問の結果

113

(1) 中村シメ

114

(1) 中村俊也

115

(1) 中村真男

116

(1) 川口己三子

117

(1) 都築律子

118

(1) 中村敦子

119

(1) 中村由美子

26

(1)(亡)尾上ナツエ

(1)

時義は当時失業中。

勝行は、当時、被告会社水俣工場に勤めながら定時制高校へ通学していた。唯勝は学生、幸子、 信子はすでに結婚していたが、それぞれの生活で手いつぱいの状態であつた。

甲第二一〇号証の一、

原告尾上時義本人尋問の結果

120

(1) 尾上時義

121

(1) 尾上勝行

122

(1) 尾上唯勝

123

(1) 真野幸子

124

(1) 千々岩信子

(注) 患者氏名および原告氏名の上に記した数字は

(1)は、昭和三四年一二月三〇日締結の第一次契約

(2)は、昭和三五年四月二六日締結の第二次契約

(3)は、同年一二月二七日締結の第三次契約

(4)は、昭和三六年一〇月一二日締結の第四次契約

(5)は、昭和三七年一二月二七日締結の第五次契約

(6)は、昭和三九年八月一二日締結の第六次契約

(7)は、昭和四四年六月一六日締結の第七次契約

の関係者であることを示すが、すでに本文において認定したとおり、すべての患者、原告が右日時に契約を締結したということではない。

4さてつぎに、本件見舞金契約において定められた見舞金の額が、本件患者らが蒙つた被害に対する補償額として、相当であつたか否かを検討する。

(一) 本件患者らの生死の別、症状の経過、生活障害の程度、年令、職業、境遇などは、のちに損害のところで認定するとおりである。

(二) 各患者(死亡患者の遺族を含む)に支払われた見舞金の額は、別紙〔八〕の〔一〕および〔八〕の〔二〕の見舞金契約の患者側当事者・見舞金額など一覧表中の見舞金額欄に記載のとおりであるが、これを整理すると、つぎのとおりである。

(イ) 発病時すでに成年に達していた死亡患者(釜鶴松、杉本進、松田フミ子、坂本キヨ子、浜元惣八、浜元マツ、荒木辰雄、平木栄、長島辰次郎、中村末義、尾上ナツエの一一名がこれに該当する)に支払われた見舞金の平均額は、七七万二、五七六円で、最高額は、長島辰次郎(闘病期間約一一年)の一七一万五、八三五円、最低額は、松田フミ子、浜元惣八、中村末義、尾上ナツエ(いずれも闘病期間一年以内)の各三七万円である。(なお渡辺シズエもこれに該当するが、同人に対する見舞金は支払われていないので除外して計算した)。

(ロ) 一〇才未満の幼時に死亡した患者(渕上洋子、坂本真由美、溝口トヨ子、田中しず子、江郷下カズ子の五名がこれに該当する)に支払われた見舞金の平均額は、三七万七、〇〇〇円で、最高額は、田中しず子(闘病期間二年九か月)の四一万円、最低額は、江郷下カズ子(闘病期間一か月)の三三万五、〇〇〇円である。

(ハ) 発病時成年に達していた生存患者(牛嶋直、杉本トシ、田上義春、坂本マスヲ、江郷下マス、尾上光雄、前嶋武義の七名がこれに該当する)に対し昭和四七年九月までに支払われた見舞金の平均額は、一七六万〇、六五六円で、最高額は、江郷下マス(昭和三〇年発病)の一八八万三、七五一円、最低額は、牛嶋直(昭和三五年発病として計算されている)の一四四万九、五八五円である。

(ニ) 発病時に未成年者でその後成年に達した生存患者(靏野松代、渡辺栄一、松田富次、坂本タカエ、岩本昭則、浜元二徳、松本ふさえ、江郷下一美、江郷下美一の九名がこれに該当する)に対し昭和四七年九月までに支払われた見舞金の平均額は、八五万四、八六二円で、最高額は、浜元二徳(昭和三〇年発病)の一四四万九、一六八円、最低額は、渡辺栄一(昭和三一年発病)の三二万円である。

(ホ) 現在、未成年者である生存患者(渡辺政秋、浜田良次、坂本しのぶ、上村智子、松本俊子、田中実子の六名がこれに該当する)に対し昭和四七年九月までに支払われた見舞金の平均額は、七六万三、七五一円で、最高額は上村智子(昭和三一年六月生れの胎児性患者)、田中実子(昭和二八年五月生れで発病時二才一一か月)の各七九万五、四一七円、最低額は、浜田良次(昭和三四年一〇月生れの胎児性患者)の七〇万〇、四一八円である。

現在の基準からすれば、このような見舞金の額が、生命、身体に対する侵害の代償として極端に低額であるという判断は、常識に属することであろう。

近年、昭和三四、五年当時にくらべて、生命、身体の侵害に対する損害賠償額が、一般に大幅に高額になつていることは顕著な事実であるが、これは単にその間の貨幣価値の変動のみによるのではなく〔総理府統計局の「消費者物価指数(全都市)」によれば、消費者物価指数(総合)は昭和三五年を一〇〇とすると昭和四〇年が一三五・二、昭和四五年は一七三・五で、その間の上昇率は一、七三五倍にすぎない〕、生命、身体の価値を尊重する観念が高まり、賠償額算定方法が適正になつたことによるものであろう。すると、見舞金の額の当否は、あくまで契約締結時を基準にして客観的に判断されるべきであるから、このような事情を無視し、貨幣価値の変動だけを考慮して、単純に現在の賠償額基準と比較して、その額の当否を決することは相当でない。

(三) ところで、乙第一四一号証の一、同第一九五号証の一ないし四、証人高野達雄、同寺本広作、同川村和男の各証言によれば

(1) 死亡患者に対する三〇万円の弔慰金、生存患者に対する一〇万円の年金は、昭和三四年当時、自動車損害賠償保障法(以下自賠法という)にもとづいて死亡した者に支払われる責任保険の保険金額が三〇万円であつたこと、水俣市においては、生活保護法により保護世帯に給付される扶助の額が、一世帯平均月額六、五〇〇円から七、〇〇〇円であつたこと、労働者災害補償法(以下労災法という)による遺族補償費、休業補償費を、水俣地方の屋外労働者の当時の平均賃金を基準に算定すると、右の弔慰金、年金に近い額となること、昭和二九年九月二六日発生した青函連絡船洞爺丸遭難事故の遺族に対する補償金が、一八才以上の者については、五〇万円であつたことなどを参考にして、一律にきめられたものであること、未成年の患者に対する三万円の年金については、とくによるべき根拠はなかつたことが認められ、

(2)つぎに、不法行為によつて他人に損害を与えた者は、その加害行為と相当因果関係のある損害である限り、すべての損害について賠償をしなければならないのであつて、生命侵害、身体傷害の場合であれば、被害者の実情に応じて、本人の治療費、入院費用、付添人の費用、入退院、通院に要した交通費、入院雑費、葬儀費用、死者の場合の逸失利益(将来就労可能の無職者、家庭の主婦、幼児についても認められる)、負傷者の場合の労働能力低下による逸失利益および休業損害、慰藉料(一定の近親者に対してはその固有の慰藉料も)などがその損害として賠償されるのであるが、前掲各証拠によれば、本件見舞金契約締結の際には、これらの損害の補償額を算定するために必要である個々の患者の入院などの費用、職業、収入、症状の経過、稼働能力、生活障害の程度などの個別の事情はほとんど調査されておらず、したがつて当然見舞金契約は、それぞれの患者に生じた具体的な損害を填補するという見地から締結されたものではなく、患者の治療費は別として(これは水俣病と認定されたのちは公費負担となる)、入院中の付添費、生存患者に対する慰藉料などは、見舞金の額をきめる際には全く考慮されていなかつたことが認められる。

第二次ないし第七次の見舞金契約の内容についても、昭和三九年四月一七日以降物価の変動に伴う年金などの改定がなされたことを除けば、事情は同じである。

(四) つぎにすすんで、具体的に、統計資料などにもとづいて、見舞金の額を検討することとする。

(1) 生存患者に対する年金(昭和三四年一二月三一日までの一時金を含む)、死亡患者に対する発病時から死亡時までの年金、一時金(弔慰金、葬祭料を除く)の額は、成年に達した患者の場合、発病時成年に達していた者については、昭和三九年一月末日までは一〇万円(年額、以下同様)、昭和三九年二月一日から昭和四三年二月末日までは一〇万五、〇〇〇円(重症者は一一万五、〇〇〇円)、同年三月一日以降は一四万円、発病時未成年者であつた者については、成年に達しても、昭和三九年一月末日までは五万円、昭和三九年二月一日から昭和四三年二月末日までは八万円〔ただし、昭和四〇年五月一日以降満二五才に達した者は、一〇万円(重症者は一〇万五、〇〇〇円)〕、昭和四三年三月一日以降は一四万円である。

(Ⅰ) 右のうち昭和三九年一月末日までの年金、一時金は、発病時成年に達していた者の場合は一〇万円、(これを日額に換算すると二七三円)、発病時未成年者であつた者は五万円であるが、乙第一九五号証の二によれば、前者はおおむね昭和三四年一月から三月における水俣市失業対策男子賃金に匹敵し、したがつて後者は、その半額程度の金額であると認められる。

しかし、当時、失業対策事業に就労する失業者に支払われていた賃金が、その他の一般労働者の賃金に比して相当低額であつたことは顕著な事実であり、これに匹敵するからといつて、たとえば、水俣病に罹患したため就労できない患者の逸失利益の補償額として、十分であるといえないことは明らかで、すでに成年に達しているにかかわらず発病時未成年者であつたゆえにその年金額が五万円というのであれば、それは極端に少額であるといわざるを得ない。

(Ⅱ) 各患者について、もし水俣病に罹患していなければ、どれ程の収入を挙げ得たかを正確に算定することは、その資料がなく困難であるので、一般的な統計資料によらざるを得ないが、熊本県企画開発部統計調査課編昭和三三年ないし昭和四五年版熊本県統計年鑑によれば、労働者の賃金としては最低の部類に属するものと思われる臨時および日雇労働者の一日当り平均現金給与額は、次表のとおりであることが認められる(括弧内の数字は、年金額との比較の便宜のためそれを三六五倍したものである)。

これによれば、成年に達していた患者、未成年者であつた患者(いずれも発病当時)に支払われた年金は、ともに第一次契約の締結された昭和三四年から右の平均現金給与額を相当下回り、昭和三八年度は前者がその約六割、後者がその約三割であり、昭和三九年二月に増額されているが、それでも昭和四一・四二年度などは右平均現金給与額の約五割(前者)ないしそれ以下(後者)で、昭和四四年以降は年額一四万円に増額されてもなおともにその半額を下回る額で、その差額は一五万円(昭和四四年度)あるいは二〇万円(昭和四五年度)以上である。もちろん、すべての患者が年金などの支払を受けていた期間完全に就労できない状態にあつたわけではないが、大多数の患者はその状態にあり、就労できる者も、その職種は大幅に制限され軽易な労務以外の労務に服することはできない状態にあつたと認められるから、この両者の単純な比較もそれほど不当なものではないであろう。

年度

給与額(円)

33

301(109,865)

34

311(113,515)

35

348(127,020)

36

354(129,210)

37

402(146,730)

38

454(165,710)

39

474(173,010)

40

556(202,940)

41

620(226,300)

42

635(231,775)

43

705(257,325)

44

836(305,140)

45

995(363,175)

なお、この平均現金給与額と年金などの比較の結果、時期的におそく契約を締結した患者の年金ほど、この給与額との差額が大きいことに気付くのである。

(Ⅲ) つぎに、これらの年金が、患者らの生活費として十分であるか否かを検討する。

昭和三四年当時、水俣市において、生活保護法により保護世帯に給付される扶助の額が一世帯平均月額六、五〇〇円ないし七、〇〇〇円であつたことはさきに認定したとおりであるが、のちにも述べるように生活保護法による扶助は、生活困窮者に対して国が最低限度の生活が維持できる程度に保護を行なおうというもので、この額を多少上回るからといつて、それだけでは大多数の患者は水俣病罹患前の生活程度を維持することはできないから、患者らに対する補償として十分でないことはいうまでもない。

これも、個々の患者家庭における生活費を算定できるだけの資料がないので、一般的な統計資料によらざるを得ないが、総理府統計局編昭和三三年ないし昭和四五年度家計調査年報によれば、一世帯当り年平均一か月間の消費支出総額(全世帯)は、次表のとおりであつたことが認められる。

年度

世帯

人員数

消費支出

総額(円)

33

4.57

27,171

34

4.56

28,902

35

4.51

31,276

36

4.35

34,329

37

4.29

38,587

38

4.30

43,616

39

4.19

44,481

40

4.26

48,396

41

4.19

52,516

42

4.15

57,071

43

4.07

63,607

44

3.99

70,386

45

3.98

79,531

もちろん、水俣地方など漁業を主体とする地域における家庭の消費支出額は、若干これを下回るであろうけれども、それにしても、たとえば、一家の生計を維持していた世帯主が患者である場合は、一〇万円の年金では、他に家族収入がある者がいなければ、昭和三四年度は四か月分の消費支出額を賄えず、一四万円に増額されたのちの昭和四四年では、二か月分のそれに足りないのである。そして、これは他に扶養すべき家族を有しない患者の場合でも、昭和三七年以降は、右年金では、消費支出額を賄うことができないことを示している。

(2) つぎに、未成年者の患者に支払われる年金(すでに契約締結時に死亡していた患者に支払われる弔慰金、葬祭料を除く一時金、生存患者に対する昭和三四年一二月三一日までの一時金を含む)の額は、昭和三九年一月末日までは三万円(年額、日額になおすと八二円)、その後昭和四三年二月末日までは五万円(日額一三七円)、その後は七万五、〇〇〇円(日額二〇五円)であるが、これでは、たとえば、近親者の付添看護料相当額の損害さえ填補することはできないであろう。

(3) 患者が死亡した場合に支払われる弔慰金は、実質的には死亡患者本人、その近親者に対する慰藉料、死亡患者の逸失利益の補償金にあたるものであろう。その額は、昭和四一年六月三〇日以前は三〇万円、それ以後は四五万円であるが、これは、さきに少額にすぎると認定した年金などの三ないし四年分(成年に達した患者の場合)にすぎず、逸失利益の補償のみと考えても、高令者で稼働可能期間の残されていないような患者の場合を除き、余りにも少額であり、ましてそのうえに、前記慰藉料部分がそれに含まれるとすれば、なおさらのことである。

(4) つぎに、年金の改定であるが、損害の補償方法として年金を分割して支払う定期金給付の形式をとり、しかも、それを将来相当長期間にわたつて当事者が拘束される契約において定めるときには、この年金は、患者が、水俣病に罹患したために失つた収入を填補し、その生活が維持できるようにするためのものであるから、その間経済状態などが変動することを十分考慮し、それに対応して適正な金額が算定できるように、その改定方法を取極めておくべきである。しかるに、当初の契約で定めた一定の年金額を基準にして、その後の物価の上昇率だけを考慮し、しかも双方の協議が調わなければその改定ができないというのでは、患者らに生じた損害を十分補償するに足るだけの年金額が算出されないのも当然である。現に、発病時成年に達していた患者に対する年金額の改定だけをみても、証人江尻武義の証言によれば、昭和三四年一二月から昭和三九年二月までの間に、物価指数は二五パーセント上昇したにかかわらず、昭和三九年四月の改定では、軽症者の場合一〇万円の年金が一〇万五、〇〇〇円と五パーセント、重症者の場合一〇万円が一一万五、〇〇〇円と一五パーセント増額されたにすぎず、それが昭和四三年三月の改定まで続くのであつて、その際も年額一四万円に増額されただけで、物価上昇率に見合うだけの増額はなされていない〔前記消費者物価指数(総合)によれば、昭和三五年を一〇〇とすると、昭和四三年のそれは一五五、六一である〕。

(5) 患者らは、見舞金は全額一時払いとすることを要求したにかかわらず、被告はこれに反対し、限られた場合に年金を一時金(二〇万円)に切替えることを認めたにとどまる(契約第一条の四)。

しかも、その年金の額が低額であれば、それは、一時金方式で支払われる元本賠償の利息分にすぎないと非難されてもやむを得ない場合があろう。

(6) つぎに、見舞金の額を他の賠償事例などと比較して、検討する。

(Ⅰ) 交通事故における損害賠償

自賠法の責任保険の法定限度額の推移は、次表のとおりである。

裁判例などにおいては、通常この法定限度額を相当大幅に上回る損害額が算定されているのであるが(その実例は、のちに掲げる)、これによれば、死亡患者のうち釜鶴松(昭和三五年一〇月一二日死亡)、長島辰次郎(昭和四二年七月九日死亡)、渡辺シズエ(昭和四四年二月一九日死亡)らに支払われた見舞金は、その各死亡時において支払われる右責任保険の法定限度額さえも下回り(渡辺シズエについては、見舞金は支払われていないが、契約にもとづいてその額を計算すると、一七七万円余りとなる。)、ことに、渡辺シズエら昭和四二年八月以降死亡した患者については、法定限度額である三五〇万円(死亡、傷害の場合とも)のほぼ半額である。

そこでつぎに、実際の交通事故について、裁判所が判決において認定した損害賠償額(かならずしもその額は、主文において認容された額とは一致しない。)をみるに、従前一般に、交通事故による損害の賠償額は低く、死亡事故の場合でも昭和三〇年ころまでは一〇〇万円を越えるものは少数であつたといわれているが、それでも

(イ) 大津地裁昭和二七年五月二四日判決(下民集三巻五号六七八ページ)は、四八才の男子で京都市技師(染色試験場勤務)の死亡事故について、総額一〇五万円を認め、

(ロ) 東京地裁昭和二八年一一月九日判決(下民集四巻一一号一、六〇五ページ)は、四二才の男子で魚商を営んでいた者の傷害事故(労働能力の五分の四を喪失)について、総額二一二万一、〇五二円を認め、

(ハ) 大阪地裁昭和二九年一二月一三日判決(下民集五巻一二号二、〇一五ページ)は、五才の幼女の死亡事故について、その父親に七〇万円の慰藉料を認め、

(ニ) 東京高裁昭和三〇年三月一四日判決(下民集六巻三号四五八ぺージ)は、(ロ)の東京地裁判決で認定された金額をさらに増額合計二二一万四、六三三円を認め、

(ホ) 東京高裁昭和三〇年一〇月三一日判決(下民集六巻一〇号二、三一一ページ)は、五二才の男子で海運会社に船長として勤務する者の死亡事故について、一〇五万四、二八五円を認めた。

以上のような判決例もあり、昭和三一年以降においても

(ヘ) 津地裁昭和三一年三月一九日判決(不法行為に関する下級裁判所民事裁判例集昭和三一年度二四ぺージ)は、二〇才の男子で同族会社(煎餅店)の社員の死亡事故について、総額二二一万七、九七九円を認め、

(ト) 大阪地裁昭和三一年四月三〇日判決(同一一八ページ)は、五一才の男子で工場経営者の死亡事故について、総額二一二万一、一七三円を認め、

(チ) 東京高裁昭和三二年一一月二九日判決(同三二年度三三〇ページ)は、幼女の死亡事故について、両親に合計八〇万円の慰藉料を認め、

(リ) 神戸地裁昭和三二年一二月二四日判決(同三五三ページ)は、二八才の男子でゴム工業薬品販売業者の死亡事故について、過失相殺をしたうえでなお総額二五〇万八、七一七円を認め、

(ヌ) 高松地裁丸亀支部昭和三三年一一月五日判決(下民集九巻一一号二、一八二ページ)は、三三才の男子で運送会社で自動車の整備などの仕事をするかたわら家業の農業に従事していた者の死亡事故について、得べかりし利益の喪失に対する賠償額として一二八万一、四〇〇円余りを認めた。

例もあるのであつて、第一次契約の締結された昭和三四年には

(ル) 甲府地裁昭和三四年四月二四日判決(下民集一〇巻四号八二〇ページ)のように、三三才の男子で写真業を営む者の死亡事故について、総額五六九万六、〇七五円というそれまで最高の賠償額を認めた判決も出ているのである。

本件患者らのまことに悲惨な症状の経過、その近親者らの筆舌に尽し難い看護の苦労、それに交通事故と異なり同人らにはまつたく責められるべき過失がないことなど考えると、このような当時高額とされた賠償事例も、見舞金の額をきめる際十分参考となり得たものと考える。しかるに前述のように、発病時すでに成年に達していた死亡患者に支払われた見舞金の平均額は、七七万二、五七六円で、右の(ロ)、(ニ)、(ヘ)、(ト)、(リ)などの判決に示された額の約三分の一、最低額の三七万円にいたつては、その約六分の一で、幼時に死亡した患者に支払われた平均三七万七、〇〇〇円、最高四一万円の見舞金は、右(ハ)、(チ)の判決が、幼児の死亡事故の場合に、その親に支払われる慰藉料として認めた賠償額に遠く及ばず、数年あるいは一〇年以上という長期間の闘病生活の末死亡した患者に、その期間中に分割支払われた見舞金の合計額は、相対的には高額になつているが、それでも、その額は、右(ロ)、(ニ)、(ヘ)、(ト)、(リ)などの判決において、当時、しかも一時に全額支払うことを命じられた賠償金の額に達しない。生存患者の場合でも、右(ロ)、(ニ)のような判決があり、たとえば、年額一〇万円の見舞金では、これらの判決が認定した損害額を元金として、これに対する年五分の割合による利息分にしか相当しないのである。

その後、交通事故の損害賠償額は、高額化の一途をたどり、亡渡辺シズエに関する第七次の見舞金契約が締結された昭和四四年度においては、総額二、〇〇〇万円を上回る賠償額を算定した裁判例も二、三に止まらないのである(たとえば、東京地裁昭和四四年三月一九日判決下民集二〇巻三・四号一一四ページなど)。

(Ⅱ) 他の災害補償例

昭和二九年九月二六日に発生した洞爺丸遭難事故の際、遺族に支払われた補償金が、一八才以上の者について五〇万円であつたことは、前に認定したとおりであるが、右遭難事故は台風によるもので、国鉄側の過失が問題となり、右の補償額を決定するについてもこのような事情が考慮されているものと思われるが、死亡患者釜鶴松、松田フミ子、浜元惣八、中村末義、尾上ナツエの遺族に支払われた見舞金は、その額にも達していない。

ちなみに、その翌三〇年五月一一日発生した国鉄宇高連絡船紫雲丸の衝突事故の際には、ときの民主党総務会は死亡した小学生に五〇万円、中学生に五五万円の補優額を決定しており、そのとおり支払われているものと思料されるが、前述の一〇才未満の幼児の死亡患者の遺族に支払われた見舞金は、どの患者についても、この金額を下回つている。

(Ⅲ) 生活保護法による扶助、労災法による災害補償

これらは、いずれも民法の定める不法行為による損害賠償制度とは、その趣旨をまつたく異にするものであり、生活保護法による扶助は、生活困窮者に対して国が最低限度の生活が維持できる程度に保護を行なおうとするもので(同法第一条、第四条、第八条)、労災法の災害補償は、労働者が業務上の事由によつて負傷、死亡した場合などに、政府が、労働者あるいはその遺族の生活を保険給付の限度内で保障しようというものである(同法第一条)。これに反し、不法行為の加害者は、被害者に対し、加害行為と相当因果関係のあるすべての有形、無形の損害について、完全にその賠償をしなければならないのであつて、右のような制限はないのである。したがつて、生存患者に対する見舞金契約の定める年金が、生活保護法により給付される扶助の額を上回り、その弔慰金、年金が、労災法の遺族補償、休業補償の金額に近いからといつて、賠償額として十分であるとはいえないのである。

5以上六の2ないし4で述べたところを要約すると、つぎのとおりである。

第一次の見舞金契約が締結された昭和三四年一二月当時、水俣病と被告会社水俣工場の工場排水との間に関係があることは、科学的に完全に解明されていなかつたにしても、すでに世間一般の常識となつており、熊大のいわゆる有機水銀説などもこれを前提とするものであり、ほかに猫四〇〇号の実験結果、排水路変更に伴う水俣川河口付近での患者発生の事実なども、これを裏付けるものであつた。もちろん、患者らも、水俣病の原因は右の工場排水にあるとして、被告に対し、損害賠償の請求をした。しかるに、被告は、このような状況を無視して、なお水俣病の原因は不明であるとして、そのような前提で契約を締結するよう強硬に主張し、しかも、将来、水俣病が工場排水に起因することが明らかになつても、患者らはこの契約にもとずいて支払われる見舞金以外に損害賠償の請求は一切しないといういわゆる権利放棄条項を設けなければ、この契約の締結には応じない態度をとつたのである。

しかし、本件のような化学公害において、厳密に因果関係を証明することは容易なことでないから、右のような当時の状況のもとで、なお、工場排水と水俣病の関係が科学的に解明されていないという理由で、そのような前提で契約を締結するのであれば、将来それ以上に水俣病が工場排水に起因することが明らかになつた場合には、改めて相当の損害賠償をするのが、加害者としての誠実な態度であつて、その段階になつても、低額の見舞金を支払うほかには一切の損害賠償をしないとすれば、それは信義則に反するというほかない。

しかるに、被告は、その後態大医学部などの研究によつて、水俣病が工場排水に起因することを証明する事実が次々に明らかにされ、厚生省も昭和四三年九月水俣病の原因物質は被告会社水俣工場の排水中に含まれるメチル水銀化合物であると公式見解を発表したが、その後もこのような態度をとり続けたので、昭和四四年六月一六日締結された第七次の見舞金契約まで、この権利放棄条項はそのまま維持されたのである。

他方、患者およびその近親者の側の事情をみるに、昭和三四年一二月ころは水俣病患者に対して今日ほど世間の理解や同情はなく、地元の大企業を相手に同人らだけで補償交渉を続けることは、事実上不可能であつた。そのため同人らは、県の有力者で構成される不知火海漁業紛争調停委員会の委員らの斡旋、調停に頼らざるを得なかつたのであるが、その調停は、被告側の態度が強固であつたことにもよるが、内容はともかく、早急に話をまとめようという姿勢で終始し、患者らの利益を擁護し、十分な補償を得させるための配慮には欠けるところがあつた。

そのうえに、患者家族(その後の契約の当事者である者を含めて)は、すみやかに補償を得るためには、この契約によらざるを得なかつたのであるが、契約を締結した当時、いずれも経済的に窮迫しており、また契約に関する知識、その経験に乏しかつたので、当座の見舞金の金額については強い関心があつたが、権利放棄条項など契約内容の細部にわたつてまで十分な検討を加えて、その諾否をきめるだけの知識と余裕がなく、同人らは、極端に不利な内容の契約にも応ぜざるを得なかつたのである。

しかして、この見舞金契約は、それぞれの患者が現実に蒙つた損害の全部を補償するという見地から締結されたものではない。個々の患者については、その被害の実態すら調査されていない。見舞金の金額をきめる際に、患者らの入院中の付添費用、生存患者に対する慰藉料などはまつたく考慮されていないが、ほかにもこの契約にもとづく見舞金には、たとえば、弔慰金について、死亡患者の年令、収入による得べかりし利益の差が無視され、生存患者に対する年金については、症状の程度や年令による区別がなされていないなどの不公平な点がある。また、生存患者に対する見舞金は、患者らの全額一時払いの要求にもかかわらず、年金による定期金払いの形式を原則としているが、その金額の改定は、あくまで契約締結時の年金を基準にして、その後の物価の変動のみを考慮して、双方が協議してきめるというのであり、定期金補償の長所とされる患者の生活保障の目的は、十分に達せられない仕組みになつている。そして、その年金、弔慰金などの見舞金の額は、一般に、労働者の賃金、家庭の消費支出額、交通事故による生命、身体侵害の場合の損害賠償額算定例、他の災害補償例などと比較しても極端に低額であり、時期的におそく見舞金契約を締結した患者に対する見舞金ほどそれが顕著で、生命、身体に対する侵害の代償として低額にすぎるといわざるを得ない。

以上、要するに本件見舞金契約は、加害者である被告が、いたずらに損害賠償義務を否定して、患者らの正当な損害賠償請求に応じようとせず、被害者である患者ないしはその近親者の無知と経済的窮迫状態に乗じて、生命、身体の侵害に対する補償額としては極端に低額の見舞金を支払い、そのかわりに、損害賠償請求権を一切放棄させるものであるから、民法第九〇条にいわゆる公序良俗に違反するものと認めるのが相当であり、したがつて無効である。

よつて、その余の判断をまつまでもなく被告の本件主張は理由がない。

第五消滅時効の抗弁について

一被告は、原告らは、各々自己もしくは近親者が、水俣病に罹患あるいは同病により死亡したことによる損害が発生し、かつ、原告らのうち別紙〔八〕の〔一〕および〔八〕の〔二〕の見舞金契約の患者側当事者・見舞金額など一覧表中原告ら氏名欄記載の昭和三四年一二月三〇日締結の第一次見舞金契約の当事者である原告らについては、遅くとも同人らが被告に対して損害補償金の請求をした昭和三四年一一月二五日に、そのほかの原告らも、自己もしくは近親者が水俣病の認定を受けた時に、それぞれ加害者が被告であることを知つたのであり、それから本訴提起までに三年以上の時日が経過しているから、本件損害賠償請求権はすでに時効により消滅していると主張する。

二民法第七二四条前段は、不法行為による損害賠償請求権について一般の債権に比して短期の消滅時効を定め、被害者またはその法定代理人が損害および加害者を知つた時から三年間これを行使しないことによつて、時効により消滅するとしている。

1すると、原告らのうち自己もしくは近親者が水俣病患者であると認定され、それによつてその加害者が被告であることを知つたとしても、その後三年を経過しないうちに本訴を提起し、慰藉料請求額の拡張を申立てた原告らについては、その慰藉料請求権の消滅時効が完成していないことはいうまでもない。

(イ) 亡渡辺シズエ(昭和四四年五月二九日認定)関係の原告(1)渡辺栄蔵、同(2)渡辺保、同(3)渡辺信太郎、同(4)渡辺三郎、同(5)渡辺大吉、同(6)石田良子、同(7)石田菊子(本訴の提起はいずれも昭和四四年六月一四日、慰藉料請求額の拡張申立ては昭和四六年九月二五日)、(ロ)原告(15)浜田シズエ(昭和四五年一月二一日認定)関係の同原告、原告(14)浜田義行、同(16)山下よし子、同(17)浜田義一、同(18)浜田ひろ子、同(19)浜田良次、(20)同白川タミ、(ハ)原告(72)松本トエミ(昭和四五年六月一九日認定)関係の同原告、原告(71)松本俊郎、同(73)松本ヒサエ、同(74)松本博、同(75)松本ふさえ、同(76)松本俊子、同(77)松本福次、同(78)松本ムネ、(ニ)亡田中徳義(昭和四五年一月二一日認定)関係の原告(124)田中フジノ、同(125)田中春義、同(126)田中安一、同(127)田中重義、同(128)荒川スギノ、(ホ)原告荒木康子(昭和四五年一月二一日認定)関係の同原告、原告(129)荒木幾松、同(130)荒木ルイ、(ヘ)原告(132)築地原司(昭和四五年二月一〇日認定)関係の同原告、原告(133)築地原シエ、(ト)原告(136)諫山孝子(昭和四五年一月二八日認定)関係の同原告、原告(134)諫山茂、同(135)諫山レイ子、同(137)諫山モリがこれに該当する。

2つぎに、1に該当しない原告の場合でも、水俣病によつて死亡した患者の生命侵害を理由とする慰藉料請求権は、その生存中の身体傷害を理由とする慰藉料請求権とは別個に、その死亡後に「損害を知つた」ということになり、その時から消滅時効は進行するのであるから、患者の死亡時から三年を経過しないうちに本訴を提起したその近親者である原告らの生命侵害を理由とする慰藉料請求権については、消滅時効が完成していないことはいうまでもない。

亡杉本進(昭和四四年七月二九日死亡)関係の原告(23)杉本トシ、同(24)杉本栄子、同(25)杉本雄(いずれも昭和四四年一〇月一四日進の生命侵害を理由とする慰藉料請求に訴えを変更し、昭和四六年九月二五日までにその慰藉料請求額の拡張を申立てる各訴えの変更申立書を当裁判所に提出している)、亡長島辰次郎(昭和四二年七月九日死亡)関係の原告(101)長島アキノ、同(102)原田フミエ、同(103)長島政広、同(104)長島タツエ、同(105)三幣タエ子、同(106)長島努(いずれも昭和四四年六月一四日本訴を提起し、これによつて消滅時効が中断したのちの昭和四六年九月二五日同一債権の範囲内に属する慰藉料債権について請求額の拡張を申立てる書面を当裁判所に提出している)の右近親者の生命侵害を理由とする慰藉料請求権がこれに該当する。

3つぎに、弁護士費用の賠償請求権については、のちに認定するとおり、本件原告らが水俣病訴訟弁護団団長弁護士山本茂雄と、本件訴訟第一審終結の際、本件訴訟遂行の報酬として、認容額の一割五分あるいは右訴訟の判決において認容された割合の金員を支払う旨の契約を締結したのが、昭和四七年七月二三日であり、右契約の時が、原告らにおいて、民法第七二四条前段にいう損害を知つた時にあたるから、その時から右請求権の消滅時効は進行するものと解すべきところ、それから三年を経過しない同年八月一七日原告らは、右弁護士費用をも本件不法行為による損害に加えてその各請求を拡張する準備書面(訴えの変更申立書)を当裁判所に提出したことが記録上明らかであるから、原告らの弁護士費用の損害賠償請求権については、消滅時効は完成していない。

三以上、この1、2において、特定の原告の慰藉料請求権について、消滅時効が完成していないものがあることを指摘し、二の3において、弁護士費用の賠償請求権について、消滅時効が完成していない理由を述べたが、つぎに、原告田口甲子の亡平木栄の死亡を理由とする慰藉料相続分の債権を除き、ほかの原告らの本件慰藉料請求権に関する被告の消滅時効の主張が失当である理由を述べる。

1すでに述べたように、一般の債権の消滅時効期間は一〇年である(民法第一六七条第一項)のに対し、不法行為による損害賠償請求権について、民法第七二四条前段が三年という短期の消滅時効を定めたのは、あまり期間が経過すると不法行為の要件の証明や損害額の算定が困難になるという採証上の理由もあるが、主として、被害者が損害および加害者を知つたのち三年経過しても損害賠償請求権を行使しないということは、その間に被害者の感情が治癒され加害者を宥恕しているからであつて、その後になつて再び当事者間の関係を紛糾させることは妥当でないという考慮にもとづいている。

ところで、本件患者らは、被告が、最初に損害および加害者を知つたので消滅時効の起算点となると主張する昭和三四年一一月二五日あるいはそれ以降水俣病の認定を受けた時以後においても、すでに当時死亡していた患者を除き、なお水俣病の患者として、継続的に、のちに損害のところで認定するとおり、その症状に苦しみ、種々の障害を受けているのである。

このように加害者の身体を侵害する行為があつたのちにも、それによる損害は継続的に発生しているという場合、被害者が最初に損害の一部および加害者を知つた時から、その損害全部の賠償請求権について、消滅時効が進行するという解釈は到底採り得ない。このような解釈によれば、最初に損害および加害者を知つた当時、被害者が予見できず、したがつて請求できない損害の賠償請求権についても、消滅時効期間が進行を開始することになつて、時効の起算点に関する特則である民法第七二四条前段が、わざわざ「損害を知つた時」から時効が開始するとした趣旨に反することになるからであり、また、最初に損害および加害者を知つた時から相当期間を経過したのちまで症状が継続し、当初予想されなかつたような後遺症が現われるということは、被害者の感情をいよいよ激昂させる理由になるのであつて、このような場合に、最初に損害および加害者を知つた時から三年を経過しているからという理由で、その損害の賠償請求権が消滅時効にかかるとするのは、初めに述べたような同条前段の立法趣旨に反することになるからである。

結局、この場合には、被害者が損害の一部を知つた時に、その部分およびこれと牽連一体をなす損害で当時において予見することが可能なものについてのみ、すべて被害者においてその認識があつたものとして、賠償請求権の時効が進行を始め、その余の範囲の損害については、別個にその発生を知りあるいは予見可能となるまで、その賠償請求権の消滅時効は進行しないものと解すべきである。

ところで、すでに述べたように、前記生存患者らの症状は、前記の昭和三四年一一月二五日あるいは水俣病の認定を受けた時点以後においても複雑な経過を示しており、右の時点において、将来の症状の経過、後遺症の発現の有無、内容、治療方法およびそれに要する費用、将来の精神的苦痛などの損害について、すべて認識できたものとは解されないのであつて、右時点から、慰藉料などすべての損害賠償請求権について、消滅時効が進行するとする被告の主張は到底肯認することができない。

2つぎに、民法第七二四条前段が、三年の消滅時効の起算点を被害者またはその法定代理人が「損害および加害者を知つた時」と定めたのは、被害者は、加害行為の事実を知るのみでは損害賠償請求権の行使はできないが、加害行為によつて発生した「損害」と損害賠償請求権の相手方である「加害者」をともに知つた時に、初めて損害賠償請求権を行使することが可能になるので、この時点から時効を進行させるのを妥当とするからである。この趣旨からすると、ここに「損害を知る」というのは、単に、損害発生の事実を知ることのみをいうのではなく、同時に加害行為が不法行為であることを知ることで、当然、違法な加害行為と損害発生の事実との間に相当因果関係があることをも含む趣旨に解しなければならない。

そして、同条にいわゆる「知りたる」時とは、被害者の加害者に対する賠償請求が事実上可能な状況のもとに、それが可能な程度に具体的な資料にもとづいて、加害者ないし損害を認識しえた場合をいうものと解すべきで、被害者が、具体的な資料にもとづかないで主観的に疑いを抱いたり、推測しただけでは、事実上損害賠償請求権の行使はできないから、ここに「知つた」ということはできない。

(一) ところで、厚生省は、昭和四三年九月二六日、「水俣病に関する見解と今後の措置」と題して水俣病の本態とその原因について、つぎのような見解を発表した。すなわち「水俣病は、水俣湾産の魚介類を長期かつ大量に摂取したことによつて起つた中毒性中枢神経系疾患である。その原因物質は、メチル水銀化合物であり、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が工場廃水に含まれて排出され、水俣湾内の魚介類を汚染し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を地域住民が摂食することによつて生じたものと認められる。水俣病患者の発生は昭和三五年を最後として、終息しているが、これは、昭和三二年に水俣湾産の魚介類の摂食が禁止されたことや、工場の廃水処理施設が昭和三五年一月以降整備されたことによるものと考えられる。なおアセトアルデヒド酢酸設備の工程は本年より操業を停止した」というのがそれである(この発表がなされたという事実は当事者間に争いがない。以下この発表を厚生省見解という)。そして、この厚生省の見解は、同年一〇月九日付官報(甲第一号証)にも掲載された。

原告らは、この厚生省の見解発表によつて、初めて水俣病の原因が被告工場の排水にあることを知つたのであるから、その時から本件損害賠償請求権の消滅時効は開始するという。

そこで以下(二)において、この厚生省の見解が発表される以前に、原告らは、自己もしくは近親者が罹患した水俣病が被告水俣工場の排水に起因すること(すなわち被告の違法な加害行為と右原告らの損害発生の事実との間に相当因果関係があること)を、損害賠償請求が可能な程度に具体的な資料にもとづいて認識することができたか否かを検討することとする。

(二) すでに認定した事実および甲第一・第二号証、同第一四九ないし第一五二号証、乙第一八号証の二、同第二六号証、同第三九号証、同第一二三ないし第一三六号証、同第二〇三号証の一・二、同第二〇八号証ならびに当事者間に争いのない事実を総合すると、水俣病の原因などについて前述の厚生省見解にあるとおりの結論がでるまでの研究の経過、それまでに原告らが水俣病の原因に関して知り得た認識の内容、程度は、つぎのとおりであつたことが明らかである。

すなわち

(1) 現在、水俣病であることが明らかな患者の発生時期については、昭和二八年ころまで遡ることができるとされているが、当初は原因不明の奇病といわれあるいは伝染性疾患と考えられていた。その後熊大医学部公衆衛生学教室などの疫学調査の結果、汚染源として被告水俣工場の工場排水が疑われるようになり、発病の原因物質についても種々の研究が発表された。まず、昭和三一年一一月に熊大医学部の水俣病医学研究班がいわゆるマンガン説を、ついで、昭和三二年四月には熊大医学部(当時)喜村正次教授らがセレンが疑わしいという説を、昭和三三年五月には同学部宮川九平太教授らがタリウム説をそれぞれ発表したが、いずれも定説とはならず、ようやく昭和三四年七月二二日熊大医学部において、同学部の「文部省科学技術研究班」に属していた武内忠男、喜田村正次、徳臣晴比古教授らが、水俣湾底の泥土中には他区に比して極めて多量の水銀が検出されること、水俣病の原因物質はある種の有機水銀であり、それは海底にある無機水銀を生物が摂取することによつて産出されるものであることなどを発表するに及んで、専門家の間でも水俣病の原因物質として有機水銀に着目する者が多くなつた。もちろん原告らがこの研究発表会に出席した事実はないが、それに先立つ同月一四日朝日新聞が、熊大の右有機水銀説を発表前にスクープして、「水俣病の原因は有機水銀/熊大の研究班が確認/分析、臨床、病理三面から」という見出しで右武内らが水俣病原因物質が有機水銀であることを確認し、二一日開かれる医学部水俣病研究会で発表すること、武内らは有機水銀による中毒が水俣病の臨床症状に病理学的にみて似ているので、猫実験による水俣病の症状と有機水銀中毒症との関係を一年間検討した結果このような結論に達したが、科学分析、臨床実験、病理学的観察の三面から同一の結論を得たので、これはほぼ確実とみられること、なおこれは武内らの発表内容に含まれるものではないが、水銀化合物は被告水俣工場が海上に捨てた化学物質中に無機水銀として含まれていると推定され、それが魚介類を媒介して有毒な有機水銀化合物に変るのではないかとみられることなどを報じ、同月一六日の態本日日新聞も同趣旨の報道をしたので、原告らも当然これを知り得る状況にあつた。

しかし、この七月二二日の発表会においても、同じ熊大の研究班の内部ですら有機水銀説に統一されていたわけではなく、宮川九平太教授のようになおタリウム説の立場で研究成果を発表した学者もあつたことは、注目されなければならない。

この態大の有機水銀説の発表に対し、被告は、まず、熊本県議会水俣病対策特別委員会の要請に応じて、同年八月五日工場の見解を発表し、被告水俣工場のアセトアルデヒドおよび塩化ビニール両設備から無機水銀が排水溝を経て水俣湾内に流入し、比較的多量蓄積されていることは認めたが、なおこの有機水銀説には幾多の化学、医学上の疑問点があることを指摘して、直ちには承服できないものであるという態度を示し、これに呼応するかのように同年九月には日本化学工業協会大島竹治専務理事が、水俣病の原因物質は旧軍が水俣湾に投棄した爆薬など軍需物資ではないかといういわゆる爆薬説を発表している。

二か月後の同年一一月一二日には、厚生省の食品衛生調査会が、厚生大臣に、水俣病の主因はある種の有機水銀化合物であると答申した。

(2) その間およびその後に発生した水俣市漁業協同組合、不知火海沿岸漁民との漁業補償をめぐる紛争の解決に至るまでの経過、同年一一月中旬ころの県などに対する陳情に始まり、同年一二月三〇日ついに最初の契約締結をみた患者補償をめぐる紛争の経過については、すでに詳細に見舞金契約を判断した際に示したとおり(第四の二の2ないし15参照)である。

(3) 以上の事実によれば、昭和三四年一一月二五日原告ら(当時認定を受けていた患者およびその近親者である原告ら)が、被告に対して、水俣病の損害補償金を要求した当時、すでに水俣病が工場排水に起因すると考えていたことは明らかであるが、それが損害賠償請求権の行使を可能とするような具体的な資料にもとづく認識であつたとは考えられない。なんとなれば、当時専門家の間においてさえ水俣病の原因物質について定説と目されるものがあつたわけではなく、有力説とみられる有機水銀説においても「ある種の有機水銀」というのみで、そ以上に具体的な特定はなし得なかつたのであり、ましてその原因物質がどこで生成され、いかなる汚染経路をたどつて水俣病を発病させるかということは、科学的に解明されていなかつたのであり、専門知識を有しない原告らにおいて、それ以上のことを知り得よう筈がないからである。右原告らが水俣病が工場排水に起因すると判断した根拠は、前述のような新聞などの報道、漁業補償をめぐる紛争の激化にみられるように、水俣病が工場排水に起因することを肯定するような世間一般の動向、前述のような厚生省食品衛生調査会の答申などの一般的な知識のみであり、工場排水と水俣病を結びつけるに必要な具体的な事実については、何らの認識もなかつたのである。したがつて、この段階で原告らが水俣病が工場排水に起因すると判断したとしても、それはまだ憶測の域を出ないものであつて、具体的認識にもとづくものとは到底いえない。

(4) その後も、水俣病の原因物質については、種々の見解が発表されている。昭和三五年四月前記宮川九平太教授は、再度久留米大学で開催された日本精神神経学会で、昭和三二年六月以来の動物実験にもとづいて水俣病の主要原因はタリウム中毒であるとするタリウム説を発表、そのころ東京工業大学教授清浦雷作は、水俣病はアミン系毒物による中毒症であるという説を発表、昭和三六年四月徳島市で開催された日本衛生学会では、東邦大学教授戸木田菊次、国立衛生試験所食品部長川城巌が、熊大の有機水銀説についてなお疑問を呈示し、戸木田は中毒の原因は魚介類の腐敗によるものか、代謝行程中に生成される化合物質(アミン)によるものであるという説を発表している。

このように、昭和三六年ころまではまだ水俣病の原因物質をめぐつて専門家の間で種々の論争がなされていたが、熊大医学部入鹿山且朗教授は、研究の結果、昭和三六年半ばころ、先の昭和三四年七月の熊大武内らの有機水銀説が当然の前提とした有機水銀は海底にある無機水銀を生物が摂取して生成するという仮説を否定して、すでに他所で生成された有機水銀が魚介類に蓄積されるという結論に到達した。その後、同教授らは、被告水俣工場におけるアセトアルデヒド製造工程、すなわち水銀を触媒とするアセチレン加水反応の工程において、無機水銀特に酸化第二水銀とアセトアルデヒドが反応して酢酸第二水銀を経てメチル水銀が副生され、これが塩素イオンの存在により溜出性のある塩化メチル水銀となり、系外に排出される旨の学説を発表し、実際にも昭和三六年八・九月ころ、水俣工場のアセトアルデヒド設備の水銀スラッジから低級アルキル水銀を抽出し、その化学構造を塩化メチル水銀(CH3HgC1)と決定した。被告工場技術部でも同年四月ころからアセトアルデヒド設備の精ドレンについて実験を重ね、まもなく精ドレン中に有機水銀化合物らしいものの存在を検知し、その後研究を続けて昭和三七年三月ころ、それがメチル水銀化合物であることを確認した。

このようにして被告水俣工場のアセトアルデヒド製造工程において、塩化メチル水銀が現実に副生され、排水とともに水俣湾内に放出されることが明らかにされたが、一般にこのような研究内容が知らされたのは昭和三八年二月一九日ころのことで、同日付朝日新聞は、「入鹿山教授は一六日午後熊大で開かれた研究班の研究発表の席で、新日窒水俣工場にあるスラッジ(泥状の沈積物)の中からメチル水銀化合物を検出したが、これは水俣病が右工場の廃液にあるということを最終的に証明するものであると発表した」と報じ(乙第一三五号証)、同日付毎日新聞も、「水俣病の原因を医学的に究明中だつた熊大医学部衛生学教室の水俣病研究班は、このほど水俣病の原因である有機水銀が新日窒水俣工場から流れたものであるとの結論を下した。水俣病は水俣湾の魚介類を食べた者が発病していたが、魚介類の体内にどうして有機水銀が含まれているかが問題とされていたので、同学部衛生学教室入鹿山且朗教授は昨年一月水銀を使う新日窒水俣工場の酢酸工場と塩化ビニール工場の排水溝などから泥を採集分析、酢酸工場から排出した泥三グラムの中から五ミリグラムの有機水銀を抽出したもの。」という記事を掲載している(乙第一三六号証)。

しかし、これで、水俣病の原因について、すべてが解明されたわけではない。メチル水銀の毒物としての特性たとえば、これは高等動物の脳神経を選択的に障害するもので、魚介類以下の水中生物に徐々に蓄積された場合には毒性を現わさないこと、したがつて水中生物間での食物連鎖がなくならず、工場排出とともに排水されるメチル水銀は、厖大な量の海水によつて稀釈されるにもかかわらず、魚介類には濃縮蓄積されているので、それを摂食した人間が発病するに至ることなどのメカニズムが判明したのは、ガスクロマトグラフィーによる超高感度有機水銀分析法が確立された昭和四〇年以降のことである。

そして、熊大水俣病研究班によつて、水俣病に関する医学面の研究成果が、「水俣病―有機水銀中毒に関する研究」と題する論文集(甲第二号証)として一般にまとまつた形で公表されたのは、昭和四一年三月のことであつた。

被告自身が認めるように、水俣病の原因物質、汚染経路、原因物質が生成、排出されるメカニズム、メチル水銀の毒物としての特性などは、いずれも昭和三四年当時は不明であつたのであり、昭和四三年秋に厚生省の見解が出されるまでの間に約一〇年間を費して逐次解明されてきたのである。

(三) 以上のような経過からすれば、原告らは、遅くとも厚生省の見解が官報に掲載されて公表された昭和四三年一〇月九日ころまでには、これによつて終局的に水俣病が被告水俣工場の排水に起因するもので、被告が有毒物質を含む工場排水を水俣湾内に排出したことが違法な行為であつたことを、具体的な資料にもとづいて認識したと認められるから、この時から消滅時効は進行するものと解するのが相当である。

(四) してみると、昭和四三年一〇月九日ころから起算して三年を経過した昭和四六年一〇月八日ころの満了とともに本件慰藉料請求権(当時認識し得た損害の範囲で)は、民法第七二四条前段の短期消滅時効が完成したものというべきところ、原告田口甲子が、亡平木栄(昭和三五年六月八日認定、昭和三七年四月一九日死亡)の慰藉料相続分二四〇万円を請求する訴えを提起した日が右時効完成後の昭和四六年一一月一日であることは記録上明らかであるから、同原告の右請求権については被告の消滅時効の抗弁は理由があるが(同原告は、昭和四六年九月二五日、亡栄の子として同人の死亡を理由とする固有の慰藉料四五〇万円を請求する訴えを提起しているが、これと亡栄の慰藉料相続分の債権とは同一性がないから、これによつて消滅時効は中断しておらず、独立して消滅時効にかかると解する)、その余の原告らは、それぞれ右期間満了前の昭和四四年六月一四日から昭和四六年九月二五日までの間に本訴を提起し、慰藉料請求額の拡張を申立てて、慰藉料を請求しているのであるから(原告田口甲子も固有の慰藉料請求権については同様である。)、被告の消滅時効の主張は失当といわなければならない。

第六損害

一以上判示したところから、被告は、原告らに対し、本件不法行為によつて原告らが受けた損害の賠償をすべき義務があることは明らかである。

ところで、原告らは本件訴訟において、患者本人については、水俣病に罹患し、あるいは同病によつて死亡したことによつて蒙つた精神上の損害に対する慰藉料を、患者の近親者については、患者らが水俣病に罹患し、あるいはこれによつて死亡したことによつて固有の精神的苦痛を蒙つたことを理由に、その慰藉料を請求すると終始明確に主張しながら、最終口頭弁論期日には、突如、原告らが本訴において賠償請求の対象としている損害は、「環境ぐるみの人間破壊の総体である」とか「原告らが蒙つた社会的・経済的・精神的損害の全てを包括する総体であつて、単に精神上の損害に対する慰藉料のみを請求しているのではない」などといい、しかも「その総体をとらえることはできないであろう」「この計り知れない被害を金銭に見積ることは到底不可能である」などと主張した。しかし、不法行為による損害賠償請求訴訟においては、損害はいわゆる主要事実をなすものであるから、相手方において防禦が可能な程度に、また相手方がその事実を自白すればそれにもとづいて法律効果を判断できる程度に具体的に主張しなければならない。すなわち、裁判所が自由な心証によつて決定する慰藉料の額はその例外となるが、その他の損害については、損害費目とその額およびその損害算定の根拠となる事実を具体的に主張すべきである。ところが、ここではそのような主張はなされていないのであるから、要するに当裁判所としては、原告らが前記のような慰藉料のみを請求しているものと解さざるを得ない。

二つぎに、これは原告らも主張し、最近の同種の公害事件の判決においてもすでに指摘されていることであるが、公害の損害賠償において損害額を算定するにあたつては、つぎのような公害の特質を十分考慮して、公平、妥当、かつ合理的に損害の填補をはからなければならないと考える。

すなわち、まず第一に、公害は、交通事故などの通常の生命身体に対する侵害の場合と異なり、常に企業によつて一方的に惹起されるものであつて、被害者は加害者の立場になり得ず、また被害者が容易に加害者の地位にとつて替るということがないこと、第二に、公害は自然環境の破壊を伴うもので、当該企業の付近住民らにとつてその被害を回避することはほとんど不可能であり、しかも多くの場合被害者側には過失と目される行為はないこと、第三に、公害による被害は不特定多数の住民に相当広範囲に及ぶので、社会的に深刻な影響をもたらすとともに、また企業側において負担すべき損害賠償額が莫大になると予想されること、第四に、公害はいわゆる環境汚染をもたらすものであるから、同一の生活環境のもとで生活している付近住民は、程度の差こそあれ共通の被害を蒙り、家庭にあつては、家族全員またはその大半が被害を受けて、いわば一家の破滅をもたらすことも稀ではないこと、最後に、公害においては、原因となる加害行為は当該企業の生産活動の過程において生ずるもので、企業はこの生産活動によつて利潤をあげることを予定しているが、被害者である付近住民らにとつては、右の生産活動によつて直接得られる利益は何ら存しないこと、以上のような公害の各特質を考慮しなければならない。

三以上のほかに、本件においては、つぎのような事情をも考慮しなければならない。

1のちに詳しく認定するように、原告ら被害者が受けた被害は、単に水俣病という病に罹患したことによる精神的肉体的苦痛に止まるものではない。患者家族はほとんどが漁業に依存して生計をたてていたが、被告のもたらした環境汚染は同人らから漁場を奪い、生活の手段をとりあげた。漁業に従事しない者も自分が水俣病に罹患すればもちろん、そうでなくても家族の看護のために、就業は困難であつた。そのうえに、患者らの看護、治療のために多額の出費を余儀なくされた。一家に何人もの患者を抱える家庭では、家族の看護さえ満足に受けられないありさまであつた。患者の療養生活は、家族全員から家庭生活の楽しみを奪い、その経済状態を逼迫させ、家庭生活を破壊の危険にさらした。また、水俣病のまえに水俣病はなく、その原因究明、治療方法の発見のためには長年月の研究を要したが、その陰で患者家族らは地域住民から奇病、伝染病といわれ、いわれのない迫害を受けて苦しまなければならなかつた。

これにひきかえ、被告は、猫四〇〇号実験の結果を公表せず、アセトアルデヒド廃水による直接投与実験を中止させるなどして、その原因究明をおくらせ、これがひいては被害を増大させる一因となつた。

2つぎに、甲第二号証、同第二二一号証、同第二二三・第二二四号証、同第二二六号証、同第二四九・第二五〇号証、証人原田正純の証言(47.9.7)によれば、水俣病の治療方法としては、病因物質である有機水銀を早期に体外に排泄するための原因的療法(EDTA-CaおよびBALの応用)と、ビタミン類、鎮静剤、副腎皮質ホルモンの使用による対症療法があり、これらの療法は、中毒症状の急性期を脱することに役立つが、主要症状の改善にはあまり効果がなく、これは水俣病が中枢神経の非可逆的病変によるものであることを示していること、共同運動障害、錐体外路症状、自律神経症状についてはリハビリテーションにおける組織的な理学療法、職能療法によつてある程度の効果を期待できること、水俣病の症状は、一般的にいつて、まだ固定したものということはできず、発病後十数年を経過して症状が改善された者もあれば、現に悪化しつつある者もあり、同一個体においても部分的に改善がみられる症状もあれば悪化している症状もあること、しかし一般的な統計によれば、症状の軽快、消退は罹患年令の若い患者に多く、その増悪は高年令における罹患者に多い、が症状別では、自律神経症状、共同運動障害、錐体外路症状に改善がみられる例が多く、とくに自律神経症状の消退が目立つが、共同運動障害、構造障害、求心性視野狭窄、聴力障害、錐体外路症状、病的反射、知能障害、性格障害などは改善はしても消退する例は少なく、構音障害、知能障害、性格障害に悪化の症例が多いこと、予後については、患者ごとにさまざまな経過をたどると思われるので一概にいうことはできないが、一般に、幼年期、老年期に発病した患者、高度の知能障害、原始反射、姿態変形を主徴とする患者については予後も悪いことが認められる。

なお、水俣病患者が最初に確認されてからすでに二〇年近くになるが、甲第二二一号証、同第二二三号証、同第二二七号証によれば、たとえば、メチル水銀が神経系以外の肝臓、腎臓などの臓器や遺伝に対してどのような影響を与えるか、水銀汚染と高血圧、動脈硬化症の関係はどうかといつた医学上の重要な点について、まだ十分解明されていないことが認められる。

3本件において、原告らは、弁護士費用のほかは精神上の損害に対する慰藉料のみを請求しており、いわゆる逸失利益については、現在および将来ともこれを請求する意思のないことが明らかである。逸失利益を含む財産上の損害を請求すれば、その立証が複雑困難であるため審理期間が長期化し、被害者の救済がおくれることになるので、これを慰藉料算定の斟酌事由として考慮し、慰藉料の額に含ませて請求することは許されると解すべきである。

このように逸失利益などの財産上の損害を慰藉料に含ませる以上、裁判所は慰藉料を算定するにあたつて、各患者の生死の別、各患者の症状とその経過、闘病期間の長短、境遇などのほかに、これら患者の年令、職業、稼働可能年数、収入、生活状況などの諸般の事情をあわせて斟酌しなければならない。

なお、このように被害者側の個別事情を考慮することなく、全部の被害者について一律に損害額を算定請求することは、公平、妥当かつ合理的な損害の賠償という不法行為法の理念に反すると解せられるから、相当でないものといわなければならない。

この点に関連して、原告らは、水俣病患者家族が受けた被害には差がつけられないとか、各患者の症状などに差はないというが、現に患者家族がそれぞれ異なつた個別事情を有し、患者の症状もそれぞれ異なり、どれひとつとして全く同じもののないことは、つぎに原告患者らの事情を個別に認定したところをみれば明らかであろう。

4生存患者の近親者(民法第七一一条所定の近親者)の固有の慰藉料については、患者が水俣病に罹患したためにその近親者において、同人が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたと認められる場合に限り、その近親者は民法第七〇九条、第七一〇条にもとづき右慰藉料を請求できるものと解する(最高裁昭和四三年九月一九日判決民集第二二巻九号一、九二三ページ参照)。なお、患者が水俣病に罹患したのちにその身分関係を取得した近親者についても、右基準によつて、その後に症状が悪化して右の程度の精神上の苦痛を受けたと認められる場合には、その慰藉料請求を認めるべきである。

5死亡患者およびその近親者の慰藉料請求については、原告らが、死亡時から慰藉料などの賠償金について遅延損害金を請求していること、死亡時からの期間の経過、その間の貨幣価値の変動なども考慮せざるを得ない。

6おわりに、一定額の見舞金が支払われていることも慰藉料算定の際考慮すべきである。すでに認定したように見舞金契約は公序良俗に反し無効というべきであるが、この契約にもとづいてすでに支払われた見舞金は、実質的には被害者の損害を填補するものであり、原告らの損害賠償請求権が肯定される以上、この契約が無効と判断されたとしてもこれが返還されることはないと解されるから、慰藉料算定の際これを斟酌すべきである。

四そこでつぎに、以上のような点を考慮しながら本件原告らの損害について個別に検討するわけであるが、患者らが、水俣病患者と認定された年月日が別紙〔三〕の患者一覧表中認定年月日欄記載のとおりであることは当事者間に争いがなく、別紙〔九〕の損害認定証拠一覧表記載の各証拠によれば、患者らの生年月日(右別表〔三〕表の生年月日欄記載のとおりである)のほか、原告、患者らについてつぎの各事実を認めることができ、(当事者間に争いのない事実は除く)、これに前記のような慰藉料算定の際斟酌すべき諸事情を考慮して個別に判断すると、原告らが請求しうべき慰藉料額はつぎのとおりである。

1原告(1)渡辺栄蔵、同(2)渡辺保、同(3)渡辺信太郎、同(4)渡辺三郎、同(5)渡辺大吉、同(6)石田良子、同(7)石田菊子、同(8)渡辺マツ、同(9)靏野松代、同(10)渡辺栄一、同(11)渡辺政秋について前記認定のとおり、原告渡辺栄蔵は亡渡辺シズエの夫であり、原告渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子は、右栄蔵と亡シズエ間の子(保は長男、信太郎は二男、三郎は三男、大吉は四男、良子は長女、菊子は二女)である。また原告渡辺マツは右保の妻で、原告靏野松代、同渡辺栄一、同渡辺政秋は右原告保と同マツ夫婦間の子(松代は長女、栄一は長男、政秋は二男)である。

(一)亡渡辺シズエ

(1) 亡渡辺シズエが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三二年四月ころ水俣病に罹患し、昭和四四年二月一九日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡シズエは大正一四年原告栄蔵と結婚(婚姻の届出は昭和二年一月七日)、同人との間に原告保ら四男、二女があり、栄蔵が、露店商などを経て、昭和二一年から保らと水俣湾周辺で漁業を営むようになつたので、シズエは家庭にあつて農業や孫の子守りをしていた。

(3) 同女は、それまで健康に恵まれ重い病気に罹つたことはなかつたが、昭和三二年二月ころ高血圧を指摘されたことがあつた。その後同年四月ころから手足のしびれと頭痛を訴え、同年九月には全身とくに四肢の痙攣発作、舌のもつれによる言語障害、流涎が現われ、手足のしびれと頭痛は益々激しくなつて手指の運動は拙劣になつた。それでも昭和三三年一〇月ころまでは便所にはひとりで行つていたが、昭和三三年一一月孫の原告政秋が生まれたころから寝込んでしまい、翌三四年一月には左半身の麻痺が目立ち、排便、洗面、入浴、食事すべて介助が必要となつた。なおそのころ脳出血の診断を受けた。同年七月ころ一時軽快し、歩行可能となつたが、その後も症状はゆるやかに進行し、また寝たきりの状態にもどり、昭和三六年ころには四肢の硬直と変形、筋萎縮がみられ、言葉はほとんど聴取れなくなり、嚥下障害のため固形物は食べることが困難で、流動食でも喉に支えて食事に一時間位かかり、視野狭窄が確認された。また物忘れがひどく、同じことの繰返しや愚痴が多く、不眠状態もみられた。その後この状態が続いたが、昭和四四年二月にはいよいよ流動食しか口に入らず、失禁のためおむつをあて、四肢は硬直したうえに屈曲変形し、寝返りを打つこともできなくなつて、遂に同月一九日小脳出血のため死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、脳萎縮(一、〇五〇グラム)、大脳萎縮(鳥距野その他びまん性萎縮、大脳髄質のびまん性粗鬆化、一部嚢胞形成)、小脳皮質萎縮ならびに髄質のびまん性粗鬆化、末梢神経瘢痕化、筋萎縮症などの水俣病に一致する所見が得られたが、ほかに小脳大出血、嚥下性肺炎、動脈硬化症などが認められた。

なお同女は、この剖検結果にもとづいて昭和四四年五月二九日水俣病の認定を受けた。

(4) 当事者間に争いのない同女の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は、昭和三二年四月ころ水俣病に罹患し、その典型的な症状は死亡時まで継続してあつたが、脳出血や片麻痺症状にその症状がかくされて水俣病の診断が困難であつたこと、動脈硬化症については、水銀汚染と関係があるか否かまだ学問的に解明されていないが、脳出血の原因となつた脳血管性障害は、この動脈硬化症に水俣病の症状である神経系の病変が作用して惹起されることがあること、しがつて、同女の脳出血に起因する諸症状、死因について、水俣病に起因することを全く否定してしまうことはできないことが認められる。

(5) 同女の前記症状とその死に至るまでの悲惨な経過、とくに闘病期間が一二年もの永きにわたつたこと、そして死亡の結果に前記のような合併症があつたこと、年令(発病時五七才、死亡時六八才)、境遇等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、八〇〇万円が相当である。

(6) 原告渡辺栄蔵、同渡辺保、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子はいずれも亡シズエの相続人であり、同女の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告栄蔵は夫として民法所定の相続分であるその三分の一に相当する六〇〇万円を、その余の右原告らは子として前記相続分である各九分の一に相当する二〇〇万円を相続によつてそれぞれ承継取得した。

また、原告渡辺栄蔵(明治三一年三月三日生)は、七〇才を過ぎて四五年近く連れ添つた妻を永年の看護の甲斐もなく悲惨な症状のうちに奪われ、その余の前記原告らは、同女の回復を願い深い愛情をもつて見守つてきたが、その母を無惨な最期で奪われたものであるから、これによる同人らの精神的苦痛は大きく、その慰藉料は、原告栄蔵は夫として四〇〇万円、その余の右原告らはいずれも子として各一〇〇万円が相当である。

(7) すると、原告渡辺栄蔵が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右の合計一、〇〇〇万円であり、同渡辺信太郎、同渡辺三郎、同渡辺大吉、同石田良子、同石田菊子のそれは、右の合計各三〇〇万円である。

(二)原告(9)靏野松代

(1) 原告靏野松代が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年九月二三日ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 同原告は、生来元気な子供で麻疹以外の病気に罹つたことはなかつたが、昭和三一年七月ころから疲労を訴え、食事のときご飯をこぼすようになつた。同年九月二三日両側膝関節、足関節に疼痛があり、これが二、三日持続したのち歩行障害が現われた。同年一〇月四日被告会社水俣工場附属病院(以下すべて附属病院と略称する)で受診した際、視力障害、視野狭窄、軽度の流涎、手指の振戦、ロンベルグ徴候、上肢の運動障害が指摘されたので、翌五日熊大医学部附属病院(以下すべて単に熊大と略称する)小児科に入院したが、その後まもなく前記各症状のほかに聴力障害、共同運動失調、固有反射亢進、足搦、ケルニッヒ症状、眼球振盪症などの症状が続発した。同年一二月になると歩行障害、ロンベルグ徴候、流涎などの症状は幾分改善されたものの、全体としてはそれほどの変化がなく、学校へ入学する都合で昭和三二年三月同病院を退院し、翌四月水俣市立病院(以下すべて市立病院と略称する)に入院、同病院から水俣第一小学校に通学することになつた。昭和三三年八月にはこのほか言語障害、書字障害、精神発育の遅延が認められたが、昭和三五年三月ころから難聴、歩行障害、言語障害、振戦などの症状に漸次軽快の傾向がみられ、昭和三八年三月同小学校を卒業した。小学校においては基礎的な学習が不足し、とくに算数、国語、理科の成績がわるかつた。昭和三八年四月水俣第一中学校に進学したが、中学校における学業成績も「下」で、すべての面でやや能力が劣り、難しい問題は理解が困難であると評価されている。そのころの知能検査によれば知能指数は全学研式で四一、東大A―S式で四六であつた。昭和四一年三月同中学校を卒業、しばらくして被告会社水俣工場の独身寮に寮婦として就職したが、積極性に欠け、動作は緩慢で不器用、協調性がなく、身体症状のほかに性格障害が目立つた。昭和四四年五月には退職し、昭和四六年一〇月からは大阪のガム工場に勤め、チューインガムの包装の仕事に従事している。

(3) 同原告には現在、小児期に発病した水俣病患者に特徴的な症状である計算障害、知識の貧困、思考の遅鈍、迂遠などの知能障害(魯鈍程度)と寡言で、表情がなく、動作は鈍く、積極性がないなどの性格障害があり、ほかにも視野狭窄、聴力障害、言語障害、共同運動障害、筋緊張の低下、粗大力の低下、固有反射の減弱(視野狭窄、聴力障害以外はいずれも軽度)などの症状があつて、自分の身のまわりのことなどはできるが、就業できる職種は相当程度制限される状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、職業、見舞金として九四万八、三三四円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五〇万一、六六六円が相当である。

(5) 原告渡辺保、同渡辺マツは、原告松代が水俣病に罹患し、同女の前記認定のような症状は生涯続くので、同女には結婚生活ののぞみはなく、このために同女の両親として固有の精神的苦痛を蒙つているとして、その慰藉料を請求しているが、原告松代の症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまり、同女に結婚生活ののぞみがないともいえないから、松代の水俣病罹患によつて、右原告らが、松代の生命が害された場合にも比肩すべきまたは右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を蒙つたとは解されないのであつて、同原告らの右請求は失当である。

(三)原告(10)渡辺栄一

(1) 原告渡辺栄一が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年一一月水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 同原告は歩行や発語がややおそかつたが、発育にとくに問題はなかつた。昭和三一年一一月五日急にうまく歩けなくなり、まもなく視力障害、手指の失調、言葉の不明瞭、流涎、視野狭窄などの症状が現われたので、同月二〇日熊大小児科に入院した。入院時の診察所見では、このほか聴力障害、精神発育の遅延、下肢腱反射の亢進、バビンスキー、オッペンハイムなどの病的反射が認められ、その後症状は進行してロンベルグ症候、共同運動失調、固有反射亢進、足搦、ケルニッヒ症状、眼球振盪症などの症状が証明されたが、同年一二月一〇日ころには歩行障害、ロンベルグ症候、流涎などに幾分改善がみられ、昭和三二年三月姉松代とともに同病院を退院し、翌四月ころ市立病院に入院して、昭和三四年四月水俣第一小学校の特殊学級へ入学した。同年八月にはなお言語、視力、聴力、歩行、書字、共同運動などの各障害、視野狭窄が認められたが、昭和三五年三月には難聴、歩行、言語、共同運動の各障害、振戦などに改善がみられ、漸次症状は軽快し、昭和三七年三月同病院を退院した。昭和三九年三月同小学校を卒業したが、六年間の成績は5点法で三・四・五年次における音楽の「2」を除いてほかは全て「1」で、欠席日数は一年次が二八日(授業日数二一三日)、三年次が一五日(同二三九日)のほかは各年次とも八日以下で、それも病欠以外の事故欠席が多かつた。同年四月水俣第一中学校の特殊学級に進学した後も、手指の細かい動作が拙劣であるとか、共同運動障害、構音障害、視野狭窄などの症状があつたが、歩行は安定、言葉もかなり明瞭になり、手の運動は上達してオルガンを練習し、しつかりした字が書けるようになつた。昭和四二年三月同中学校を卒業、同年八月から水俣市古賀町のブロック工場に就職し、配達などの仕事に従事したが、ブロックを落して怪我をするなどの事故があつて翌年三月には退職し、以後就職することなく自宅にある。

(3) 同原告には現在、原告松代と同様九九がいえなくて二桁の計算ができず、知識が貧困で抽象的なことは理解できない魯鈍程度の知能障害があり、歩行はやや不安定で片足起立はできず、それにアジアドコキネージズなどの共同運動障害、視野狭窄、口の周囲、四肢の知覚障害、両側肩甲部、上腕、腰部、大腿部の著明な筋萎縮、粗大力の低下、右顔面不全麻痺、右外斜視、構音障害、聴力障害(左はほとんど聞えない)、筋緊張低下、固有反射減弱などの症状があり、軽易な労務以外の労務に服することはできない状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、見舞金としてすでに三二万円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五六八万円が相当である。

(5) 原告渡辺保、同渡辺マツは、原告栄一は前記認定のような症状のためにやつと中学校の特殊学級を卒業できた有様で、今後も生涯不具者としての生活を余儀なくされるが、このために同人の両親として固有の精神的苦痛を蒙つているとして、その慰藉料を請求しているが、原告栄一の症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまるから、これだけでは、被害者の栄一が生命を害された場合にも比肩すべきまたは右の場合に比してそれほど劣らない程度の苦痛を右原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、同原告らの右請求は失当である。

(四)原告(11)渡辺政秋

(1) 原告渡辺政秋が、出生時から水俣病に罹患しているいわゆる胎児性水俣病患者であることは、当事者間に争いがない。

(2) 原告マツは、昭和三三年一一月一〇日原告政秋を出産したが、政秋には先天的に右耳介の癒合、目の奇形などがあつた。

同人は、生後六か月ころから全身の強直性痙攣が始まり、ようやく一才六か月で首が坐り、二才でひとりで坐り、つかまり立ちができ、二才六か月で歩けるようになつた。三才五か月になると箸が使え、大小便は動作で知らせていたが、口、舌などにチック様運動があり、手を振つたり、額を撫でまわすなどの無目的で衝動的な異常運動発作が頻発し、歩行時などに身体の左右方向への動揺がみられ、ボタン止めなどのときは指先が使えず、自発言語はなく、そのほか両下肢のアジアドコキネージズ、高度の聴力障害、原始反射、流涎が認められた。その後、知能の発達につれて反抗的、強情、不気嫌、粗暴などの性格面の特徴が著明になつたが、一方、歩行時の身体動揺は軽く、アジアドコキネージズなどの症状も軽快して、身体運動は全体に安定性がみられ、痙攣発作は四才のころからみられず、異常運動発作、原始反射、流涎も消失した。昭和四〇年には松代らとともに三か月間湯之児病院に入院した。昭和四一年四月熊本県立聾学校に入学、性格面に多少改善がみられ動作は迅速になつたが、聴力は全くなく、発語障害があり、顔面にたえずチック様不随意運動がみられ、筋緊張は低下し、粗大力は左握力が一〇キログラム、右握力が四キログラム(左利)で、直線歩行でわずかに動揺し、知能はかなり発達したが、それでも同級生の中では最低であつた。昭和四七年三月小学部を卒業、同年四月中学部に進学し、現在学校で寮生活をしている。

(3) 原告政秋は現在、聴力が全くなく、そのために自分も大きな声で力を入れて喋るがその言葉は「ウンゴ」(リンゴのこと)、「シンブ」(新聞のこと)、「セツセツ」(先生のこと)などと不明瞭であり、知能障害があるので筆談で「名前を書け」と命じてもそれを理解することができず、100-13程度の暗算ができない。そのほかに顔面変形、斜頸、軽度の眼球振盪、舌の軽いヒヨレア様不随意運動、直立時動揺、片足起立不安定、それにアジアドコキネージズ、踵膝試験などで証明される軽度の共同運動障害などの症状があり、知覚障害と視野狭窄については検査自体不能で、身のまわりのことは一応自分でできる状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、見舞金としてすでに七二万〇、四一七円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、七二七万九、五八三円が相当である。

(5) 原告渡辺保、同渡辺マツは、自分らも最近、水俣病の認定を受け、あるいは現在認定申請しているが、母シズエのほか原告政秋ら三人の子供全員が水俣病に罹患したため、一家の生活は崩壊し一時は心中まで考えたことがあるほどで、なかでも胎児性の水俣病患者である原告政秋は現在、運動機能については相当改善がみられ一応日常の起居動作に支障はないが、高度の知能障害があるうえに聾唖者で、これについては将来改善の見込みがないから終生不具者としての生活を余儀なくされることは確実で、この原告政秋の症状等から蒙る右原告保らの現在および将来の精神的苦痛は大きく、それは原告政秋が生命を害された場合に比しても著しく劣らないと解されるから、同原告の両親としての慰藉料請求は理由があり、各三〇〇万円が相当である。

(6) すると、原告渡辺保が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(6)と(四)の(5)の合計額で六〇〇万円であり、同渡辺マツが被告に対して請求できる慰藉料は、右(四)の(5)の三〇〇万円である。

2原告(12)釜トメオ、同(13)釜時良について

前記認定のとおり、原告釜トメオは、亡釜鶴松の妻であり、原告釜時良は右夫婦間の長男である。

(一)亡釜鶴松

(1) 亡釜鶴松が水俣湾周辺などで獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三四年六月上旬ころ水俣病に罹患し、翌三五年一〇月一二日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡鶴松は、漁業を生業とし、ことに昭和二〇年出水市名古から同市下鯖渕に移転してからは、網元として一〇人ないし二〇人の網子を使用して大規模に同市切通から米ノ津沖などで季節に応じてザコ網、カシ網、流網漁業を営み、獲れた魚はイリコに加工し、あるいはそのまま出水漁協や水俣魚市場に水揚出荷し、発病直前には一か月一四ないし一五万円の収益を挙げていた。

また、同人は生来頑健で若いころにはよく部落の相撲大会などに出場していた。

(3) 同人は、昭和三〇年ころから手がふるえるようになつたが、まだそのころは焼酎を飲めばふるえが止まつていた。しかし、その後昭和三三年暮れころから手足のふるえ、しびれ感が強くなつて他人にもそれを訴え、昭和三四年四月ころには流涎がみられ、怒りつぱくなつて理由もないのに妻のトメオらに手当り次第に物を投げつけたり、言葉もわかりにくくなつて漁場での指示も身振りでするようになつた。そしていよいよ同年六月には、漁に出ても足がふらつき自由がきかなくなつたので、船に乗ることをやめた。そのころから耳が遠くなり、言葉ももつれ、手足、口唇がしびれ、知覚障害のために吸つている煙草や手に持つている湯呑み茶碗を落しても気付かないことがあつた。同年七月ころには焼酎をコップに注いでもそれを手で持ち上げて飲み込むことができなくなり、以来飲酒を止めることになつた。同年八月ころには難聴の度が強くなり、意識障害も強く、「ウー」といううなり声を発するだけで言葉が全くわからず、視力も低下し、まわりの物が見えにくい様子であつた。なお、このころまで出水市立病院に通つて治療を受けていたが、同年一〇月ころになると歩行不能となり、寝たままで大小便もひとりでできず、食事はおかゆ、果汁を匙で長時間かけて食べさせてもらい、失禁することもあつた。同病院の医師のすすめで同年一二月二四日水俣市立病院に入院したが、その際の所見としては、極度の衰弱、強迫泣、意識障害、失禁、聴力障害、言語障害の症状があり、水銀量を測定した結果尿中に八八γ(ガンマー)、毛髪中に三五〇γ(ガンマー)の数値を得た。昭和三五年になると、一時小康状態を保つたこともあつたが、月に二、三回発熱して肺炎に罹り、そのために危篤状態に陥つたこともあり、無表情で口ををきかなかつたり、反対に一晩中眠らずワーワー叫び声を発したりで、痙攣発作もみられた。身体は極度に痩せ、右下肢は屈曲し、左下肢は伸展したまま次第に硬縮した。そして同年一〇月初旬から意識障害が顕著となり、手足を全く動かさず、反応はなく、食事もとらなくなり点滴のみで生命を維持したが、遂に同年一〇月一二日発熱、肺炎を併発して死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 同人が水俣病に罹患していた事実は争いがなく、これに前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は水俣病により死亡したものと認められる。

(5) 同人の前記症状とその悲惨な経過および死亡の結果に、同人の年令(発病時五五才、死亡時五七才)、職業、収入、境遇、生前見舞金として一七万五、〇〇〇円を受領していること、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、二六七万五、〇〇〇円が相当である。

(二)原告(12)釜トメオ、同(13)釜時良

(1) 原告らはいずれも亡鶴松の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告釜トメオは妻として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四二二万五、〇〇〇円を、同時良は子として前記相続分である三分の二に相当する八四五万円を相続によつて承継取得した。

(2) 原告釜トメオ(明治三一年一二月八日生)は、亡鶴松と昭和一一年事実上結婚(届出は昭和一三年六月二九日)し、ひとり子の原告時良(昭和一二年五月二六日生)を養育しながら生活を共にしてきたが、鶴松の入院中は病院に泊り込みで必死に付添看病したにかかわらず、その夫を前記のような悲惨な症状のうちに不慮の死で失い、原告時良は、小学校五、六年生のころから父鶴松といつしよに漁船に乗つて漁業に従事し、将来は腕のよい同人から漁業を習つて父親に負けない立派な漁師になりたいと願つていたが、それも同人の死によつてむなしいものとなり、また鶴松を水俣市立病院に入院させるについては出水漁協の組合長らから水俣病を出すと魚が売れなくなると反対されて非常に辛い思いをし、昭和三五年には資金難などのため永年続けた漁業を中止せざるを得ず、土方や船舶用エンジンなどのセールスマンをしてやつと生活を支えてきた始末で、その父を悲惨な症状のうちに失い、これによる同人らの精神的苦痛は大きく、これに見舞金(弔慰金、葬祭料)として原告トメオは一〇万六、六六七円、同時良は二一万三、三三三円を受領していること、鶴松の死亡時からの遅延損害金を請求していること等を併せ考慮すると、その慰藉料は妻の原告トメオにおいては二八九万三、三三三円、子の原告時良においては二七八万六、六六七円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(二)の(2)の金額の合計額で、原告釜トメオは合計七一一万八、三三三円、同時良は合計一、一二三万六、六六七円である。

3原告(14)浜田義行、同(15)浜田シズエ、同(16)山下よし子、同(17)浜田義一、同(18)浜田ひろ子、同(19)浜田良次、同(20)白川タミについて

前記認定のとおり、原告浜田義行と同シズエは夫婦であり、原告山下よし子、同浜田義一、同浜田ひろ子、同浜田良次は右夫婦間の子(よし子は長女、義一は長男、ひろ子は二女、良次は二男)で、原告白川タミは、原告シズエの母である。

(一)原告(15)浜田シズエ

(1) 原告浜田シズエが、水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同原告が現に水俣病に罹患していることは当事者間に争いがない。

(2) 原告シズエは、昭和一七年高等小学校を卒業し、電気会社の掃除婦、母の実家で漁業手伝などをしたのち、昭和二六年三月従兄弟にあたる原告義行と結婚、義行の実家が漁業を生業としていたので、以後夫婦そろつて漁業に従事し、現在に至つている。

(3) 同原告は、昭和三二年ころから手がしびれてふるえるようになり、翌年六月には自然流産した。昭和三四年一〇月良次出産後は全身倦怠、脱力感が続き、歯が抜けたり、頭痛、めまいがし、足も重くふらつくので、波のあるときには船の上で歩くことができなくなり、熊本市内の産婦人科病院に二か月位入院治療を受けた。しかし、その後も症状は悪化し、昭和三五年になると目がかすみ、物忘れし、重い物を持つと手がしびれて落し、頭がふらふらするようになつたので、受診したところ、高血圧を指摘された。その後これらの症状は一時軽快したが、再び昭和四三年ころから悪化し、そのころから両足にもしびれ感があり、漁の仕事などに長時間従事することはできなくなつた。医師原田正純の昭和四五年三月の診察所見によれば、当時同原告には、物忘れ、言葉のもつれ、しびれ感、疲れやすい、目がかすむ、頭痛などの自覚症状があり、抑うつ的で積極性に乏しく、軽度の記銘・記憶障害があり、言語もやや明瞭さを欠き、ほかに右聴力障害、未梢性知覚障害(とくに左側に強い)、左上下肢の粗大力減弱、軽度の視野欠陥、動揺性の歩行失調、アジアドコキネージズなどの共同運動障害が認められた。

(4) 同原告には現在、両手足のしびれ感のほか、指先がきかず物をとり落す、身体がふらつき倒れやすい、目がかすみ視野狭窄のためまわりが見えにくい、頭痛、めまいがするなどの自覚症状があり、無気力、抑うつ的で、知識、思考、記銘、記憶、計算などの知的機能、構音それに聴力にそれぞれ軽度の障害があり、手の振戦(軽い企図振戦を含む)、手指の冷感とチアノーゼ、下肢における固有反射の軽度亢進、それに粗大力低下(右一二キログラム、左一五キログラム)がみられ、片足立ちはやや不安定、しやがみ動作は踵が上らず不円滑で、アジアドコキネージズ、後屈試験、指鼻試験、指々試験、踵膝試験などで共同運動障害が証明され、四肢末端に強い知覚障害、左頬、胸部に斑状の知覚鈍麻が認められ、高血圧の症状もある。このため現在も漁業に従事しているが、船の上ではできるだけ動かないようにし、船の乗り降りには他人の介添が欲しい状態で、頭痛、めまいなどの自覚症状のため仕事を休んで寝込む日もあり、手指などの粗大力低下のため力仕事はできず、針仕事などの手先を使う仕事は子供にさせている。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、職業等諸般の事情を併せ考慮すると、その慰藉料は一、六〇〇万円が相当である。

(6) つぎに、原告浜田シズエを除く原告浜田義行ら六名の原告は、原告シズエが水俣病に罹患したため多大の精神的肉体的苦痛を蒙つたとして、固有の慰藉料を請求しているが、全立証によつても、原告シズエの症状と生活障害の程度は前記認定の程度を出ず、ほかに同女がこの病気のために満足に家事など主婦としての務めを果し得ないために、原告らが同女にかわつてその仕事をしなければならないことなどの事情を考慮しても、原告らが原告シズエの水俣病罹患によつて蒙つた精神的肉体的苦痛は、被害者である同女が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛であるとは解されないから、右原告らの右請求は失当である。

(二)原告(19)浜田良次

(1) 原告浜田良次が、出生時から水俣病に罹患しているいわゆる胎児性水俣病患者であることは当事者間に争いがない。

(2) 原告シズエは、昭和三四年一〇月二三日原告良次を出産したが、良次は出産時の体重が三、七〇〇グラムで、予定日よりも出産が遅れたため鉗子分娩を行ない、四か月までは母乳、その後は人工栄養で育てられた。

原告良次は、生後八か月を経過しても外界の刺激に反応せず、首も固定しなかつた。一年目にやつと首が固定し、二年目でどうにか寝返りができるようになり、三才のころ辛うじて立つたり、坐つたりでき、昭和三八年初めころようやく伝い歩きができるようになつた。しかし、言葉は全く発せず、他人の言葉を理解することもできず、もちろん大小便を教えることもなかつた。医師原田正鈍の昭和三九年一二月二三日の診察所見によれば、当時同原告には、両下肢、足趾に変形があり、斜視で、手、足頭に常同的な不随意運動がみられ、筋緊張も低下し、自力での体位変換や起立、二、三歩程度の歩行は可能であつたが、用便、食事など一切の日常生活に介助が必要な状態であつた。なお知能程度は当時すでに白痴と診断されている。昭和四四年一月二四日の診察所見によつても、症状の改善はみられず、大小便をもらし、着衣、ボタン掛けができず、絶えず動きまわつて衝動的な行為を繰返し、父母の認知は可能であるが、言葉は二、三に限られ、相変らず常同的な不随意運動が続き、把握反射、部分抵抗症などの原始反射、痙縮、膝蓋腱反射亢進、足クローヌス両側陽性、歩行障害、アジアドコキネージズなどの症状がみられ、視力障害などはその疑いがあるが検査ができない状態にあつた。

(3) 原告良次には現在、極めて高度の知能障害(白痴)があり、話す言葉も「プップー」(車、舟を示す言葉)、「チビ」(犬のぬいぐるみと鯉を示す言葉)、「シー」(黙れの意)、「シーシー」小(尿意を訴える言葉)の四語に限られ、頭症で、顔面に変形があり、音に対する反応は敏感であるが、視力障害の疑いがあり、落着きがないうえに運動障害が比較的軽いため絶えず動きまわり、直立時に身体は前後に動揺するが、歩行は、両下肢を広げて投げ出すようにしながら体躯を左右に揺り動かし手も広げたままで不安定に歩き、片足起立は不能で、ほかに下肢趾にアテトーゼ、舌にヒヨレア様不随意運動、筋緊張低下または痙縮、固有反射亢進、ロッソリモ現象、足クローヌス両側陽性、把握反射、部分抵抗症などの原始反射、自律神経症状としての皮膚紅潮、発汗過多、足の尖足位と関節部での内方屈曲、足趾の足底方向屈曲、下肢および背椎の変形などの症状が認められ、箸を使うこと、着衣、ボタン掛けなど全て不能で、ロンベルグ現象、アジアドコキネージズ、知覚障害などは検査自体不可能な状態にあり、今後運動および知能面で多少の発達がみられるにしてもその範囲は限られたものであるから、正常な成長は全く期待することができず、終生廃人同様の生活を余儀なくされるものと思われる。

(4) 同原告の前記症状、生活障害の程度、年令(現在一三才)、境遇、見舞金として七〇万〇、四一八円を受領していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、七二九万九、五八二円が相当である。

(5) つぎに、原告浜田義行、同シズエの原告良次の水俣病罹患を理由とする固有の慰藉料請求について考えるに、右原告らは、自分らがその症状に苦しむ水俣病認定患者でありながら、前記認定のとおり、胎児性水俣病のため生まれながら廃人同様の状態にある良次の父母として、、同人の日常生活全般にわたり介助を余儀なくされているもので、この状態は、今後においても良次の症状についてはさほどの改善は望めないから、同人が生存する限り続くものと思われ、原告らの現在および将来の精神的苦痛は甚大で死にも比肩すべきものがあり、良次の両親としての慰藉料は各四五〇万円が相当である。

(6) すると、原告浜田義行が被告に対して請求できる慰藉料は右(二)の(5)の四五〇万円、同浜田シズエが被告に対して請求できる慰藉料の総額は右(一)の(5)と(二)の合計額で二、〇五〇万円、同浜田良次が被告に対して請求できる慰藉料は右(二)の(4)の一、七二九万九、五八二円であり、その余の原告山下よし子ら四名の原告の本訴請求は失当である。

4原告(21)牛嶋直、同(22)牛嶋フミについて前記認定のとおり、原告牛嶋直と同フミは夫婦である。

(一)原告(21)牛嶋直

(1) 原告牛嶋直が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年二月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告直は、先妻と離婚して大正六年ころ原告フミと再婚(婚姻の屈出は昭和三一年三月一九日)し、当時は熊本市川尻で川魚料理店などを経営していたが、昭和一六年夏水俣市袋茂道へ引越して漁業の手伝い、魚行商などに従事し、そのかたわら昭和二一年から肩書住所に店舗を構えて菓子、雑貨、食料品の販売を始めたが、三、四年後には店が繁盛し、店の収入だけで夫婦の生活は十分賄えるようになつたので、そのころからそれに専念していた。

(3) 同原告は、旧制中学時代柔道三段の腕前で体力に恵まれ病気に罹つたことはなかつたが、昭和三〇年一〇月ころから、手足のしびれ、疼痛を覚え、履物が履きにくくなり、翌三一年二月六日には意識障害発作らしいものがみられ、その後もしびれ、神経痛様疼痛は軽減せず、市内の市川医院、尾田病院などで治療を受けた。同年一〇月ころになると次第に歩行が不自由になり、身体がよろけ、物忘れがひどくなり、不眠症、口の周囲のしびれが現われた。昭和三二年にはボタン掛けができず、発音不明瞭で、視力も衰え、疲労感を訴え、寝ていることが多くなつた。翌三三年五月ころには両下肢がふるえ、舌のもつれはひどく言葉が聴取れず、歩行は不能で、激しい痛みを伴う全身の痙攣発作が多いときは三〇分に二回もみられた。昭和三五年一〇月ころから翌三六年四月ころまで市立病院に入院、その間昭和三五年一一月四日水俣病の認定を受けたが、当時も舌、足のもつれ、言語不明瞭、疼痛、知覚障害などがみられた。その後も昭和四〇年四月から約一年間湯之児病院(リハビリテーションセンター)、昭和四二年に数か月市立病院にそれぞれ入院し、治療を受けた。

(4) 同原告には現在、見掛け以上に高度の記憶力、計算などの知的機能障害、健忘症候群に含まれる記銘力障害、作話症の症状、頸部から下はほとんど知覚脱失に近い著明な知覚障害、同じく著明な視野狭窄(二〇ないし三〇度)、それに比較的安定した足どりであるが不円滑な歩行、直立時の動揺、片足起立不能、屈む動作の不円滑、登はん性起立、指鼻・指々・踵膝試験、ロンベルグ現象、アジアドコキネージズなどで証明される運動失調、左顔面神経不全麻痺、失調性眼球運動(左外側に不十分)、嗅覚障害、聴力障害、筋緊張の低下、固有反射減弱、粗大力低下(右握力九キログラム、左握力七キログラム)、全身のしびれ感、不眠、めまい、食欲不振などの自覚症状、心臓、肝臓の障害、高血圧の症状などが認められる。このため食事、洗面、用便などの身のまわりのことは自分で仕末でき、よく裁判所に出頭することもできるが、右のような自覚症状に悩み、冬期には暖を採るためカイロを二個使い、しびれるために水が使えず、また釣銭の勘定ができないため店番にも差支える状態にある。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような病状の経過、年令、職業、境遇、見舞金として一四四万九、五八五円を受領していること等諸般の事情を併せ考慮すると、その慰藉料は一、四五五万〇、四一五円が相当である。

(二)原告(28)牛嶋フミ

原告牛嶋フミは、歩行不能となつた夫直を付切りで看護したが、看護疲れから自身も病に倒れて医師の往診を受け、その治療代は現金払いであつたため、生活は苦しく、安楽であるべき老後の生活は無惨に破壊され、それによつて多大の苦痛を受けたとして、その慰藉料を請求しているところ、原告フミ自身病に倒れ、直と前後して市立病院に入院したような事実が認められるが、それは直の看護のためというよりは同人自身の年令(明治二七年五月三日生で現在七八才)と脊椎変形、歩行時動揺、知覚障害、聴力障害、視野狭窄などの水俣病類似の症状によるものと認められ、原告直の治療費などの支出のため生活が困窮し、老後の生活を破壊されたというような事情を考慮しても、原告直の症状、生活障害の程度は前記認定の程度にとどまるから、これだけでは未だ被害者の直が生命を害された場合にも比肩すべき苦痛を原告フミにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、結局、右原告の本訴請求は理由がないといわざるを得ない。

5原告(23)杉本トシ、同(24)杉本栄子、同(25)杉本雄、同(26)鴨川シメについて

前記認定のとおり、原告杉本トシは亡杉本進の妻であり、原告杉本栄子は原告トシの長女で右夫婦の養子、原告杉本雄は右夫婦の養子で原告栄子の夫、原告鴨川シメは原告トシの母である。

(一)亡杉本進

(1) 亡杉本進が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三四年一〇月ころ水俣病に罹患し昭和四四年七月二九日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡進は、大正五年に小学校を卒業し、家業の漁業に従事していたが、昭和一六年先妻と離婚して原告栄子をつれた原告トシと再婚(婚姻の届出は昭和一七年一月二六日)しばらく福岡県の炭鉱で稼働したのち同年一二月水俣市茂道に帰り、再び夫婦で漁業を始め、努力の甲斐あつて二、三年後には現在の家屋を新築し、昭和二七年ころには畑八反を購入することができ、網元として発病前の盛時には漁船大小四艘を持ち、網子一五人位を雇つて大規模に漁業を営んでいた。

なお、進ら夫婦は昭和三五年八月二九日原告進と養子縁組した。

(3) 同人は、昭和二三年冬土砂崩れに遭遇して膀胱破裂の重傷を負い一年間入院したことがあつたほかは、疾病を知らずきわめて健康であつたが、昭和三四年九月ころから手の振戦および運動の拙劣、歩行時動揺が認められ、まもなく視力障害、発熱、痙攣が現われて、市立病院などで治療を受けた。しかし、症状は改善されず、痙攣は持続し、粗大力が低下、ボタン止め、箸使い、歩行などの動作もぎこちなく拙劣となり、そのうえに肝臓障害が現われたので、昭和三五年六月一日市立病院に入院した。その際は三、四か月の入院であつたが、その後に前記各症状のほか視野狭窄、運動の失調と麻痺、四肢の知覚障害、手足の振戦、腱反射亢進などの症状が続発したので、再び昭和三六年六月から同年八月二五日まで同病院に入院した。その後も昭和三八年四月から半年間、黄疽、助膜炎を併発して同病院に入院したが、翌三九年ころまでには前記水俣病の症状は軽快し、そのころの最悪時において軽度の歩行困難としびれ感を認めるにとどまり、重症ではなかつた。昭和三九年一月一六日から同年五月三〇日までと昭和四〇年四月から同年一〇月までの二回、黄疽の治療のため同病院に入院した。昭和四四年四月当時、言語障害、聴力障害、歩行障害、振戦などの症状はいずれもこれを認めず、ただそのころ嫌人的、偏屈、怒りやすいなどの性格変化が顕著であつた。同年五月二二日風邪から肺炎を併発、高熱が続き、黄疽が漸次増加したので再び同月二七日同病院に入院し、強力な化学療法を受けたが、痙攣、腰痛、血便、黄疽などの症状が続き、希望で死亡直前に同病院を退院し、同年七月二九日自宅において肝不全のため死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、脳萎縮(一、三二〇グラム)、大脳皮質萎縮(軽度)、鳥距野萎縮(軽度)、大脳白質軽度びまん性粗鬆化、小脳萎縮(特に中心性顆粒型)(軽度)、末梢神経瘢痕形成などの水俣病に一致する所見が得られたが、その病変はきわめて軽度で、ほかに肝膿瘍ならびに横隔膜下膿瘍と胆管炎、慢性胆嚢炎ならびに胆管内胆石形成、胆管拡張と黄疽、敗血症性病変、化膿性腹膜炎、直腸びらんおよび出血が認められた。

(4) 当事者間に争いのない同人の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は昭和三四年一〇月ころ水俣病に罹患したが、死亡前には臨床的にほとんどその症状を把握し得ない程度に回復し、その死因は水俣病の症状と関係があるとは断定できない肝膿瘍の感汚症であつたと認められる。

証人原田正純は右認定に反する証言をし、肝膿瘍などの肝臓疾患と水銀中毒の間には因果関係があり、同人の死因は水俣病によるものであるというが、甲第二二一号証中の熊大医学部武内忠男教授らの「一〇年後の水俣病の病理学的研究(その1)、特に一〇年経過後の水俣病の剖検例とその特徴」と題する論文によれば、死因が肝膿瘍、肝臓癌などである場合、「その死因は水俣病とは無関係」というのであり、また臨床症状、剖検結果はともに同人の死亡直前の水俣病症状、病変がきわめて軽度であつたことを証明しているというのであつて、これらの事実に照らすと、右証言は直ちに採用するわけにはいかない。

(5) すると、同人の水俣病による生命侵害を理由とする慰藉料請求は失当といわざるを得ないが、同病による身体傷害を理由とする慰藉料請求は理由があり、前記症状の経過、生活障害の程度、水俣病と関係があるとは断定できない前記合併症のあつたここと、年令、職業、収入それに同人は生前見舞金として一一三万一、二五二円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、四八六万八、七四八円が相当である。

なお、原告鴨川シメを除くその余の原告らは、原告トシが水俣病に罹患したために夫の進は生存中精神的苦痛を蒙つたとして、その慰藉料を請求しているが、進生存中のトシの症状、生活障害の程度は、後記認定のとおりで、これだけでは被害者のトシが生命を害された場合にも比肩すべき苦痛を進において蒙つたと解することはできないから、右原告らの右請求は失当である。

(6) 原告鴨川シメを除く三名の原告は、亡進の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告トシは、妻として民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四九五万六、二四九円を、原告栄子、同雄は、子として前記相続分である各三分の一に相当する四九五万六、二四九円を相続により承継取得した。

(7) つぎに、進の死因が水俣病によるものでないことはすでに認定したとおりで、したがつて原告杉本トシ、同栄子、同雄の進の生命侵害を理由とする慰藉料請求が失当であることは明らかであるが、同人の身体傷害を理由とする慰藉料請求についても、同人の水俣病に起因する症状、生活障害の程度は軽度であつたと認められるから、同人が水俣病に罹患したことによつて右原告らが蒙つた苦痛は、被害者の進が死亡した場合のそれに比肩すべき程度のものであるとは認め難く、結局これも失当であるといわざるを得ない。

(二) 原告(23)杉本トシ

(1) 原告杉本トシが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三三年三月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告トシは、小学校卒業後岡山県の紡績工場などで稼働し、一六才で訴外中村博鷹と結婚したが、まもなく同人は出征、戦死の誤報が伝わつたため離婚し、原告栄子を産んだのち米ノ津駅前の食堂で働らいているとき亡進と知り合い、昭和一六年同人と再婚、同年一二月から夫の進とともに漁業に従事していた。

(3) 同原告は、生来健康であつたが、昭和三二年三月ころから全身の疲れを覚え、手足がしびれ、繩網を陸に引揚げて干したり畑で鎌を使うことが困難になり、舌がまわらないため話し言葉が不自然で次第に無口になり、炊事の際にも手がふるえ、枡から釜に米を入れること、茶碗を洗うこと、包丁の使用、マツチを擦ることが難しく、また夜中に洗濯や棚の整理をするなど異常な行動もみられるようになつたので、市内の鍼灸院、病院を転々としたのち、昭和三四年八月二三日市立病院に入院した。同年九月一八日の診察所見によれば、言語は軽度嗟跌性、求心性視野狭窄、腱反射亢進、軽度の企図振戦、指々試験拙劣、アジアドコキネージズなどの共同運動障害、片足起立困難、両側肘関節以下の触覚・痛覚過敏・指尖の触覚・痛覚鈍麻、深部知覚中振動覚の障害、微細なもの(五円銅貨の穴程度の)の識別困難などの症状が認められ、その後運動失調は変らないが、しびれ感、表在知覚障害は治療効果があつて軽快し、昭和三五年一二月二七日同病院を退院した。その後は、力が少し出るようになつたほかは、病状にさほどの変化がなく、昭和四〇年二月ころから数か月間湯之児病院に入院して機能回復訓練を受けた。医師原田正純の昭和四〇年八月の診察所見によれば、当時同原告には、記銘力、計算などの知的機能障害、無気力、焦躁感、心気的、抑うつ的などの情動障害、軽度の失調歩行、不明瞭で遅い言語、著明な中心性視野狭窄、四肢末端の強い知覚障害、難聴、指鼻試験の障害、振戦、アジアドコキネージズなどの症状が認められたが、その後これらの症状は、歩行が少し安定し、言語が多少明瞭になり、気分的に明るくなつたほかは、ほぼ固定した。

(4) 同原告には現在、ロンベルグ現象、指々・指鼻・踵膝試験アジアドコキネージズなどで証明される共同運動障害、口周辺、四肢末端、それに乳線上五センチ以下の横断性(脊髄性)知覚障害、手先、足首先の知覚脱失、深部知覚障害、中心性視野狭窄、難聴、舌がもつれて不明瞭な構音障害を主要な症状とし、それに記憶・記銘力・計算・思考などの知的機能障害、軽い顔面神経不全麻痺、嚥下困難、歩行時動揺、片足起立不能、企図振戦、筋強剛、固有反射の軽度亢進、腹壁反射消失、粗大力低下(左握力九キログラム、右握力一五キログラム)、手関節とくに左小指、人差指の変形、四肢末端のチアノーゼなどの症状が入組んで認められ、肝臓疾患のため現在(昭和四七年七月二六日)も入院加療中で、漁業などの労働にはもはや従事することができず、着脱衣、入浴の際などには他人の介添が欲しい状態にある。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度それに前記認定のような症状の経過、年令、発病前の職業と収入、境遇、すでに見舞金として一五三万三、七五〇円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五四六万六、二五〇円が相当である。

(6) すると、同原告が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(6)と(二)の合計額で二、〇四二万二、四九九円である。

(三)原告(24)杉本栄子、同(25)杉本雄、同(26)鴨川シメ

(1) 原告杉本トシには、発病後一四年を経過した現在なお前記認定のとおりの症状、生活障害があり、風呂に入つても自分で背中が擦れず、着衣も自分でできない状態で、いまなお入院加療中であり、これによる子あるいは母親としての右原告らの精神的苦痛は大きく、同女の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、同原告らのトシの水俣病罹患を理由とする慰藉料請求は正当であり、その慰藉料は、原告杉本栄子、同杉本雄は子として各一〇〇万円、原告鴨川シメは母親として一〇〇万円が相当である。

(2) すると、原告杉本栄子、同杉本雄が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(6)と(三)の(1)の合計額で各五九五万六、二四九円であり、原告鴨川シメのそれは、右(三)の(1)の一〇〇万円である。

6原告(27)渕上才蔵、同(28)渕上フミ子について

前記認定のとおり、原告らは夫婦で、亡渕上洋子は原告らの二女である。

(一)亡淵上洋子

(1) 亡渕上洋子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年五月ころ水俣病に罹患し、昭和三二年七月一一日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 同女は、生来健康で順調に発育していたが、二才四か月の昭和三一年五月一〇日ころ突然、元気がなくぼんやり一点を見詰めるような仕種をし、二、三歩歩いて転び、足の痛みを訴えて泣くようになつた。その後、歩行障害は次第に進行し、言語も不明瞭となり、同月一七日にはこの両障害の程度が強くなつた。同月二〇日ころからは手が振え、持つていた茶碗を落したり、睡眠障害で一晩中泣き明かしたり、視力が衰え、全身の痙攣もみられるようになつた。同年六月には手の変形が始まり、肘のところで直角位に屈曲し、手掌も半分握つたような状態で振え、また流涎が著明となつた。同年七月一〇日ころからは嚥下障害が現われて全く食事ができなくなり、寝たままで、失禁し、同年八月になるとうなるような声をあげて苦悶状を呈し、手の変形もひどくなり、全身筋肉の強直がみられ、同年九月にはそのため寝返りもできず、用便の介助も不能となつておむつを使用するようになり、食欲もなくて、次第に全身の衰弱が強まり、全く言語を失つた。このころ、当時治療を受けていた市川医院の医師から熊大入院をすすめられたが、経済的に困窮していたため入院できなかつた。その後、同年一二月二〇日附属病院で細川医師の診察を受けた際の主要所見としては、栄養状態不良で、顔貌は痴呆を呈し、眼球運動はほとんどなく瞳孔は散大し、全肺野にわたり著明な気管支ラー音、所々に乾性ラ音を聴取し、四肢の完全な硬直が認められた。その後は昭和三二年になつて症状が急速に悪化し、昼夜の別なく痙攣発作があり、視力は全く反応がなく、聴力もほとんど消失し、手足は極度に屈曲変形して他動的にも伸ばすことができず、自発運動が全くなくなつて、遂に昭和三二年七月一一日軽い痙攣の重積発作をおこしたあと死亡するに至つた。

(3) 同女が水俣病に罹患していた事実は争いがなく、これに前記認定のような臨床症状の経過、すでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(4) 同女の前記症状とその悲惨な経過およびその死亡の結果に同女の年令(発病時二才四か月、死亡時三才五か月)、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、一二五万円が相当である。

(二)原告(27)淵上才蔵、同淵上フミ子

(1) 原告らは、いずれも亡洋子の相続人であり、同女の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告らは両親として、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する五六二万五、〇〇〇円を相続によつて承継取得した。

(2) 原告渕上才蔵、同フミ子は、洋子の発病後に共に看病にあたつたが、まもなくフミ子は看病疲れから食事もできない程やせ細り、才蔵が看病に専念するため当時勤めていた被告会社水俣工場の下請の西松組を休職せざるを得ないようなことになつたが、そのために生活状態はさらに困窮し、医師のすすめがあつたにもかかわらず洋子を入院させて十分な治療を受けさせることもできず、前記のような悲惨な状況のうちに同女を死亡させたもので、同人らの精神的苦痛は大きくほかに見舞金として各一八万二、五〇〇円ずつを受領していることなど考慮するとその慰藉料は右各原告において各一八一万七、五〇〇円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は右(二)の(1)と(2)の合計額で、原告らはそれぞれ七四四万二、五〇〇円である。

7原告(29)松田ケサキク、同(30)松田冨美、同(31)松田末男、同(32)松田富次、同(33)永田タエ子、同(34)中岡ユキ子について

前記認定のとおり、亡松田勘次と原告松田ケサキクは夫婦で、その余の原告らは右夫婦間の子(冨美は長男、末男は二男、富次は三男、タエ子は二女、ユキ子は三女である。)で、ほかに同夫婦間には長女として亡松田フミ子がいた。

(一)亡松田フミ子

(1) 亡松田フミ子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年七月一三日ころ水俣病に罹患し、同年九月三日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡フミ子は、父勘次(昭和三五年五月一〇日死亡)、弟冨美が漁業に従事し、母ケサキクは畑仕事をするので、発病前は家にあつて弟妹の面倒をみていたが、ときに勘次と漁に出たり母の畑仕事の手伝いをすることもあつた。

(3) 同女は、昭和三一年七月一三日両手第二・三・四指にしびれ感を覚え、同月一五日には口唇がしびれ、耳が遠くなり、同月一八日ころからは草履がはけず、失調性歩行となり、またそのころから言語障害、手指の振戦、ヒヨレア様運動が現われた。その後も症状は急速に悪化し、同年八月になると歩行困難となり、嚥下障害が現われ、同月七日には伝染病隔離病院に収容されたが、翌日からヒヨレア様運動が激しくなるとともにバリスムス様運動が加わり、ときに犬が吠えるような叫声を発して全くの狂躁状態を呈するようになつた。その後、食物を摂取しないため全身の衰弱が著明となり、発熱が続き、同月三〇日熊大第一内科に入院した。入院時の所見として、前記各症状のほかに意識の完全な消失後弓反張、瞳孔の縮少と対光反射の遅鈍、腹部陥没と腹壁の緊張、二頭筋・三頭筋・膝蓋腱ならびにアキレス腱の反射減弱などが認められた。入院翌日から鼻腔栄養を開始した。翌月一日になると、それまで続いていた不随意運動は鎮まり、筋緊張は減弱して四肢に触れても反応を示さず、体温三九度、脈拍数一二二、呼吸数三三、血圧一一四/八〇ミリ水銀柱で、一般状態は悪化したが、翌二日午前二時ころから再び不随意運動が始まり、やがて狂躁状態に陥つて叫声を発しバリスムス様運動を反覆するようになり、フエノバルビタール注射により一時睡眠に入つたが、翌三日午前三時三五分死亡するに至つた。

同女は死亡後、熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 争いのない同女の水俣病罹患の事実に、前記認定のような症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を結合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(5) 同女の前記症状とその死に至るまでのまことに悲惨な経過および死亡の結果に、同女の年令(発病時二八才、死亡時二九才)、境遇それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、一二五万円が相当である。

(6) 亡松田勘次(明治二七年三月一三日生)、原告松田ケサキク(明治四〇年五月一〇日生)は、世間から伝染病といわれ辛い仕打ちに泣きながら必死に看病したが、その甲斐もなく二九の年まで育て上げた同女を短期間のわずらいで悲惨な狂躁状態のうちに失つたもので、これによる両親としての精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金として各一八万五、〇〇〇円ずつを受領していることなどを考慮すると、その慰藉料は各一八一万五、〇〇〇円が相当であるが、また同人らは亡フミ子の相続人であり、同女の被告に対する前記慰藉料請求権について、民法所定の相続分である各二分の一に相当する五六二万五、〇〇〇円を承継取得した。

(7) すると、亡勘次生存中の原告富次の水俣病罹患を理由とする同人の慰藉料の請求が失当であることは、後に認定するとおりであるから、亡勘次の相続人である原告らは、同人の被告に対する前項の各慰藉料請求権について、原告松田ケサキクは妻として、民法所定の相続分である三分の一に相当する二四八万円を、その余の松田冨美ら五名の原告は子として、前記相続分である各一五分の二に相当する九九万二、〇〇〇円をそれぞれ相続によつて承継取得した。

(二)原告(32)松田冨次

(1) 原告松田富次が昭和二九年五月水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 同原告は、四才一〇か月の昭和二九年五月二七日ころから流涎が著明、言葉は不明瞭、足が少しふらつくようになり、つづいて歩行障害の程度は増悪し、加えて痙攣発作、言語障害、視力障害が現われ、昭和三一年八月にはほとんど話せず、視力はほとんど消失し、歩行不能となつた。そのころ姉フミ子とともに一時隔離病院に入院した。退院後治療を怠つていたため、坐らせても支えていないと後に倒れるようになつた。その後歩行訓練を続けた結果、昭和三六年ころからやつと自力で歩けるようになつたが、食事や用便には介助が必要であつた。医師原田正純の昭和四四年一月二四日の診察所見によれば、その後は前記症状に変化がなく、性格面に拒絶的、不機嫌、固執癖、怒りつぽいなどの特徴がみられ、思考の渋滞、粘着、判断の障害など知的機能障害があり、そのほか部分抵抗症などの原始反射、筋緊張の亢進、筋強筋と筋痙縮、全ての固有反射の亢進、共同運動障害、失調性歩行などが認められた。その後、精神症状は一層悪化し、自分が水俣病に罹つていることや目が見えないことを噂しているのを聞いたときなどには執拗に怒り、母ケサキクにさえ暴力をふるい、殊に昭和四六年になつてからは性的な感心が強くなり、その面からの衝動行為も懸念される状況にある。

(3) 同原告には現在、視力障害(失明)、著明な知的機能の部分的欠落、性格異常、それに特異で著明な精神病的症状を主要な症状とし、それに加えて構音障害、軽度流涎、口、舌、手指にヒヨレア、アテトーゼ様不随運動、粗大振戦、手指、足趾の変形、肩、上腕、上肢の筋萎縮、筋緊張の亢進、失調ならびに痙性歩行など多彩な症状が入り組んで認められ、食事、用便、入浴、着衣など日常生活全般に他人の介助が必要である。

(4) 同原告の前記症状、年令、境遇、それにすでに見舞金として一〇三万六、六六九円を受領していること等諸般の事情を考慮し、また、同原告の前記症状は将来好転する見込がなく、むしろ精神症状については悪化することが予想され、したがつて、今後とも終生廃人同様の生活を余儀なくされること等を併せ考えると、同人の精神的苦痛はまことに大きく、その慰藉料は一、六九六万三、三三一円が相当である。

(5) 原告松田ケサキクは、同じ水俣病のために、長女フミ子が生命を奪われたのみか、三男富次まで廃人同様の境涯に陥つたもので、同原告は、同人の発病当時から付切りで看病したが、いまなお本来平穏であるべき老後において、精神症状が強くときには粗暴な行動がみられる同人とひとり同居して日常生活全般の面倒をみざるを得ない状況にあり、しかも、この介助を要する状態は同人の症状に鑑み将来も継続するものと思われるから、同原告の現在および将来の精神的苦痛は筆舌も及ばず、原告富次の死にも比肩すべきものがあり、同人の母としての慰藉料は四五〇万円が相当である。

なお、原告らは、亡勘次は原告富次が水俣病に罹患したことによつて物心両面の打撃を蒙つたとして、これを理由とする同人の固有の慰藉料を請求しているが、亡勘次生存中の富次の症状、生活障害の程度は前記認定のとおりであつて、相当高度の言語、視力、それに歩行障害などがあつたことは明らかであるが、まだ症状は固定せず、改善の余地があつたと認められるから、同人の発病によつて経済的に困窮したことなどの事情を考慮しても、これだけでは亡勘次の生存中における同人の富次発病による精神的苦痛の程度は、富次が死亡した場合に比肩すべき程度のものであるとは解されないのであつて、原告らの右請求は理由がない。

(6) すると、原告松田ケサキクが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(6)、(7)、(二)の(5)の合計額で一、四四二万円であり、同松田富次のそれは、右(一)の(7)、(二)の(4)の合計額で一、七九五万五、三三一円、その余の松田富美ら四名の原告は、いずれも右(一)の(7)の九九万二、〇〇〇円である。

8原告(35)坂本嘉吉、同(36)坂本トキノ

前記認定のとおり、原告らは夫婦で、亡坂本キヨ子は原告ら夫婦間の長女である。

(一)亡坂本キヨ子

(1) 亡坂本キヨ子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和二九年ころ水俣病に罹患し、昭和三三年七月二七日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡キヨ子は、昭和一七年三月新潟県の青梅小学校高等科を卒業して富山県の軍需工場で働き、終戦後父嘉吉の郷里である水俣市湯堂に引揚げ、昭和二一年三月から水俣営林署に造林手として毎月二〇日位勤務し、発病前には月額三〇〇〇円位の俸給を得て、ほかに勤務の暇には家事や豚の飼育などに従事していた。

(3) 同女は、昭和二八年四月ころから手足がすこし不自由になり、つまづいたり、茶碗を落したりするので、市川医院で治療を受けることになり、前記営林署を休職した。それでも昭和二九年前半までは、化粧や洗濯物を絞ることなどを除いて自分の身のまわりのことは自分ですることができたが、六月ころになると言葉がでにくくなり、耳が遠く、視野狭窄や歩行障害が顕著になり、一〇月には口、手足がしびれ、指先がきかなくなり、一二月ころからは手の振戦、運動障害が増強し、日常生活にも家人の介助が必要となつた。昭和三〇年二月にはこのほか関節痛、頭痛、めまい、食欲不振、難聴などの症状が加わり、同年一〇月ころからさらに症状は悪化して、同年一二月には体の自由がきかないためほとんど寝たきりで、四肢の痙攣発作がみられるようになつた。その後一時症状が軽快したことがあつたが、昭和三一年後半になると、再び構音障害、視力障害、振戦、手の運動障害、難聴などの症状が悪化して、介助なしには全く日常生活ができなくなつた。昭和三二年になると、寝たままの状態で、手足は変形して筋萎縮がみられ、嚥下障害、流涎、失禁があり、食事の摂取が困難で全身衰弱し、四肢は次第に強直様となつてついには全く強直変形し、視力は失われ、外界への反応が乏しくなつて、昼夜の別なく犬が吠えるような叫声を発するようになつた。そして昭和三三年になると、全身強直がひどく、全身に痙攣がみられて、栄養状態は極度に低下、体力消耗して、遂に同年七月二七日痙攣発作のうちに死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 争いのない水俣病罹患の事実に、前記認定のような、臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(5) 同女の前記症状とその悲惨な経過および死亡の結果に、同女の年令(発病時二三才、死亡時二八才)発病前の職業、収入、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、二〇〇万円が相当である。

(二)原告(35)坂本嘉吉、同(36)坂本トキノ

(1) 原告らは、いずれも亡キヨ子の相続人であり、同女の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告らは両親として、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する六〇〇万円を、それぞれ相続によつて承継取得した。

(2) 原告坂本嘉吉、同トキノは、発病前結婚話もすすんでいたキヨ子の回復を願い、夫婦で失対人夫などをしてその療養費を捻出しながら必死に看病したが、その甲斐もなく二八の年まで育て上げた同女を、前記のような悲惨な症状のうちに死亡させたもので、同人らのこれによる精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金としてすでに各三一万円ずつを受領していることとなどを考慮すると、その慰藉料は右原告らにおいて各一六九万円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の合計額で、いずれも七六九万円である。

9原告(37)坂本武義、同(38)坂本フジエ、同(39)坂本しのぶについて

前記認定のとおり、原告坂本武義と同フジエは夫婦で、原告坂本しのぶは同夫婦間の二女であるが、同夫婦間にはほかに長女の亡坂本真由美があつた。

(一)亡坂本真由美

(1) 亡坂本真由美が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年六月水俣病に罹患し、昭和三三年一月三日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 同女は、発病前発育が順調で、年に一、二回軽い感冒に罹るほか重い病気に罹ることはなく、早くから言葉を覚えて知能の発達もすぐれていたが、二才一〇か月の昭和三一年六月三〇日ころから、遊んでいる時によく躓いて転び、翌月二日には歩こうとしなくなつたので、附属病院小児科で受診したところ、膝蓋腱反射の亢進が指摘された。同月四日ごろから頭痛を訴え、発作時に顔面蒼白となり、同月九日には失調性歩行が顕著になつて、言葉が出にくくなつた。その後も、症状は急速に悪化して、同月一九日には視野狭窄が確認され、同月二二日には言葉を一つ一つ区切つてしか言えなくなり、視力は低下し、歩行障害は益々増悪したので、同月二五日熊大小児科に入院した。しかしその後も症状は悪化し、同月二八日にはほとんど歩けず、坐つたままで昼夜の別なく泣き、食事もとらず、狂躁状態を示すようになり、一週間後には聴力をほとんど失い、嚥下障害のため口からの食物摂取が不能となつて鼻腔から流動物を与えることになり、失禁がみられ、筋強剛、流涎、手足の変形が著明となり、その後聴力、視力障害は進行した。翌八月一九日同病院を退院し、附属病院に入院した。翌二〇日ころ初めて発熱して気管支炎に罹つたが、当時は失明状態で、栄養状態は極端に悪く、るい痩著明、四肢の強剛が明らかで、固有反射は著しく亢進し、病的反射もみられた。同月二二日には反応がなく、坐ることも物を掴むこともできず、強迫泣があり、手足には極端な強直性の変形がみられ、褥瘡があり、筋萎縮ならびに流涎が著明であつた。同年一一月初旬には回復の見込みがないため附属病院を退院した。その後は、市川医院から月に七、八回往診を受けていたが、症状に変化はなく、遂に昭和三三年一月三日嚥下性肺炎のため死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する著明な所見が得られた。

(3) 争いのない水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(4) 同女の前記症状とその悲惨な経過および死亡の結果に、同女の年令(死亡時四才五カ月)、境遇、死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合すると、その慰藉料は一、一六〇万円が相当である。

(二)原告(39)坂本しのぶ

(1) 原告坂本しのぶが、出生時から水俣病に罹患しているいわゆる胎児性水俣病患者であることは当事者間に争いがない。

(2) 原告坂本ふじえは、昭和三一年七月二〇日原告しのぶを出産したが、しのぶは出産時の体重が三、二二五グラム(八六〇匁)で、出産時に特に異常はなく、生後間もないころから人工栄養で育てられた。

原告しのぶは、生後昼夜を分たずよく泣き、六か月が経過しても首が坐らず、動きが少なく、ようやく満一才のころ首が坐るようになつた。一才四か月のころから臭い涎を出し、なお声を発せず、歯が生えず、姉真由美に似た症状がみられるようになつた。二才になつてひとりで坐れるようになつたが、このころから息苦しく歯軋りをする発作が月に二、三回おこるようになつた。それでも五才八か月の昭和三七年三月ころには涎の臭が減少し、小走り様に二、三歩は歩けるようになり、またそのころから匙を用いて食事ができるようになつた。五才一〇か月の時点で、発育はやや不良で、身長は九九センチートメル、体重は一一キログラムであつた。

身体の部位や日用品の名称をいうことはできたが、一から一〇まで間の数を抜かさず数えることは困難で、発語は少ないうえに甘えたように引つぱり不明瞭であつた。流涎が著明で、軽度の嚥下障害があり、動作は全体にぎこちなく突進的で、急に他の運動に変換することは不可能、指の運動は拙劣で円滑を欠き、起立時、歩行時に身体が動揺して不安定な姿勢になつた。四肢の筋緊張とすべての腱反射は亢進し、手足の指、口などにアテトーゼがあり、両手のアジアドコキネージズのほか指々・指鼻試験で運動失調が証明され、バビンスキー、ロツソリモなどの病的反射、開口反射などの原始反射も認められた。その後七才一か月のころまで言語はなお不明瞭であつたが、言葉の数、内容は非常に豊富になり、傘、聴診器などの使用法を理解し、身体が激しく動揺して転びやすくはあるが走ることも可能となり、手の振戦のため紐結びはできないが、時間をかければ衣服のボタンぐらいはかけることができるようになつた。昭和三九年四月水俣市立病院に入院、ついで昭和四〇年三月同病院附属湯之児病院に転院し、昭和四二年一一月までこれらの病院から水俣市立水俣第一小学校の特殊学級に通学した。その間、次第に流涎が減少して体力がつき、着衣や食事も時間をかければ介助なしに自力でできるようになつたが、依然として精神内容は貧困で単調、構音障害、舌のヒヨレア様運動、企図振戦、指のアテトーゼ、原始反射、失調性歩行などの症状が続いた。自分の名前位は書けるようになつたが、知能指数は四一から五〇で、各教科の評定は5点法で六年次の社会、算数の「2」を除き、ほかは全学年次をとおして全教科が「1」で、六年次では全授業日数二四一日のうち四一日を頭痛などのため欠席した。昭和四五年四月には水俣市立水俣第一中学校の特殊学級へ進学したが、一年次のときの各教科の評価はいずれも「1」(劣る)で、全授業日数二三二日のうち九六日を欠席した。現在同校の三年次にあるが、ミシンが踏めず鋏が使えないため、手芸、刺しゆうなどの実習はできない。

(3) 同原告には現在、高度の知能障害と各種の運動失調、著明な構音障害、軽度の嚥下障害、視野狭窄(約三〇度)斜視、粗大振戦、不障意運動、錐体外路症状としての首、舌、上肢などのヒヨレア様運動、手指のアテトーゼ、筋強剛があり、それにすべての固有反射の亢進がみられ、ロッソリモ、バビンスキーなどの病的反射も疑われ、このほか失神、頭痛などの発作、手、足指、右下肢などの肢態異常がある。これらの症状のため、①頭部は常に前屈させ、絶えず体、首が動き不安定である。歩行は失調性でかなり困難、よく転び怪我をする。坐るときも正座はできず両足を広げて坐る。②食事は自分でするが、時間を要し、茶碗は二、三本の指で不自然に持ち、箸は自由に使えず、魚をむしることはできない。③着衣、脱衣は自分でするが、ボタンかけなど指先を使うことには非常に時間がかかり、歯みがき、洗顔などは極めて粗雑にしかできない。④用便はひとりでできるが、その後でズロースを上げることができず、風呂の浴槽に入ることや月経の際の処置は自分だけではできない。⑤知的な面では、読み書きは専ら平がなであるが、まだ読めない字があり、読むときには一字一字文字を指で押えて読み学校でつける日誌などの記載内容は他人には了解できない。計算は指を使つて一桁の加減算ができる程度である。

(4) 同原告には現在、前記認定のとおり、高度な知能障害、運動障害などの各種症状が認められ、今後多少その症状の改善が見込まれるにしても、その現在の極端な共同運動障害、精神面の発達のアンバランスなどに照らして、将来においても他人の介助を全く必要としない独立した生活を営むことができるとは考えられず、その年令、境遇、それにすでに見舞金として七八万〇、四一七円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、七二一万九、五八三円とするのが相当である。

(三)原告(37)坂本武義、同(38)坂本フジエ

(1) 原告坂本武義、同フジエは、いずれも亡真由美の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告らは両親として、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する五八〇万円をそれぞれ相続によつて承継取得した。

(2) 原告らは、結婚後七年目にしてようやく恵まれた長女の真由美を悲惨な症状のうちに不慮の死で失つたばかりか、その症状は他の胎児性水俣病患者例えば原告(48)上村智子らにくらべれば相当軽症であるとはいえ、姉真由美と同じ水俣病のために生まれながらに極めて不自由な生活を強いられている二女しのぶを抱え、同女の日常生活についてはほとんどの面で介助を余儀なくされているもので、この介助を要する状態は程度の差こそあれ今後も同女が生存する限り続くものと思われ、真由美の死についてはもちろん、しのぶの前記症状等から原告らが蒙る現在および将来の精神的苦痛もまた大きく、死にも比肩すべきものがあるといいうるから、亡真由美の両親としての慰藉料は、すでに見舞金として各一九万円ずつを受領していることなどを考慮して、各一八一万円、原告しのぶの両親としての慰藉料は、各三〇〇万円が相当である。

(3) すると、原告坂本武義、同坂本フジエが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(三)の(1)および(2)の合計額で、いずれも一、〇六一万円である。

10原告(40)坂本タカエ、同(41)坂本ミキ、同(42)坂本敦子について

前記認定のとおり、原告坂本ミキは原告坂本タカエの養母であり、原告坂本敦子は原告タカエの子である。

(一)原告(40)坂本タカエ

(1) 原告坂本タカエが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年五月一八日水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争がない。

(2) 原告タカエは、二才のとき母ジュカの兄にあたる寿吉、原告ミキ夫婦の許に養子に出され(正式縁組は昭和一八年二月一三日)、そこで水俣市袋の小学校を終えたが、中学校は、寿吉が病弱で生活に窮していたので、近くの生家に戻つて通学し、昭和二九年三月卒業して、三か月ほど同市百間町の叔父の家で住込みの子守りなどしたのち、実家にあつて農業と家事労働に従事していた。

(3) 同原告は、昭和三一年五月一八日ころから言葉が不明瞭で聴取りにくくなり、ご飯をこぼし、買物に行く途中手に握つていた硬貨を落しても気付かず、一週間後には手の振戦が著明になつて洋服のボタン掛けや字を書くことができなくなつた。そして同年八月三日ころには自分で食事をすることができなくなつた。そのころ伝染病と間違われて一か月間白浜の隔離病院に収容された。同年一〇月から附属病院で治療を受けることとなつたが、失調性歩行で転びやすく、スリッパが脱げ、視野狭窄のため周囲のものが見えず、性格も子供のように無頓着になつた。昭和三三年一二月二日から昭和三六年八月二日まで市立病院に入院した。その後、引続いて同年一〇月二日まで別府の九大温泉研究所に入院、泥温湯泉療法、マツサージ治療などを受けた結果、食欲がでて、手の動き、振戦に多少改善がみられたが、全体としての症状には変化がなく、再び翌三日から市立病院に入院した。その後物忘れがひどくなり、昭和三九年ころには舌がしびれるようになつた。昭和四〇年三月湯之児病院(リハビリテーション)に転院したが、そのころめまいを覚え、疲労、倦怠感が強く、海水プールで手足の機能回復訓練を受けて翌四一年七月同病院を退院した。

退院後は、従姉妹中村ハツエの夫が水俣市内で経営するすし屋に住込み、炊事、洗濯、掃除などの仕事をしたが、まもなくハツエの長男正一と結婚の約束ができて同棲し、妊娠したが、そのうち正一が婚約を破棄して家出したため、昭和四二年一月兄勝秀の許に身を寄せ、同年四月五日市立病院で帝王切開をして原告敦子を出産した。その後勝秀、ついで原告ミキとともに暮らしたが、昭和四四年一〇月からは敦子と二人で独立した生活を営んでいる。

(4) 同原告には現在、精神的に未熟な小児様性格、一般的知識、抽象的概念、計算、思考などの面において劣る魯鈍程度の知能障害(これらは脳波検査における発作性徐波の頻発によつても裏付けられる)、構音障害、高音部の神経性難聴、四肢末端の知覚障害、視野狭窄(対面法で二〇度位)、歩行、片足起立、屈む動作、後屈姿勢などの不安定、指鼻・指々・踵膝試験、アジアドコキネージズなどで証明される共同運動障害、それに舌のヒヨレア様不随意運動、味覚障害、指の軽いアテトーゼと搦、左側第三・四指、右側第二・三・四指の中指関節で軽く屈曲する変形、筋緊張の低下、腹壁反射の中、下両側消失、粗大力低下、足、前腕先四分の一、口唇、舌などのしびれ感、目の疲れ、いらいら、物忘れなどの自覚症状が認められ、このため身のまわりのことは自分で仕末ができ、掃除、洗濯、料理、裁縫なども一応できるが、その内容は単純な作業の反復であり、しかも粗雑で、一家の主婦としての生活に全く支障がないとはいえない状態にある。なお、現在生活保護法による扶助と国民年金、傷害福祉年金などによつて生活を維持している。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、境遇、見舞金としてすでに一三七万四、一六八円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、四六二万五、八三二円が相当である。

(二)原告(41)坂本ミキ、同(42)坂本敦子

原告ミキは、原告タカエが前記症状に苦しみ、子供まで生まれたのに婚約を破棄され、今後とも同女の看病に気を使わざるを得ないとし、原告敦子は、原告タカエが水俣病に罹つたため実父の中村正一と結婚できず、そのために両親の揃つた家庭の一員として幸に過すことができなくなつたとして、それぞれ固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているが、まず、原告タカエに水俣病の症状があつたのは、同人が中村正一と婚約する以前からのことであるから、同人が水俣病に罹患したために婚約を破棄されたとするのは必ずしも当らず、原告ら主張のその余の事情を考慮しても、原告タカエの症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまるから、これだけでは被害者のタカエが死亡した場合にも比肩すべき程度の苦痛を原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、結局、右原告らの本訴請求は失当である。

11原告(43)岩本栄作、同(44)岩本マツエ、同(45)岩本昭則について

前記認定のとおり、原告岩本栄作と同マツエは夫婦であり、原告岩本昭則は右夫婦間の三男である。

(一)原告(45)岩本昭則

(1) 原告岩本政則が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年八月一八日水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 同原告は、三才のころ麻疹をわずらつたことがあるほか病気に罹つたことはなかつたが、五才九か月になつた昭和三一年八月一八日ころから、急に手に持つているものを落とし、手がふるえるためそれを拾えず、足がふらついて転ぶようになり、同月二八日ころから足のふらつきが増強し、流涎がみられ、言葉が出にくくなり、周囲のものが見えず、茶碗を持つこと、箸を使うこと、用便の後始末、着脱衣などもできなくなつたので、同年九月一二日附属病院で受診し、以後同病院で治療を受けることとなつた。しかし、早急には症状は改善されず、昭和三二年四月入学検診の際には知能および身体発育の遅れが指摘されて、就学延期となつた。その後、歩行がわずかに可能となつたので、遅れて水俣市立袋小学校に入学、しばらく自宅から通学したが、昭和三三年四月市立病院に入院し、同時に水俣第一小学校に転校して、同病院から通学することとなつた。その後次第に歩行失調、言葉のもつれは軽快したが、計算および運動能力は劣り、登下校時には付添人の引率が必要であつた。昭和四〇年九月中学二年のときに同病院を退院した。中学校在学中、学業成績は「下」で積極的な学習態度に欠け、田研式SAT知能指数は四四であつたが、足は丈夫になり自転車に乗ることができるようになつた。昭和四二年中学校を卒業、集団就職で大阪市内の日吉製作所に勤務し、アングルサッシの枠作りの作業に従事することになつたが、電機熔接などの体力と視力をそれほど要しない簡単な仕事に就いていたにもかかわらず、手足がしびれ、疲労し易いなどの症状がでて、一週間に五日しか就業できず、毎年数回病院に行かなければならないので欠勤が多く、これらの理由と同僚に水俣病患者であることが知れるのを虞れるために、一か所に長く留まることがなく、一年半程度の短期間で同じような工場を転々とし、昭和四七年一月からは現在の愛知県大府市内のスレート製造工場に勤務し、操作盤のスイッチを操作して機械を動かすだけの簡単な作業に従事している。

(3) 同原告には現在、無気力、注意の集中困難、積極性低下、感情的に平板などを内容とする性格変化、一般知識が貧困で、24―16程度の暗算ができず、判断、理解、思考にも障害がみられる知的機能の障害(これらの障害は脳波所見によつても証明することができる)、視野狭窄、片足起立不安定、アジアドコキネージズ、指鼻試験などで証明される共同運動障害を主な症状とし、それに全身の倦怠感、手のふるえなどの自覚症状、眼球振盪、右側眼球の輻奏障害、両側眼瞼振戦、手指の振戦、胸部以下やや右側に強く、四肢とも先端ほど強くなる知覚障害、振動覚の先端の障害などの症状が認められ、このために社会生活にかなり支障があり、稼働可能な労務の種類は相当程度制約される状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度それに前記認定のような症状の経過、年令、職業、見舞としてすでに九〇万五、〇〇一円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五〇九万四、九九九円が相当である。

(二)原告(43)岩本栄作、同(44)岩本マツエ

右原告らは、原告昭則が小、中学校は病院から通学するという状況であつたため、その看護の労は一方ならず、あせわて同人が身体不自由児であつたために、同人の両親として固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているが、まず、原告昭則の症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまり、ほかに原告らが昭則の看護で苦労したことなどを考慮しても、それだけでは被害者である昭則が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の精神的苦痛を同原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、右原告らの本訴請求は理由がない。

12原告(46)上村好男、同(47)上村良子、同(48)上村智子について

前記認定のとおり、原告上村好男、同良子は夫婦で、同上村智子はその間の長女である。

(一)原告(48)上村智子

(1) 原告上村智子が、出生時から水俣病に罹患しているいわゆる胎児性水俣病患者であることは当事者間に争いがない。

(2) 原告上村良子は、昭和三〇年八月原告好男と結婚し(婚姻の届出は昭和三二年一〇月二九日)、昭和三一年六月一三日原告智子を出産したが、智子は生後すぐ泣き出産時の体重は約三、三〇〇グラムあつて、とくに異常は認められなかつた。

しかし、原告智子は、生後三日目ころから手足が小刻みに痙攣して一晩中泣きとおすようになり、一二日目には全身の強直性痙攣を二、三回みたので、生後二か月のころ市内の市川病院、市立病院などで毎日治療を受けることになつた。しかし、その後も症状は改善されず、生後七、八か月経過しても首が坐らず、四才一〇か月になつても相変らず首が坐らず抱き起すことも不可能で、もちろん歩行、寝返り、物を掴むなどの随意運動は全くみられず、手指、足趾にアテトーゼがあり、「アーアー」という発声とともに意味不明の笑いがみられるが、発語は不能、視覚はわずかに光に反応する程度で、精神的な表情が外に現われることはなく、外界の刺激に対しても反応を示さず、体重は8.8キログラムで栄養状態は極端に悪く、嚥下障害があり、眼球は絶えずゆるやかに動き、瞳孔は散大し、四肢の筋強直が強く、強度の部分抵抗症があり、膝、アキレス腱反射は著明に亢進し、ホフマン、バビンスキー、ロツソリモなどの病的反射も証明され、一五分に一回位の頻度で強直性痙攣発作がおこり、流涎が著明で喘息があつた。

その後は六才のころから痙攣の発作が減少し、口の開閉などの随意運動様の多動状態がみられるようになつたほかは、症状にほとんど変化がなく、失外套症候群に近い状態で症状は固定した。

なお、昭和四五年から毎年二月ころ感冒がもとで肺炎に罹り、市立病院に入院している。

(3) 同原告の現在の症状は、頭部、体躯ともに小さく、四肢の筋萎縮が著明で肢態の変形、異常が強く、話しかけに対するわずかな反応が認められるが、自発言語や自発運動はなく、嚥下障害があり、咀しやく運動はなく、音に対する反応は敏感であるが、視覚はわずかに光に対する反応が認められる程度で、錐体外路症状としての頭、舌、口にヒヨレア様運動、手にアテトーゼ様運動、筋強剛、さらに錐体路症状である病的反射、自律神経障害としての著明な流涎や原始反射など多彩な症状が入り組んで認められ、運動失調や視野狭窄、知覚障害などについては検査そのものが不能の状態で、現在食事、用便、入浴などすべて家族が面倒をみてやらなければ自分では何もできない状態にある。

(4) 同原告は、胎児性水俣病患者の中でも最も重症例に属し、現在前記認定のとおりの極めて高度な運動障害、言語障害などの各種の症状があつて全くの廃人といつてよいが、今後においても正常な成長は全く期待することができず、現在のような生活を将来も引続き余儀なくされることは確実と思われる。

同原告の前記症状、年令、それに見舞金として七九万五、四一七円を受領していること等諸般の事情を総合すると、その慰藉料は一、七二〇万四、五八三円が相当である。

(二)原告(46)上村好男および同(47)上村良子

原告上村好男、同上村良子は、前記認定のとおり胎児性水俣病のため生まれながらの廃人である智子の父母として、これまでにも治療費などの捻出のため過重な労働に従事したり、また夜泣きする智子を片時もはなさず抱いて寝るなど非常な苦労を重ねてきたが、いまも同女の日常生活全般にわたり介助を余儀なくされており、この介助を必要とする状態は、将来においても同女の症状については改善の見込が全くないから、同女が生存する限り続くものと思われ、これによる同原告らの現在および将来の精神的苦痛は甚大で死にも比肩すべきものがあるというべく、原告智子の両親としての慰藉料は各四五〇万円が相当である。

13原告(49)浜元一正、同(50)田中一徳、同(51)浜元二徳、同(52)原田カヤノ、同(53)浜元フミヨ、同(54)藤田ハスヨ、同(55)浜元ハルエについて

前記認定のとおり、原告浜元一正は亡浜元惣八、同マツ夫婦間の長男、原告田中一徳は同夫婦間の二男、原告浜元二徳は同夫婦間の三男、原告原田カヤノは同夫婦間の長女、原告浜元フミヨは夫婦間の四女、原告藤田ハルヨは同夫婦間の五女で、原告浜元ハルエは原告二徳の妻である。

(一)亡浜元惣八

(1) 亡浜元惣八が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年八月ころ水俣病に罹患し、同年一〇月五日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡惣八は、代々漁業を家業としていたので、同人も昭和八年一月まで天草郡深海村で弟猶吉らとともに漁業に従事し、同月水俣市月浦に転居してからは、しばらく沖仲仕をしたが、まもなく再び生業として水俣湾一帯、天草近海で漁業を営むようになり、当時は珍らしかつた発動機を購入して妻のマツ、三男の原告二徳とともにこれに精を出し、獲れた魚介類は大部分熊本市の魚市場、水俣市内の魚屋、旅館などに売りに出して、その収益で相当裕福な生活をしていた。

(3) 同人は、生来頑健であつたが、昭和三一年八月一七日ころから上口唇、両手指、頭部にしびれ感を覚えるようになり、その後も漁には出ていたが、同年九月一四日夜平素より多量に飲酒したところ、翌朝から言語障害、聴覚障害が現われ言語はほとんど理解できず、歩行は失調性となり、同月一八日には企図振戦が甚しく、自分で食事をすることもできなくなつたので、同月二〇日熊大第一内科に入院した。その際の所見としては、言葉が理解し難いこと、粗大な振戦特に企図振戦が著明であること、指々・指鼻試験が拙劣、アジアドコキネージズ、歩行失調などの症状が認められた。その後、これらの症状は急速に増悪して、振戦、ロンベルグ氏徴候、アジアドコキネージズが著明となり、同月二三日にはヒヨレア様運動が出現、言語障害、聴覚障害も増強してほとんどつんぼの状態となつた。翌二四日便所行にく途中転倒してからは歩行不能となつた。翌二五日には感情の易変性が強く怒りやすくなり、振戦とアジアドコキネージズのため手で物をもつことができず、また嚥下障害が現われた。同月二七日には言語障害著明で全く言葉が理解できず、振戦などの錐体外路症状も更に悪化し、指々・指鼻試験は不能となり、翌日は顔貌も痴呆状を呈し、意識不明瞭で、翌二九日からは尿失禁、流涎、嗜眠状態と興奮状態の交錯、バリスムス様運動、後弓反張がみられるようになつた。同年一〇月一日には意識が全く混濁し、ヒヨレア様運動、バリスムス様運動が著明となり、時に奇声を発し、発汗多く、体温も三八度に上昇し、胸部全域に乾性ラ音を聴取した。翌日から肺炎の併発予防のためペニシリン療法を開始したが、呼吸は不整で瞳孔は縮少し、対光反射は遅鈍、昏睡状態を続け、その後症状は一進一退の状態を示したが、同月五日には体温が三九度、呼吸数五六、脈拍数一二八で、ヒヨレア様運動が激しくなり、全身状態が悪化して、遂に同日午後一一時二二分死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 争いのない同人の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性を総合して考えると、同人は水俣病により死亡したものと認める。

(5) 同人の前記症状と死に至るまでのその悲惨な経過、死亡の結果に、同人の年令(発病、死亡時ともに五八才)、生前の職業、収入、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合勘案すると、その慰藉料は一、一二五万円が相当である。

(6) なお、原告ハルエを除く原告浜元一正ら六名の原告は、亡マツおよび原告二徳の水俣病罹患による亡惣八の精神的苦痛を理由とする慰藉料を請求しているが、惣八生存中の右両名の症状、生活障害の程度は後記認定のとおりで、二徳は昭和三〇年七月ころ水俣病に罹患し、翌年九月二〇日ころ熊大第一内科に入院したが、当時その症状はそれほど重症ではなく、マツには当時すでに失調性歩行、視力、聴力、言語の各障害などの重い症状があつて、そのためにその後同病院に入院した事実が認められるが、同女も発病後間がなく、症状は当時なお流動的で改善の余地があつたと認められるから、このような事情のもとでは亡惣八において生前、右マツや二徳が死亡した場合にも比肩すべき苦痛を蒙つたと解することはできないのであつて、右原告らの右請求は理由がない。

(7) 亡浜元マツは、亡惣八と大正一一年七月結婚し、ともに漁業などに従事して生活を支えながら原告一正ら三男四女(四男憲志は生後まもなく養子に出された)を立派に育て上げ、苦楽をともにしてきたが、永年連れ添つた夫に同じ病気で病臥中に無惨な症状のうちに先立たれ、原告ハルエを除くその余の原告らは、敬愛する父を看病の甲斐もなく悲惨な症状のうちに不慮の死で失つたもので、これによる妻、子として精神的苦痛は大きく、その慰藉料は、亡マツは妻として三〇〇万円、ハルエを除くその余の原告らは、見舞金としてすでに各四万六、二五〇円ずつを受領していることを考慮して、子として各九五万三、七五〇円が相当であり、また亡マツならびにハルエを除く原告一正ら六名の原告と亡惣八・マツ夫婦間の四男憲志、六女ツヤノ(昭和四一年五月死亡)は、いずれも亡惣八の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、亡マツは妻として、民法所定の相続分である三分の一に相当する三七五万円を、その余の原告らは子として、前記相続分である各一二分の一に相当する九三万七、五〇〇円を承継取得した。

(二)亡浜元マツ

(1) 亡浜元マツが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年九月ころ水俣病に罹患し、昭和三四年月七日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡マツは、発病前は壮健で畑仕事や惣八とともに漁業に従事していたが、昭和三一年九月一五日ころから手足、口唇のしびれ、手指の振戦、便秘、舌根部のこわばる感じ、失調性歩行がみられ、同月二二日ころから視力障害、聴力障害が加わり、顔の上部を残し全身にしびれ感、知覚障害が広がり、同月二九日熊大第一内科に入院した。その際の主要所見として、前記症状のほか言語に特有な断綴、蹉跌性があり、両眼に著明な同心性視野狭窄が認められ、躯幹四肢全域の痛覚鈍麻、アジアドコキネージズなどが確認された。同年一〇月初旬には病的反射であるゴルドン反射、嚥下障害、憂うつ性の強い精神障害が現われ、言語障害、視野狭窄は増強したが、同月後半には治療の効果が現われて嚥下障害、アジアドコキネージズは軽減、言語も入院時の状態に戻り、知覚は指の触覚など部分的に回復するものがあつた。同年一二月になると、不眠を訴えて睡眠時間が不規則になり、精神面では陰うつで感情を表わさず無口になり、歩行障害は悪化の傾向を示し、企図振戦も強くなつた。翌三二年三月に入ると、両側前搏背部ならびに手背の筋萎縮が著明となり、常に拇指を内側に折り曲げ、上肢は伸展したままで自動的にはもちろん他動的にも全然伸展できず、そのほか失禁、全身倦怠、両上肢、足背に浮腫が認められた。同年六月ころからは、ときに呼吸困難を訴え、腱反射亢進などの症状がみられ、漸次衰弱の一途を辿つたが、本人の強い希望で同年一二月末前記病院を退院し、自宅療養をすることになつた。その後病状は悪化し、たえず痛みを訴え、手には著明な振戦があり、四肢は変形し、筋萎縮もすすんで寝たきりの状態になり、食事は介助なしにはできず、失禁、流涎、構音障害などの症状は増悪し、記銘力障害も強くなつて痴呆状態が進行し、視力、聴力を失い、遂に昭和三四年九月七日死亡した。

なお同人は、死亡後剖検されなかつた。

(3) 争いのない同人の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は水俣病により死亡したものと認めるのが相当である。

(4) 同人の前記症状と死に至るまでのその悲惨な経過、死亡の結果に、同人の年令(発病時五六才、死亡時五九才)、職業、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して勘案すると、その慰藉料は一、二四〇万円が相当である。

なお、原告ハルエを除く原告浜元一正ら六名の原告は、原告二徳の水俣病罹患によるマツの精神的苦痛を理由とする慰藉料をも請求しているが、マツ生存中の二徳の症状、生活障害の程度は、後記認定の程度にとどまり、なお稼働することも可能の状況にあつたから、これだけでは、亡マツにおいて生前、二徳が死亡した場合にも比肩すべき苦痛を蒙つたと解することは困難であり、結局右原告らの前記請求は理由がない。

(5) 原告ハルエを除く原告浜元一正ら六名の原告は同じ水俣病のため、悲惨な症状のうちに父惣八にひき続いて母マツの生命まで奮われたもので、とくに原告フミヨはマツらの看病のために婚期を逸して今なおひとり身であり、これによる子としての精神的苦痛は大きく、その慰藉料は、すでに見舞金として各七万七、五〇〇円ずつを受領していることを考慮して、原告フミヨは二九二万二、五〇〇円、その余の右原告らは各九二万二、五〇〇円とするのが相当であり、また右原告らおよび前記ツヤノ、憲志は、いずれも亡マツの子で相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権((一)の(7)および(二)の(4)記載の各慰藉料請求権)について、右原告らおよびツヤノ、憲志は、民法所定の相続分である各八分の一に相当する二三九万三、七五〇円を承継取得した。

(6) すると、原告浜元一正、同田中一徳、同原田カヤノ、同藤田ハスヨが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(7)および(二)の(5)の合計額五二〇万七、五〇〇円であり、原告浜元フミヨについてもその余の請求が失当であることはのちに述べるとおりであるから、同原告が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右の合計七二〇万七、五〇〇円である。

(三)原告(51)浜元二徳

(1) 原告浜元二徳が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三〇年七月水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告二徳は、昭和二六年三月中学校を卒業して、その後父惣八とともに家業に従事していた。

(3) 同原告は、昭和三〇年七月初旬から手足にしびれ感を覚え、また手指の粗大な振戦が始まり、失調性歩行となつた。その後、しびれ感は口唇、舌、肛門にまで及び、味がわからず、舌がもつれ、ついには食物の熱い、冷たいの区別もつかなくなつたので、同年八月三〇日から九月一六日まで検査のため熊大第一内科に入院した。検査の結果、アセチレン中毒性多発神経炎の診断を受けたので、軽い振戦を残して症状は軽快したが、漁業を中止し、同年一一月初旬から他人に雇われて土工として配管工事に従事していた。同年一二月二七日被告会社水俣工場の臨時工として採用されたので、同工場で稼働していたが、翌年八月二三日工場で食事中に突然振戦が激しくなり、食事ができなくなつた。それ以後再び症状が現われ、同年九月八日附属病院で受診した際には、失調性歩行、ロンベルグ現象陽性、振戦著明、固有反射とくに膝蓋腱反射亢進、粗大力低下などの症状が指摘されたので、同月二〇日父惣八とともに熊大第一内科に入院した。入院時の所見として、前記症状のほかの言語障害、視野の同心性輪状狭窄、バビンスキー、ロッソリモなどの病的反射、アジアドコキネージズなどの共同運動障害害、手足の知覚障害が認められた。入院中に振戦、知覚鈍麻、右側腱創射亢進、病的反射などの症状が幾分軽快したので、昭和三二年四月一三日同病院を退院した。退院後前記工場の硫化燐安の製品係に復職、昭和三四年四月からは同工場の下請会社である扇興運輸株式会社に転職したが、その後まもなく言葉がもつれやすく、下肢に力が入らなくなつて、同年一〇月一六日ころから二か月間市立病院に入院治療を受けた。昭和三九年六月には大型自動車の運転免許を受け、同年一一月原告ハルエと結婚した。昭和四〇年四月ころから歩行障害が進行して、再び同年九月まで湯之児病院に入院、その年には膀胱炎でも入院し、翌年一一月には視野狭窄のため交通事故をおこし一か月間入院した。しかし、その後も歩行障害は悪化の一途をたどり、夫婦生活も不能となり、頻尿などの症状も加わつたので、昭和四三年一一月一六日から翌四四年四月五日まで再度湯之児病院に入院して機能回復訓練を受けた。同年四月一五日には前記会社に復職を希望したが、下肢の痙性障害、運動失調、それに視野狭窄のため容れられず、退職した。昭和四五年になると、しびれ感などは多少改善されたが、杖を使用しなければ歩行できなくなり、昭和四六年六月の自動車運転免許証の更新の際には、大型自動車および自動二輪車については更新を拒絶され、その他の普通自動車などについては手動式アクセルにすることなどの条件が付された。

(4) 同人の現在の症状については、下肢の錐体路性(痙性)障害が進行していることが特徴で、筋緊張は痙縮(上肢は軽度であるが下肢は強度)、粗大力は低下(上肢はやや低下の程度であるが、下肢は寝たままの状態で正常を四として、股関節の挙上は二、膝の伸展三、同屈曲一ないし零、足関節伸展二、同屈曲二で膝足関節の屈伸力がとくに低下している。)、膝蓋腱反射、アキレス腱反射ともに亢進()、バビンスキー、チャドック、ゴンダ、ロッソリモなどの病的反射があり、足および膝間代は著明、腹壁反射ならびに挙睾反射は消失しており、ほかにもロンベルグ現象、指鼻・踵膝試験、アジアドコキネージズ、企図振戦、指、足のタッピングテストなどで証明される上下肢の運動失調、共同運動障害があり、このために痙性失調性歩行で杖をついてゆつくり足を引きずりながら歩き、片足起立や屈む動作は不能で、立上るときは登攀性起立をし、直立時にも動揺し、手も不自由でボタン掛けができず、これらの症状に加えて、口の周辺、両上肢(肩関節以下)、両上肢(股関節以下)では知覚脱失、その他の全身で知覚が鈍麻している知覚障害、四肢の筋搦、視野狭窄(四〇度)、言葉の不明瞭、軽度の聴力障害、性交不能、排尿力減弱、頻尿、便秘などの膀胱直腸障害、手指の軽微な変形、不眠、いらいら感などの自覚症状がある。このために、現在は労務に服することが不可能な状態で、被告会社からの見舞金によつて生計を維持している。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、前記認定のような症状の経過、年令、職業、それにこれまでの症状の経過からみて歩行障害などの症状はなお将来悪化する可能性が大きいこと、見舞金として一四四万九、一六八円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五五五万〇、八三二円が相当である。

(6) すると、同原告が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(7)、(二)の(5)および(三)の(5)の合計額で二、〇七五万八、三三二円である。

(7) つぎに、原告浜元フミヨは、両親および原告二徳の看護と世間の水俣病患者に対する自眼視のため結婚できず、いまだに独身の淋しさに耐えているとして、原告二徳の姉として固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているので考えるに、当裁判所は、被害者が生命侵害あるいはそれにも比肩し得べき程度の傷害を受けた場合に固有の慰藉料請求ができるその近親者の範囲については、必ずしも民法第七一一条に掲げる父母、配偶者、子に限定されるものではなく、その他の祖父母、孫、兄弟姉妹などについても、同法第七〇九条、第七一〇条を根拠として固有の慰藉料請求が認められる場合があると解するが、本件の場合は、直接の被害者である原告二徳および同人の妻である原告ハルエがそれぞれ同人らに賠償されるべき慰藉料を請求してそのいずれもが大部分認容され、しかも、原告主張のような事情は、すでに亡マツの水俣病罹患と死亡を理由とする原告フミヨの慰藉料請求を判断しその額をきめる際に十分考慮しているところであるから、これによつて原告二徳の近親者である原告フミヨの精神的損害も償われたとみるのが相当であり、結局、同原告には主張のような事実(マツ死亡当時原告はすでに満二九才に近く、原告二徳の看護のためにさらに結婚がおくれたとする事情は認められない)があるにしても、それ以上に金銭で慰藉されるべき精神的苦痛があるとは認め難いから、右原告の右請求は理由がない。

(四)原告(55)浜元ハルエ

原告浜元ハルエは、原告二徳と結婚後、同人の症状がさらに悪化し性的不能となつたため、三〇代の若さで同人と性生活を営むことができなくなり、ほかにも同人には著明な歩行障害などの前記認定のとおりの症状、生活障害があつて就職もできないから、将来の生活にも不安を抱いており、これによる原告ハルエの妻としての精神的苦痛は大きく、同人の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、右原告の原告二徳の水俣病罹患を理由とする慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は三五〇万円が相当である。

14原告(56)溝口忠明、同(57)溝口マスエについて

前記認定のとおり、原告らは夫婦で、亡溝口トヨ子は原告らの三女である。

(一)亡溝口トヨ子

(1) 亡溝口トヨ子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和二八年一二月ころ水俣病に罹患し、昭和三一年三月一五日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 同女は、昭和二八年一二月六日(当時五才一〇か月)、突然食事のときにご飯をこぼし、坐つていることがでず後に倒れ、涎を流すようになつたが、まもなく下駄が履けず、歩行時に酔払いのような歩き方をするようになつたので、市内の市川医院、深水医院、市立病院などで治療を受けた。しかし、症状は改善されず、翌二九年一月には歩くことができなくなり、同年四月二八日からは強い痙攣をみるようになつた。同年一二月三日附属病院で受診した際には、意識混濁、歩行障害、言語不明瞭、流涎著明の症状がみられた。同月五日には全身の強直性痙攣発作があり、発作消失後は全く歩行不能となり、食事もとれず、嗜眠状態が続き、発汗が著明であつた。

その後は医院の往診を受けて治療を続けたが、全身の痙攣発作は持続し、栄養不良でるい痩著明となつた。その後、一時症状が軽快し、おしめをつけたまま屋外を歩きまわることもあつたが、当時まだ水俣病の原因が水俣湾周辺で獲れる魚介類の摂食によることがわかつていなかつたので、なおこの魚介類の摂食を続けたためか、再び昭和三〇年一〇月末ころから失調性歩行が著明となり、手の運動ができず、痙攣が頻発し、意識障害、ついで譫妄状態、嗜眠状態もみられるようになり、ついには目をあけているが反応はなく、音にも反応を示さず、自発言語を喪失し、四肢の変形、萎縮が現われ、さらに痙攣の持続、流涎、嚥下障害のために全身状態が悪化し、食事も流動食などを口中に流し込む状態となつた。そして遂に昭和三一年三月一五日口から泡をふき、大きな痙攣発作がきて、死亡するに至つた。

(3) 争いのない同女の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(4) 同女の前記症状とその悲惨な経過およびその死亡の結果に、同女の年令(死亡時八才二か月)、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、〇九〇万円が相当である。

(二)原告(56)溝口忠明、同(57)マスエ

(1) 原告らは、いずれも亡トヨ子の相続人であり、同女の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告らは両親として、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する五四五万円を相続によつて承継取得した。

(2) 原告溝口忠明、同マスエは、生来利口でおとなしくやさしい子であつたトヨ子が発病しても、当時大工職であつた忠明の収入だけでは借金しても同女を入院させて十分な治療を受けさせることができず、発病時期が早かつたこともあつて病名もわからないまま前記のような悲惨な症状のうちに同女を死亡させたもので、同人らの精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金として各一九万七、五〇〇円ずつを受領していることなど考慮すると、その慰藉料は右原告らにおいて、各一八〇万二、五〇〇円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の金額の合計額で、原告らはそれぞれ七二五万二、五〇〇円である。

15原告(58)田上義春、同(59)田上京子、同(60)田上由里、同(61)田上里加、同(62)千々岩ツヤについて

前記認定のとおり、原告田上義春と同田上京子は夫婦で、同田上由里は右夫婦間の長女、同田上里加は右夫婦間の二女、同千々岩ツヤは原告義母の母である。

(一)原告(58)田上義春

(1) 原告田上義春が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年七月初旬水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告義春は、昭和二〇年八月水俣実務学校を卒業、三年間大工の住込み見習をしたのち、福岡県の農機具製作所に大工として勤め、昭和二七年四月自動車の運転免許を取得し、昭和二九年水俣市出月の自宅に帰つて弟妹らとともに家業の精米、製麺業を継ぎ、またそのころからマンドリンを練習して仲間と楽団を結成し、パーテイなどでその演奏を楽しんでいた。

(3) 同原告は、昭和三一年七月田植が終るころから手足の指先、口唇がしびれ、次第にそのしびれが広がつて下肢、口周辺、舌に及び、疲れやすく、指先の動きも鈍くてマンドリンが弾けず、言葉はろれつがまわらず緩慢になり、失調性歩行で転びやすくついには不駄が履けなくなつた。同年八月二〇日ころには、激しい頭痛がして、車を運転していても速度感がなくまた周囲のものが見えず、疲労感が強くなり、しびれが全身に及び、流涎がみられた。その後、これらの症状は増悪し、振戦のため箸が使えず、茶碗をとり落とし、ボタンが掛けられず、不眠状態が続いて気分の変化が激しく、包丁を振りまわして暴れるなど狂躁状態を呈するようになつたので、同月二五日熊大第一内科に入院した。入院時の診察で、これらの症状のほかに感惜面の憂うつ、視野の同心性輪状狭窄、書字障害、膝蓋腱反射の亢進、筋緊張の減退、ロンベルグ・指々・指鼻各試験、アジアドコキネージズなどで証明される運動失調が指摘された。入院中、聴力障害・知覚障害が現われたが、翌三二年一月初めころから言語障害・視力障害は徐々に軽快し、聴力も良好になり、同年五月になると歩行障害・言語障害は急速に好転してとくに前者は正常に近いまでに回復し、気分易変、抑うつ、睡眠障害などの精神症状も改善され、他の症状については全治の見込みがないので、昭和三三年一〇月同病院を退院した。その後昭和三四月四月から同年一二月まで市立病院に入院した。

市立病院退院後は自分で養蜂業を始め、自転車や車の運転などで機能回復訓練に励み、精米所、養豚業者などに雇われて生活の糧を得たが、そのうち次第に仕事に対する自信がつき、昭和三八年から四年間は建設業者のもとで車で丸太などを運搬する仕事に従事し、その間昭和三八年七月には原告京子と結婚(婚姻の届出は昭和三九年一月三〇日)、翌年六月原告由里が、昭和四二年二月原告里加が生まれた。昭和四二年転職して、ダンプカーを運転して被告会社水俣工場のカーバイト残渣を工場外に搬出する仕事に従事したが、翌年四月からは被告会社の斡旋でチッソ開発株式会社に就職し、肥料を入れる袋を重ねて紙で包んだり、ダンプカーで砂を運んだり、密柑山の管理、消毒などの仕事に従事したのち、昭和四六年六月からは発泡成型係で発泡スチロールを機械で切断する仕事に従事している。

(4) 同原告には現在、構音障害ならびに高音部の聴力障害、味覚障害、左右よりも上下に狭い視野狭窄、手指の振戦、両側足趾のアテトーゼ、直線上歩行時の動揺、片足起立不安定、指鼻・指々試験のヂスメトリー、屈む動作や後屈動作の際の踵が上らない共同運動障害、企図振戦、両側アジアドコキネージズ、とくに口周辺、四肢末端に強い全身性の知覚障害などの症状が認められ、精神面でも弛緩状でやや多幸的、自在性に乏しく、融通がきかないなどの症状があり、そのほか全身のしびれ感や指先の感覚がない、左右方向の追視困難、下半身の不安定感、緊張時における歩行困難、易疲労感、後頭部の頭痛、性欲減退、もの忘れ、話している最中にも自分が話していることがわからなくなるなどの自覚症状がある。このため日常生活においては着衣、ひげ剃りなどに差支えがあり、風邪に罹りやすく、現在の就職先においても、長時間連続して就業し、あるいは十分睡眠をとらないで就業することはできず、ことに冬期においては肩が冷えて常に相当の重量感があるため、就業不能の状態にある。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、前記認定のような症状の経過、年令、職業、それに見舞金としてすでに一八三万三、七五一円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、四一六万六、二四九円が相当である。

(二)原告(59)田上京子、同(60)田上由里、同(61)田上里加、同(62)千々岩ツヤ

原告京子は、前記認定のような症状のために怒りやすくなつた夫義春との共同生活には精神的に甚大な苦労があるとし、原告由里、同里加は、父義春から同人の症状のため幼児としては辛い扱いを受け、家庭は暗いとして、また原告ツヤは、長男義春の水俣病罹患によつて家業の精米製麺業を廃業せざるを得なくなり、そのために生活は困窮し、また義春の看護に心身を労したとして、それぞれ固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているところ、原告ら主張の事実はたやすく認められるが、そのような事情を考慮しても、原告義春の症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまるから、これだけでは、被害者の義春が生命を害された場合にも比肩すべき、あるいはこれに比して著しく劣らない程度の苦痛を右原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、結局、右原告らの本訴請求は失当といわざるを得ない。

16原告(63)坂本マスヲ、同(64)、

坂本実、同(65)坂本輝喜、同(66)緒方新蔵について

前記認定のとおり、原告坂本マスヲは原告坂本実の妻で、原告坂本輝喜は右夫婦間の長男であり、原告緒方新蔵は原告マスヲの母亡緒方リツ(昭和四五年一一月二八日死亡)の長男である。

(一)原告(63)坂本マスヲ

(1) 原告坂本マスヲが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年七月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告マスヲは、原告実と昭和二八年三月結婚して、実が漁業を生業としていたので、翌年一一月長男の原告輝喜が生まれるまで同人が獲つてきた魚介類、ワカメなどの行商をし、そのかたわら実の父留次と約二反三畝の田畑を耕作していた。

(3) 同原告は、昭和三一年の田植前ころ疲労を覚え、水俣市立病院で受診したところ神経痛と診断された。同年八月には全身に倦怠感、脱力感があり、背部、手足のしびれ、手足の振戦、舌のもつれ、物忘れ、頭重感、四肢の痙攣が始まり、同年一一月には足がふらつくようになつた。昭和三二年四月言葉がもつれ、聴力障害が現われ、宇が書けずボタンも掛けれなくなつたので、同年五月八日熊大第一内科に入院した。その際の所見として、顔貌がやや痴呆状、時に興奮状態、断綴・蹉跌性の言語障害、手指の微細な振戦、粗大力やや減弱、共同運動失調、失調性歩行、両側手および下腿に触覚・痛覚の鈍麻などの症状が認められた。その後企図振戦、共同運動失調、書字障害を除きこれらの症状は好転したが、同年六月一七日歩行中急に上肢に強直性痙攣が発現し、発語不能となつて、血圧も214/120mmHgに上昇したことがあつた。そのほか怒りつぽく、わがままで落ちつきがないなどの精神症状がみられるようになつた。同病院退院後、昭和三四年七月二九日水俣市立病院に入院したが、昭和三五年三月実の結核再発などの理由で無断で退院した。なおこの両病院において各一度ずつ人工流産を行なつた。

その後は家庭にあるが、昭和四〇年八月医師原田正純の診察を受けた際には、いらいら、腹立ち、疲れやすい、不眠、手足のしびれ感、言葉のもつれなどの自覚症状があり、思考判断などの知的機能障害、視野狭窄、難聴、振戦、構音障害、全身性知覚障害、歩行の異常、アジアドコキネージズなどの運動失調、精神症状などが指摘された。その後は痙攣発作が続くほか精神症状が悪化し、たやすく興奮したり、些細なことに腹を立てて大声で叫んだり、気に入らないことがあると家出し、主婦でありながら家族の面倒をみないことがしばしばで、この状態は現在も続いている。

(4) 同原告の現在の症状は、右に述べた事実のほかに落着きがなく、わがままで、他人との対話の際にも自らの抑制ができず自分の言葉に興奮して怒りだしたり、はつきりした理由もないのに家族に当り散らしたり、家庭の主婦としての仕事を放てきして昼夜を問わず出歩くなどの事実から窺われる極端な性格変化ならびに意識の軽い混濁さえ疑われる精神症状(酩酊様状態)が特徴的で、日常の起居動作は外観上一応支障がないように見えるが、直立、直線歩行、まわれ右の動作の際には動揺し、片足起立は不能で、後屈姿勢で膝が曲らず踵も上らず、屈み動作は不円滑で、坐位から起立するときには床に手をつかなければらならず(共同運動障害)、指鼻・踵膝試験、アジアドコキネージズなどでも運動失調が証明され、ボタン掛け、紐結びなどの着衣動作、箸使い、書字は遅く拙劣で、このほかに高度の視野狭窄、眼球運動の注視障害、両側の聴力障害、構音障害、味覚・嗅覚の障害、全身とくに口周囲、四肢末端に強い知覚鈍麻、筋緊張の低下、粗大力低下(右握力一八キログラム、左握力一五キログラム)、就寝時に多い全身性痙攣発作、高血圧などの症状が認められ、現在なお入院加療中で、月経は月に二回あり、性生活に対する欲望も失われている。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、前記認定のような症状の経過、年令、それに見舞金として一八七万四、五八五円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五一二万五、四一五円が相当である。

(二)原告(64)坂本実、同(65)坂本輝喜

右原告らは、新婚当時優しく朗らかであつた原告マスヲが原告輝喜を出産して二年もたたないうちに水俣病に罹患したので、平穏な家庭生活を送ることができたのは極く短期間であつたが、現在も同女には前記認定のような症状があつて、すでに述べたとおり原告ら家族に迷惑をかけており、その精神症状などは将来なお悪化の虞れなしとせず、これからも家庭にあつて主婦としての勤めを果すことなど到底期待できないから、同女の症状ならびに右のような事情による夫あるいは子としての原告らの精神的苦痛は大きく、同女の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、右原告らの慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は原告坂本実は夫として三五〇万円、原告坂本輝喜は子として二〇〇万円が相当である。

(三)原告(63)緒方リツ承継人坂本マスヲ、同(66)緒方リツ承継人緒方新蔵

亡緒方リツは、原告マスヲの母として発病後困難な状況のもとで同女を看護し、家事を引受け、悪化する不治の病気に対する不安におののきながら苦悩の生活を続けてきたもので、その精神的肉体的苦痛は甚大であつたとして、慰藉料三〇〇万円を請求していたが、同女は本訴提起後の昭和四五年一一月二八日死亡したので、同女の子で相続人である右原告ら(同女の相続人としてはほかに長女ハツエがいた)が、慰藉料の各三分の一あてを承継取得したとして請求しているところ、亡リツが原告マスヲの発病後同女の看護をし、金銭面でも相当の援助をし、同女の入院中は同女にかわつて原告輝喜の面倒をみて、死亡のときまで同女の病状などを案じていたことは認められるが、原告マスヲの症状とくに精神症状が悪化の度を増したのは最近のことで、亡リツ生存中の同女の症状、生活障害の程度は現在の状態よりは相当軽度であつたと認められるから、右のような諸事情を考慮しても、亡リツにおいて生存中被害者のマスヲが死亡した場合にも比肩すべき程度の苦痛を蒙つたと解することはやや困難で、亡リツの承継人としての右原告らの前記請求は失当である。

17原告(67)荒木愛野、同(68)荒木洋子、同(69)荒木止、同(70)荒木節子、同(71)荒木辰己について

前記認定のとおり、原告荒木愛野は亡荒木辰雄の妻で、原告洋子は右夫婦間の長女、原告止は右夫婦の養子でかつ同洋子の夫、原告節子は同夫婦間の二女、原告辰己は同夫婦間の二男である。

(一)亡荒木辰雄

(1) 亡荒木辰雄が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和二九年七月ころ水俣病に罹患し、昭和四〇年二月六日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡辰雄は、昭和一一年三月ころ朝鮮から引揚げ、水俣市百間町ついで同市出月で、以前習い覚えた時計の修理技術を活かして時計店を開業したが、そのころから漁業にも従事し、昭和二四年には漁船を購入して次第に漁業が本業のようになり、水俣湾周辺で魚介類を獲つて大部分は売りに出し、発病前には一日に二、〇〇〇円位の収益を挙げていた。

(3) 同人は、昭和二九年七月ころ目がおかしくなり、漁に行くため乗船しようとして海中に転落したことがあつたが、ついで視野狭窄のほかに手足のしびれ感、歩行時動揺、痙攣、振戦がみられるようになり、そのころ熊大精神神経科で受診したが、病名は知らされなかつた。同年一〇月ころには、足がふらつき、気分易変で怒りやすく頑固になり、耳は遠く、言語がもつれ、嫉妬や被害妄想のためにときに妻の愛野に暴行を加えるようになつたので、昭和三〇年二月には市立病院に入院した。しかし、同病院では被害妄想などの精神症状が強く、他の患者の迷惑になるという理由で精神病院入院をすすめられ、四〇日で同病院を退院し、その後一月自宅にいたが、なお異常な行動はやまないので、同年四月二二日下益城郡の県立精神病院小川再生院に入院した。入院初期のころは興奮や被害妄想がなおみられ、愛野でさえ面会できない有様であつたが、一年を経過するころから、痴呆が進行し、失見当識や記憶力・記銘力・注意力・計算・判断などの障害がみられ、口数は少なくて積極性がなく、ぼんやりと終日無為に過すようになつた。なおほかに構音障害、瞳孔不同、対光反射消失、軽度の失調性歩行、視野狭窄などの症状が認められた。その後同病院から一度も退院することなく、全身衰弱が次第に加わり、遂に昭和四〇年二月六日発熱し、嚥下性肺炎のため死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られ、広範囲の大脳皮質神経細胞間引き脱落があり、これに血管障害性病変が加わつて特殊な病型をとつたものであることが認められた。

(4) 争いのない同人の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は水俣病の症状である神経障害から続発した嚥下性肺炎により死亡したものと認められる。

(5) 同人の前記症状とその死に至るまでの悲惨な経過、とくに闘病期間の永かつたことおよび死亡の結果に、同人の年令(発病時五五才、死亡時六七才)、発病前の職業、収入、境遇、それに生前見金舞として一〇八万七、九一八円を受領していること、死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、三九一万二、〇八二円が相当である。

(二)原告(67)荒木愛野、同(68)荒木洋子、同(69)荒木止、同(70)荒木節子、同(71)荒木辰已

(1) 原告らは、いずれも亡辰雄の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告荒木愛野は妻として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四六三万七、三六〇円を、その余の原告らは子として前記相続分である各六分の一に相当する二三一万八、六八〇円を相続によつて承継取得した。

(2) 原告荒木愛野(明治四一年二月一五日生)は従兄弟にあたる辰雄と昭和七年九月結婚(婚姻の届出は昭和八年一一月三〇日)し、原告洋子ら六人の子(うち三人はいずれも生後三年以内の幼時に死亡)を育てながら生活をともにしてきたが、辰雄の発病後は家財道具を売り、人夫などまでして生活を支えつつ永年看護したにもかかわらず、三〇年以上連れ添つた夫を狂人と同じ状態で奪われたもので、同洋子は父発病後生計を維持するため愛野に協力してよく働き、そのために婚期がおくれて昭和三九年八月二一日三〇才で現在の夫止と結婚(止は同日亡辰雄、原告愛野夫婦と養子縁組)、その後も原告止ら夫婦は昭和四六年四月別居するまで愛野らの面倒をみ、同節子は現在構音障害や高度の知能障害があつて水俣病の認定申請をしており、同辰己は昭和三七年以後精神病院に入院しているもので、いずれもその父を前記のような悲惨な症状のうちに失つたものであるから、これによる同人らの精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金(弔慰金、葬祭料)として原告愛野は一〇万六、六六七円、同洋子は五万三、三三四円、同止、節子、辰己は各五万三、三三三円ずつを受領していることなどを考慮すると、その慰藉料は原告荒木愛野は妻として三三九万三、三三三円、原告荒木洋子は子として一四四万六、六六六円、その余の原告らも子として各一四四万六、六六七円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)および(2)の合計額で、原告荒木愛野は八〇三万〇、六九三円、同荒木洋子は三七六万五、三四六円、その余の原告らは各三七六万五、三四七円である。

18原告(72)松本俊郎、同(73)松本トミエ、同(74)松本ヒサエ、同(75)松本博、同(76)松本ふさえ、同(77)松本俊子、同(78)松本福次、同(79)松本ムネについて

前記認定のとおり、原告松本俊郎と原告松本トミエは夫婦で、原告松本ヒサエは右夫婦間の長女、原告松本博は同夫婦の養子で原告ヒサエの夫、同松本ふさえは右夫婦間の二女、同松本俊子は右夫婦間の三女で、原告松本福次、同松本ムネは原告トミエの両親である。

(一)原告(73)松本トミエ

(1) 原告松本トミエが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が現に水俣病に罹患していることは当事者間に争いがない。

(2) 原告トミエは、昭和一一年水俣市袋小学校を卒業、一六才のときから終戦ころまで約五年間被告会社水俣工場に食庫係として勤め、しばらく他家の農業手伝いなどしたのち、昭和二二年原告俊郎と結婚(届出は昭和二三年一月九日)して、昭和二三年一月原告ヒサエ、昭和二四年一〇月原告ふさえ、昭和二九年八月原告俊子を出産、その間他家の農業労働に従事して報酬を貰つたり、自宅の農業や養豚の仕事に従事していた。

なお、原告トミエら夫婦は昭和四三年一〇月八日原告博と養子縁組をした。

(3) 同原告は、それまで病気に罹つたことはなく健康に恵まれていたが、昭和三〇年ころからときに激しい頭痛がし、徐々に、手、足先がしびれ、身体が疲れやすく、夜間自動車のライトが四重五重の虹のように見えたり、風にあたると涙が出たりするようになつた。昭和三四年一〇月からは、手足のしびれ感が強くて寒期には全く仕事ができず、履物が脱げてうまく歩けず、また頭痛のため寝込むことがときにあつた。昭和四二・三年ころから頭痛が毎日続き、就寝時に足の痙攣が現われ、流涙、臭覚がきかない、耳が遠いなどの自覚症状が強くなつた。昭和四五年四月受診した際には、記銘・記憶の障害、全体の動作とくに左下肢の運動のぎこちなさ、筋緊張の軽い低下、固有反射の軽い亢進、片足起立不安定、両側のアジアドコキネージズ、指鼻試験における企図振戦、踵膝試験での共同運動障害、手指の運動の拙劣、四肢末端の知覚障害、視野狭窄(三〇度ないし四〇度)、聴力障害、爪の変形、手指のチアノーゼ、冷感、高血圧などが指摘され、同年六月一九日水俣病の認定を受けた。

(4) 同原告には現在、感覚系統の障害すなわち高度の視野狭窄と四肢末端、口周辺、頭部に強く、とくに足趾では脱失に近い知覚障害、日常会話は可能な程度の聴力障害、味覚および臭覚の障害などを主な症状とし、それに運動系統の軽い障害が加わつて直線歩行時のわずかな動揺、両側アジアドコキネージズ、指、足のタツピングの不円滑、指鼻試験における企図振戦、踵膝試験などで証明される共同運動障害があり、筋緊張の軽い痙縮、膝、股関節における屈伸力低下、下肢の軽い固有反射亢進、記銘・記憶障害、注意力集中やや困難、頭痛、手足の冷感などの症状もある。このため家庭の主婦として家事労働に従事することにはさほどの支障がないが、農作業や日傭などの仕事に従事することはできない状態にある。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、前記認定のような症状の経過、年令等諸般の事情を考慮するとその慰藉料は一六〇〇万円が相当である。

(6) なお、原告松本トミエを除く原告松本俊郎ら七名の原告は、原告トミエが水俣病に罹患したため、夫、子あるいは母親として多大の精神的苦痛を蒙つたとして慰藉料を請求しているが、原告トミエの症状、生活障害の程度は、前記認定の程度にとどまり、これだけでは被害者であるトミエが生命を害された場合にも比肩すべき、または右場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を右原告らにおいて蒙つたと解することはできないから、右原告らの右請求は失当である。

(二)原告(76)松本ふさえ

(1) 原告松本ふさえが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年四月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告ふさえは、生後順調に発育していたが、六才六か月の昭和三一年四月から歩行時によく転び、流涎、言語障害、視力障害、手の運動麻痺がみられて、食事、用便に介助が必要となり、その後まもなく嚥下障害、視野狭窄も現われたが、治療を続けた結果二年後には症状がやや軽快したので、二年遅れて昭和三三年四月水俣市立袋小学校に入学した。同年一二月には市立病院に入院して、翌年一月以降同病院から水俣第一小学校の特殊学級に通学することになつた。小学校の六年間を通して、言葉のもつれ、視野狭窄、歩行障害、手の運動拙劣などの症状が継続し、知能指数(大脇式)は四五で、成績は全教科5点法の「1」であつたが、一年次の一四七日を除き欠席日数は少なく、運動機能も徐々に回復した。昭和三九年四月水俣第一中学校の特殊学級に進学し、翌年四月には湯之児病院に転院して、機能回復訓練を受けながら同校に通い、そのころには前記各症状のほか粗大力低下、聴力障害、性格変化などが認められたが、昭和四二年三月同中学校を卒業、同病院も退院した。医師原田正純の昭和四四年三月の診察所見によれば、当時同原告には、集中力欠如、表情・動作・思考の遅鈍、幼稚などの精神症状、高度の知能障害、構音障害、視野狭窄、企図振戦、右内斜視、直線歩行時動揺、片足起立不安定、屈む動作や物をつかむ動作の拙劣、アジアドコキネージズ、筋緊張低下などの症状が認められた。

(3) 同原告には現在、きわめて高度の視野狭窄(一〇度前後)と直線歩行時の動揺、ロンベルグ現象、屈む動作、片足起立、後屈姿勢などの不安定、指鼻試験における企図振戦、アジアドコキネージズ、指、足首のタッピング障害害、膝踵試験における障害などで証明される共同運動障害、痴愚程度の知能障害(この知能障害は脳波所見によつても証明される)、前記認定のとおりの性格障害、それにラ行、パ行の構音障害、軽い痙縮、固有反射亢進、粗大力減弱などの症状が認められ、このために家庭にあつて家事の手伝いなどしているが満足なことはできず、高度の知能障害のために就職など社会生活は困難な状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、見舞金として九九万〇、四一七円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、六〇〇万九、五八三円が相当である。

(5) つぎに、原告松本俊郎、同松本トミエの原告ふさえの水俣病罹患による精神的苦痛を理由とする慰藉料請求について考えるに、原告ふさえには前記認定のおり症状と生活障害があり、辛うじて自分の身のまわりのことと犬、鶏の世話ぐらいはできるが、二三才にもなるのにひとりで買物ができず、洗濯、炊事、部屋の掃除なども満足にできない状態で、今後一生独身で過さざるを得ないと思われるが、これによる両親としての原告らの精神的苦痛は大きく、同女の生命が侵害された場合のそれに比しても著しく劣るものではないから、同原告らの右慰藉料請求は理由があり、原告らのその慰藉料は各二〇〇万円とするのが相当である。

(三)原告(77)松本俊子

(1) 原告松本俊子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年四月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告俊子は、それまで発育に異常はなく、一才未満ですでに魚を食べていたところ、一才八か月の昭和三一年四月歩行ができず、流涎が著明で、言葉が遅く不明瞭になつた。それでも四才になると、やつとひとり立ちと歩行ができるようになつた。昭和三六年四月袋小学校に入学したが、翌年五月九日の医師原田正純の診察所見によれば、当時知能ならびに性格障害、歩行ならびに運動失調、構音障害、アテトーゼなどが認められ、昭和三九年九月には水俣第一小学校の特殊学級に転較、翌年月から昭和四二年三月同校卒業まで姉ふさえとともに湯之児病院に入院して、同病院から通学した。知能指数(大脇式)は五二で、小学校六年間の成績は三年次の理科、音楽が5点法で「3」であるほかは「1」と「2」でこれらが同数あり、全学年を通して病気欠席がかなり多いが、歩行障害や構音障害は漸次改善された。昭和四二年四月水俣第一中学校の特殊学級に進学、中学在学中に運動機能は軽快し、ほとんどの運動がぎこちなく拙劣ではあるが可能となつたが、それでもミシンを中心とする手芸の作業学習はクラスの中では劣つていた。それに視野狭窄があり、教科の面はクラスの中ではよくできる部類に属したが、運動機能障害に比べると知的機能の障害が目立つた。昭和四五年三月右中学校を卒業して、しばらく知人のところで家事手伝いをしたのち、昭和四五年九月から翌年一二月末まで大阪市内の工場に就職し、チューインガムの包装、不良品の選別などの軽作業に従事していた。

(3) 同原告には現在、軽度の共同運動障害、粗大力の低下、固有反射の亢進などの症状のほかに視野狭窄(三〇度前後)と積極性に欠け、注意の集中が困難で、なげやりな性格、それに知識の貧困、思考・記憶力などの知的機能障害(この知能障害は脳波所見によつても証明される)があり、このために社会生活がかなり困難であるから、就労するにしても仕事の内容、職場の環境などが相当制限される状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、見舞金として七九万〇、四一八円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五二〇万九、五八二円が相当である。

(5) 原告松本俊郎、同松本トミエは、ふさえのほかに原告俊子まで生ける屍とされ、看病のために残業はできず月の半分は仕事を休み畑の耕作もできなかつたので、一家の生活は著しく窮乏し、両親として固有の精神的苦痛を蒙つたとして、その慰藉料を請求しているが、まず原告俊子の症状と生活障害の程度は前記認定の程度にとどまり、ほかに俊子の看護のため右原告らが就労できずそのために収入が減少して一家が困窮状態に陥つたことなどの事情を考慮しても、これだけでは、被害者の俊子が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の精神的苦痛を右原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、同原告らの右請求は失当である。

(6) すると、原告松本トミエが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(5)と(二)の(5)の合計額で一、八〇〇万円であり、原告松本俊郎のそれは、右(二)の(5)の二〇〇万円である。

19原告(80)田中義光、同(81)田中アサヲ、同(82)田中実子、同(83)田中昭安について

前記認定のとおり、原告田中義光と同田中アサヲは夫婦で、原告田中実子は右夫婦間の四女、原告田中昭安は同夫婦間の長男で、右夫婦間には三女の亡田中しず子がいた。

(一)亡田中しず子

(1) 亡田中しず子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年四月水俣病に罹患し、昭和三四年一月二日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 同女は、生来元気な子供でよくカキ打ちなどして遊んでいたが、五才五か月の昭和三一年四月一二日朝食のとき何度も茶碗を落し、箸が握れなくなり、同月一四日には歩行障害が現われてよく転び、同月一七日には発語障害、嚥下障害、視力障害が出現し、漸次睡眠障害も強くなつて狂躁状態を呈するようになり、同月一九日には嘔吐が頻発し、同月二三日附属病院に入院した。しかし、その後も症状は悪化し、四肢の運動障害の増悪、上下肢の腱反射亢進、全身の強直性痙攣発作の頻発、上下肢の著明な筋強剛、瞳孔の散大と反射消失、上下肢の屈曲変形、尖足などの症状が認められた。同年七月末から一か月間白浜の伝染病隔離病棟に収容されたのち、同年八月三〇日熊大小児科に入院した。その際の主要所見として、強度の言語・歩行・視力・意識・嚥下の各障害、筋緊張および腱反射の亢進、強直性痙攣、麻痺、失禁、流涎、発汗、散瞳などの症状が認められ、運動失調、視野狭窄などについて検査は不能の状態であつた。その後も、流涎、発汗など極く一部のものを除いてこれらの症状は持続し、のちには著明な強迫泣、強迫笑などの症状がこれに加わつた。入院後は嚥下障害のため鼻腔栄養を続けた。昭和三二年七月一日ころから毎晩痙性の全身痙攣をおこしていたが、一〇月ころから漸次快方に向かつたものの、昭和三三年二月初旬から再びときにその発作をみるようになり、七月中旬には夜半に痙攣発作がおきて意識が混濁し、硬直をみたことがあつた。また屡々、不眠、狂躁状態を呈し、各種の薬物による治療が試みられたが、その臨床症状については改善が認められなかつた。昭和三四年一月一日午後高熱を発し、呼吸困難に陥り、全身衰弱して、遂に翌二日嚥下性肺炎のため死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する顕著な所見が得られた。

(3) 争いのない水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(4) 同女の前記症状とその悲惨な経過、死亡の結果に同女の年令(死亡時八才一か月)、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、二〇〇万円が相当である。

(二)原告(82)田中実子

(1) 原告田中実子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年四月水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 同女は、姉しず子同様生来健康な子供であつたが、二才一一か月の昭和三一年四月二三日ころから歩行障害、上肢の運動障害、発語障害が現われ、翌二四日には右膝部、右手指に疼痛を訴えるようになつたので、同月二九日附属病院に入院した。その後の経過は、短期間に歩行不能、握力減弱、軽度の嚥下障害、強度の発語障害、四肢の腱反射亢進などの症状が発現し、このほか咀しやく機能の障害、睡眠障害、首の坐わりが悪くなる症状などを呈したが、後にこれらの咀しやく機能障害などの症状は軽快した。同年七月二四日白浜の伝染病隔離病棟に収容されたが、同年八月三〇日には姉しず子とともに熊大小児科に入院した。入院当初は、筋緊張の低下、流涎、四肢の異常運動などの症状があり、言語を発せず、知能も全く低下していたが、その後漸次臨床症状は改善され、昭和三二年三月下旬には母親の見分けがつき、同年六月上旬には足を曲げて坐ることができ、翌三三年八月ころからはひとり立ちと伝い歩きが可能になり、同年一〇月下旬にはわずかに歩行ができるようになつた。昭和三四年七月市立病院に転院した。昭和三五年三月ころには、著明な発語障害、筋強剛、共同運動障害、流涎、腱反射亢進、バビンスキーなどの病的反射が認められたが、昭和三七年八月同病院を退院した。昭和四〇年三月から同病院附属湯之児病院(リハビリテーシヨンセンター)に二か月間入院した。その後自宅にあるが、医師原田正純の昭和四四年一月二四日の診察所見によれば、当時同原告は知能程度が白痴の状態で、自発言語など自発性は全くなく、周囲のものに対して関心を示さず、ボタンかけ、箸を握ることもできない状態で、日常生活のすべての面で介助が必要であつた。

(3) 同原告には現在、高度の知能障害と原始反射、寡動、寡言を主徴とする症状群、それに四肢の筋強剛と痙痛、すべての固有反射の亢進、足膝間代陽性、ホフマン、ロツソリモ、バビンスキーなどの病的反射、足趾・手指のアテトーゼなどの症状があり、姿勢は前屈で、臀部を突き出し、肢態の軽度変形、左手第二指の過度伸展変形がみられ、流涎も著明で、歩行は動揺して極めて遅く、片足立ちやかがむ動作はできず、排便は全て浣腸によつている。他人の言うことはほとんど理解できず、また大小便などを含めて一切の意思表示がみられず、一度立たせるといつまでも立つたままで、目の前にある食物でも欲しがつたり、手に握ることはなく、もちろんボタンかけ、紐結び、箸、匙などを手に持つこと、大小便・月経の後始末など全くできない。なお、視聴力については著しい低下はみられないが、知覚・味覚・臭覚などの障害は検査不能のため不明である。

(4) 同原告には現在、前記認定のとおりの高度の知能障害、運動障害などの各種症状が認められるが、今後においてもこれらの症状については改善の見込みがなく、正常な成長は全く期待できないから、終生廃人同様の生活を余儀なくされるものと思われ、右症状、年令(現在一九才)、生活障害の程度、境遇、それに見舞金として七九万五、四一七円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、七二〇万四、五八三円が相当である。

(三)原告(80)田中義光、(81)同田中アサヲ、同(83)田中昭安

(1) 原告田中義光、同アサヲは、いずれも亡しず子の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告らは両親として、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する六〇〇万円をそれぞれ相続によつて承継取得した。

(2) 原告義光、同アサヲは、三女の亡しず子、四女の原告実子がほとんど時を同じくして発病入院し、当時ほかに一三才を頭に昭安ら四人の子供を抱えていたので、その後約六年間の長期間にわたり看病のため別居し、二重生活を強いられ、そのために経済的にも困窮して苦労したが、看病の甲斐もなくしず子を無惨な症状の果てに不慮の死で失い、あまつさえ実子までも同病のために若年の身で廃人同様の生活を送らせることになり、現在原告らは自分らも水俣病罹患の疑いがあるにもかかわらず、同女の日常生活について全面的に介助を余儀なくされているもので、この状態は同女の症状に鑑み今後も同女が生存する限り続くものと思われ、しず子の死についてはもちろん、実子の前記症状等から原告らが蒙る現在および将来の精神的苦痛もまた甚大で、死にも比肩すべきものがあるから、亡しず子の両親としては、ほかに見舞金として各二〇万五、〇〇〇円ずつを受領していることなどを考慮して、その慰藉料は各一七九万五、〇〇〇円、原告実子の両親としての慰藉料は各四五〇万円が相当である。

(3) すると、原告田中義光、同田中アサヲが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(三)の(1)および(2)の合計額で、いずれも一、二二九万五、〇〇〇円である。

(4) つぎに、原告田中昭安の慰藉料請求について考えるに、原告昭安(昭和一七年五月二七日生)は、亡しず子、原告実子の兄であり、これら両名の発病、死亡、現在の症状などによつて同原告が相当の精神的苦痛を蒙り、また同人らの看病のため不在がちの両親にかわつて長兄としてほかの弟妹の世話をし苦労したことは明らかで、ほかにも、当時中学校などで友人から伝染病の妹がいると悪口をいわれ、買物をしても釣銭を直接手渡してもらえず、母親のアサヲには運動会などの学校行事にも来てもらえなくて淋しい思いをしたり、経済的に窮迫して夜間高校にしか進学できず、昭和四七年三月やつと結婚できたが、妹らの病気が禍して自由に相手を選び恋愛を楽しむことができなかつたり、さらに両親でも死亡すれば将来実子の面倒をみなければならない立場にあることなどの事実が認められる。

ところで直接の被害者が生命侵害あるいはそれにも比肩し得べき程度の傷害を受けた場合に、その兄弟姉妹について固有の慰藉料請求が認められる場合のあることは、すでに述べたとおりであるが、直接の被害者である原告実子と被害者亡しず子の相続人である原告義光、同フジエが被害者自身に賠償されるべき慰藉料を請求し、ほかにも実子ら両名の死亡、傷害を理由に民法第七一一条によつて原告義光らが固有の慰藉料を請求して、そのいずれもが相当額認容された本件においては、それによつて右両名の近親者である原告昭安の精神的損害も償われるとみるのが相当で、結局、同原告には前記認定のような事情があるにしても、それだけでは金銭で慰藉されるべき精神的苦痛があるとは認め難いから、同原告の本訴請求は失当である。

20原告(84)江郷下美善、同(85)江郷下マス、同(86)渡辺ミチ子、同(87)宮本エミ子、同(88)江郷下スミ子、同(89)江郷下実、同(90)桑原アツ子、同(91)江郷下実美、同(92)江郷下一美、同(93)江郷下美一について

前記認定のとおり、原告江郷下美善と同江郷下マスは夫婦で、その余の原告らはいずれも右夫婦間の子(ミチ子は長女、エミ子は二女、スミ子は三女、実は長男、アツ子は四女、実美は三男、一美は五男、美一は六男)で、同夫婦間にはほかに五女として亡江郷下カズ子がいた。

(一)亡江郷下カズ子

(1) 亡江郷下カズ子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年四月ころ水俣病に罹患し、同年五月二三日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡カズ子は、正常に発育し、母マスとともにカキ打ちや薪拾いに行つていたが、生後五才四か月の昭和三一年四月二八日ころから平垣な道や畳の上でよく転び、手の動きは拙劣になつて物が握れず、言語も不明瞭になり、よく泣き、そのうち目が見えなくなつた。その後症状は短期間で急速に悪化し、翌五月になると、六日には嚥下障害、流涎、膝蓋腱反射亢進、八日には痙性失調性歩行が現われ、一〇日附属病院に入院した。しかし、そのころから全く立てず、食事も摂れなくなり、一六日には全く物が掴めず、言葉も「アーアー」というのみで意味がわからなくなつた。まもなく嚥下不能となり四肢に強直がみられ、不眠、不機嫌で興奮、多動などの譫妄状態を呈し、失禁するようになつた。二一日には風邪から肺炎を併発し、高熱が続いて痙攣が頻発し意識も全く消失して、遂に同月二三日死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(3) 争いのない同女の水俣病罹患の事実に、前記認定のような症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認められる。

(4) 同女の前記症状と死に至るまでのその悲惨な経過、死亡の結果に、同女の年令、境遇。それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合勘案すると、その慰藉料は一、〇九〇万円が相当である。

(5) 原告江郷下美善、同マスは、右認定のように未だ年若い五女カズ子を一と月足らずのわずらいで悲惨な症状のうちに突然失つたもので、これによる両親としての精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金として各一六万七、五〇〇円ずつを受領していることなど考慮すると、その慰藉料は各一八三万二、五〇〇円が相当であるが、また同原告らは亡カズ子の相続人であり、同女の被告に対する前項の慰藉料請求権について、民法所定の相続分であるその各二分の一に相当する五四五万円をそれぞれ承継取得した。

(二)原告(85)江郷下マス

(1) 原告江郷下マスが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三一年五月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告マスは、小学校尋常科を四年で終え、昭和六年四月原告美善と結婚するまで農業、家事手伝いなどしていたが、結婚後は美善とバラス、砂利などの運搬船に乗組み、その間六男五女がつぎつぎと生まれ、昭和二五年四月ころからは生業として夫婦で漁業を営み、獲された魚介類を魚市場に売り出して生計を維持していた。

(3) 同原告は、それまで健康に恵まれ重い病気に罹つたことはなかつたが、五女カズ子が附属病院に入院したので付添い看病していたところ、昭和三一年五月一六日ころから、指先の感覚がなくなつて手袋を着用して物に触れるような感じになり、口唇にしびれ感があり、舌が自由に動かず言葉も甘え口調になり、針の穴に糸が通せなくなつた。その後症状は上腕、両肩、口の周囲などに広がり、目がかすみ、手がふるえ、足踵の感覚がなくなつてスリッパが履けず、同年六月二五日ころには言語障害がすすみ、手指の運動障害にため箸が持てず、歩行時にはよろめき、膝蓋腱反射の亢進、視野狭窄、味覚障害も確認された。症状は翌月九日ころ最悪の事態をむかえたが、それ以降好転して同月二七日には歩行障害は余り目立たず、四肢の運動障害、振戦はみられなくなつた。昭和三二年八月二〇日かから昭和三四年末まで市立病院の水俣病専用病棟に入院したが、退院後なお言語障害、視野狭窄、知覚障害、共同運動障害、聴力障害などの症状は固定して持続し、身のまわりのことは一応できたが、炊事、洗濯、掃除が自力でできるようになつたのは昭和四三年以降のことで、昭和四六年一一月ころには高血圧が指摘された。

(4) 同原告には現在、構音障害、味覚・嗅覚の障害、求心性視野狭窄、聴力障害、筋緊張の低下、歩行失調、片足起立の不安定(左側)あるいは不能(右側)、指鼻・指々・踵膝試験、アジアドコキネージズなどで証明される共同運動障害、四肢末端、口周辺に強くとくに両手肘関節および足関節から先は脱失に近い知覚障害、右手第五指の軽い変形、記銘・記憶力・計算・思考の障害、高血圧、そのほかに頭痛、めまい、いらいら、物忘れなどの様々な自覚症状がある。このために、身のまわりのことや炊事、買物などの家事労働は一応できるが、粗雑で失敗が多く、最近は自覚症状が強いため終日何もできないことがある。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、職業、見舞金としてすでに一八八万三、七五一円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、四一一万六、二四九円が相当である。

(6) なお、原告江郷下マスを除く美善ら九名の原告は、原告マスが水俣病に罹患したことによつて夫あるいは子として固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているが、原告マスの症状、生活障害の程度は、前記認定の程度にとどまるので、ほかに同人が水俣病に罹患したために家族が経済的に困窮し、同人の看護に加えて家事の務めもかわつてしなければならなくなり、物心両面で苦労したことを考慮しても、これだけでは未だ被害者のマスが生命を害された場合にも比肩すべき、または右場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を同原告らにおいて蒙つたと解することはできないから、右原告らの請求は失当である。

(三)原告(92)江郷下一美

(1) 原告江郷下一美が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年五月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告一美は、小学校三年までは元気で漁業の手伝いなどしていたが、四年生になつた昭和三一年四月ころから、頭が虚で学校でも先生のいうことがわからなくなり、歩行時よく転び、手がふるえて宇が書けず、食べたものをよく吐き、五月になると、軽い頭痛がし、目が見えず、左上肢外側に知覚鈍麻があり、足がふらつき、舌がもつれて言葉が不明瞭になり、嚥下困難となつて、同月一二日には附属病院に入院した。なお発病後は小学校通学をやめた。その後数日で視力障害、左上肢の知覚鈍麻、嚥下障害は消失したが、同月末には頭部、上・下肢の振戦が現われ、共同運動障害、言語障害、歩行障害は進行し、六月二七日ころには辛うじて歩ける状態で、聴力障害もみられた。しかしこの歩行障害、頭部などの振戦はまもなく快方に向かつた。同年七月二七日から八月三〇日まで隔離病棟に収容されたのち、同年九月一四日ころ市立病院に入院した。入院当初は言語不明瞭、流涎、歩行障害、視野狭窄などの症状があり、食事、用便に介助が必要であつたが、入院中に症状は軽快し、自力で身のまわりのことはできるようになつたので、昭和三五年一月ころ同病院を退院した。その後失調性歩行も次第に改善されたので、漁業手伝いなどしていたが、昭和三八年二月から昭和三九年一一月まで大阪の紡績工場で工員として稼働し、昭和四〇年一月ころから昭和四五年までは北九州市で船員として荷物の積み下し、船の掃除などの仕事に従事していた。

(3) 同原告には現在、構音障害、聴力障害(右が強い)、視野狭窄(対面法で二〇度位)、筋緊張低下、固有反射減弱、指鼻・指々・踵膝試験、アジアドコキネージズなどで証明される共同運動障害、手指・頭の企図振戦、四肢末端の知覚鈍麻、それに加えて頭痛、めまい、物忘れ、不眠などの自覚症状があり、一般的知識は貧因で、思考・記銘・記憶・計算などの知的機能に痴愚程度の障害があり、弛緩、抑制がないなどの性格変化もみられ、このために服することができる労務が相当程度に制限されているものと認められる。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、これまでの就職状況、見舞金としてすでに三三万五、〇〇〇円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五六六万五、〇〇〇円が相当である。

(5) なお、原告江郷下美善、同マスは、原告一美が水俣病に罹患したことによつて、両親として固有の精神的苦痛を蒙つていることを理由に、その慰藉料を請求しているが、原告一美の症状、生活障害の程度は前記認定の程度にとどまるから、これだけでは被害者の一美が生命を害された場合にも比肩すべき、または右の場合に比して著しく劣らない程度の苦痛を同原告らにおいて蒙つたと解することはできないのであつて、右原告らの右請求は失当である。

(四)原告(93)江郷下美一

(1) 原告江郷下美一が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年六月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告美一は、それまで病気に罹つたことはなく漁業の手伝いなどしていたが、小学校二年の昭和三一年六月一四日ころから、足がふらついて転びやすくなり、言葉もたどたどしく不明瞭になつて、視力低下、視野狭窄、聴力障害が現われた。その後、手の動きが拙劣でふるえるために食事ができず、畳の上をいざり歩き、全身がふるえるようになり、ついには立てなくなつた。昭和三一年九月四日ころ市立病院に入院、その際流涎、頭部振戦、ロンベルグ現象強陽性、両側アジアドコキネージズ、歩行不能、書字不能などの症状があつたが、経過は比較的良好で、同月末にはなんとか八メートル位歩けるようになり、入院当初のころ必要であつた食事、用便の際の介助は次第に不要になり、昭和三四年暮れころ同病院を退院した。その後自宅にあつて人を嫌い孤独な生活をおくつていたが、昭和三九年ころから船に乗つて魚釣りを始め、昭和四一年から二年間は豚の屠殺場で働いたが、不器用で怪我が絶えなかつた。退院後一〇年経過した昭和四四年三月受診した際、物忘れ、疲れやすい、手がしびれるなどの自覚症状、構音障害、注意の集中困難、根気がないなどの症状と高度の知能障害が認められた。

(3) 同原告には現在、軽い眼球振盪様運動、味覚障害、構音障害、視野狭窄、筋緊張の軽い強剛、固有反射亢進、下肢における軽い粗大力の低下、片足起立不能、指鼻・指々・踵膝試験、両側アジアドコキネージズ、しやがみ、動作や後屈動作の際踵が挙らないことなどで証明される共同運動障害、上下肢全体とくに手足先端では脱失に近い知覚障害があり、さらに小児期に発病した水俣病患者に多くみられる高度の知能障害と性格変化があつて、文字が読めず、時計から確実に時刻を読み取ることができず、計算ができず、性格は無気力で積極性がなく単調である。このために身のまわりのことは一応自分でできるが、社会生活には支障があり、限られた作業にしか就業できない状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、見舞金としてすでに三三万五、〇〇〇円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、六六六万五、〇〇〇円が相当である。

(5) つぎに、原告江郷下美善、同マスの原告美一の水俣病罹患による精神的苦痛を理由とする慰藉料請求について考えるに、同原告らは自分ら(原告美善は昭和四六年一二月一六日水俣病の認定を受けた)のほかに、五女のカズ子、五男の一美、六男の美一が水俣病に罹患して死亡し、あるいは現在その症状に苦しみながら不自由な生活を強いられており、現在同居している家族の全員がその患者であるというまことに悲惨な状態にあるが、その中でも前記認定のとおり原告美一の症状、生活障害の程度が一番深刻で、小学校には二年の途中までしか満足に通学できなかつたが、現在高度の知能障害のため文字が読めず、12―5程度の暗算ができず、加えて性格面でも相当の障害があるので、社会生活には重大な支障がある状態で、これによる両親としての同原告らの精神的苦痛は大きく、同人の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、右原告らの慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は原告ら両名について各二〇〇万円が相当である。

(6) すると、原告江郷下美善が被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(一)の(5)と(四)の(5)の合計額で、九二八万二、五〇〇円であり、原告江郷下マスのそれは、右(一)の(5)、(二)の(5)および(四)の(5)の合計額で、二、三三九万八、七四九円である。

21原告(94)平木トメ、同(95)河上信子、同(96)田口甲子、同(97)平木隆子、同(98)斎藤英子について

前記認定のとおり、原告平木トメは亡平木栄の妻で、その余の原告らは右夫婦間の子(信子は長女、甲子は二女、隆子は四女、英子は五女)である。

(一)亡平木栄

(1) 亡平木栄が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三五年四月ころ水俣病に罹患し、昭和三七年四月一九日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡栄は、昭和二〇年一一月まで約二六年間八幡製鉄に勤め、二等航海士の免許を持つてその大半は船で鉄鉱石などを運搬する仕事に従事したが、その後食糧難のため妻トメの郷里である水俣市月浦に引揚げ、以来生業として漁業を営み、その収益と八幡製鉄からの退職年金で安定した生活を営んでいた。

(3) 同人は、生来健康に恵まれ、病気に罹つたことはほとんどなかつたが、昭和三四年一一月ころから体の疲労を訴え、漁は休んで舟の修理、松の苗植などの陸上の仕事をするようになり、同年一二月には四肢、胸部にしびれ感があり、やがて指先がきかず、手足が不自由になつて寝たり起きたりの生活をするようになつた。昭和三五年五月五日ころからは、言葉のもつれ、口のまわりのしびれ、震え、歩行障害が現われ、食事も箸が使えず、嚥下困難となつて、翌六日附属病院で診察を受けた。そこそのころの同病院における診察所見では、嗜眠状態で意識混濁、固有反射減弱、病的反射であるバビンスキー現象、オツペンハイム現象があり、流涎もみられ、検査の結果尿中に一六五γ/l(ガンマーパーリツター)、毛髪中に48.7ppmの水銀量を保有していた。同月一二日には言語障害が強くなり、聴力障害もみられ、同月二〇日ころからは、目も見えない様子で、アーアー声をあげて泣いたり、夜間起き上つて暴れたり、尿失禁もみられるようになり、同月末には、手の振戦が強く、また手足は変形して強直し、嚥下障害も著明となつて流動食すら摂取不能となり、全身状態が極度に衰弱し、同年六月三日市立病院に入院した。同年八月ころからは、目が見えず、反応がなくて寡言、寡動の状態を示したが、リンゲル注射をすると譫妄状態を呈し、暴れることもあつた。それでも治療の結果、同年一一月ごろには一時、重湯、果汁、牛乳などを摂食することができるまでになつたが、依然として無反応、寡動、寡言、視力障害、四肢変形、筋強直、失禁などの症状はその後も持続し、褥瘡、発汗、皮膚の落屑がひどく、強迫泣、強迫笑もみられ、このような状態が死亡するまで続いて、その間四肢の変形、筋萎縮は著明となり、全身衰弱が進行した。そして、末期には四〇度以上の発熱が持続し、全く動かなくなつて、遂に昭和三七年四月一九日死亡するに至つた。

(4) 争いのない水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、すでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は水俣病により死亡したものと認められる。

(5) 同人の前記症状とその悲惨な経過および死亡の結果に、同人の年令(発病時六七才位、死亡時六九才)、職業、境遇、それに生前見舞金として二〇万八、三三二円を受領していること、死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、三〇九万一、六六八円が相当である。

(二)原告(94)平木トメ、同(95)河上信子、同(97)田口甲子、同(97)平木隆子、同(98)斎藤英子

(1) 原告らおよび亡栄、原告トメ夫婦間の三女訴外岡本月子は、いずれも亡栄の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告平木トメは妻として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四三六万三、八八九円を、その余の原告らおよび訴外月子は子として、いずれも前記相続分である各一五分の二に相当する一七四万五、五五五円を相続によつて承継取得したが、原告田口甲子相続分の右慰藉料債権については、すでに消滅時効が完成していることは、先に認定したとおりである。

(2) 原告平木トメ(明治四〇年一二月七日生)は、亡栄と昭和二年事実上結婚し(婚姻の届出は昭和三年一〇月三日)、栄とともに原告信子ら五人の子を一人前に育てあげ、それぞれ嫁がせあるいは就職させて、経済的にも安定して、二人だけの平穏な生活を送ることができるようになつた途端に、夫の発病にあい、漁船や畑を手放し質屋通いまでするような苦しい生活状態のもとで必死に看病したが、その甲斐もなくやがてその夫を悲惨な症状のうちに失つたもので、現在生活保護を受けながら一人淋しく暮らしているが、同原告にもめまい、頭痛、耳鳴りなどの症状があつて水俣病の認定申請をしており、原告信子、同甲子、同降子、同英子らは、栄の発病当時すでに嫁いでいた者もあるが、他県の就職先から帰つて看病にあたつた者もあり、いずれにしても敬愛していた父を無惨な最期で奪われたものであるから、これによる原告らの精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金(弔慰金・葬祭料)として原告トメは一〇万六、六六七円、その余の原告らは各四万二、六六七円ずつを受領していることなどを考慮すると、その慰藉料は原告平木トメは妻として二八九万三、三三三円、その余の田口甲子を除く三名の原告らはいずれも子として一四五万七、三三三円、原告田口甲子は一九五万七、三三三円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の合計額(原告甲子は(2)のみ)で、原告平木トメは七二五万七、二二二円、原告甲子を除くその余の原告らは各三二〇万二、八八八円、原告田口甲子は右(二)の(2)の一九五万七、三三三円である。

22原告(99)尾上光雄、同(100)尾上ハルエ、同(101)尾上敬二について

前記認定のとおり、原告尾上光雄と同尾上ハルエは夫婦で、原告尾上敬二は右夫婦の養子である。

(一) 原告(99)尾上光雄

(1) 原告尾上光雄が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年一〇月一〇日ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告光雄は、昭和六年三月水俣市内の小学校を終えて理髪職人になり、昭和一三年から兵役に服した時期を除き独立して肩書住所に店舗を構えて理髪業を営んでいたが、その間昭和一五年四月に事実上原告ハルエと結婚し、漁が好きで、昭和二三年ころ小舟を入手してからは、仕事の合間に一か月に七日から一五日位恋路島周辺などに出て多量に魚を獲り、魚屋に売るなどして生計の助けにしていた。

なお原告らは、子供に恵まれなかつたので、昭和二八年三月光男の甥にあたる原告敬二と養子縁組をした。

(3) 同原告は、昭和三一年七月の水俣みなと祭りが過ぎたころから手の爪の感じがなくなり、その後次第にそのしびれ感が身体の中心に広がり、同年一〇月一〇日ころには客の顔を剃つている際カミソリを落とす事故があつて、以後理髪業をやめた。その後、しびれ感は両手、足趾、口の周囲、口唇、大腿部に及び、歩行障害もみられるようになつたので、附属病院で受診した。同月二五日の診察の際には指の振戦、両側四肢末端の知覚鈍麻、膝蓋腱反射の亢進、翌月六日の診察の際にはロンベルグ徴候、聴力障害などの症状が認められ、またこのころ耳鳴り、目の疲労と視力低下、視界の異常、言語障害、後頭部の疼痛、不眠などの症状が現われ、同月一九日には熊大病院第一内科に入院した。その際の主要所見としては、言語の断綴・蹉跌性、視野の同心性輪状狭窄、強度の失調性歩行、指々・指鼻試験の障害、ロンベルグ氏徴候、アジアドコキネージズなどの運動失調が認められた。その後言語・聴力障害がともに増強し、歩行不能となつて、強度の痙攣をみるようになり、性格も怒りつぽくなつて、妻のハルエに些細なことで乱暴することがあつた。昭和三二年一月ころから同年五月ころまでが最悪の時期で、その間寝たきりであつたが、痙攣がひどくて食物を受付けずリンゲル注射を一三日間続けたこともあり、著明な睡眠障害、間代性痙攣発作、頭痛、食欲不振、尿失禁、呼吸困難、流涎などの症状に悩まされ、バビンスキー反射、四肢などの著明な筋萎縮も認められた。しかし、同年五月末ころから症状は一時軽快し、歩行可能となつたので、同年一一月二〇日同病院を退院したが、その後はまた徐々に症状が悪化して、流動食しかとれず、歩行不能となり、再び昭和三三年七月一五日附属病院に入院し、歩行訓練とマッサージを続けた。昭和三四年四月一日市立病院に転院したが、当時高度の視野狭窄、難聴、失調性歩行などの運動失調、四肢の筋萎縮、構音障害などの症状がみられた。同年七月から一〇月ころまで別府の九大温泉研究所に入所し、泥湯療法、マッサージ、電気治療を受けた。その後は、熱心な訓練によつて次第に機能が回復し、昭和三七年ころから独力で用便ができ、また匙を使えばこぼしながらも食事ができるようになり、翌三八年には書字訓練を始め、字が書けるようになつた。昭和四〇年一月から翌年七月一日まで湯之児病院に入院し、プール、風呂、固定自転車、鉄棒などで機能回復のための訓練を続けた結果、手先の機能が少し回復し、ボタン掛けができ、歯の裏側は磨けないまでも歯ブラシが使え、煙草に自分で火をつけて喫煙することができるようになつた。以後自宅療養を続け今日に至つている。

(4) 同原告には現在、言葉がほとんど聴取れない位の構音障害、聴力障害、視野狭窄、著名な失調性歩行、坐位から立位に移行する際などの動作の不安定と柔軟性の欠如、直立時動揺、しやがみ動作および片足起立不能などの共同運動障害、指鼻・指々・踵膝試験、アジアドコキネージズなどで証明される運動失調、企図振戦、口周辺、四肢末端の知覚鈍麻、味覚・嗅覚の障害、性交不能、それに性格変化と記銘・記憶・計算などの知的機能障害が認められ、このため食事、洗顔、用便などの身のまわりのことは工夫して一応自分でできるが、日常生活を維持していくためには多少他人の介助が必要な状態にあり、生活保護法による扶助などで生計を維持している。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、発病前の職業収入、見舞金として一八七万四、五八五円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五一二万五、四一五円が相当である。

(二)原告(100)尾上ハルエ、同(101)尾上敬二

右原告らは、原告光雄が発病後繁昌していた理髪業をやめ、職人を雇つたり店を他人に貸して営業させたので、収入は減少し、そのうえに同人の看護や再三の入院で物心両面にわたり苦しい生活を強いられたが、現在も、不断の努力によつて手足の機能が回復し、身のまわりのことは一応自分でできるようになつたとはいえ、前記認定のうよな症状のために、原告ハルエの介添なしには口頭で他人に自分の意思を伝えることが困難で、入浴の際や用便の後始末などには介助が必要な状態にあり、これによる同原告らの精神的苦痛は大きく、同人の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、右原告らの慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は、原告尾上ハルエは妻として三五〇万円、同尾上敬二は子として一五〇万円が相当である。

23原告(102)長島アキノ、同(103)原田フミエ、同(104)長島政広、同(105)長島タツエ、同(106)三幣タエ子、同(107)長島努について

前記認定のとおり、原告長島アサノは亡長島辰次郎の妻で、その余の原告らは右夫婦間の子(フミエは長女、政広は長男、タツエは二女、タエ子は三女、努は二男)である。

(一)亡長島辰次郎

(1) 亡長島辰次郎が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三一年四月ころ水俣病に罹患し、昭和四二年七月九日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡辰次郎は、昭和三年一〇月原告アキノの家に婿養子として入り、昭和八年四月から昭和二九年七月まで被告会社水俣工場に硝酸係として勤務したが、その間昭和一九年三月作業中に硝酸を浴びて全身に大火傷を負い、昭和二二年三月までその治療のため休職した。同工場退職後は昭和三〇年四月から水俣化学工業所に就職、釣船を購入して仕事の暇には恋路島周辺で釣りをしていた。同人は体格がよく、若いころには相撲が好きで工場の係対抗試合ではよく優勝していた。

(3) 同人は、昭和三一年四月一日ころから突然手がふるえ、指にしびれ感があつて食事の際にご飯をこぼすようになり、同月一七日には流涎、言語障害、聴力障害がみられ、自転車に乗ることができなくなつた。その後も症状は急速に進行し、同月二〇日ころからは、手指の運動障害のためボタンかけ、着衣、書字が拙劣となり、歩行障害がみられ、全身の痛みを訴えるようになり、翌月一六日ころには視野狭窄のため正面の物しか見えず、嚥下困難の症状が現われたので、翌一七日附属病院に入院した。入院中、言語障害については著しい変化を認めなかつたが、その他の症状はいくらか軽快し、同年七月二七日から八月三〇日まで伝染病患者用の隔離病院に収容された。その後しばらく自宅療養を続け、昭和三三年一二月二日市立病院に入院した。同病院入院中の昭和三四年一月ころの所見としては、軽度の視野狭窄、難聴、筋疲労、運動変換困難、顕著な企図振戦、軽度陽性のロンベルグ氏徴候、歩行やや失調性、四肢末端の知覚鈍麻、腱反射やや減弱などの症状があつた。昭和四〇年三月一〇日には湯之児病院(リハビリテーションセンター)に転院したが、症状がはかばかしくないため、易刺激性、不穏状態、抑うつ的となり不眠を訴えた。同年八月の同病院における診察所見では、言語は不明瞭で蹉てつが著明、多く喋ると流涎がみられ、アジアドコキネージズ、指鼻・膝踵試験における企図振戦などの運動失調があり、歩行時の動揺は激しく、屈んだり立つたりするテストでは動作が円滑にいかず、床に手をつかないと立ち上れない状況で、頭部、手の振戦がみられ、筋緊張と固有反射が亢進し、中等度の難聴、視野狭窄、味覚・嗅覚障害のほか全身とくに四肢末端に強い知覚鈍麻があり、精神面は感情不安定、易怒爆発性、過緊張および抑うつ状態で、記銘力・記憶・計算・思考などの知的機能にも障害が認められた。昭和四一年七月一日湯之児病院を退院して再び自宅で療養することになり、当初は寝たり起きたりの状態であつたが、まもなく自宅付近に駐車場をつくるために土建会社とその工事について折衝をしたり、自分でもときにはスコップで土運びの作業をするようなことがあつた。ところが、昭和四二年三月から腹痛を訴え、その痛みが持続し、同年六月初めからは腹部膨隆、食欲不振などの症状が現われたので、同月九日市立病院に入院した。入院後、腹水の貯留をみるようになり、黄胆が認められ、翌七月四日ころからは急に症状が悪化して、立つことができず、意識が混濁し、腹水もたまり、遂に同月九日同病院において死亡するに至つた。

同人の死因は肝臓癌であつた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、①大脳皮質萎縮、特に鳥距野に著明で他は軽度、②小脳萎縮(軽度)、③大脳白質のびまん性粗鬆化などの水俣病に一致する所見が得られたが、ほかに萎縮性肝硬変症(Z型)と肝臓癌、その移転による胃の癌性潰瘍などが認められた。

(4) 当事者間に争いない同人の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を結合して考えると、同人は生前水俣病患者として定型的な主要症状を備えていたが、昭和四二年三月ころ肝臓疾患に罹り、以後これが合併症として加わり、その死因は水俣病の症状と関係があるとは断定できない肝臓癌であつたと認められる。

証人原田正純は右認定に反する証言をし、肝臓の悪性腫瘍と水銀中毒との間に因果関係があるようにいうが、甲第二二一号証中の熊大医学部武内忠男教授らの「一〇年後の水俣病の病理学的研究(その1)、特に一〇年経過後の水俣病の剖検例とその特徴」と題する論文によれば、死因が肝臓癌、肝膿瘍などである場合、「その死因は水俣病とは無関係」なのであり、「肝臓癌の発生が水銀と関係している証左はない」というのであつて、右証言は直ちに採用することができない。

(5) すると、同人の水俣病による生命侵害を理由とする慰藉料請求は失当といわざるを得ないが、同病による身体傷害を理由とする慰藉料請求は理由があり、前記水俣病による症状とその経過、それによる生存中の生活障害の程度、年令、職業、収入それに同人は生存中に見舞金として一二一万五、八三五円を受領していること、死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、四二三万四、一六五円が相当である。

(二)原告(102)長島アキノ、同(103)原田フミエ、同(104)長島政広、同(105)長島タツエ、同(106)三幣タエ子、同(107)長島努

(1) 原告らは、いずれも亡辰次郎の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告長島アキノは妻として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四七四万四、七二一円を、その余の原告原田フミエら五名の原告は子として、いずれも前記相続分である各一五分の二に相当する一八九万七、八八八円を相続によつて承継取得した。

(2) つぎに、辰次郎の死因が水俣病によるものでないことはすでに認定したとおりで、したがつてこれを理由とする原告らの慰藉料請求は失当であるが、同人生存中の水俣病に起因する各種の症状は前記認定のとおりで、重症の部類に属し、それによつて同人の生活は著しく障害されていたと認められるところ、原告長島アキノ(明治三八年一二月二八日生)は、このような夫辰次郎を発病以来一一年余りの長期間にわたり看病し、原告フミエ、同政広、同タツエ、同タエ子、同努らは、無収入の同人を経済的に援助し、あるいは自分の結婚を犠牲にして同人を看護するなど、同人の病気のためにそれぞれに物心両面で苦労を強いられたもので、辰次郎の妻子として同人が水俣病に罹患したために蒙つた精神的苦痛は大きく、その程度は被害者の辰次郎が水俣病によつて死亡したと仮定した場合のそれに比較して著しく劣るものではないから、右原告らの辰次郎の身体傷害を理由とする慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は、すでに見舞金(弔慰金、葬祭料)として原告アキノは一六万六、六六七円、原告フミエ、同政広、同タツエは各六万六、六六七円ずつ、その余の原告らも各六万六、六六六円ずつを受領していることなどを考慮すると、妻の原告長島アキノは二八三万三、三三三円、同原田フミエ、長島政広、長島タツエは各九三万三、三三三円、その余の原告らは各九三万三、三三四円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)および(2)の合計額で、原告アキノは七五七万八、〇五四円、原告フミエ、同政広、同タツエはいずれも三二八三万一、二二一円で、原告タエ子、同努は各二八三万一、二二二円である。

24原告(108)前嶋武義、同(109)前嶋サヲ、同(110)前嶋ハツ子、同(111)緒方ツユ子、同(112)前嶋一則について

前記認定のとおり、原告前嶋武義と同サヲは夫婦で、その余の原告らはいずれも右夫婦間の子(ハツ子は長女、ツユ子は二女、一則は養子で、ハツ子の夫)である。

(一)原告(108)前嶋武義

(1) 原告前嶋武義が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同原告が昭和三一年七月ころ水俣病に罹患し、現在に至つていることは当事者間に争いがない。

(2) 原告武義は、原告サヲと昭和九年ころ結婚、当時は百間港で港湾労務に従事していたが、その後被告会社水俣工場のカーバイト係、福岡県臼井炭坑の採炭夫などを経て兵役に服し、終戦後は水俣市坂口に居住して石工、井戸堀などの仕事に従事し、仕事の暇には伝馬船に乗りタコ釣りなどを楽しんでいた。

なお、原告武義ら夫婦は、昭和四〇年七月二一日原告一則と養子縁組をした。

(3) 同原告は、生来健康に恵まれ、病気に罹つたことはなかつたが、昭和三一年七月ころから右足第五指にしびれを覚え、同年八月二七日ころには、片足立ちがうまくできず、頭痛を訴え、茶碗を持つ手がふるえ、箸を落すようになつた。翌九月になると、言語が不明瞭となり、口唇、舌がしびれ、視野狭窄、聴力障害も現われて、同月二〇日熊大に入院した。入院中にしびれ感は全身に広がり、流涎は著明となつて、粗大な振戦、腱反射亢進、筋緊張減退、アジアドコキネージズ、左右前腕・下腿以下の知覚障害、歩行障害などの症状が現われ、わがままで怒りやすく子供のような精神症状を呈するようになつたが、その後加療の結果、運動機能の面でやや改善がみられ、ほかの症状には変化がないので、昭和三三年春ころ同病院を退院した。しかし、その後、精神症状が悪化して再三自殺を企て、興奮して刃物を持つて暴れ、嫉妬妄想を懐き、翌年ころからはほかに痙攣発作が始まつたので、同年六月には市立病院に入院した。その後は高度の聴力障害、視野狭窄は変らないが、振戦、流涎、歩行障害、言語障害などに幾分改善がみられ、精神面でもかなり落着きがみられ、食事も時間をかければ自分ででき、口もかなりきけるようになつたので、昭和三五年一月同病院を退院し、自宅で療養することになつた。そのうち次第に痙攣発作は治まつたが、視野狭窄、難聴、共同運動障害、企図振戦、言語ならびに歩行障害などの症状は持続し、嫌人的で、終日無為にすごすことが多くなつた。

(4) 同原告には現在、きわめて高度の聴力障害と視野狭窄(対面法で約一〇度)、著名な企図振戦、口周辺、四肢末端などの強い知覚障害のほか、断綴性で遅く不明瞭な言語、動揺性の歩行失調、四肢の共同運動障害、無気力で、邪気深く、強情で、怒りやすい性格、もうろう状態を思わせる興奮、記銘力・計算・思考などにおける中等度の痴呆、筋萎縮、流涎、筋緊張の亢進、固有反射の亢進、ロツソリモ現象、足クローヌスなどにみられる病的反射、粗大力の低下、不眠症、頭重など多彩な症状が認められ、そのため現在も治療を受けているが、歩行は介添があつて時間をかければ一ないし二キロメートルは可能で、食事は匙を用いれば自分ですることができ、着衣、ボタンかけ、紐むすびなどは拙劣で振戦を伴うが、これも時間をかければひとりでできるので、日常生活において監視と軽度の介助を要する状態にあり、原告一則の収入と生活保護法による扶助で生計を維持している。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、発病前の職業収入、それに見舞金としてすでに一八七万四、五八五円を受領していること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、五一二万五、四一五円が相当である。

(二)原告(109)前嶋サヲ、同(110)前嶋ハツ子、同(111)緒方ツユ子、同(112)前嶋一則

右原告らは、一家の働き手であつた武義が、四五才の若さで水俣病に罹患して収入の道を断たれたため、入院費用にもこと欠くほどの窮乏生活を強いられたが、そのうえに多彩な症状とくに精神症状の強かつた同人の看護で永年苦労し、現在なお同人には前記認定のような症状と生活障害が継続しているので、原告らの監視と介助が必要であり、これによる妻子としての原告らの精神的苦痛は大きく、武義の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、同原告らの慰藉料請求は理由があり、その慰藉料は、原告前嶋サヲは妻として三五〇万円、その余の原告らは子としていずれも一〇〇万円が相当である。

25原告(113)中村シメ、同(114)中村俊也、同(115)中村真男、同(116)川添己三子、同(117)都築律子、同(118)中村敦子、同(119)中村由美子について

前記認定のとおり、原告中村シメは亡中村末義の妻で、その余の原告らは右夫婦間の子(俊也は長男、真男は二男、己三子は長女、律子は二女、敦子は三女、由美子は四女)である。

(一)亡中村末義

(1) 亡中村末義が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が昭和三四年一月ころ水俣病に罹患し、同年七月一四日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡末義は、昭和三一年三月それまで約一四年間勤めた被告会社水俣工場を退職し、そのときの退職金で同年七月ころ小型の釣船を造り、そのころから半ば趣味として水俣川川口付近で釣りを楽しんでいた。

(3) 同人は、昭和三四年一月大相撲の初場所のころから目がかすんでテレビの字がわからなくなり新聞を読むときなどには手がふるえ、周囲の物が見えにくくなつた。そして同年三月二五日ころには突然横から人が飛び出して来るような感じがして自転車に乗れなくなり、その後同年四月に入つてから言葉がもつれ、怒りつぽくわがままになり、視野狭窄と手のふるえはひどくなつて、同月一四日には左上膊の痙攣、左上下肢のしびれ感、異常感が、翌一五日には左上肢の痙攣、歩行障害、聴力障害、睡眠障害が現われ、ついに同月一八日市立病院において水俣病と診断され、同月二四日同病院に入院した。その際の主要所見として、高度の求心性視野狭窄、聴力障害、構音障害、各種の共同運動障害などが指摘された。その後これらの症状は急速に悪化し、これに加えて同月三〇日ころから筋強剛、舌の振戦、五月には記憶障害が現われ、七月になると意識障害、精神興奮が著明となつて、裸になつて暴れたり、口中の食物を嚥下しないままつぎの食物を要求するようなことがあつたが、七月九日から仮眠状態ついで同月一一日昏睡状態に陥り、同月一三日夜には一時意識が回復したことがあつたが、その後四〇度の発熱と大きな痙攣発作があつて、遂に同年七月一四日死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 争いのない同人の水俣病羅患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は水俣病により死亡したものと認められる。

(5) 同人の前記症状とその死に至るまでの悲惨な経過および死亡の結果に、同人の年令(発病時五一才、死亡時五二才)、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、二〇〇万円が相当である。

(二)原告(113)中村シメ、同(114)中村俊也、同(115)中村真男、同(116)川添己三子、同(117)都築律子、同(118)中村敦子、同(119)中村由美子

(1) 原告らは、いずれも亡末義の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告中村シメは妻として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四〇〇万円を、その余の原告らは子として、前記相続分である各九分の一に相当する一三三万三、三三三円を相続によつて承継取得した。

(2) 原告中村シメ(明治四五年三月五日生)は、亡末義昭和六年一月結婚(届出は同年一二月八日)し、同人とともに俊也ら六人の子を養育しながら苦楽をともにしてきたが、苦しい付添い看護の甲斐もなく、半年余りの突然のわずらいでその夫を失つたもので、原告俊也、同真男、同己三子、同律子らは末義の入院中家計を助け、あるいはシメに代つて家事全般を取仕切り、妹の面倒をみ、原告敦子、同由美子らは学校で友達から父親の病気を奇病だといわれて辛い思いをするなどそれぞれ苦労したが、その父を前記のような無惨な症状のうちに失つたもので、これによる同人らの精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金としてすでに原告シメは一二万三、三三四円、その余の原告らは各四万一、一一一円ずつを受領していることなどを考慮すると、その慰藉料は原告中村シメは、妻として二八七万六、六六六円、その余の原告中村俊也ら六名の原告は、いずれも子として各九五万八、八八九円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の合計額で、原告中村シメは六八七万六、六六六円、その余の原告らは各二二九万二、二二二円である。

26原告(120)尾上時義、同(121)尾上勝行、同(122)尾上唯勝、同(123)真野幸子、同(124)千々岩信子について

前記認定のとおり、原告尾上時義は亡尾上ナツエの夫で、その余の原告らは右夫婦間の子(勝行は長男、唯勝は二男、幸子は長女、信子は二女)である。

(一)亡尾上ナツエ

(1) 亡尾上ナツエが水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が昭和三三年一月ころ水俣病に罹患し、同年一二月一四日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡ナツエは、昭和七年一〇月原告時義と結婚し、同原告との間に原告勝行ら二男二女をもうけ、発病直前まで被告会社水俣工場に勤めていた時義を助けて家事や農作業に従事していた。

(3) 同女は、昭和三三年一月ころから手先がしびれ、口のまわりの感じが異常になり、同年八月には口の周囲のほか舌などがしびれて言葉が少しもつれるようになつた。そして同年九月中旬ころになると、両側上下肢、肩甲部、口唇にしびれ感が広がり、さらに流涎や振戦が現われ、食事の際に箸を落したり、魚をむしることができなくなり、市内の浮池病院、市立病院などで治療を受けた。同年一〇月には中等度の歩行障害ならびに言語障害、軽度の聴力障害、それに視力障害、腱反射の亢進がみられ、同月一二日にはカミソリで両手首を切つて自殺を計り不安興奮状態を示したので、同日附属病院に入院した。その際の所見としては、失調性歩行でほとんど歩けず、言語障害のためほとんど何も言えず、膝蓋腱反射は両側とも軽度亢進し、腹壁反射は消失、四肢における痛覚・触覚は鈍麻し、高度の聴力、視力障害があり、ときどき譫言をいい、よく泣き、意識の混濁があつた。その後、これらの症状は急速に増悪し、同月一五日ころからは寝たままとなり、意識も清明さを欠き、言語障害も著明となり、入院後一週間を経過するころから筋強直性痙攣が頻発し、目も見えなくなつた。一〇月下旬には、ヒヨレア様運動、アテトーゼ様運動が加わり、嚥下障害のために食物が摂取できず、尿失禁が続き、またこのころから死亡まで三八度から三九度の発熱が持続した。食事は入院後それまで液体を口から流し込んでいたが、一一月四日から鼻腔栄養の方法に変つた。その後も精神神経症状は次第に悪化した。一二月一日には市立病院に転院したが、このころには意識が全くなく、絶えずヒヨレア様運動、アテトーゼ様運動を繰返し、他覚的に舌筋、両手指間筋の萎縮が認められ、膝蓋腱反射は両側とも亢進し、錐体路症状としての病的反射がみられた。そして高熱が持続するので各種抗生物質による治療が強力に試みられたが、解熱することなく、一二月一〇日ころから両肺野に水泡音を聴取するようになり、遂に同年一二月一四日午前一〇時ころ死亡するに至つた。

同女は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られた。

(4) 争いのない同女の水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同女は水俣病により死亡したものと認めるのが相当である。

(5) 同女の前記症状とその悲惨な経過およびその死亡の結果に、同女の年令(発病時四九才、死亡時五〇才)、境遇、それに死亡時からの遅延損害金を請求していること等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、二〇〇万円が相当である。

(二)原告(120)尾上時義、同(121)尾上勝行、同(122)尾上唯勝、同(123)真野幸子、同(124)千々岩信子

(1) 原告らは、いずれも亡ナツエの相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告尾上時義は夫として、民法所定の相続分であるその三分の一に相当する四〇〇万円を、その余の原告らは子として、前記相続分である各六分の一に相当する二〇〇万円を相続によつて、それぞれ承継取得した。

(2) 原告尾上時義(明治四〇年一一月一五日生)は、苦しい看病の末に同女を失つてからはノイローゼ状態に陥り、昭和三四年八月同原告の無気力な生活態度を心配した子供らのすすめで再婚したが、いまなお二七年も連れ添つた同女を失つた悲しみは消えず、原告勝行、同唯勝、同幸子、同信子は愛する生母を前記のような悲惨な症状のうちに失つたもので、いずれにしても同人らの精神的苦痛は大きく、ほかに見舞金としてすでに原告時義は一二万三、三三二円、その余の原告らは各六万一、六六七円ずつを受領領していることなどを考慮すると、その慰藉料は原告尾上時義は、夫として二三七万六、六六八円、その余の原告らは、いずれも子として一四三万八、三三三円が相当である。

(3) すると、原告らが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の合計額で、原告尾上時義は六三七万六、六六八円、その余の原告らは各三四三万八、三三三円である。

27原告(125)田中フジノ、同(126)田中春義、同(127)田中安一、同(128)田中重義、同(129)荒川スギノについて

前記認定のとおり、原告田中フジノは亡田中徳義の妻で、その余の原告らはいずれも亡徳義の弟妹で、そのうち原告春義は原告フジノの養子(徳義死亡後養子縁組)である。

(一)亡田中徳義

(1) 亡田中徳義が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が水俣病に罹患し、昭和四五年七月一三日死亡したことは当事者間に争いがない。

(2) 亡徳義は、昭和一二年まで被告会社水俣工場の荷造係をし、その後終戦まで満州で化学工業会社の現場監督をして、昭和二二年水俣市八の窪に引揚げ、以来生業として漁業を営み、獲れた魚は初めは行商をして売り捌いたが、昭和二五年からは店舗を構えて野菜や果物といつしよに販売し、かたわら一反位のミカン畑を耕作して、経済的にはゆとりのある生活をしていた。

(3) 同人は、昭和三四年から、舌がもつれ、頭痛がし、耳が遠く、性欲もなくなり、食事中に流涎をみ、性格は怒りつぽく些細なことで家族に当り散らし、すぐ泣いたりするようになり、夜間に譫妄状態が現われて深夜に入浴したり、お茶を飲み、徘徊したりすることがあつた。

昭和三五年になると、気分易変が著しくていらいらし、音をうるさがり、邪気深く、頑固で、口やかましくなつた。なお昭和三五年一二月一二日毛髪水銀量を測定したところ、55.8ppmの数値を示した。翌三六年には、視力障害、歩行障害のほか手の運動障害、すなわち指の細かい動作の拙劣さと震えが目立つようになり、食事用便が困難になつて、もちろん漁には出られなくなつた。昭和三七年一月尾田病院に入院して高血圧の治療を受けたが、自身にはその病識がなく、このころから精神症状が一層著明になつて不安、不穏状態を示し、罪業妄想が現われて自殺を計つたこともあり、同病院からは昭和三九年五月二日管理不能として退院させられた。

なお、同病院入院中の昭和三八年八月には構音障害もみられた。同月四日精神病院である水俣保養院に入院したが、入院中意識障害があり、一時期失禁がみられた。その後同院を退院し、三か月余りまた尾田病院に入院したが、再び精神症状が悪化して昭和四〇年三月一六日再度水俣保養院に入院し、以後昭和四五年七月一三日同院で死亡するまで退院することはなかつた。水俣保養院入院中の昭和四五年三月二八日の診察所見では、嫌人傾向が強く、過度に緊張し、疑い深く、記銘・記憶・思考の障害や失見当識、軽度の計算障害があり、歩行は痙攣性失調で介助を要し、用便や食事にも介助が必要で、失禁するためおむつを当て、構音障害、流涎が著明で、眼球運動は上方にやや制限があり、軟口蓋は右側が不全麻痺、口蓋垂は右方に偏位、軽い嚥下障害、それに神経性難聴、右側に強い部分抵抗症があり、両手にアジアドコキネージズ、企図振戦ほかに指鼻・指々・ロンベルグ・膝踵の各試験でもそれぞれ運動失調が証明され、直線歩行やまわれ右のときには介助が必要なほど動揺し、寝たままでの体位変換は極めて困難で、共同運動障害は著明、筋緊張は全体に低下し、固有反射減弱、膝蓋腱反射、アキレス腱反射はいずずれもほとんど消失、腹壁反射、挙睾筋反射はいずれも消失し、足指先に知覚障害があり、その他の知覚障害、視野狭窄、味覚・臭覚の障害については、知能障害のため検査ができなかつた。

同人は、以上のような経過を経て、遂に昭和四五年七月一三日高熱を出し、心筋梗塞による心臓麻痺のため死亡するに至つた。

同人は、死亡後熊大医学部病理学教室で剖検された結果、前記認定のとおりの水俣病に一致する所見が得られ、広範囲の大脳皮質神経細胞間引き脱落があり、それに血管性脳病変が加わつて特殊な病型をとつたものであることが認められ、この剖検結果にもとづいて昭和四六年四月二二日水俣病の認定を受けた。

(4) 争いのない水俣病罹患の事実に、前記認定のような臨床症状の経過、剖検結果およびすでに認定した本件中毒症の特性等を総合して考えると、同人は昭和三四年ころ水俣病に罹患し、前記日時に同病によつて死亡したものと認められる。

もつとも、直接の死因は心筋梗塞による心臓麻痺で、甲第二二一号証によれば、この心筋梗塞自体は水俣病と関係がないと認められるが、前記認定のような症状の経過、それに証人原田正純の証言(47.7.26)によれば、この心臓麻痺は右に認定した水俣病の症状が誘因となつて惹起されたものと認められるから、結局、同人は水俣病により死亡したものということができる。

(5) 同人の前記症状と死亡に至るまでのその悲惨な経過、とくに闘病期間の永かつたことおよび死亡の結果に、前記合併症、同人の年令(発病時五二才、死亡時六三才)、職業、境遇等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、八〇〇万円が相当である。

(二)原告(125)田中フジノ、同(126)田中春義、同(127)田中安一、同(128)田中重義、同(129)荒川スギノについて

(1) 原告らおよび亡徳義の兄亡田中時義の子訴外田中ミドリ、亡徳義の姉亡吉本ハナの子訴外大山口ヤエ子、亡徳義の姉亡吉本トシエの子訴外吉本豊ら五名、亡徳義の妹訴外佐藤キクノは、いずれも亡徳義の相続人であり、同人の被告に対する前記慰藉料請求権について、原告田中フジノは妻として、民法所定の相続分であるその三分の二に相当する一、二〇〇万円を、その余の原告らおよび右訴外田中ミドリら八名は、亡徳義の兄弟姉妹あるいはその代襲者として、前記相続分である二四分の一(兄弟姉妹一名ごとに)に相当する七五万円を相続によつて、それぞれ承継取得した。

(2) 原告田中フジノ(明治四五年一月二〇日生)は、亡徳義と昭和三年一月結婚し、子供に恵まれなかつたが、夫の漁業、食料品店の経営などで安定した生活を営んでいたところ、徳義の発病にあい、その後は店の経営も思うようにならず、ついには看護の甲斐もなく一一年にもわたる闘病生活のすえに精神病院でその夫を死亡させ、その後自分も歩行障害、頭痛、視野狭窄、聴力障害などの症状があつて水俣病の認定を受け、現在は原告春義とも別居してひとりで不自由な生活を送つているが、その精神的苦痛は察するに余り有るものというべく、その慰藉料は四〇〇万円が相当である。

(3) 原告田中春義(大正一一年三月二日生)は、亡徳義の実弟であるが、子のない同人ら夫婦によつて九才の時から実子同様に育てられ、昭和二四年の妻常子との結婚式も徳義夫婦の許で挙げ、昭和三六年一〇月まで同人らと同居して食料品店の経営を助け、別居後は金銭上の援助を続け、親子同様の生活を続けてきたものであるから、徳義の無惨な死による悲しみは実父の死亡による悲しみにも劣らないものがあるというべく、同原告にも民法第七〇九条、第七一〇条により固有の慰藉料請求を認めるべきであり、その額は二〇〇万円が相当である。

なお、同原告は昭和四六年五月一〇日原告フジノと養子縁組をしている。

(4) すると、原告田中フノジが被告に対して請求できる慰藉料の総額は、右(二)の(1)と(2)の合計額で、一、六〇〇万円であり、原告田中春義のそれは、右(二)の(1)と(3)の合計額で、二七五万円であり、その余の原告らのそれは、右(二)の(1)の各七五万円であある。

28原告(130)荒木幾松、同(131)荒木ルイ、同(132)荒木康子について

前記認定のとおり、原告荒木幾松と同荒木ルイは夫婦で、原告荒木康子は右夫婦間の六女である。

(一)原告(132)荒木康子

(1) 原告荒木康子が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同女が現に水俣病に罹患していることは当事者間に争いがない。

(2) 原告康子は、生後順調に発育し、赤ちやんコンクールで優勝候補になつたこともあつたが、小学校入学前の昭和二六年ころから、流涎がみられ、言葉が少なく不明瞭になり、翌年四月の小学校入学時には動作の緩慢、視力障害が指摘され、身体の発育も遅れ、病気がちであつた。その後、症状はゆるやかに進行し、言葉がほとんど聴取れず、流涎もひどく、手指の運動が拙劣で箸が使えず、紐を結んだりボタンを止めることもできないため自分で着替えができず、下駄なども思うように履けず、歩行もたどたどしくよく転んで怪我をするようになつた。もちろん学校の成績は下位で、遅刻や欠席が目立つた。昭和三二年三月の学校検診の際水俣病罹患の疑いがもたれたが、症状の発現時期が早すぎるとして、水俣病の認定を受けることはできなかつた。

昭和三五年夏の熊大第一内科の住民検診でも、視力障害、言語障害、粗大力障害、ボタン掛け・箸の使用その他の運動の拙劣さ、失調性歩行が確認され、同年一一月三日毛髪水銀量を測定したところ15.5PPmの数値を示した。昭和三六年三月水俣市立袋中学校を卒業した。その後症状は固定し、昭和四三年初めて水俣病の認定申請をしたが、一度は却下され、その後再度申請して昭和四六年四月二二日やつとその認定を受けたが、そのころから痙攣発作が増加し、不眠、頭痛、めまい、しびれ感も強くなつた。

(3) 同原告には現在、痙性失調性歩行、閉足立位で直立不能、片足起立不能、指鼻・指々・踵膝試験、アジアドコキネージズ、書字障害などで証明される共同運動障害、企図振戦、高度の構音障害、視野狭窄、失調性眼球運動、聴力障害、全身性の知覚鈍麻(四肢では知覚脱失)、右足先の外転位、手指変形および姿態異常、流涎、反応がおそく集中困難で無気力な性格変化、知識の貧困と一桁の加減暗算もできない計算および思考の知的機能障害(田中B式知能指数は五四で精神年令約八才二か月)、全身のしびれ感、頭痛、不眠、痙攣発作などの多彩な自覚症状のほかに原始反射、筋緊張の強剛と痙縮、固有反射の亢進、バビンスキーなどの病的反射、上、下肢の粗大力低下(握力は左四キログラム、右七キログラム)、味覚・嗅覚の障害、肩甲、下腿背面などの軽度の筋萎縮などの症状が認められる。このために自覚症状がなく、身体の調子の良好なときには、炊事の手伝い、食後の後片付け、散歩、病院通い、茶摘みの手伝いなどをすることがあるが、洗顔、着替え、入浴、食事などの身のまわりのこともひとりでは満足にできない状態にある。

(4) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに前記認定のような症状の経過、年令、今後も幸福な結婚生活に入ることは困難であること等諸般の事情を考慮すると、その慰藉料は一、七〇〇万円が相当である。

(二)原告(130)荒木幾松、同(131)荒木ルイ

右原告らは、すでに還歴をすぎ、自分らにも耳なり、頭痛、四肢末梢の知覚障害、視野狭窄などの水俣病罹患を思わせる症状があるが、それにもかかわらず原告康子の両親として、前記認定のような症状のために二七才になつても自分の身のまわりのことさえ満足にできない同女の面倒をみなければならず、これによる父母としての精神的苦痛は大きく、同女の生命が侵害された場合のそれに比して著しく劣るものではないから、右原告らの慰藉料請求は理由があり、原告康子の両親としての慰藉料は各三〇〇万円が相当である。

29原告(133)築地原司、同(134)築地原シエについて

前記認定のとおり、原告築地原司と同シエは夫婦である。

(一)原告(133)築地原司

(1) 原告築地原司が水俣湾周辺で獲れた魚介類を摂食していたこと、同人が現に水俣病に罹患していることは当事者間に争いがない。

(2) 原告司は、昭和一四年原告シエと結婚(婚姻の届出は昭和四五年一月一九日)、当時八幡製鉄所に勤務していたが、その後兵役に服し、昭和二二年七月ころからシエの実家のある芦北郡津奈木町に住居を定めて生業として漁業を営み、獲れた魚介類は漁協、魚市場、魚屋に売りに出して収入を得ていた。

(3) 同人は、生来きわめて健康で病気を知らなかつたが、昭和三一年夏ころから、夜寝たときなどに足がしびれて痙攣し、漁に出掛けるとき石に足をとられて転んだりすることがあつた。その後、歩行障害は徐々に悪化し、昭和三二、三年ころから杖を使用し、翌三四年には船で櫓を漕ぐときも腰を下したままこれを操り、波を恐がつて船の中を這つて歩くようになつたが、それでもなんとか昭和三九年ころまでは乗船して漁業に従事していた。昭和三五年一二月一八日採取した毛髪中の水銀量を測定したところ36.2PPmの数値を示した。昭和四〇年になると、杖をつかなければ全く歩けず、自転車にも乗れなくなつて杖がわりに押して歩いた。またそのころから言語障害、流涎がみられ、性交も不能となつた。同年三月ころからは週に一度市立病院で治療を受けていたが、昭和四一年一月五日には同病院に入院した。同病院では便所に行く際も壁や手摺にすがりながら歩く始末で、ボタン掛けなどの指先を使うことは困難になり、知覚障害、視野狭窄がみられ、また脊髄障害の検査、治療のため脊髄穿刺、頸椎牽引などの方法が試みられた。その後同年六月一日湯之児病院(リハビリテーションセンター)に転院したが、その年は床に臥さつていることが多く、翌年から、脊髄の手術をすすめられて体力をおとさないため、車椅子で運動を始めた。昭和四二年六月二九日熊大附属病院に転院し、同年七月末退院したが、そのころから全く動けなくなつた。同年九月急に頭部がビリビリする感じ、頭痛などに襲われ、苦しくて声がでなくなつたが、そののち大量の血尿が出たので、熊大附属病院に再入院し、二〇日間在院した。それ以後自宅にあつて寝たままで療養を続けているが、尿意も排尿感もなくなり、尿はたれ流しの状態で、現在に至つている。

(4) 同原告には現在、下肢の全運動麻痺(痙性麻痺)、直腸胱膀障害、下半身の高度な知覚障害などの脊髄障害があり、このために寝たきりで、尿は陰茎に袋を被せて採取しており、上肢にも粗大力筋緊張の低下、共同運動障害、知覚障害があり、前腕には筋萎縮があるので、食事位はなんとか自分でできるが、寝返り、着衣、用便には全て介助が必要で、それに加えて構音障害、味覚および嗅覚障害、高音部の聴力障害、視野狭窄(上下左右三五度)、痙攣発作、固有反射の亢進、病的反射などの症状があり、他人の介助なしには日常生活が維持できない状態が続いており、生活保護法による扶助を受けて生計を維持している。

(5) 同原告の前記症状とその生活障害の程度、それに同人の症状は将来も好転する見込みがないこと、これまでの症状の経過、年令、発病前の職業収入、境遇等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、八〇〇万円が相当である。

(二)原告(134)築地原シエ

原告築地原シエ(大正二年九月八日生)は、自分にも手指のしびれ感、視野狭窄、物忘れなどの水俣病罹患を疑わせる症状があり、現在認定申請中であるが、それにもかかわらず前記認定のように廃人同様の悲惨な症状に苦しむ司の妻として、同人の日常生活全般の介助および看護を余儀なくされており、そのうえ同人らには子供がないから、永年連れ添つた夫の再起が望めないとすれば、将来の楽しかるべき老後の生活においても物心両面にわたり相当不自由を忍ばなければならず、これによる同女の精神的苦痛は大きく、死にも比肩するといえるが、このような司の症状、原告らの生活状況等諸般の事情を考慮すると、妻としての同原告の慰藉料は六〇〇万円が相当である。

30原告(135)諫山茂、同(136)諫諫山レイ子、同(137)諫山孝子、同(138)諫山モリについて

前記認定のとおり、原告諫山茂、同レイ子は夫婦で、同諫山孝子は右夫婦間の長女であり、原告諫山モリは原告茂の母で原告孝子の祖母である。

(一)原告(137)諫山孝子

(1) 原告諫山孝子が現に水俣病に罹患していることは当事者間に争いがない。

(2) 原告諫山レイ子は、昭和三〇年一二月原告茂と結婚し、昭和三四年から肩書住所に居住しているが、親戚の漁師から貰うなどして水俣湾周辺で獲れた魚介類を、とくに孝子懐妊中は平素よりも多量に摂食していた。

(3) 原告レイ子は、それまで健康であつたが、原告孝子を懐妊中は、前二回の長男幸保(昭和三〇年一二月七日生)、二男良介(昭和三四年五月三日生)の出産のときよりも著しく疲労感を覚え、足がおぼつかなくて坂道は杖をついて歩くことがあつた。

原告レイ子は、昭和三六年七月三日原告孝子を予定より一か月早く出産したが、孝子は、出産時の体重が着衣のうえ測定して1,987.5グラム(五三〇匁)しかなく、新生児黄胆も強く、母乳と人工栄養の混合で育てられたが、生後の発育は悪く、体重も増加しなかつた。原告レイ子は原告孝子出産後一年位で全部歯が抜けてしまつた。

(4) その後原告孝子は、生後一年位を経過しても首が坐らず、笑いもせず、何も言わず、足の格好も普通と変つていたので、市立病院で受診したが、脳性小児麻痺と診断され、その後同病院で一日置きに栄養剤の注射を続けたが効果はなかつた。昭和三八年ころには身体が硬直するので、風呂に入れてマッサージをしていた。昭和四一年ころには夜中に発熱し、激しい痙攣発作がおきて危篤状態に陥つたこともあつた。昭和四三年二月八日重症心身障害児の治療・訓練施設である芦北学園に入園したが、十分に面倒がみて貰えず、また足の変形がひどくなり、やせて非常に衰弱したので、同年一二月二八日退園した。このころは、風呂の中でマッサージをしても足の屈伸ができない状態で、以後二年余り最悪の状態が続き、一晩中痙攣を繰返して顔面蒼白となり、ひどい発汗をみたり、膝の関節が紫色に腫れ上がつて足が曲つたまま伸びなくなつたり、食事をとらないためやせ細つたりした。それでも昭和四四年ろから、流涎も少し減り、「カーチャン」「トーチャン」などの言葉がきかれ、表情も豊かになつて、テレビに興味を示すようになつた。しかし、依然として首は坐らず、手足は変形して動かず、夜は不眠、不機嫌が続き、痙攣発作も頻発し、食事は咀しやく不能のためほとんど丸のみにし、失禁があり、翌四五年になつても痙攣の頻発、食欲不振、著明な全身発汗、極端な衰弱状態は変らなかつた。

(5) 同原告の現在の症状は、まず肢体の変形が著しく、首は左上方に傾き、躯幹は右側に回転し、左下肢は、股関節で四五度位屈曲、膝関節は踵が臀部に付く位い屈曲、全体として内転し、右下肢は、外転、膝関節で四五度位屈し曲、上腿部で左右の下肢が交差し、足関節は左は極端に背部へ屈曲、右は尖足、右足趾は足底へ屈曲し、両上肢は伸展位で肘関節で九〇度位屈曲しており、栄養状態、発育ともに不良で身長は九四センチメートルしかなく、顔面蒼白でやや貧血気味である。自発的に首や下肢を動かすことは全くできず、手はわずかに動くが自発的に物を握ることはできない。自発運動はなく、不随意運動、咀しやく障害、軽度の嚥下障害、発汗多過の症状がある。これに加えて高度の知能障害があり、刺激には迅速に反応し、自分の要求をかなり表現できるようになつたが、辛うじて喋れる「バーチヤン」「カーチャン」「いたか」「おかし」などの数語にも言語障害があり、痙攣発作が頻発すると苦悶状を呈し、食欲がなく、不眠状態が続く。このほか錐体外路症状として首、手足の指にアテトーゼ様運動、舌・手にヒヨレア様運動、錐体路症状であるバビンスキー・ロツソリモ・ホフマンなどの病的反射、開口反射などの原始反射がみられ、膝蓋腱反射・アキレス腱反射などの固有反射、下顎反射は亢進している。なお視聴覚・知覚の障害は知能障害のため、失調・共同運動障害は四肢不自由のため検査ができない。

(6) 右に認定した原告諫山レイ子の孝子懐妊中における魚介類の摂食状況、胎児性水俣病について前述した各臨床症状、家族歴等を考え併せると、原告孝子は、胎児期から新生児期にかけて主として胎盤を経由して母体内で高濃度の有機水銀による汚染を受け、その結果中枢神経に障害がもたらされて発症した有機水銀中毒による神経精神障害者(胎児性水俣病患者)であると認めるのが相当である。

(7) 同原告には現在、前記認定のように、極めて高度の知能障害、運動障害、言語障害などの各種の症状が認められるが、将来においてもこれらの症状は改善されることはなく、今後とも正常な成長は全く期待することができず、廃人同様の生活を引き続き余儀なくされるものと思われる。

同原告の前記症状、年令等諸般の事情を総合して考えると、その慰藉料は一、八〇〇万円が相当である。

(二)原告(135)諫山茂、同(136)諫山レイ子

原告諫山茂、同諫山レイ子は、前記認定のとおり孝子の発病時期(すなわち出生)が当時考えられていた基準からすると遅く、また生下時未熟児で新生児黄胆が強かつたためその面から脳障害が疑われて、公の機関による水俣病の認定が著しくおくれ、そのために十分な治療を受けさせることができず苦労したが、幼児期から廃人同様の孝子の父母として、自分らにも水俣病の症状があるにもかかわらず、現在同女の日常生活全般にわたり介助を余儀なくされており、今後においても同女の症状については改善の見込みが薄いから、この介助を要する状態は同女が生存する限り続くものと思われ、これによる同原告らの現在および将来の精神的苦痛はまことに大きく、死にも比肩すべきものがあるが、このような諸般の事情を考慮すると、原告孝子の両親としての慰藉料は各四五〇万円が相当である。

(三)原告(138)諫山モリ

つぎに、原告諫山モリの慰藉料請求について考えるに、原告諫山モリ(明治二五年七月一五日生)は、前記認定のとおり原告孝子の祖母であるが、これまで孫の孝子と同居し、深い愛情をそそいで同女の世話をしてきたもので、母のレイ子が二女松代(昭和四三年一一月九日生)を懐妊してからは、レイ子に代つて芦北学園に面会に行つたり、痙攣発作をおこしたときには幾晩も寝ないで付切りで看病したり、いまも茂は左官業、レイ子はミカン畑などの農作業に従事しているので、日中は一人で孝子の面倒をみ、夜も同原告が抱いて寝てやり、同原告がいなければおしめを換えることも困難な有様で、孝子の発病によつて右原告が相当の精神的肉体的苦痛を蒙つたのであろうことは容易に推認できるが、しかしすでに認定したとおり、直接の被害者である原告孝子の慰藉料請求および同女の両親である原告茂、同レイ子の固有の慰藉料請求が、いずれも全額認容された本件においては、それによつて原告孝子の近親者である原告モリの精神的損害も償われたとみるのが相当で、結局、同原告には前記認定のような事情があるにしても、それだけではそれ以上に金銭で慰藉されるべき精神的苦痛があるとは認め難いから、右原告の本訴請求は失当である。

五甲第二一五号証、同第二一六号証の一ないし三二、原告渡辺栄蔵本人尋問の結果(第三回)に弁論の全趣旨を総合すれば、原告渡辺栄蔵は本人および原告ら(ただし、原告(66)緒方新蔵、同(127)田中安一、同(128)田中重義、同(129)荒川スギノを除く)の代理人として、昭和四七年七月二三日弁護士山本茂雄と、本件訴訟第一審終結の際、右訴訟遂行の報酬として本訴認容額の一割五分ないしは本件訴訟の判決において認容された割合の報酬額を支払うことを約したこと、同弁護士は他の原告ら訴訟代理人である弁護士らとともに水俣病訴訟弁護団(団長山本茂雄)を結成し、訴訟代理人として本件訴訟事件(併合事件を含む)の全般にわたつて訴訟活動をしてきたことが認められる。

そして、原告らが本訴を提起し、これを遂行するにあたり、弁護士にこれを依頼することは、原告らの権利の擁護のために必要やむを得ない措置であつたと認められるから、これによる支出のうち、本件訴訟の性質、訴訟ならびに事前準備の遂行の難易度、請求額および認容額、その他諸般の事情を斟酌して、原告らにつきそれぞれ以上認容した慰藉料額の一割の金員については、本件不法行為と相当因果関係にある損害として被告が賠償義務を負うべきものと認める。

すると、被告の負担すべき弁護士費用額は別紙〔一〇〕の〔一〕の原告別請求・認容額一覧表の慰藉料合計欄の金額の一割に相当する同表の弁護士費用欄記載の各金員である。

第七一部弁済の抗弁

被告が、本件見舞金契約にもとづいて、原告らに対し別紙〔八〕の〔一〕・〔八〕の〔二〕の見舞金契約の患者側当事者・見舞金額など一覧表中、見舞金額欄記載のとおりの金員を支払つたことは当事者間に争いがないところ、被告は、原告らの本訴請求は右支払金の限度において理由がないと主張する。

しかし、この見舞金契約は、すでに認定したように公序良俗に反し無効であり、したがつてこの契約にもとづいて支払われた金員もその弁済の効力を生ずる余地はなく、また、右金員はすでに見舞金契約の判断のところで説示したように、原告らが本訴において請求している損害賠償債権の弁済のために交付された賠償金とは認められないから、いずれにしても被告の一部弁済の抗弁は理由がない。

第八結論

よつて、被告は、別紙〔一〇〕の〔一〕の原告別請求・認容額一覧表中、原告氏名欄記載の各原告ら(ただし、後記山下よし子ら二六名の原告をのぞく)に対し、同表中認容額総額欄記載の各金員およびこれに対する別紙〔一〇〕の〔二〕の遅延損害金の起算日一覧表記載の各起算日からいずれも支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、前記別紙〔一〇〕の〔一〕の一覧表記載の原告らのうち、原告(127)田中安一、同(128)田中重義、同(129)荒川スギノの本訴請求はすべて認容すべきであるが、右別紙記載の原告らのうち、右三名および後記山下よし子ら二六名の原告をのぞく原告らの本訴請求は前記の限度で理由があるからこれを認容し、同原告らのその余の請求および原告(16)山下よし子、同(17)浜田義一、同(18)浜田ひろ子、同(20)白川タミ、同(22)牛鴨フミ、同(41)坂本ミキ、同(42)坂本敦子、同(43)岩本栄作、同(44)岩本マツエ、同(59)田上京子、同(60)田上由里、同(61)田上里加、同(62)千々岩ツヤ、同(66)亡緒方リツ承継人緒方新蔵、同(74)松本ヒサエ、同(75)松本博、同(78)松本福次、同(79)松本ムネ、同(83)田中昭安、同(86)渡辺ミチ子、同(87)宮本エミ子、同(88)江郷下スミ子、同(89)江郷下実、同(90)桑原アツ子、同(91)江郷下実美、同(138)諫山モリの本訴請求は、いずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九〇条、第九二条但書、仮執行の宣言について同法第一九六条第一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(斎藤次郎 鴨井孝之 浦島三郎)

判決書中左記の部分は省略。原告主張事実(最終準備書面)

〃   (第一準備書面)

〃   (第二準備書面)

〃   (第五準備書面)

被告主張事実(最終準備書面)

〃   (第二準備書面)

〃   (第三準備書面)

〃   (第四準備書面)

別紙〔一〕原告ら訴訟代理人目録

別紙〔四〕書証目録

別紙〔九〕損害認定証拠一覧表

別紙〔二〕

請求債権額一覧表

(注) 家族番号欄内の(亡)患者の下に記載の数字は同患者の死亡年月日を示す(単位万円)

家族

番号

原告

番号

原告

氏名

請求

合計

金額

{+}

附帯請求起算日別内訳

欄の金額

についての起算日

慰謝料

小計

{+++}

慰謝料

弁護士費用

欄参照

昭和44.7.15

昭和46.9.28

昭和47.7.6

昭和47.8.19

①(亡)

シズエ

44.2.19

1

渡辺栄蔵

13,800,000

12,000,000

1,800,000

44.2.20

12,000,000

2

渡辺保

19,550,000

6,500,000

7,000,000

3,500,000

2,550,000

17,000,000

3

渡辺信太郎

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

4

渡辺三郎

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

5

渡辺大吉

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

6

石田良子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

7

石田菊子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

8

渡辺マツ

12,075,000

7,000,000

3,500,000

1,575,000

10,500,000

9

靏野松代

18,400,000

6,000,000

10,000,000

2,400,000

16,000,000

10

渡辺栄一

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

11

渡辺政秋

20,700,000

8,000,000

10,000,000

2,700,000

18,000,000

②(亡)

鶴松

35.10.12

12

釜トメオ

13,800,000

12,000,000

1,800,000

35.10.13

12,000,000

13

釜時良

18,975,000

16,500,000

2,475,000

16,500,000

14

浜田義行

10,350,000

3,000,000

1,500,000

4,500,000

1,350,000

9,000,000

15

浜田シズエ

23,575,000

3,000,000

1,500,000

16,000,000

3,075,000

20,500,000

16

山下よし子

3.450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

17

浜田義一

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

18

浜田ひろ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

19

浜田良次

24,150,000

8,000,000

10,000,000

3,000,000

3,150,000

21,000,000

20

白川タミ

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

21

牛嶋直

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

22

牛嶋フミ

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

⑤(亡)

44.7.29

23

杉本トシ

35,000,000

12,000,000

8,000,000

10,500,000

4,575,000

44.7.30

30,500,000

24

杉本栄子

17,250,000

10,500,000

3,000,000

1,500,000

2,250,000

15,000,000

25

杉本雄

17,250,000

10,500,000

3,000,000

1,500,000

2,250,000

15,000,000

26

鴨川シメ

3,450,000

2,000,000

1,000,00O

450,000

3,000,000

⑥(亡)

洋子

32.7.11

27

淵上才蔵

15,525,000

13,500,000

2,025,000

32.7.12

13,500,000

28

淵上フミ子

15,525,000

13,500,000

2,025,000

13,500,000

⑦(亡)

フミ子

31.9.3

29

松田ケサキク

27,600,000

18,000,000

4,000,000

2,000,000

3,600,000

31.9.4

24,000,000

30

松田冨美

2,760,000

1,800,000

400,000

200,000

360,000

2,400,000

31

松由末男

2,760,000

1,800,000

400,000

200,000

360,000

2,400,000

32

松田富次

23,460,000

1,800,000

8,400,000

10,200,000

3,060,000

20,400,000

33

永田タエ子

2,760,000

1,800,000

400,000

200,000

360,000

2,400,000

34

中岡ユキ子

2,760,000

1,800,000

400,000

200,000

360,000

2,400,000

⑧(亡)

キヨ子

33.7.27

35

坂本嘉吉

15,525,000

13,500,000

2,025,000

33.7.28

13,500,000

36

坂本トキノ

15,525,000

13,500,000

2,025,000

13,500,000

⑨(亡)

真由美

33.1.3

37

坂本武義

20,700,000

13,500,000

3,000,000

1,500,000

2,700,000

33.1.4

18,000,000

38

坂本フジエ

20,700,000

13,500,000

3,000,000

1,500,000

2,700,000

18,000,000

39

坂本しのぶ

20,700,000

8,000,000

10,000,000

2,700,000

18,000,000

40

坂本タカエ

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

41

坂本ミキ

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

42

坂本敦子

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

43

岩本栄作

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

44

岩本マツエ

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

45

岩本昭則

18,400,000

6,000,000

10,000,000

2,400,000

16,000,000

46

上村好男

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

450,000

47

上村良子

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

450,000

48

上村智子

20,700,000

8,000,000

10,000,000

2,700,000

18,000,000

⑬(亡)惣八 31.10.5

(亡)マツ 34.9.7

49

浜元一正

19,221,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

571,428

285,714

2,507,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

16,714,281

50

田中一徳

19,221,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

571,428

285,714

2,507,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

16,714,281

51

浜元二徳

38,771,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

7,571,428

10,285,714

5,057,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

33,714,281

52

原田カヤノ

19,221,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

571,428

285,714

2,507,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

16,714,281

53

浜元フミヨ

22,671,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

2,571,428

1,285,714

2,957,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

19,714,281

54

藤田ハスヨ

19,221,423

(T1)8,785,711

(T2)7,071,428

571,428

285,714

2,507,142

(T1)31.10.6

(T2)34.9.8

16,714,281

55

浜元ハルエ

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

⑭(亡)

トヨ子31.3.15

56

溝口忠明

15,525,000

13,500,000

2,025,000

31.3.16

13,500,000

57

溝ロマスエ

15,525,000

13,500,000

2,025,000

13,500,000

58

田上義春

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

59

田上京子

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

60

田上由里

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

61

田上里加

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

62

千々岩ツヤ

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

63

坂本マスヲ

20,700,000

7,666,666

10,333,334

2,700,000

18,000,000

64

坂本実

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

65

緒方輝喜

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

66

緒方新蔵

1,000,000

666,666

333,334

1,000,000

⑰(亡)

辰雄

40.2.6

67

荒木愛野

13,800,000

12,000,000

1,800,000

40.2,7

12,000,000

68

荒木洋子

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

69

荒木止

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

70

荒木節子

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

71

荒木辰已

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

72

松本俊郎

10,350,000

6,000,000

3,000,000

1,350,000

9,000,000

73

松本トミエ

2,530,000

10,000,000

12,000,000

3,300,000

22,000,000

74

松本ヒサエ

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

75

松本博

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

76

松本ふさえ

23,000,000

8,000,000

12,000,000

3,000,000

20,000,000

77

松本俊子

23,000,000

8,000,000

12,000,000

3,000,000

20,000,000

78

松本福次

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

79

松本ムネ

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

⑲(亡)

しず子

34.1.2

80

田中義光

20,700,000

13,500,000

3,000,000

1,500,000

2,700,000

34.1.3

18,000,000

81

田中アサヲ

20,700,000

13,500,000

3,000,000

1,500,000

2,700,000

18,000,000

82

田中実子

20,700,000

8,000,000

10,000,000

2,700,000

18,000,000

83

田中昭安

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

84

江郷下美善

27,600,000

13,500,000

7,000,000

3,500,000

3,600,000

31.5.24

24,000,000

85

江郷下マス

14,975,000

13,500,000

11,000,000

12,000,000

5,475,000

36,500,000

⑳ (亡)

カズ子

31.5.23

86

渡辺ミチ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

87

宮本エミ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

88

江郷下スミ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

89

江郷下実

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

90

桑原アツ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

91

江郷下実美

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

92

江郷下一美

23,000,000

9,000,000

11,000,000

3,000,000

20,000,000

93

江郷下美一

23,000,000

9,000,000

11,000,000

3,000,000

20,000,000

(亡)

37.4.19

94

平木トメ

13,800,000

12,000,000

1,800,000

37.4.20

12,000,000

95

河上信子

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

96

田口甲子

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

97

平木隆子

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

98

斎藤英子

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

99

尾上光雄

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

100

尾上ハルエ

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

101

尾上敬二

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

(亡)

辰次郎

42.7.9

102

長島アキノ

13,800,000

12,000,000

1,800,000

42.7,10

12,000,000

103

原田フミエ

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

104

長島政広

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

105

長島タツエ

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

106

三幣タエ子

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

107

長島努

7,935,000

6,900,000

1,035,000

6,900,000

108

前嶋武義

19,550,000

7,000,000

10,000,000

2,550,000

17,000,000

109

前嶋サヲ

5,175,000

3,000,000

1,500,000

675,000

4,500,000

110

前嶋ハツ子

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

111

緒方ツユ子

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

112

前嶋一則

3,450,000

2,000,000

1,000,000

450,000

3,000,000

(亡)

末義

34.7.14

113

中村シメ

13,800,000

12,000,000

1,800,000

34,7.15

12,000,000

114

中村俊也

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

115

中村真男

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

116

川添己三子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

117

都築律子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

118

中村敦子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

119

中村由美子

7,475,000

6,500,000

975,000

6,500,000

(亡)

ナツエ

33.12.14

120

尾上時義

13,800,000

12,000,000

1,800,000

13.12.15

12,000,000

121

尾上勝行

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

122

尾上唯勝

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

123

真野幸子

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

124

千々岩信子

8,625,000

7,500,000

1,125,000

7,500,000

(亡)

徳義

45.7.13

125

田中フジノ

20,700,000

18,000,000

2,700,000

45.7.14

18,000,000

126

田中春義

4,312,500

3,750,000

562,500

3,750,000

127

田中安一

750,000

750,000

750,000

128

田中重義

750,000

750,000

750,000

129

荒川スギノ

750,000

750,000

750,000

130

荒木幾松

5,175,000

4,500,000

675,000

4,500,000

131

荒木ルイ

5,175,000

4,500,000

675,000

4,500,000

132

荒未康子

20,070,000

18,000,000

2,700,000

18,000,000

133

築地原司

20,070,000

18,000,000

2,700,000

18,000,000

134

築地原シエ

6,900,000

6,000,000

900,000

6,000,000

135

諫山茂

5,175,000

4,500,000

675,000

4,500,000

136

諫山レイ子

5,175,000

4,500,000

675,000

4,500,000

137

諫山孝子

20,070,000

18,000,000

2,700,000

18,000,000

138

諫山モリ

3,450,000

3,000,000

450,000

3,000,000

別紙〔三〕

患者一覧表

*印は胎児性患者を示す。

家族

番号

原告

番号等

患者氏名

生年月日

認定年月日

死亡年月日

1

渡辺シズエ

明大昭 年月日

明33.7.4

昭和 年月日

44.5.29

昭和 年月日

44.2.19

9

靏野松代

昭25.3.31

31.12.1

10

渡辺栄一

〃27.6.22

31.12.1

11

*渡辺政秋

〃33.11.10

37.11.29

2

釜鶴松

明36.8.28

35.2.3

35.10.12

3

15

浜田シズエ

昭5.6.18

45.1.21

19

*浜田良次

〃34.10.23

30.3.28

4

21

牛嶋直

明28.5.17

35.11.4

5

杉本進

〃38.10.2

36.8.7

44.7.29

23

杉本トシ

大10.2.7

34.9.18

6

淵上洋子

昭29.1.18

31.12.1

32.7.11

7

松田フミ子

〃2.8.17

32.10.1

31.9.3

7

32

松田富次

昭24.7.29

31.12.1

8

坂本キヨ子

〃4.12.29

31.12.1

33.7.27

9

坂本真由美

〃28.8.5

31.12.1

33.1.3

39

*坂本しのぶ

〃31.7.20

37.11.29

10

40

坂本タカエ

〃14.3.2

31.12.1

11

45

岩本昭則

昭25.11.12

31.12.1

12

48

*上村智子

〃31.6.13

37.11.29

13

浜元惣八

明31.7.3

31.12.1

31.10.5

浜元マツ

〃33.2.15

31.12.1

34.9.7

51

浜元二徳

昭11.1.22

31.12.1

14

溝ロトヨ子

〃23.1.11

31.12.1

31.3.15

15

58

田上義春

〃5.3.20

31.12.1

16

63

坂本マスヲ

大13.5.2

32.10.15

17

荒木辰雄

明31.7.12

32.10.15

40.2.6

18

72

松本トミエ

大12.11.24

45.6.19

76

松本ふさえ

昭24.10.10

32.10.15

77

松本俊子

〃29.8.13

39.3.28

19

田中しず子

〃25.11.24

31.12.1

34.1.2

82

田中実子

〃28.5.3

31.12.1

20

江郷下カズ子

〃25.12.20

31.12.1

31.5.23

85

江郷下マス

明45.2.15

31.12.1

92

江郷下一美

昭20.4.9

31.12.1

93

江郷下美一

〃22.11.9

31.12.1

21

平木栄

明25.12.5

35.6.8

37.4.19

22

99

尾上光雄

大5.11.20

31.12.1

23

長島辰次郎

明37.3.21

31.12.1

42.7.9

24

108

前嶋武義

〃43.11.20

31.12.1

25

中村末義

〃40.3.15

34.4.24

34.7.14

26

尾上ナツエ

〃41.10.15

33.10.2

33.12.14

27

田中徳義

〃40.2.15

45.1.21

45.7.13

28

132

荒木康子

昭20.6.23

45.1.21

29

133

築地原司

明42.1.7

45.2.10

30

137

*諫山孝子

昭36.7.3

45.1.28

別紙〔五〕

水俣病患者魚介類喫食状況一覧表

(註) 摂食した魚介類名にあげられたものはすべて水俣湾ないしその周辺海域で捕獲されたものである。

患者名

摂食した魚介類名

同上摂食の態様

(亡)渡辺シズエ

カニ、エビ、ビナ、

アジ、ボラ、

コノシロ、グチ、

アサリ等

戦前から昭和三二年四月発病に至るまで、毎食一食につき中皿三杯程度食べた。

これらは漁師たる夫原告渡辺栄蔵、同長男原告渡辺保の捕獲したものである。

靏野松代

右に同じ

昭和三一年九月二三日発病当時年令六年六月であつたが、離乳以来魚を食べ、発病後これをやめた。

摂取量は毎食中皿一杯程度。魚の捕獲者は前に同じ。

渡辺栄一

右に同じ

昭和三一年一一月発病当時四才であつたが、離乳以来魚を食べ、発病後これをやめた。

摂取量、魚の捕獲者は前に同じ。

渡辺政秋

本患者は母原告渡辺マツが産んだ胎児性患者である。

右渡辺マツは昭和二五年下益城郡豊川村から水俣市袋にいる原告渡辺保に嫁して以来、前記三者記載と同じ魚介類の摂食をつづけ、その摂取量は毎食中皿二ないし三杯で、政秋懐妊中もこれを継続していた。

(亡)釜鶴松

コノシロ、ボラ、

タチウオ、スズキ、

チヌ等

生来の漁師であるので、幼少時から昭和三四年六月(当時五八才)発病まで自分の捕獲した魚類を毎食中皿二杯程度摂食していた。 発病後も摂食したことがある。

浜田シズエ

カレイ、スズキ、

ボラ、

カタクチイワシ、

チヌ、ボラ等

本患者は津奈木海岸等で採れた上記魚を昭和二五年頃から毎食多量に摂食した。

浜田良次

本患者は母原告浜田シズエが産んだ胎児性患者である。

母シズエは父原告浜田義行とともに津奈木沿岸でイワシ網を使つてイリコをとるのが専業であるが、その網に入つてくるカレイ、スズキ、ボラ等を売らずに自家消費していた。

右シズエはとくに魚好きで、さしみも人の倍は食べた。

その期間は昭和二五年頃から昭和三四年八月頃までであり、患者浜田良次は同年一〇月二三日出生した。

牛嶋直

カニ、カキ、ナマコ、

ボラ、シロコ等

昭和一八年頃水俣市袋茂道に移住して以来、一日に上記の魚介を丼で三、四杯食べていた。

その来源は親族または近所の人からもらつたものである。水俣病が問題になつて摂取量を多少減らしたが、食料難(貧乏もあり)のため魚食をやめることはできなかつた。昭和三三年五月発病。

(亡)杉本進

カキ、黒貝、カニ、

ヒトクチダコ、ボラ等

戦前から本人発病(昭和三三年一〇月)まで朝昼晩常食として食べた。

本人は漁師であつて、自分でとつたものである。

杉本トシ

右に同じ

本人は前記亡杉本進の妻であつて、摂食の態様は前に同じ。

(亡)淵上洋子

本患者は母原告淵上フミ子が昭和二九年一月一八日産んだ胎児性患者である。

母フミ子は昭和二七年現住地に移住して以来洋子死亡(昭和三二年七月二日)後しばらくして水俣病で一般が騒ぎだした頃まで、アサリ、カラス貝、タコ等を三日に二日の割で、量としては週にどんぶり二、三杯位食べた。

貝はフミ子が自分で採取、タコ、その他の魚は日雇労務者の夫才蔵がホコづき手掴みで取つて来た(貧困のため漁具なし)

(亡)松田フミ子

カニ、エビ、ボラ、

アジ、コノシロ、

ビナ等

幼少時から、昭和三一年二九才にして発病(一月半後死亡)するまで毎食中皿二杯程度上記の魚介を食べた。

右魚介は、漁師であつた父松田勘次および本人が漁舟に同乗してとつたものである。

松田富次

右に同じ

魚介の来源右に同じ、離乳後昭和三〇年笠月七才にして発病するまで毎食中皿一杯位の魚介類を食べた。

(亡)坂本キヨ子

アジ、ボラ、エビ、

コノシロ等

父原告坂本嘉吉は漁師で、本人は水俣営林署勤務のかたわら家業手伝もしていた。

上記魚介は父親ないし本人がとつたものであり、発病までは毎食中皿二杯程食べていた。

本人は昭和二八年四月発病したものであるが、昭和三〇年頃までは魚介類を食べつづけた。

(亡)坂本真由美

エビ、カニ、ボラ、

グチ、タコ、イカ等

昭和三一年六月発病当時二才四月であつたが、離乳後発病まで、一日に二、三回上記の魚介類を食べていた。

来源は父坂本武義が採つたものである。

坂本しのぶ

本患者は母原告坂本フジエが産んだ胎児性患者である。

本患者は昭和三一年七月二〇日生れたが、母フジエはその懐妊中およびそれ以前継続して前項記載と同じ魚介類を同様に摂食していた。

坂本タカエ

イワシ、タコ、イカ、貝類

七才頃から昭和三一年五月発病まで、イワシ漁や浜辺で自分が採つたものおよび一部買つたものを継続的に食べた。

岩本昭則

カニ、エビ、アジ、

ボラ等

離乳から昭和三一年八月発病時(当時満五才)まで毎食中皿一杯位食べていた。カニはそれより上くに多く食べていた。

これらは漁師である父原告岩本栄作がとつたものである。

上村智子

本患者は母原告上村良子が産んだ胎児性患者である。本患者は、昭和三一年六月一三日生れたが、母良子はその懐妊中およびそれ以前継続して祖父が釣つて来た魚介類を毎食食べていた。

その後地元産の魚を食べると水俣病になると判つてから、他所で採れた魚を食べている。

(亡)浜元惣八

ボラ、コノシロ、

カキ、エビ、カニ、

タコ、イカ等

本人は漁師で昭和三一年七月発病当時六〇才のであつたが、幼少の頃から三度の食事に必らず魚介類を食べた。

イキのよい魚を商品として売り、商品にならないクズ魚を自家消費したことが多い。

水俣病で熊大付属病院に入院するまで魚を食べ続けた。

(亡)浜元マツ

右に同じ

幼少時から昭和三一年九月発病入院まで毎食上記の魚介類を食べた。

来源は右亡惣八に嫁したあとは惣八と共同の漁業から、嫁する前は父親の釣つたものであつた。

浜元二徳

右に同じ

二才頃から昭和三〇年七月(当時一九才)発病時まで毎食食べた。

来源は父亡惣八、母亡マツないし本人が採つたものである。

(亡)溝ロトヨ子

ボラ、タコ、イカ、

貝類

二才頃から昭和二八年六月(当時五才)発病時を経昭和二九年一一月頃まで朝昼晩たべていた。

貝類は自家採取、魚類は購入したものが主であつた。

田上義春

タコ、イカ、貝類

幼少時から昭和三一年七月発病まで、毎日の食事に一度か二度は食べた。主に買つて食べたが、時には自分で釣つたものを食べた。

坂本マスヲ

タコ、タチウオ、

アジ、カラス貝、

ビナ、イカ、キス、

ガラカブ等

幼少時から、昭和三一年九月頃まで毎食皿一ぱい位食べた。

タコ、カラス貝、ビナ、カキは自分で採取、イカ、キス、ガラカブは弱つているのを自分でとつて食べたことがある。

(亡)荒木辰雄

タコ、カニ、アワビ、

ナマコ、ガラカブ、

チヌ、キス、アジ、

タチウオ等

昭和一一一年三月、水俣に移住して以来海漁が好きで、自分で採つて、三度三度大皿一杯位腹一杯に食べていた。

昭和二八年頃チヌ、スズキが海面に浮いているのをとつて食べたことがある。昭和二九年七月発病後は買つてまでは食べなかつた。

松本トミエ

カキ、ビナ、アサリ、

タコ、黒貝、チヌ、

ボラ、スズキ、

エビ等

本患者は、娘時代から海に親しみ、百間港から明神崎あたりまで貝掘りに行き、アサリ、ビナ、タコ、黒貝などを採つて来ては家族と共に之を食していた。

カキ打ちは特に上手で、舟を漕いではよく恋路島にカキ打ちに行つていた。

結婚後も同じく一日に一度は海に行つて貝や魚を取つて来て家族一同で食していた。

カキ、ビナ、アサリなどは特に本患者の好物であつて、ヒサエ、ふさえ、俊子などの子供達と共に、三度の食事に欠かしたことはなかつた。

その間には、チヌ、ボラ、スズキ、エビなども採つて来て殆んど主食のようにしてたべていた。

松本ふさえ

カキ、アサリ貝、

ビナ、シイノフタ、

カマジヤク、ボラ、

コノシロ等

離乳後から副食物の九割は魚介類で、カキ、ビナ等は間食に食べ、五、六才位から本人が磯に行つてカキ、ビナを自分でとつて生のまま食べていた。

魚類は、網引の手伝の礼にもらつたものが多い。

昭和三一年六月頃まで(発病後二月頃まで)魚の摂食を続けた。

松本俊子

右に同じ

来源は右に同じ、摂食状況も、ほとんど主食がわりの程度で離乳時から昭和三一年六月頃まで摂食した。

(亡)田中しず子

ボラ、エビ、グチ、

タコ、イカ、カキ、

アサリ、

ムラサキ貝、ビナ等

離乳から昭和二九年七月頃(熊大の先生がカキ、ムラサキ貝を研究のためもつて帰つたのを見た)まで毎食主食と同量位の魚介類を食べた。

間食にも貝類を食べた。

それは父原告田中義光が半農半漁で自家採取のものである。

田中実子

右に同じ

右に同じ。

(亡)江郷下カズ子

黒貝、カギ、カニ、

タチウオ、ガラカブ、

スズキ、キス等

離乳後昭和三一年四月(満五才)発病まで漁師たる両親がとつてきた上記の貝介を毎食食べた。

とくに磯からとれる黒貝を多く食べた。

江郷下マス

右に同じ

幼少時から昭和三一年五月(当時六一才)発病時まで、黒貝を主とし魚介類を毎食食べていた。

家業が漁業で黒貝は自分でとり、魚類は

夫が釣つて来たものである。

江郷下一美

右に同じ。

離乳後昭和三一年五月(当時一一才)まで上記魚介類を食べた。

その態様来源は前記二者と同じ。

江郷下美一

右に同じ

発病時が昭和三一年六月(当時九才七月)の外右に同じ。

(亡)平木栄

カキ、タチウオ、

小ダイ、タコ、

ガラカブ、クサビ等

昭和二二年頃から同三五年四月(当時六八才)発病時まで毎食上記魚介を食べた。

本人は漁師で、自分で採つたものである。

尾上光雄

クロウオ、タコ、

カニ、エビナ等

昭二三年頃から同三一年一〇月発病後入院まで毎食多量に摂取した。

本人は理髪業であるが一月に一五日は夜漁に行つて上記魚介類を採つて来たものである。

(亡)長島辰次郎

タイ、タチ、キス、

タコ、カニ、エノケ、

フグ、アジ、クサビ、

ガラカブ、カラス貝、

カキ等

昭和二四年頃まで土曜日曜漁に行き、同二九年頃から昭和三一年四月発病時まで毎日漁に出て上記の魚介を採つて、毎食食べた。

その量は日に大皿三ないし四杯、カラス貝は一人で鍋一杯食べていた。

発病後も昭和三四年頃までは食べ続けた。

前嶋武義

カキ、黒貝、タコ、

クサビ、ガラカブ、

キスゴ等

本人は石工であるが、終戦前から昭和三一年六月発病時まで漁に行き、毎食これを食べた。

多く釣れたときは一食中皿山盛二杯、少く釣れたときでも中皿一杯は食べていた。

(亡)中村末義

キス、タチ、カレイ、

コチ、スズキ、

ブ貝等

本人は差物大工であつたが、昭和三一年七月漁舟を作つてから自分で上記の魚介をとり大量に食べはじめ、昭和三四年はじめ発病まで継続した。

摂取量は魚を一週間にどんぶり二杯位、ブ貝を一週間に二〇ないし三〇個。

(亡)尾上ナツエ

タコ、キス、クサビ、

エソ、アサリ、

カキ等

戦時中から昭和三三年九月水俣病発病入院まで毎食上記の魚介を食べた。

タコが主で、カキ、アサリがこれに次ぐ。

タコは夫原告尾上時義がとつたもの、カキ、アサリは自分で採取したものである。

(亡)田中徳義

太刀魚、ボラ、

タコ等

本患者は昭和二二年から水俣湾で漁を始め、捕獲した上記魚を毎食多量に摂食した。

荒木康子

ボラ、太刀魚、

キス、タコ、カニ等

本患者は昭和二〇年六月二三日出生したが、幼い頃から水俣湾及びその近海で採れた上記魚を毎食摂食した。

築地原司

ボラ、コノシロ、

スズキ、ナマコ、

エビ、カニ、

シロコ等

本患者は昭和二二年から水俣湾及びその近海で採れた上記魚を毎食多量に摂食した。

諫山孝子

本患者は母原告諫山レイ子が出産した胎児性患者である。

右の母親は水俣湾産及びその近海で採れた太刀魚、タイ、タコ、アジ等を幼い頃から毎食多量に摂食した。

別紙〔六〕の〔一〕

調停案(原案)

本調停委員会は、新日本窒素肥料株式会社(以下「甲」という。)と水俣病患者家庭互助会(以下「乙」という。)との間に生じた水俣病患者に対する補償問題を円満に解決するため、これを調停の対象とし、左記のとおり調停案を提示します。

一 甲は、水俣病患者(すでに死亡した者を含む。以下「患者」という。)に対する見舞金として、次の要領により算出した金額を交付するものとする。

1 すでに死亡した者の場合

(1) 発病時に成年に達していた者

発病時から死亡の時までの年数に一〇万円を乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

(2) 発病の時に未成年であつた者

発病の時から死亡の時までの年数に一万円を乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

2 生存している者の場合

(1) 発病時に成年に達していた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月末日までの年数に一〇万円を乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は毎年一〇万円を支払う。

(2) 発病時に未成年であつた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月末日までの年数に一万円を乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は成年に達するまでの期間は毎年一万円を支払う。

(ハ) 成年に達した場合は毎年五万円を支払う。

3 年金の交付を受ける者が死亡した場合

すでに死亡した者の場合に準じ弔慰金及び葬祭料を支払い、年金は打ち切るものとする。

(註) 右により算出した金額は一時金として凡そ二、一〇〇万円、年金として凡そ五、三〇〇万円(年額凡そ三〇〇万円)となる。

二 見舞金の交付対象人員は、七八人とする。

三 甲は、見舞金を交付するに当つては、所要の金額を日本赤十字社熊本県支部(以下「丙」という。)に寄託しその配分について依頼するものとする。

四 本日以降において発生した患者に対する見舞金については、甲はこの調停案の内容に準じ別途交付するものとする。

五 将来、水俣病が甲の工場排水に起因するものと決定した場合においても患者は新たな補償金の要求は一切行なわないものとする。以上の調停案により円満妥結されることを切望します。

昭和三四年一二月  日

不知火海漁業紛争調停委員会

委員 寺本広作

委員 岩尾豊

委員 伊豆富人

委員 河津寅雄

委員 中村止

新日本窒素肥料株式会社

水俣病患者家庭互助会}あて

別紙〔六〕の〔二〕

調停案(最終)

本調停委員会は、新日本窒素肥料株式会社(以下「甲」という。)と水俣病患者家庭互助会(以下「乙」という。)との間に生じた水俣病患者に対する補償問題を円満に解決するため、これを調停の対象とし、左記のとおり調停案を提出します。

一 甲は、水俣病患者(すでに死亡した者を含む。以下「患者」という。)に対する見舞金として、次の要領により算出した金額を交付するものとする。

1 すでに死亡した者の場合

(1) 発病時に成年に達していた者

発病時から死亡の時までの年数に一〇万円を乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二〇万円を加算した金額を一時金として支払う。

(2) 発病の時に未成年であつた者

発病の時から死亡の時までの年数に三〇万円を乗じて得た金額に弔慰金三〇円万円及び葬祭料二〇万円を加算した金額を一時金として支払う。

2 生存している者の場合

(1) 発病時に成年に達していた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月末日までの年数に一〇万円を乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は毎年一〇万円を支払う。

(2) 発病時に未成年であつた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月末日までの間未成年であつた期間についてはその年数に三〇万円を、成年に達した後の期間についてはその年数に五万円を乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は成年に達するまでの期間は毎年三万円を支払う。

(ハ) 成年に達した場合は毎年五万円を支払う。

3 年金の交付を受ける者が死亡した場合

すでに死亡した者の場合に準じ弔慰金及び葬祭料を支払い死亡の月をもつて年金は打ち切るものとする。

4 年金の一時払いについて

(1) 水俣病患者診査協議会が症状が安定し又は軽微であると認定した患者(患者が未成年である場合はその親権者)が年金にかえて一時金の交付を希望する場合は、甲は希望の月をもつて年金を打ち切り一時金として二〇万円を支払うものとする。

但し一時金の交付希望申入れの期間は、水俣病患者診査協議会の認定後半年以内とする。

(2) 前項により一時金の支払いを受けた者は爾後の見舞金に関する一切の請求権を放棄したものとみなす。

二 見舞金の交付対象人員は七九人とする。

三 甲は、見舞金を交付するに当つては、所要の金額を日本赤十字社熊本県支部水俣市地区長(以下「丙」という。)に寄託しその配分について依頼するものとする。

四 本日以降において発生した患者(水俣病患者診査協協議会の認定した者)に対する見舞金については甲はこの調停案の内容に準じ別途交付するものとする。

五 将来水俣病が工場排水に起因しないことが決定した場合においてはその日以降の見舞金の交付は打ち切るものとする。

六 将来水俣病が、甲の工場排水に起因するものと決定した場合においても患者は新たな補償金の要求は一切行なわないものとする。

七 本調停の解釈に疑義があるときは、本調停委員会が有権的な解釈を行なうものとする。

以上の調停案により円満妥結されることを切望します。

昭和三四年一二月二九日

不知火海漁業紛争調停委員会

委員 寺本広作

委員 岩尾豊

委員 伊豆富人

委員 河津寅雄

委員 中村止

新日本窒素肥料株式会社

社長 吉岡喜一殿

別紙〔七〕の〔一〕

契約書

新日本窒素肥料株式会社(以下「甲」という。)と渡辺栄蔵、中津美芳、竹下武吉、中岡さつき、尾上光義、前田則義(以下「乙」という。)但し本契約において乙は別紙添付の水俣病患者発生名簿記載の患者のうち現に生存する者については本人を既に死亡している者についてはその相続人及び死亡者の父母、配偶者、子をすべて代理するものとする)とは両当事者間に生じた水俣病患者に対する補償問題について、不知火海漁業紛争調停委員会が昭和三四年一二月二九日提示した調停案を双方同日受諾して円満妥結したのでここに甲と乙とは次のとおり契約を締結する。

第一条 甲は水俣病患者(すでに死亡した者を含む。)以下「患者」という。)に対する見舞金として次の要領により算出した金額を交付するものとする。

一 すでに死亡した者の場合

(一) 発病の時に成年に達していた者

発病の時から死亡の時までの年数を一〇万円に乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

(二) 発病の時に未成年であつた者

発病の時から死亡の時までの年数を三万円に乗じて得た金額に弔慰金三〇万円及び葬祭料二万円を加算した金額を一時金として支払う。

二 生存している者の場合

(一) 発病の時に成年に達していた者

(イ) 発病の時から昭和三四年一二月三一日までの年数を一〇万円に乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は毎年一〇万円の年金を支払う。

(二) 発病の時に未成年であつた者

(イ) 発病時から昭和三四年一二月三一日までの間、未成年であつた期間についてはその年数を三万円に、成年に達した後の期間についてはその年数を五万円に乗じて得た金額を一時金として支払う。

(ロ) 昭和三五年以降は成年に達するまでの期間は毎年三万円を成年に達した後の期間については毎年五万円を年金として支払う。

三 年金の交付を受ける者が死亡した場合

すでに死亡した者の場合に準じ弔慰金及び葬祭料を一時金として支払い、死亡の月を以つて年金の交付を打ち切るものとする。

四 年金の一時払いについて

(一) 水俣病患者診査協議会(以下「協議会」という。)が症状が安定し、又は軽微であると認定した患者(患者が未成年である場合はその親権者)が年金にかえて一時金の交付を希望する場合は、甲は希望の月をもつて年金の交付を打ち切り、一時金として二〇万円を支払うものとする。

但し一時金の交付希望申し入れの期間は本契約締結後半年以内とする。

(二) (一)による一時金の支払いを受けた者は、爾後の見舞金に関する一切の請求権を放棄したものとする。

第二条 甲の乙に対する前条の見舞金の支払は所要の金額を日本赤十字社熊本県支部水俣市地区長に寄託しその配分方を依頼するものとする。

第三条 本契約締結日以降において発生した患者(協議会の認定した者)に対する見舞金については甲はこの契約の内容に準じて別途交付するものとする。

第四条 甲は将来水俣病が甲の工場排水に起因しないことが決定した場合においてはその月をもつて見舞金の交付は打ち切るものとする。

第五条 乙は将来、水俣病が甲の工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行なわないものとする。

本契約を証するため本書二通を作成し甲、乙、各一通を保有する。

昭和三四年一二月三〇日

甲 新日本窒素肥料株式会社

取締役社長 吉岡喜一

右代理人

新日本窒素肥料株式会社水俣工場

工場長 西田栄一

渡辺栄蔵

中津美芳

竹下武吉

中岡さつき

尾上光義

前田則義

昭和三四年一二月製

水俣病患者発生名簿

水俣市

水俣市長 中村止

水俣病患者一覧表

世帯

番号

患家世帯主

家業

患者番号

患者氏名

生年月日

続柄

患者職業

住所

発病月日

収容月日

死亡月日

転帰

1

溝口忠明

大工

1

溝口トヨ子

S23.1.11

出月

S28.12.6

S31.3.15

死亡

2

金子ユキ

農業

2

金子親雄

S26.9.26

明神

〃29.4.27

自宅

国保

6

金子近

S6.4.25

長男

扇興運輸

〃6.17

29.7.1熊大へ2ケ月

9.1退院

30.5.15

自宅死亡

3

中岡君義

漁業

3

中岡義則

S27.3.22

三男

まて

がた

〃5.5

29.10.21

死亡

4

津川義光

日窒

4

本人

T3.1.28

本人

日窒

会社員

百間

〃5.25

新日窒

5

柳迫直喜

日窒

5

本人

M38.3.9

本人

日窒

会社員

多々良

〃6.14

29.8.5

死亡

6

三宅則義

日雇

7

三宅トキエ

M36.7.1

洋裁

月之浦

〃6.10

〃10.25

死亡

7

山川通

漁業

8

山川一清

S21.3.29

養子

小一年

〃8.20

30.6.19

死亡

22

山川千秩

T14.8.2

漁業

30.12.13

31.4.9

死亡

8

塩平憲行

9

塩平静子

S26.5.6

四女

まて

がた

29.8.12

29.10.3

死亡

10

本人

M45.3.6

本人

漁業

〃8.19

〃8.19

死亡

9

崎田未彦

11

崎田タカ子

S16.7.9

三女

中一年

湯堂

〃8.20

34.8.3自宅より

市立病院

入院中

生医教住

10

川上千代吉

12

本人

M38.2.15

本人

漁業

出月

〃5.13

31.1.18小川再生院

31.6.18

小川

再生院

死亡

11

荒木辰夫

漁業

13

本人

M31.7.12

本人

漁業

出月

S29.11.

30.4.22小川再生院

小川

再生院

入院中

生医

12

中津美芳

14

中津芳夫

S6.9.19

長男

30.6.20

第一内科へ

30.8~9月

自宅

国保

45

本人

M40.12.1

本人

31.8.9

32.9.9熊大入院

32.10.

退院

13

浜下猶吉

15

本人

M34.7.9

本人

月之浦

30.3.10

S31.4.10

死亡

14

松田勘次

16

松田富次

S24.7.29

四男

小一年

湯堂

〃5.27

31.8.7~31

伝染病院

自宅重症

国保

44

松田文子

S2.8.17

長女

漁業

31.7.13

同上8.30熊大へ

31.9.2

熊大

にて

死亡

15

大矢安太

17

大矢二芳

T6.7.16

二男

日窒

会社員

明神

30.6.17

31.10.17

死亡

62

本人

M19.11.2

本人

漁業

31.11.15

自宅

国保

16

米盛盛蔵

大工

18

米盛久雄

S27.10.4

長男

出月

30.7.19

33.12.2自宅より

市立病院へ

34.7.24

死亡

17

米盛猛士

日窒

19

武田ハギノ

T2.3.22

30.8.1

30.11.21

死亡

18

田上勝喜

漁業

20

本人

M38.10.19

本人

漁業

梅戸

30.11.15

31.4.12再生院へ

再生院

入院中

生教医

19

坂本嘉吉

半農半漁

21

坂本キヨ子

S4.12.29

二女

農業

湯堂

〃10.

33.7.27

死亡

20

長島辰次郎

化学工員

25

本人

M37.4.21

本人

化学工員

百間

31.4.2

31.7.27~8.30

伝染病院へ

33.12.2自宅より

市立病院へ

社保

21

岩坂増太郎

漁業

24

本人

M16.11.6

本人

漁業

湯堂

S31.2.18

S32.8.7

死亡

26

岩坂一行

S7.3.5

長男

〃4.10

自宅

国保

22

岩坂政喜

23

岩坂聖次

S28.12.27

三男

〃1.15

31.7.20

死亡

23

松本俊明

日雇

27

松本フサエ

S24.10.10

二女

小一年

月之浦

〃4.1

33.12.2自宅より

市立病院へ

日雇

24

田中義光

漁業

28

田中静子

S25.11.24

三女

〃4.14

34.1.2

死亡

29

田中実子

S28.5.3

四女

〃4.24

31.8.30熊大へ

34.7.29熊大退院

市立病院へ

市立病院

入院中

生教医

25

中間盛蔵

日雇

30

中間輝子

S12.5.21

二女

女中

平下

〃4.25

34.8.3自宅より市立病院へ

市立病院

入院中

26

山下十太郎

漁業

31

本人

M40.1.5

本人

漁業

梅戸

〃4.25

31.7.19

死亡

生教

27

江郷下三義

32

江郷下和子

S25.12.20

五女

出月

〃4.28

31.5.23

死亡

33

〃  一美

S20.4.9

三男

小五年

〃5.8

31.7.27~8.30迄

伝染病院

34.8.19自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

生教医

34

〃  マス

M45.12.15

〃5.16

42

〃  美一

S22.11.9

四男

小四年

〃6.14

28

池島春栄

35

池島栄子

S24.7.16

三女

小学

〃5.5

33.12.2自宅より

市立病院へ

国庫

29

井上栄作

36

井上アサノ

M33.11.15

〃5.25

自宅

30

川上卯太郎

漁業

37

川上タマノ

T3.12.1

出月

S31.5.8

31.8.30熊大へ

34.7.29熊大退院

市立病院へ

市立病院

入院中

生医

31

吉永ジユカ

農業

38

吉永タカエ

S14.3.2

五女

湯堂

〃5.13

31.7.27~8.30

伝染病院へ

33.12.2自宅より

市立病院へ

国庫

32

山本又由

漁業

40

山本節子

S17.6.30

長女

中二年

出月

〃6.15

33.12.2自宅より

市立病院へ

33

松永善市

41

松永久美子

S25.11.8

三女

湯堂

〃6.8

31.7.27~8.30

伝染病院より

熊大へ

34.7.29熊大退院

市立病院へ

教医

46

松永清子

S23.11.18

二女

小学

〃8.15

自宅

34

丸目夏義

日雇

47

丸目修

S23.6.10

長男

小一年

丸島

〃6.16

日雇

35

前島留次

公務員

48

本人

M42.12.13

本人

公吏

〃6.18

31.7.27~8.30

伝染病院

社保

36

石原長市

漁業

51

石原和平

S17.1.11

二男

中二年

月之浦

〃6.24

31.7.27~8.30

熊大へ

32.3.31熊大退院

34.9.4市立病院へ

市立病院

入院中

生教

37

坂本武義

52

坂本マユミ

S28.8.5

長女

湯堂

〃6.30

31.7.27~8.18迄熊大へ

33.1.3

自宅死亡

38

田上千善

43

田上義春

S5.3.20

運転手

出月

〃7.8

31.8.7熊大へ

33.5.2熊大退院

34.8.19自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

生住教医

39

浜本惣八

漁業

50

浜本二徳

S11.1.22

三男

漁業

30.7.10

30.7.20~1ケ月

31.9.20

熊大へ再入院

34.9.21自宅より

市立病院へ

34.12.7退院

49

本人

M31.7.3

本人

31.8.15

31.9.20熊大へ

31.11.5

熊大にて

死亡

58

浜本マツ

M33.2.15

〃9.15

31.9.29熊大へ入院

32.12.10熊大退院

34.9.7

自宅にて

死亡

40

坂本留次

53

坂本マスオ

T13.5.20

月之浦

〃8.17

32.5.9熊大へ

34.7.29退院

市立病院へ

市立病院

入院中

41

岩本栄作

漁業

55

岩本昭則

S25.11.12

三男

湯堂

S31.8.28

33.12.2自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

国庫

42

前田則義

54

前田恵美子

S29.1.13

二女

明神

〃8.28

自宅

国保

43

前島武義

土工

57

本人

M43.11.20

本人

土工

坂口

〃9.12

31.9.20熊大へ

32.12.3退院

34.8.19市立病院へ

市立病院

入院中

生医

44

竹下武吉

日雇

56

竹下森枝

S17.10.15

養女

中二年

百間

〃8.15

33.3.

県外へ転出

日雇

45

渡辺栄蔵

漁業

59

渡辺松代

S25.3.31

小一年

湯堂

〃8.23

31.10.5熊大へ

32.3.21熊大退院

33.12.2自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

国保

61

渡辺栄一

S27.6.22

〃11.5

31.11.15熊大へ

32.3.21熊大退院

33.12.2自宅より

市立病院へ

46

尾上光雄

理髪

60

本人

T5.11.10

本人

理髪業

百間

〃10.10

31.11.19熊大へ

32.11.20熊大退院

34.4.1附属病院より

市立病院へ

国庫

47

淵上フミ

日雇

39

淵上洋子

S29.1.18

二女

茂道

〃5.

S32.7.11

死亡

48

門宮哲雄

カマボコ

製造業

63

本人

T3.4.30

本人

カマボコ

製造業

丸島

〃11.中旬

水俣市より転出

49

中村秀義

日窒

64

本人

T3.9.22

日窒会社員

湯堂

〃12.1

自宅

国保

50

生駒道幸

65

生駒秀夫

S18.7.4

二男

袋中三年

茂道

33.8.4

33.8.11熊大へ入院

34.7.29熊大退院

市立病院へ

市立病院

入院中

生教医

51

浜田忠市

扇興運輸

66

本人

T14.2.1

本人

扇興運輸

湯堂

31.3.21

33.9.1熊大入院

33.9.3

死亡

52

尾上時義

67

尾上ナツエ

M41.10.15

丸島社宅

33.9.15

33.12.2附属病院

より市立病院へ

33.12.14

死亡

53

田中恵吉

漁業

68

田中ケト

M34.7.1

丸島双子島

〃9.10

33.11.24

自宅死亡

54

森重義

漁業

69

本人

M45.3.9

本人

漁業

舟津

34.3.10

34.5.26自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

55

中村未義

農業

70

本人

M40.3.15

農業

浜下

〃4.6

34.4.24

市立病院へ

34.7.14

市立病院にて死亡

56

嶋本利喜蔵

漁業

71

本人

M30.2.16

漁業

舟津

〃7.2

34.8.3

自宅より

市立病院へ

市立病院

入院中

57

池崎喜曾太

72

本人

M34.12.14

〃6.15

34.9.20

市立病院へ

国庫

58

杉本進

73

杉本とし子

T10.2.7

家事漁業

茂道

〃8.15

34.9.23

市立病院へ

59

伊藤政八

失対人夫

74

伊藤政人

T8.9.24

長男

失対人夫

舟津

〃9.4

自宅

(津奈木村)

1

船場岩蔵

漁業

1

船場藤吉

T14.11.7

四男

津奈木村

34.9.25

市立病院へ

34.12.5

市立病院にて死亡

国庫

2

本人

M25.6.14

本人

漁業

34.9.27

34.10.14

市立病院へ

市立病院

入院中

2

篠原保

3

本人

T2.5.6

〃10.15

34.11.19

市立病院へ

34.11.28

市立病院にて死亡

3

福山惣平

4

福山一喜

S28.2.27

小一年

〃10.中旬

34.12.7

市立病院へ

34.10.27

熊大へ

34.12.5退院

市立病院入院中

国庫

(湯ノ浦)

1

緒方福松

漁業

1

本人

M31.1.25

本人

漁業

湯ノ浦町

34.9.25

34.11.22

市立病院へ

34.11.27

市立病院死亡

34.12.16解剖の結果決定

別紙〔七〕の〔二〕

覚書

新日本窒素肥料株式会社(以下「甲」という。)及び渡辺栄蔵、中津美芳、竹下武吉、中岡さつき、尾上光義、前田則義(以下「乙」という。)は昭和三四年一二月三〇日付水俣病患者補償問題に関する契約(以下「原契約」という。)に附随して次の覚書を交換する。

一 原契約における見舞金の算出等の一切の基礎は原契約書添付の水俣病患者発生名簿による。

二 原契約第一条の見舞金には患者の近親者(父母、配偶者、子)に対する慰藉料も含むものとする。

三 原契約書第一条の見舞金の支払期日は次の通りとする。

(一) 同条一及び二に定める一時金については、原契約締結の日から三日以内に支払う。

(二) 同条二に定める年金についてはこれを四回に均等分割し毎年三月、六月、九月及び一二月の各月末日に支うものとする。

(三) 同条三及び四に定める一時金については甲が乙から当該患者の死亡診断書を添えた死亡通知又は協議会の認定書を添えた一時金交付申入れを受けた日から一〇日以内に支払う。

四 原契約書第一条の年数等の計算については次の通りとする。

(一) 昭和三四年一二月三一日以前の見舞金の算出に当つては、発病の時から死亡の時まで又は発病から昭和三四年一二月三一日までの年、月、日数を求め、半年に充たない期間は半年に、半年を超え一年に充たない期間は一年に切り上げて計算するものとする。

(二) 昭和三四年一二月三一日以前に未成年より成年に達した者については、前号の計算年数を超えない範囲で未成年期間と、成年期間に分割計算するものとし成年に達した日の属する半年は成年の半年として計算する。

五 年金の計算にあたつては月割計算とし成年に達した月は成年の月として計算する。

六 乙は甲に対して原契約締結の日に原契約並びに本覚書締結に関する患者(既に死亡している者についてはその相続人又はその代理人)及び死亡している患者の近親者(父母、配偶者、子)の乙宛委任状を交付するものとする。

七 前項の期日に委任状を提出することができない者については乙は甲に対し原契約並に本覚書締結後速やかに乙が前項の患者及び近親者の代理人として締結した本契約並びに覚書を追認する旨の書面及び当該患者の戸籍謄本を差出さなければならない。

本覚書弐通を作成し甲、乙各壱通を保有する。

昭和三四年一二月三〇日

甲 新日本窒素肥料株式会社

取締役社長 吉岡喜一

右代理人

新日本窒素肥料株式会社水俣工場

工場長 西田栄一

渡辺栄蔵

中津美芳

竹下武吉

中岡さつき

尾上光義

前田則義

別紙〔七〕の〔三〕

了解事項

新日本窒素肥料株式会社(以下「甲」という。)と渡辺栄蔵、中津美芳、竹下武吉、中岡さつき、尾上光義、前田則義(以下「乙」という。)は昭和三四年一二月三〇日付水俣病患者補償問題に関する契約ならびに覚書に附随して次の事項を了解したことを確認する。

将来物価の著しい変動を生じた場合は甲、乙何れかの申入れにより双方協議の上年金額の改訂を行なうことができる。

本了解事項を証するため本書弐通を作成し甲、乙各壱通を保有する。

昭和三四年一二月三〇日

甲 新日本窒素肥料株式会社水俣工場

工場長 西田栄一

渡辺栄蔵

中津美芳

竹下武吉

中岡さつき

尾上光義

前田則義

右立会人

水俣市長 中村止

水俣市議会議長 渕上末記

熊本県議会議員 長野春利

熊本県議会議員 深水平

熊本県商工水産部長 森永竜三

熊本県工鉱課長 横田義夫

水俣市助役 石原和気雄

別紙〔七〕の〔四〕

契約時期別見舞金契約当事者一覧表

(注) この表における生存者、死亡者の別は各和解契約締結時を基準の時としたものである。

(一) 昭和三四年一二月三〇日契約

患者氏名

近親者氏名

渡辺松代

(父)渡辺保・(母)渡辺マツ

渡辺栄一

(父)渡辺保・(母)渡辺マツ

杉本トシ

(母)鴨川シメ・(夫)杉本進(44.7.29死亡)

(長女)杉本栄子

(亡)淵上洋子

(父)淵上才蔵・(母)淵上フミ子

(亡)松田フミ子

(父)松田勘次(35.5.10死亡)・(母)松田ケサキク

松田富次

(父)松田勘次(35.5.10死亡)・(母)松田ケサキク

(亡)坂本キヨ子

(父)坂本嘉吉・(母)坂本トキノ

(亡)坂本真由美

(父)坂本武義・(母)坂本フジエ

坂本タカエ

(養母)坂本ミキ・(長女)坂本淳子

岩本昭則

(父)岩本栄作・(母)岩本マツエ

(亡)浜元惣八

(長女)原田カヤノ・(長男)浜元一正・(四女)浜元フミヨ・(二男)田中一徳・(三男)浜元二徳・(五女)藤田ハスヨ

(亡)浜元マツ

(長女)原田カヤノ・(長男)浜元一正・(四女)浜元フミヨ・(二男)田中一徳・(三男)浜元二徳・(五女)藤田ハスヨ

浜元二徳

(妻)浜元ハルエ

(亡)溝口トヨ子

(父)溝口忠明・(母)溝口マスエ

田上義春

(母)千々岩ツヤ

坂本マスヲ

(母)緒方リツ(45.11.28死亡)・(夫)坂本実

(子)坂本輝喜

荒木辰雄

(40.2.6死亡)

(妻)荒木愛野・(長女)荒木洋子・(二女)荒木節子

(二男)荒木辰巳

松本ふさえ

(父)松本俊郎・(母)松本トミエ

(亡)田中しず子

(父)田中義光・(母)田中アサヲ

田中実子

(父)田中義光・(母)田中アサヲ

(亡)江郷下カズ子

(父)江郷下美善・(母)江郷下マス

江郷下マス

(夫)江郷下美善・(長男)江郷下実・(三男)江郷下実美・(五男)江郷下一美・(六男)江郷下美一・(長女)渡辺ミチ子・ (二女)宮本エミ子・(三女)江郷下スミ子・(四女)桑原アツ子

江郷下一美

(父)江郷下美善・(母)江郷下マス

江郷下美一

(父)江郷下美善・(母)江郷下マス

尾上光雄

(妻)尾上ハルエ・(養子)尾上敬二

長島辰次郎

(42.7.9死亡)

(妻)長島アキノ・(長女)原田フミエ・(長男)長島政広・(二女)長島タツエ・(三女)三幣タエ子・(二男)長島努

前嶋武義

(妻)前嶋サヲ・(長女)前嶋ハツ子・(二女)緒方ツユ子

(亡)中村末義

(妻)中村シメ・(長男)中村俊也・(二男)中村真男・(三女)川添己三子・(四女)都築律子・(五女)中村敦子・

(六女)中村由美子

(亡)尾上ナツエ

(夫)尾上時義・(長女)真野幸子・(二女)千々岩信子・(長男)尾上勝行・(二男)尾上唯勝

(二) 昭和三五年四月二六日契約

患者氏名

近親者氏名

釜鶴松(35.10.12死亡)

(妻)釜トメオ・(長男)釜時良

(三) 昭和三五年一二月二七日契約

患者氏名

近親者氏名

牛嶋直

(妻)牛嶋フミ

平木栄

(37.4.19死亡)

(妻)平木トメ・(長女)河上信子・(三女)田口甲子・(四女)平木隆子・(五女)斎藤英子

(四) 昭和三六年一〇月一二日契約

患者氏名

近親者氏名

杉本進(44.7.29死亡)

(妻)杉本トシ・(養子)杉本栄子・(養子)杉本雄

(五) 昭和三七年一二月二七日契約

患者氏名

近親者氏名

渡辺政秋

(父)渡辺保・(母)渡辺マツ

坂本しのぶ

(父)坂本武義・(母)坂本フジエ

上村智子

(父)上村好男・(母)上村良子

(六) 昭和三九年八月一二日契約

患者氏名

近親者氏名

浜田良次

(父)浜田義行・(母)浜田シズエ

松本俊子

(父)松本俊郎・(母)松本トミエ

(七) 昭和四四年六月一六日契約

患者氏名

近親者氏名

(亡)渡辺シズエ

(夫)渡辺栄蔵・(長男)渡辺保・(長女)石田良子・(二女)石田菊子・(二男)渡辺信太郎・(三男)渡辺三郎・

(四男)渡辺大吉

別紙〔八〕の〔一〕

見舞金契約の患者側当事者・見舞金額など一覧表

―死亡患者関係

患者氏名

原告番号

原告ら氏名

(被告が契約

当事者で

あると

主張する者)

見舞金額(円)

弔慰金・葬祭料

一時金および年金

合計

渡辺シズエ

(44.6.16)

1

渡辺栄蔵

2

渡辺保

3

渡辺信太郎

4

渡辺三郎

5

渡辺大吉

6

石田良子

7

石田菊子

釜鶴松

(35.4.26)

一七五、〇〇〇

一七五、〇〇〇

12

釜トメオ

一〇六、六六七

一〇六、六六七

13

釜時良

二一三、三三三

二一三、三三三

総計

四九五、〇〇〇

杉本進

(26.10.12)

一、一三一、二五二

一、一三一、二五二

23

杉本トシ

一六六、六六六

一六六、六六六

24

杉本栄子

一六六、六六七

一六六、六六七

25

杉本雄

一六六、六六七

一六六、六六七

総計

一、六三一、二五二

淵上洋子

(34.12.30)

27

淵上才蔵

一六〇、〇〇〇

二二、五〇〇

一八二、五〇〇

28

淵上フミ子

一六〇、〇〇〇

二二、五〇〇

一八二、五〇〇

総計

三六五、〇〇〇

松田フミ子

(34.12.30)

29

松田ケサキク

一六〇、〇〇〇

二五、〇〇〇

一八五、〇〇〇

亡松田勘次

一六〇、〇〇〇

二五、〇〇〇

一八五、〇〇〇

総計

三七〇、〇〇〇

坂本キヨ子

(34.12.30)

35

坂本嘉吉

一六〇、〇〇〇

一五〇、〇〇〇

三一〇、〇〇〇

36

坂本トキノ

一六〇、〇〇〇

一五〇、〇〇〇

三一〇、〇〇〇

総計

六二〇、〇〇〇

坂本真由美

(34.12.30)

37

坂本武義

一六〇、〇〇〇

三〇、〇〇〇

一九〇、〇〇〇

38

坂本フジエ

一六〇、〇〇〇

三〇、〇〇〇

一九〇、〇〇〇

総計

三八〇、〇〇〇

浜元惣八

浜元マツ

(いずれも34.12.30)

49

浜元一正

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

50

田中一徳

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

51

浜元二徳

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

52

原田カヤノ

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

53

浜元フミヨ

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

54

藤田ハスヨ

惣八分 四〇、〇〇〇

六、二五〇

四六、二五〇

マツ分 四〇、〇〇〇

三七、五〇〇

七七、五〇〇

(注) 惣八、マツには原告らのほかに四男憲志、六女ツヤノの

相続人があり、同人らも右と同額の見舞金を受領してい

るので、これらの総計は、惣八分が三七〇、〇〇〇円、

マツ分が六二〇、〇〇〇円となる。

溝ロトヨ子

(34.12.30)

56

溝口忠明

三七、五〇〇

一九七、五〇〇

57

溝口マスエ

三七、五〇〇

一九七、五〇〇

総計

三九五、〇〇〇

荒木辰雄

(34.12.30)

一、〇八七、九一八

一、〇八七、九一八

67

荒木愛野

一〇六、六六七

一〇六、六六七

68

荒木洋子

五三、三三四

五三、三三四

69

荒木止

五三、三三三

五三、三三三

70

荒木節子

五三、三三三

五三、三三三

71

荒木辰巳

五三、三三三

五三、三三三

(ただし、止に

ついては契約

当事者である

との主張はない)

総計

一、四〇七、九一八

田中しず子

(34.12.30)

80

田中義光

一六〇、〇〇〇

四五、〇〇〇

二〇五、〇〇〇

81

田中アサヲ

一六〇、〇〇〇

四五、〇〇〇

二〇五、〇〇〇

総計

四一〇、〇〇〇

江郷下カズ子

(34.12.30)

84

江郷下美善

一六〇、〇〇〇

七、五〇〇

一六七、五〇〇

85

江郷下マス

一六〇、〇〇〇

七、五〇〇

一六七、五〇〇

総計

三三五、〇〇〇

平木栄

(35.12.27)

二〇八、三三二

二〇八、三三二

94

平木トメ

一〇六、六六七

一〇六、六六七

95

河上信子

四二、六六七

四二、六六七

96

田口甲子

四二、六六七

四二、六六七

97

平木隆子

四二、六六七

四二、六六七

98

斎藤英子

四二、六六七

四二、六六七

(注) 栄には原告らのほかに三女月子の相続人があり、同人も

見舞金として四二、六六七円を受領しているので、これら

の総計は五二、八三三四円となる。

長島辰次郎

(34.12.30)

一、二一五、八三五

一、二一五、八三五

102

長島アキノ

一六六、六六七

一六六、六六七

103

原田フミエ

六六、六六七

六六、六六七

104

長島政広

六六、六六七

六六、六六七

105

長島タツエ

六六、六六七

六六、六六七

106

三幣タエ子

六六、六六六

六六、六六六

107

長島努

六六、六六六

六六、六六六

総計

一、七一五、八三五

中村末義

(34.12.30)

113

中村シメ

一〇六、六六七

一六、六六七

一二三、三三四

114

中村俊也

三五、五五六

五、五五五

四一、一一一

115

中村真男

三五、五五六

五、五五五

四一、一一一

116

川添巳三子

三五、五五六

五、五五五

四一、一一一

117

都築律子

三五、五五五

五、五五六

四一、一一一

118

中村敦子

三五、五五五

五、五五六

四一、一一一

119

中村由美子

三五、五五五

五、五五六

四一、一一一

総計

三七〇、〇〇〇

尾上ナツエ

(34.12.30)

120

尾上時義

一〇六、六六六

一六、六六六

一二三、三三二

121

尾上勝行

五三、三三四

八、三三三

六一、六六七

122

尾上唯勝

五三、三三四

八、三三三

六一、六六七

123

真野幸子

五三、三三三

八、三三四

六一、六六七

124

千々岩信子

五三、三三三

八、三三四

六一、六六七

三七〇、〇〇〇

(注) 患者氏名欄の( )内の数字は契約締結の年月日を示す。

別紙〔八〕の〔二〕

同表―生存患者関係

患者氏名

原告番号

原告ら氏名

(被告が契約当事者

であると主張する者)

見舞金額

(昭和四七年九月末日

までに支払われた一

時金および年金)(円)

靏野松代

(34.12.30)

渡辺栄一

(34.12.30)

渡辺政秋

(37.12.27)

2

渡辺保

(松代ら三名につき)

8

渡辺マツ

(松代ら三名につき)

9

靏野松代

九四八、三三四

10

渡辺栄一

三二〇、〇〇〇

11

渡辺政秋

七二〇、四一七

浜田良次

(39.8.12)

14

浜田義行

15

浜田シズエ

19

浜田良次

七〇〇、四一八

牛嶋直

(35.12.27)

21

牛嶋直

一、四四九、五八五

22

牛嶋フミ

杉本トシ

(34.12.30)

亡杉本進

23

杉本トシ

一、五三三、七五〇

24

杉本栄子

26

鴨川シメ

松田富次

(34.12.30)

29

松田ケサキク

亡松田勘次

32

松田富次

一、〇三六、六六九

坂本しのぶ

(37.12.27)

37

坂本武義

38

坂本フジエ

39

坂本しのぶ

七八〇、四一七

坂本タカエ

(34.12.30)

40

坂本タカエ

一、三七四、一六八

41

坂本ミキ

42

坂本敦子

岩本昭則

(34.12.30)

43

岩本栄作

44

岩本マツエ

45

岩本昭則

九〇五、〇〇一

上村智子

(37.12.27)

46

上村好男

47

上村良子

48

上村智子

七九五、四一七

浜元二徳

(34.12.30)

51

浜元二徳

一、四四九、一六八

55

浜元ハルエ

田上義春

(34.12.30)

58

田上義春

一、八三三、七五一

62

千々岩ツヤ

坂本マスヲ

(34.12.30)

63

坂本マスヲ

一、八七四、五八五

64

坂本実

65

坂本輝喜

亡緒方リツ

松本ふさえ

(34.12.30)

72

松本俊郎

(ふさえ、俊子両名につき)

73

松本トミエ

(ふさえ、俊子両名につき)

76

松本ふさえ

九九〇、四一七

松本俊子

(39.8.12)

77

松本俊子

七九〇、四一八

田中実子

(34.12.30)

80

田中義光

81

田中アサヲ

82

田中実子

七九五、四一七

江郷下マス

(34.12.30)

江郷下一美

(34.12.30)

江郷下美一

(34.12.30)

84

江郷下美善

(マスら三名につき)

85

江郷下マス

(マスら三名につき)

一、八八三、七五一

86

渡辺ミチ子

(マスにつき)

87

宮本ヱミ子

(マスにつき)

88

江郷下スミ子

(マスにつき)

89

江郷下実

(マスにつき)

90

桑原アツ子

(マスにつき)

91

江郷下実美

(マスににき)

92

江郷下一美

(マスおよび一美につき)

三三五、〇〇〇

93

江郷下美一

(マスおよび美一につき)

三三五、〇〇〇

尾上光雄

(34.12.30)

99

尾上光雄

一、八七四、五八五

100

尾上ハルエ

101

尾上敬二

前嶋武義

(34.12.30)

108

前嶋武義

一、八七四、五八五

109

前嶋サヲ

110

前嶋ハツ子

111

緒方ツユ子

(注) 患者氏名欄の( )内の数字は、契約締結の年月日を示す。

別紙〔九〕

損害認定証拠一覧表

番号

患者氏名

原告番号

原告氏名

証拠

1

(亡)渡辺シズエ

甲第一八五証の一ないし一六

(六については六の一および六の二)、

同第二二一号 乙第四号証の三、

同第八号証の五および一四

原告渡辺栄蔵(第一回)、同渡辺保、

同渡辺マツ、同渡辺栄一の各本人

尋問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.26)

1

渡辺栄蔵

2

渡辺保

3

渡辺信太郎

4

渡辺三郎

5

渡辺大吉

6

石田良子

7

石田菊子

8

渡辺マツ

靏野松代

9

靏野松代

渡辺栄一

10

渡辺栄一

渡辺政秋

11

渡辺政秋

2

(亡)釜鶴松

甲第一八六号証の一ないし一一

原告釜トメオ、同釜時良(第二回)

の各本人尋問の結果、証人釜シ

オリの証言、同藤野糺の証言

(47.7.29)

12

釜トメオ

13

釜時良

3

14

浜田義行

甲第一八七号証の一ないし一一

原告浜田義行、同浜田シズエの各

本人尋問の結果、証人浜田乙次郎

の証言、証人藤野糺の証言(47.7.28)

浜田シズエ

15

浜田シズエ

16

山下よし子

17

浜田義一

18

浜田ひろ子

浜田良次

19

浜田良次

20

白川タミ

4

牛嶋直

21

牛嶋直

甲第一八八号証の一および二

原告牛嶋直(第二回)、同牛嶋フミの

各本人尋問の結果、証人原田正純

の証言(47.7.28)

22

牛嶋フミ

5

(亡)杉本進

甲第一八九号証の一ないし六、

同第二二一号証

原告杉本トシ、同杉本栄子、

同杉本雄、同鴨川シメの各本人

尋問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.26)

杉本トシ

23

杉本トシ

24

杉本栄子

25

杉本雄

26

鴨川シメ

6

(亡)淵上洋子

甲第一九〇号証の一ないし三

原告淵上才蔵、同淵上フミ子の

各本人尋問の結果、証人藤野糺

の証言(47.7.29)

27

淵上才蔵

28

淵上フミ子

7

(亡)松田フミ子

甲第一九一号証の一ないし

一四乙第三号証の四ないし六

原告松田ケサキク、同松田冨美、

同松田末男、同中岡ユキ子の

各本人尋問の結果、証人原田正純の証言(47.7.27)

29

松田ケサキク

30

松田冨美

31

松田末男

松田富次

32

松田富次

33

永田タエ子

34

中岡ユキ子

8

(亡)坂本キヨ子

甲第一九二号証の一ないし八

(二については二の一および二の二)

乙第五号証の七

原告坂本嘉吉、同坂本トキノの各本人

尋問の結果、証人溝上英子、同山崎

公江の各証言、証人藤野糺の証言

(47.7.27)

35

坂本嘉吉

36

坂本トキノ

9

(亡)坂本真由美

甲第一九三号証の一ないし八

(八については八の一ないし三七)

乙第五号証の七、同第一二号証の二)

原告坂本武義(第二回)、同坂本フジエ

の各本人尋問の結果、証人原田正純の

証言(47.7.27)

37

坂本武義

38

坂本フジエ

坂本しのぶ

39

坂本しのぶ

10

坂本タカエ

40

坂本タカエ

甲第一九四号証の一ないし

六乙第八号証の一四

原告坂本タカエの本人尋問の結果、証人

坂本タカエの証言、証人原田正純の証言

(47.7.28)

41

坂本ミキ

42

坂本敦子

11

43

岩本栄作

甲第一九五号証の一ないし五

乙第八号証の五および一四

原告岩本栄作、同岩本マツエ(第二回)、

同岩本昭則の各本人尋問の結果、証人

原田正純の証言(47.7.28)

44

岩本マツエ

岩本昭則

45

岩本昭則

12

46

上村好男

甲第一九六号証の一ないし七

原告上村好男、同上村良子の各本人尋

問の結果、証人原田正純の証言(47.7.24)

47

上村良子

上村智子

48

上村智子

13

(亡)浜元惣八

甲第一九七号証の一ないし一三

乙第三号証の四および五、

同第四号証の四

原告浜元一正、同浜元二徳(第二回)、

同原田カヤノ、同浜元フミヨ、同藤田

ハスヨ、同浜元ハルエの各本人尋問

の結果、証人原田正純の証言(47.7.25)

(亡)浜元マツ

49

浜元一正

50

田中一徳

浜元二徳

51

浜元二徳

52

原田カヤノ

53

浜元フミヨ

54

藤田ハスヨ

55

浜ロハルエ

14

(亡)溝口トヨ子

甲第一九八号証の一ないし三

原告溝口忠明、同溝ロマスエの各本人

尋問の結果、証人樋口恭子の証言、

同藤野糺の証言(47.7.27)

56

溝口忠明

57

溝ロマスエ

15

田上義春

58

田上義春

甲第一九九号証の一ないし六

乙第三号証の四、同第四号証

の四、同第五号証の四

原告田上義春、同田上京子、同千々岩

ツヤの各本人尋問の結果、証人原田正

純の証言(47.7.30)

59

田上京子

60

田上由里

61

田上里加

62

千々岩ツヤ

16

坂本マスヲ

63

坂本マスヲ

甲第二〇〇号証の一ないし六

乙第四号証の四、同第五号証の五、同第八号証の一四

原告坂本マスヲ、同坂本実、同坂本

輝喜の各本人尋問の結果、証人緒方

新蔵(第二回)の証言、同原田正純の

証言(47.7.29)

64

坂本実

65

坂本輝喜

66

緒方新蔵

17

(亡)荒木辰雄

甲第二〇一号証の一ないし四、

同第二二一号証

原告荒木愛野本人尋問の結果、証人

藤野糺の証言(47.7.26)

67

荒木愛野

68

荒木洋子

69

荒木止

70

荒木節子

71

荒木辰巳

18

72

松本俊郎

甲第二〇二号証の一ないし

一三乙第八号証の五

原告松本トミエ、同松本ヒサエの各本

人尋問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.27)

松本トミエ

73

松本トミエ

74

松本ヒサエ

75

松本博

松本ふさえ

76

松本ふさえ

松本俊子

77

松本俊子

78

松本福次

79

松本ムネ

19

(亡)田中しず子

甲第二〇三号証の一ないし九

乙第五号証の七、

同第一二号証の二

原告田中義光(第二回)、同田中アサ

ヲ、同田中昭安の各本人尋問の結果、

証人松田綾子の証言、同原田正純の

証言(47.7.24)

80

田中義光

81

田中アサヲ

田中実子

82

田中実子

83

田中昭安

20

(亡)江郷下カズ子

甲第二〇四号証の一ないし一三

乙第三号証の五、同八号証の五

原告江郷下マス、同渡辺ミチ子、同宮

本エミ子、同江郷下一美、同江郷下美

一の各本人尋問の結果、証人宮本巧

の証言、同原田正純の証言(47.7.30)

84

江郷下美善

江郷下マス

85

江郷下マス

86

渡辺ミチ子

87

宮本エミ子

88

江郷下スミ子

89

江郷下実

90

桑原アツ子

91

江郷下実美

江郷下一美

92

江郷下一美

江郷下美一

93

江郷下美一

21

(亡)平木栄

甲第二〇五号証の一ないし九

原告平木トメ、同田口甲子の各本人

尋問の結果、証人藤野糺の証言

(47.7.27)

94

平木トメ

95

河上信子

96

田口甲子

97

平木隆子

98

斎藤英子

22

尾上光雄

99

尾上光雄

甲第二〇六号証の一ないし六

(二については二の一および二の二)

乙第三号証の四、同第四号証の四、

同第五号証の五

原告尾上光雄、同尾上ハルエの各

本人尋問の結果、証人原田正純の

証言(47.7.26)

100

尾上ハルエ

101

尾上敬二

23

(亡)長島辰次郎

甲第二〇七号証の一ないし

八、同第二二一号証

乙第八号証の四

原告長島アキノ、同長島タツエの各本

人尋問の結果

102

長島アキノ

103

原田フミヱ

104

長島政広

105

長島タツヱ

106

三幣タエ子

107

長島努

24

前島武義

108

前島武義

甲第二〇八号証の一ないし七

(三については三の一および三の二)

乙第三号証の四、同第四号証の四、

同第五号証の五

原告前嶋武義、同前嶋サヲ(第二回)、

同前嶋ハツ子の各本人尋問の結果、

証人原田正純の証言(47.7.29)

109

前嶋サヲ

110

前島ハツ子

111

緒方ツユ子

112

前嶋一則

25

(亡)中村末義

甲第二〇九号証の一ないし七

乙第八号証の二および七、

同第一二号証の二

原告中村シメ、同川添己三子の各本人

尋問の結果、証人藤野糺の証言

(47.7.25)

113

中村シメ

114

中村俊也

115

中村真男

116

川添己三子

117

都築律子

118

中村敦子

119

中村由美子

26

(亡)尾上ナツエ

甲第二一〇号証の一ないし七

乙第五号証の二・五および六

原告尾上時義、同真野幸子の各本人

尋問の結果、証人藤野糺の証言

(47.7.25)

120

尾上時義

121

尾上勝行

122

尾上唯勝

123

真野幸子

124

千々岩信子

27

(亡)田中徳義

甲第二一一号証の一ないし一一、

同第二二一号証

原告田中フジノ、同田中春義の各本人

尋問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.26)

125

田中フジノ

126

田中春義

127

田中安一

128

田中重義

129

荒川スギノ

28

130

荒木幾松

甲第二一二号証の一ないし四

(二については二の一および二の二)

原告荒木幾松、同荒木ルイの各本人尋

問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.25)

131

荒木ルイ

荒木康子

132

荒木康子

29

築地原司

133

築地原司

甲第二一三号証の一ないし四

原告築地原司、同築地原シエの各本人

尋問の結果、証人原田正純の証言

(47.7.25)

134

築地原シエ

30

135

諫山茂

甲第二一四号証の一ないし八

原告諫山茂、同諫山レイ子、同諌山モ

リの各本人尋問の結果、証人藤野糺の

証言(47.7.28)

136

諫山レイ子

諌山孝子

137

諫山孝子

138

諫山モリ

別紙〔一〇〕の〔一〕

編集注 PDFにて収録

別紙〔一〇〕の〔二〕 遅延損害金の起算日一覧表

番号

原告氏名

認容額合計

(円)

右内金

(円)

起算日

昭和年月日

理由

1

渡辺栄蔵

11,000,000

10,000,000

44.2.20

亡涙辺シズエの死亡の日の翌日

1,000,000

47.8.19

弁護士費用

2

渡辺保

6,600,000

3,000,000

44.2.20

亡渡辺シズエの死亡の日の翌日

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

600,000

47.8.19

弁謹士費用

3

渡辺信太郎

3,300,000

3,000,000

44.2.20

亡渡辺シズエの死亡の日の翌日

300,000

47.8.19

弁護士費用

4

渡辺三郎

3,300,000

3,000,000

44.2.20

同上

300,000

47.8.19

5

渡辺大吉

3,300,000

3,000,000

44.2.20

同上

300,000

47.8.19

6

石田良子

3,300,000

3,000,000

44.2.20

同上

300,000

47.8.19

7

石田菊子

3,300,000

3,000,000

44.2.20

同上

300,000

47.8.19

8

渡辺マツ

3,300,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

300,000

47.8.19

弁護士費用

9

靏野松代

16,556,832

6,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,051,666

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,505,166

47.8.19

弁護士費用

10

渡辺栄一

17,248,000

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,680,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,568,000

47.8.19

弁護士費用

11

渡辺政秋

19,007,541

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,279,583

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日

付書面送達の日の翌日

1,727,958

47.8.19

弁護士費用

12

釜トメオ

7,830,166

7,118,333

35.10.13

亡釜鶴松の死亡の日の翌日

711,833

47.8.19

弁護士費用

13

釜時良

12,360,333

11,236,667

35.10.13

亡釜鶴松の死亡の日の翌日

1,123,666

47.8.19

弁護士費用

14

浜田義行

4,950,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

3,000,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

450,000

47.8.19

弁護士費用

15

浜田シズエ

22,550,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

1,500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

16,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第322号事件の訴状送達の翌日

2,050,000

47.8.19

弁護士費用

19

浜田良次

19,029,540

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,299,582

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,729,958

47.8.19

弁護士費用

21

牛嶋直

16,005,456

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

7,550,415

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,455,041

47.8.19

弁護士費用

23

杉本トシ

22,464,748

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

4,956,249

44.7.30

亡杉本進の死亡の日の翌日

8,466,250

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

2,042,249

47.8.19

弁護士費用

24

杉本栄子

6,551,873

1,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

4,956,249

44.7.30

亡杉本進の死亡の日の翌日

595,624

47.8.19

弁護士費用

25

杉本雄

6,551,873

1,000,000

44.7.15

同上

4,956,249

44.7.30

595,624

47.8.19

26

鴨川シメ

1,100,000

1,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

100,000

47.8.19

弁護士費用

27

淵上才蔵

8,186,750

7,442,500

32.7.12

亡淵上洋子の死亡の日の翌日

744,250

47.8.19

弁護士費用

28

淵上フミ子

8,186,750

7,442,500

32.7.12

同上

744,250

47.8.19

29

松田ケサキク

15,862,000

9,920,000

31.9.4

亡松田フミ子の死亡の日の翌日

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

1,500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,442,000

47.8.19

弁護士費用

30

松田冨美

1,091,200

992,000

31.9.4

亡松田フミ子の死亡の日の翌日

99,200

47.8.19

弁護士費用

31

松田末男

1,091,200

992,000

31.9.4

同上

99,200

47.8.19

32

松田富次

19,750,864

992,000

31.9.4

亡松田フミ子の死亡の日の翌日

8,000,000

31.7.4

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,963,331

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日

付書面送達の日の翌日

1,795,533

47.8.19

弁護士費用

33

永田タエ子

1,091,200

992,000

31.9.4

番号30,31に同じ

99,200

47.8.19

34

中岡ユキ子

1,091,200

992,000

31.9.4

同上

99,200

47.8.19

35

坂本嘉吉

8,459,000

7,690,000

33.7.28

亡坂本キヨ子の死亡の日の翌日

769,000

47.8.19

弁護士費用

36

坂本トキノ

8,459,000

7,690,000

33.7.28

同上

769,000

47.8.19

37

坂本武義

11,671,000

7,610,000

33.1.4

亡坂本真由美の死亡の日の翌日

3.000.000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

1,061,000

47.8.19

弁護士費用

38

坂本フジエ

11,671,000

7,610,000

33.1.4

同上

3,000,000

44.7.15

1,061,000

47.8.19

39

坂本しのぶ

18,941,541

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,219,583

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,721,958

47.8.19

弁護士費用

40

坂本タカエ

16,088,415

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

7,625,832

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,462,583

47.8.19

弁護士費用

45

岩本昭則

16,604,498

6,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,094,999

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,509,499

47.8.19

弁護士費用

46

上村好男

4,950,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

1,500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

450,000

47.8.19

弁護士費用

47

上村良子

4,950,000

3,000,000

44.7.15

同上

1,500,000

46.9.28

450,000

47.8.10

48

上村智子

18,925,041

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,204,583

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,720,458

47.8.19

弁護士費用

49

浜元一正

5,728,250

2,735,000

31.10.6

亡浜元惣八の死亡の日の翌日

2,472,500

34.9.8

亡浜元マツの死亡の日の翌日

520,750

47.8.19

弁護士費用

50

田中一徳

5,728,250

2,735,000

31.10.26

同上

2,472,500

34.9.8

520,750

47.8.19

51

浜元二徳

22,834,165

2,735,000

31.10.6

亡浜元惣八の死亡の日の翌日

2,472,500

34.9.8

亡浜元マツの死亡の日の翌日

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,550,832

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

2,075,833

47.8.19

弁護士費用

52

原田カヤノ

5,728,250

2,735,000

31.10.6

番号49,50に同じ

2,472,500

34.9.8

520,750

47.8.19

53

浜元フミヨ

7,928,250

2,735,000

31.10.6

亡浜元惣八の死亡の日の翌日

4,472,500

34.9.8

亡浜元マツの死亡の日の翌日

720,750

47.8.19

弁護士費用

54

藤田ハスヨ

5,728,250

2,735,000

31.10.6

番号49,50,52に同じ

2,472,500

34.9.8

520,750

47.8.19

55

浜元ハルエ

3,850,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

350,000

47.8.19

弁護士費用

56

溝口忠明

7,977,750

7,252,500

31.3.16

亡溝口トヨ子の死亡の日の翌日

725,250

47.8.19

弁護士費用

57

溝口マスエ

7,977,750

7,252,500

31.3.16

同上

725,250

47.8.19

58

田上義春

15,582,873

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

7,166,249

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,416,624

47.8.19

弁護士費用

63

坂本マスヲ

16,637,956

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,125,415

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,512,541

47.8.19

弁護士費用

64

坂本実

3,850,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

350,000

47.8.19

弁護士費用

65

坂本輝喜

2,200,000

2,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

200,000

47.8.19

弁護士費用

67

荒木愛野

8,833,762

8,030,693

40.2.7

亡荒木辰雄の死亡の日の翌日

803,069

47.8.19

弁護士費用

68

荒木洋子

4,141,880

3,765,346

40.2.7

亡荒木辰雄の死亡の日の翌日

376,534

47.8.19

弁護士費用

69

荒木止

4,141,881

3,765,347

40.2.7

亡荒木辰雄の死亡の日の翌日

376,534

47.8.19

弁護士費用

70

荒木節子

4,141,881

3,765,347

40.2.7

同上

376,534

47.8.19

71

荒木辰巳

4,141,881

3,765,347

40.2.7

同上

376,534

47.8.19

72

松本俊郎

2,200,000

2,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

200,000

47.8.19

弁護士費用

73

松本トミエ

19,800,000

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

10,000,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,800,000

47.8.19

弁護士費用

76

松本ふさえ

17,610,541

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,009,583

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,600,958

47.8.19

弁護士費用

77

松本俊子

16,730,540

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,209,582

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,520,958

47.8.19

弁護士費用

80

田中義光

13,524,500

7,795,000

34.1.3

亡田中しず子の死亡の日の翌日

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

1,500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,229,500

47.8.19

弁護士費用

81

田中アサヲ

13,524,500

7,795,000

34.1.3

同上

3,000,000

44.7.15

1,500,000

46.9.28

1,229,500

47.8.19

82

田中実子

18,925,041

8,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,204,583

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,720,458

47.8.19

弁護士費用

84

江郷下美善

10,210,750

7,282,500

31.5.24

亡江郷下カズ子の死亡の日の翌日

2,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

928,250

47.8.19

弁護士費用

7,282,500

31.5.24

亡江郷下カズ子の死亡の日の翌日

85

江郷下マス

25,783,623

9,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

7,116,249

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

2,339,874

47.8.19

弁護士費用

92

江郷下一美

17,231,500

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,665,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,566,500

47.8.19

弁護士費用

93

江郷下美一

18,331,500

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

9,665,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,666,500

47.8.19

弁護士費用

94

平木トメ

7,982,944

7,257,222

37.4.20

亡平木栄の死亡の日の翌日

725,722

47.8.19

弁護士費用

95

河上信子

3,523,176

3,202,888

37.4.20

亡平木栄の死亡の翌日

320,288

47.8.19

弁護士費用

96

田口甲子

2,153,066

1,957,333

37.4.20

亡平木栄の死亡の日の翌日

195,733

47.8.19

弁護士費用

97

平木隆子

3,523,176

3,202,888

37.4.20

番号95に同じ

320,288

47.8.19

98

斎藤英子

3,523,176

3,202,888

37.4.20

同上

320,288

47.8.19

99

尾上光雄

16,637,956

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,125,415

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,512,541

47.8.19

弁護士費用

100

尾上ハルエ

3,850,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

350,000

47.8.19

弁護士費用

101

尾上敬二

1,650,000

1,500,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第548号事件の訴状送達の翌日

150,000

47.8.19

弁護士費用

102

長島アキノ

8,335,859

7,578,054

42.7.10

亡長島辰次郎の死亡の日の翌日

757,805

47.8.15

弁護士費用

103

原田フミエ

3,114,343

2,831,221

42.7.10

亡長島辰次郎の死亡の日の翌日

283,122

47.8.19

弁護士費用

104

長島政広

3,114,343

2,831,221

42.7.10

同上

283,122

47.8.19

105

長島タツエ

3,114,343

2,831,221

42.7.10

同上

283,122

47.8.19

106

三幣タエ子

3,114,344

2,831,222

42.7.10

亡長島辰次郎の死亡の日の翌日

283,122

47.8.19

弁護士費用

107

長島努

3,114,344

2,831,222

42.7.10

同上

283,122

47.8.19

108

前嶋武義

16,637,956

7,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

8,125,415

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

1,512,541

47.8.19

弁護士費用

109

前嶋サヲ

3,850,000

3,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

500,000

46.9.28

請求の趣旨を拡張した昭和46年9月25日付

書面送達の日の翌日

350,000

47.8.19

弁護士費用

110

前嶋ハツ子

1,100,000

1,000,000

44.7.15

昭和44年(ワ)第522号事件の訴状送達の翌日

100,000

47.8.19

弁護士費用

111

緒方ツユ子

1,100,000

1,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第548号事件の訴状送達の翌日

100,000

47.8.19

弁護士費用

112

前嶋一則

1,100,000

1,000,000

44.7.15

番号110に同じ

100,000

47.8.19

113

中村シメ

7,564,332

6,876,666

34.7.15

亡中村末義の死亡の日の翌日

687,666

47.8.19

弁護士費用

114

中村俊也

2,521,444

2,292,222

34.7.15

亡中村末義の死亡の日の翌日

229,222

47.8.19

弁護士費用

115

中村真男

2,521,444

2,292,222

34.7.15

同上

229,222

47.8.19

116

川添己三子

2,521,444

2,292,222

34.7.15

同上

229,222

47.8.19

117

都築律子

2,521,444

2,292,222

34.7.15

同上

229,222

47.8.19

118

中村敦子

2,521,444

2,929,222

34.7.15

同上

229,222

47.8.19

119

中村由美子

2,521,444

2,292,222

34.7.15

同上

229,222

47.8.19

120

尾上時義

7,014,334

6,376,668

33.12.15

亡尾上ナツエの死亡の日の翌日

637,666

47.8.19

弁護士費用

121

尾上勝行

3,782,166

3,438,333

33.12.15

亡尾上ナツエの死亡の日の翌日

343,833

47.8.19

弁護士費用

122

尾上唯勝

3,782.166

3,438,333

33.12.15

同上

343,833

47.8.19

123

真野幸子

3,782,166

3,438,333

33.12.15

同上

343,833

47.8.19

124

千々岩信子

3,782,166

3,438,333

33.12.15

同上

343,833

47.8.19

125

田中フジノ

17,600,000

16,000,000

45.7.14

亡田中徳義の死亡の日の翌日

1,600,000

47.8.19

弁護士費用

126

田中春義

3,025,000

2,750,000

45.7.14

亡田中徳義の死亡の日の翌日

275,000

47.8.19

弁護士費用

127

田中安一

750,000

45.7.14

亡田中徳義の死亡の日の翌日

128

田中重義

750,000

45.7.14

同上

129

荒川スギノ

750,000

45.7.14

同上

130

荒木幾松

3,300,000

3,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第419号事件の訴状送達の翌日

300,000

47.8.19

弁護士費用

131

荒木ルイ

3,300,000

3,000,000

47.7.6

同上

300,000

47.8.19

132

荒木康子

18,700,000

17,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第419号事件の訴状送達の翌日

1,700,000

47.8.19

弁護士費用

133

築地原司

19,800,000

18,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第419号事件の訴状送達の翌日

1,800,000

47.8.19

弁護士費用

134

築地原シエ

6,600,000

6,000,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第419号事件の訴状送達の翌日

600,000

47.8.19

弁護士費用

135

諫山茂

4,950,000

4,500,000

47.7.6

昭和46年(ワ)第419号事件の訴状送達の翌日

450,000

47.8.19

弁護士費用

136

諫山レイ子

4,950,000

4,500,000

47.7.6

同上

450,000

47.8.19

137

諫山孝子

19,800,000

18,000,000

47.7.6

番号133に同じ

1,800,000

47.8.19

(注) 理由欄に弁護士費用とあるのは、その内金が弁護士費用であることを示し、その遅延損害金の起

算日は、いずれもその請求のため請求の趣旨を拡張した昭和47年8月16日付書面が送達された

日の翌日である昭和47年8月19日である。

別紙 別紙〔一〇〕の〔一〕

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